私にとって読書は、仕事である。
研究者としての生産的仕事は論文執筆であり、大学教員としての職務的仕事は授業と学生指導であるが、これらの情報処理行動を続けるためには、この読書という情報入力の膨大な蓄積が大前提となる。
だから、研究と授業以外の空き時間は、ひたすら読書に明け暮れるべきで、温泉や城跡など行っている暇はないはず。
それなのに、休日は読書三昧していないということは、私には読書を避ける力が働いているらしい。
断っておくが、読書は仕事だけでなく、楽しみでもある。
その私にも作用している読書を避ける力とは何か。
これは誰にでも働いていると思う。
なぜなら、読書という行動は、人間の行動としてすこぶる不自然だからだ。
一切の社会関係を遮断して、誰とも口をきかず、しかも身体の活動も極力抑えてじっと座っていなくてはならない。
すなわち”動物”としての、さらには”社会的動物”としての人間の本来的なあり方を否定することが読書行動には求められるからだ。
目だけを使ってひたすら文字を追うだけの作業を延々と続ける。
これほど不自然な行動(動作)があろうか。
そして睡魔とも闘わねばならない。
充分にリラックスできる体勢でありながら、すなわち身体だけでなく目や頭脳も休息を誘われる体勢を保ちながら、目と頭脳は最高度の明晰さを維持し続けなくてはならない矛盾。
そう、読書とは、心理的身体的にすこぶる矛盾した行動なのだ。
この矛盾は読書行動そのものが要求してくるのだから、仕方がない。
すなわち他者と楽しく談笑したり、激しい身体運動をしながらは読書できない。
一人で沈黙の行を続けながらも、瞑想の世界には入ってはならない。
さらに休日とあらば日ごろの運動不足をこそ解消したい機会だ。
これがまた読書と矛盾する。
しかも、私は仕事上も趣味上も読みたい本が目白押しで大行列をなしている。
速読法も(自己流ではなく)トレーニングを受けたが、専門書の精読には向かないようだ(哲学書や数式が多い科学書を速読できれば最高なんだが)。
ドラえもんの「暗記パン」があればいいとも思ったが、自分が求める読書量では食べきれない量となり、これなら読書行動の方がましだ。
このように必要でありながら、辛い思いから逃れられない読書との、
自分なりの苦闘(工夫)の有り様を次に紹介したい。