苦難克服
貞慶―秀政―忠真、信之
2006年3月,2007年5月
下総古河(茨城県古河市)は、鬼怒川・渡良瀬川・利根川が合流し、茨城・栃木・埼玉・群馬の県境があつまる関東のヘソであり(さらに千葉県にも近い)、地図を見ても関東平野のど真ん中。
だからこの地を抑えれば関東中ににらみをきかす事ができる。
古河といえば歴史ファンなら足利成氏などの「古河公方」を思いだす。
公方はこの地を抑えていたから、関東管領上杉氏や小田原北条氏に対抗できた。
公方家はその後下野(栃木)の喜連川に移り、戦国の世を終える(古河城は一旦は破却される)。
1590(天正18)年公方亡き後、再建された古河城の最初の城主になったのが、信州松本からきた小笠原惣領家のわれらが秀政(19)。
まさに関東のへそ抑えの役。といっても故郷の地から離され、しかも大幅な減封である。
だが、秀政はくさることなく、徳川家に忠誠を尽す。
栗橋城趾
ただし、正確には、秀政はまず栗橋城(茨城県猿島郡五霞町の元栗橋)に滞在して、古河城の完成を待っていた。
栗橋城は、古河公方の支城であったが小田原北条氏に接収され、古河側の重要拠点である関宿城攻略の拠点となる。
小田原北条氏滅亡後、家康の関東入りに同道した小笠原秀政は、古河城を再建する間、
1590(天正18)年から1599(慶長4)年までここ栗橋城に居住した(秀政年譜)。
その間1598(慶長3)年、長男幸松丸(後の忠脩)が栗橋城で生まれた。
そして古河城に移った後は、家臣の犬甘氏をここに入れた。
その後、栗橋城は廃城になったという。
というわけで、栗橋城趾はあとかたもなく、城があったという解説板(写真)と、空堀を残す程度。
なので、小笠原氏史跡の旅としてはあえて訪れるほどではない。
それでも行くなら、東武日光線の南栗橋駅から歩いて権現堂川の橋を渡って、キューピーの工場を過ぎた最初の交差点を右折し、道の右側にある日蓮宗宝宣寺が終わって右に入る小道の入口に、城址の解説板がある。
その小道(写真で奥にはいっている道)を入ると、空堀も確認できる。
その奥は民家だから入れない。
あと裏手にまわって、流れのない権現堂川の風情を味わうのもいい。
栗橋城はこの権現堂川をまたいであったという。
私はここから因縁浅からぬ関宿城(→関宿・国府台)まで歩いて行った(交通の便がないためであり、途中に見るものはない)。
車なら栗橋と関宿の両城趾を楽に廻れ、さらに古河も近い。
ただ、古河市内の寺は道が細い。
さて、話を古河に戻そう。
礼書七冊
秀政に同道した父貞慶(18)は、この地古河で入道して「宗得」と号した。
その父長時(17)から伝授された礼法を七冊(元服之次第、万躾方之次第、通之次第、酌之次第、請取渡之次第、書礼法上、書礼法下)にまとめ上げ、1592(天正20)年秀政に伝授した(糾法的伝はこれより6年前)。
この『礼書七冊』こそが現在の惣領家に伝わる最も正当な小笠原流礼書である。
秀政からすれば、父貞慶と松尾系の長巨の二人から教えを受けたことになる。
また、1601(慶長6)年秀政が古河から信州飯田に去った後、松尾系の小笠原信之も1612(慶長17)年に本庄から2万石で移って城主になっている(子の政信の代に関宿へ移封)。
このように古河は、小笠原家とはダブルで縁がある地で、しかも小笠原流惣領家の礼書が完成された記念すべき地である。
ところが古河市側は戦国時代の古河公方と後の藩主土井氏やその家臣鷹見泉石(渡辺崋山が描いた肖像画のモデル)のゆかりの地と名乗っているだけで、小笠原氏には関心が薄い。
古河の基礎を作ったのは小笠原氏なのだが。
公方別館の跡 
やっぱり古河に来たら、私も“古河公方”を無視できない。
まずは公方様へ挨拶に行く。
今はのんびりした古河総合公園になっているここは公方別館の跡だという
(写真:本館すなわち最初の古河城は渡良瀬川の河川工事の後河川敷になってしまった)。
近くの古河城出城の諏訪郭の跡地にある歴史博物館は鷹見泉石や土井氏が中心で、小笠原氏に関するモノはなかった。
隆岩寺 貞慶供養塔
隆岩寺は、秀政が妻福姫(あるいは徳姫)の父(岳父)岡崎三郎信泰(家康の長男で自害させられた)の菩提を弔うために建てた寺。
墓地の中を探すと、墓石を埋めて供養した立派な墓のような貞慶の供養塔があった(下写真)。
秀政の次男でここ古河で生まれた初代小倉藩主忠真(20)が建てたという。
石製の扉にこの供養塔の由来が彫ってある。
この供養塔は私にとって古河で一番大切な訪問先となったのだが、またもや手向ける花を持ってこなかった。
写真は帰りがけに花屋をみつけて再訪した時のもので、右側にだけ花束がある(ケチったな)。
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隆岩寺本堂
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貞慶供養塔
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正麟寺 秀政創建
更に北にある正麟寺も秀政が父貞慶を弔うために建てた寺。
寺紋は三階菱で小笠原氏による小笠原氏のための寺(写真)。
墓地にまわると、三階菱の小笠原家の最近の墓が離れて2つあった。
無縁仏に献花していた住職の奥さんらしき女性に聞いたら、
小笠原の子孫家が檀家となっているという。
でも貞慶・秀政にまつわる遺跡は見当たらなかった。
実は、隆岩寺にあった貞慶の供養塔はここ正麟寺から発掘されたと、先の貞慶の供養塔の解説板にあった。
ちなみに貞慶を埋葬した大隆寺は秀政の移封に伴い、飯田さらに松本へ移り、さらに明石、最後は小倉に移ってその地で他の寺と合併されて現在は大正寺となっているという。
松本城を奪還し、礼書七冊を書き上げた貞慶は、小笠原家存亡の危機を救い、実質的に中世武家礼法を小笠原流礼法として集大成した、まさに「当家中興の英雄とも謂うべき」(溝口家記)と評される人物だ。
古河は他の地と違って小笠原氏との関係をほとんど謳っていないが、貞慶が眠るここ古河の地は小笠原流礼法の歴史にとって最重要地の一つである。