温泉からの帰り、車内で昔の歌謡曲をかけて運転していた。
私は歌謡曲の歌詞の時代変遷などの研究はしていないが、昔の歌詞は凄いなと、聞き入りながら感心した(最近のJPOPの歌詞に聴き入ることはない)。
何より大人が対象であるため、性的な内容が示されていること。
そしてモラルに反するほどの本音が語られていること。
この2点とも厳しく言えば「公序良俗に反する」。
それを平気で歌っていたのが凄い。
でもそこに人々の本心が込められていた。
その意味では文学的ですらあった(心理学的と言えないところが口惜しい)。
今どきの毒にも薬にもならないポジティブwな”メッセージ”ソングとは違う。
そもそも、今どきの”アイドル”では処女性が期待されているため、セックスを暗示することも女の心の闇を表現することも不可能。
私を含む当時の子どもはそういう歌謡曲を親と一緒にテレビで聴いていたのだ(そういえば『時間ですよ』の女湯のシーンも)。
青江三奈の「伊勢佐木町ブルース」(1968)の冒頭のあえぎ声はさすがに当時の幼い私は理解できなかったが(紅白ではこの部分は別の音に置き換えられた)、
ピンキーとキラーズの「恋の季節」(1968)で”夜明けのコーヒー”を飲む男女の存在を知った。
小川知子の「ゆうべの秘密」(1968)も今から思えばいかにもあの事だし(それにしても1968年は豊作!)。
そして由紀さおりの「夜明けのスキャット」(1969,これは日本歌謡曲の金字塔)は、どういう場面を歌っているかがわかり、とてもHな歌だと思った(彼女は童謡歌手出身!)。
でもそのメロディの美しさによって、親と一緒に聴いていても恥ずかしさがなかった。音楽とはそういうものだ。
奥村チヨの「恋の奴隷」(1969)は男のサディスティックな願望(DVも容認)にすぎないが、
あみんの「待つわ」(1982)が男が他の女に振られるのを期待したり、
シュガーの「ウエディング・ベル」(1981,今聴いても面白い)で男の花嫁の不幸を秘かに期待するのも、それが心から出る歌であるゆえ許容される(歌詞のつながり具合で、キリスト教会を冒涜しているとまで誤解された)。
このようなセックスを表現したり、善でない本音を語ることがなくなったのは、すなわち歌謡曲が文学的共感とは無縁の単なる消耗品になったのはいつごろからだろう。
たとえばピンク・レディの歌詞になると、(対象が低年齢化したためか)キワモノ的ではあるが、もう消耗品的で心に残らない。
セックス場面を表現した最後の歌は、私の記憶では山口百恵※の「イミテーション・ゴールド」(1977)かな(この曲にもあえぎ声が音楽的に入っている)。
※:同世代アイドルだった山口百恵は、彼女固有のストーリーで論じるべき対象。
ここまで書いて気づいたのことは、紹介した歌はすべて女性歌手だ(作詞は男性だったりするが)。
当時、男性歌手は何を歌っていたのか、GS(グループサウンズ)とかフォークだったかな…