「江戸しぐさ」が捏造されたものであることは、原田実氏の『江戸しぐさの正体』(講談社)で明らかになった。
著者の原田氏は、古史古伝系の”ト本”の著者であるので、この手の捏造本の論説はお手のもの。
私自身、「江戸しぐさ」については、批判的検討をせず、言説をそのまま受け入れてしまった。
ただ、江戸前期に小笠原流礼法が江戸庶民の間にも拡がっていたので、 また江戸時代の作法書には「江戸しぐさ」的なものはまったくお目にかからなかったので、その存在の希薄さには腑に落ちないものを感じていたが、→記事
一方でその存在を積極的に受け入れてしまう素地もあった。
たとえば「傘かしげ」は東京で生まれ育った私には自然に身についていたが、他の地域ではそれが見られなかった経験をし、また東京は世界的にも比較的治安がいいことの理由もほしかった。
そしてなにより、結局自己の評価を高める営業用作法にすぎない既存の礼法以外に、見知らぬ他者への”公共の作法”が江戸市民によって自発的に構築されたというすばらしいストーリーは、願望そのものであった。
だがこれらは、江戸しぐさの存在の証拠にはならず、むしろ後付けの辻褄合わせに相当する。
実際、ホラ吹きはいつの世にもいて、つい先日もわれわれはそれ(ホラッチョ)を目の当たりにしたばかりだ。
ただホラ吹き本人だけでは社会現象にはならない。
そのホラを信じきって本人以上にそれを世に広める拡散者が必要。
「江戸しぐさ」においては、芝三光と越川禮子のペアがそれだ。
この図式、青森のキリストの墓における、酒井将軍とわが祖母山根キクのペアに対応する。
戦前の事だが、わが祖母の流布により、青森のキリストの墓は映画制作の話まで進んだ。
当時の皇国史観の先を行くこのホラ話は、その時代の人々の気持ちに合わされたものだ。
だから人々の方からそのホラに近づく。
私が作法の授業で使う作法のテキストからも「江戸しぐさ」の文字を削除した。
ただし江戸時代の庶民には小笠原流もどきの作法書が広まっていたので、それなりにきちんと振る舞っていたことには変わりない。
ついでに、捏造された作法は他にもある。
●食事の時の合掌:これはテレビ(特にNHK)や小学校でなぜか最近になって"強制”されはじめた。若い人はこれが作法だと思い込まされている。過剰な仏教色でまるでタイの習俗みたいだ。日本では、姿勢を正して「いただきます」と言えばいい。
●ビジネスマナーの手を組んでのお辞儀:両手を組む拱手という(古代中国の)日本に存在しないお辞儀がなぜかビジネスマナー(特に女性用)としてひろまっている。昭和40年代まではなかった所作である。 日本の所作の文法では手を組むのは”休め”の姿勢で、休めの姿勢のままお辞儀するのは文法違反になる(学校の朝礼で、気をつけ→(気をつけの姿勢のまま)礼→休めと正しい作法を教わったはず)。
現代の日本人が、いかに日本の作法を知らないか、悲しい現実がここにある(お寺で柏手を打つ人も絶えない)。