昨年から右脚に腸脛靭帯炎を患ったため、およそ700m以上の山には行けなくなり(正確には「下れなくなり」)、
中学以来趣味としていた”登山”(高校でワンゲル、大学で山岳部)を諦めざるをえない状況になった。
これはわが人生にとって由々しきことである。
標高を下げてでも依然として”山”を楽しめる趣味はないだろうか。
奥高尾の景信山(724m)では膝がダメだったが、その東に連なる400m台の八王子城山なら問題ない。
そうだ、山歩きならぬ”山城歩き”にしよう!
ということでまずは山城について勉強しはじめた。
さしあたっては”縄張り図”を読めるようにしなくてはならない。
縄張り図とは伝統的な城の平面図で、城跡の地図記号がそれを摸している。
そう、城の本質は縄張りであり、まちがっても天守閣ではない。
縄張り図を読むとは、図の記号を理解するだけでなく、その城の目的(存在理由)を理解することを意味するという(西股総生『「城取り」の軍事学』)。
折しも、世は「山城ブーム」であるらしく、各地の山城ガイドの本が出ている。
特に戦国のヒノキ舞台といえる東海地方は「山城ベスト50」シリーズの各県版があって充実している。
さっそく中津川への定宿湯治の道すがら、いつもは素通りしている「岩村城趾」に立寄る。
ここは以前にも来たことはあるが、その時は単なる史跡見学のつもりでしかなく、
ただてっぺんの本丸を目ざし、本丸周囲の石垣を見ただけで「行った」ことになった。
だが、今回は違う。
山麓の藩主邸跡から長い石段を縄張り図と睨めっこしながら登る。
本丸だけを目ざした前回には素通りした途中の数々の門や櫓の跡をチェックする。
山中の侍屋敷の敷地が登城道を上から挟むようにあって、侵入者を火器で挟撃できる態勢であることを確認。
吊上げ式の畳橋の両端がどこに掛かっていたのかを確認し、
曲輪(クルワ)の端まで歩いて、切岸(璧)がどうなっているかチェックする。
本丸や二の丸の虎口(コグチ)をすべて通り、虎口の構造の違いを確認。
なるほど、こうやって歩けば、登山としては物足りない山であっても充実できる。
といってもこの岩村城、本丸は標高717mで、日本最高所の山城だという。
確かに本丸からの眺めはよく、麓の城下町(岩村)から雪の恵那山まで望める(上写真)。
ということは私の登山限界(およそ700m)以下で全国の山城を楽しめるというわけだ
(ちなみに岩村城は麓からの比高は150mで済んでいるので無問題)。
ただし、山城探索は、ハイキングのようにただ線(道)を進めばいいというのではなく、上述したように面を歩きまわらねばならない。
しかも当然道がない所にも足を踏み入れる。
人里近いので遭難の危険はないが、逆に 私有地に無断侵入するおそれがある。
なので、平城の”天守閣”を訪れるような観光気分では全くダメで、正確な地図と山用の靴が必要だ。
しかも低山の薮なので、夏はまったくダメ。
シーズンは下草のない(ヤブ蚊も蛇もいない)冬が中心で、遅くともGWまでだという。
私の第1の旅先であるここ”東濃”は、濃尾平野と木曽谷を結ぶ地域で、甲信を制した武田氏と美濃を本拠とする織田氏のせめぎ合いの場となったので、当時の山城に恵まれている。
「山が立っている」と称される急峻な木曽山脈(中央アルプス)に登ることは諦めたが、 これからの旅の楽しみが増えた。