岸田首相の演説を聞いていて、 iT化の推進=作業の自動化という発想に、改めてがっかりした。
改めて、というのは、またか、ということで、岸田首相本人を責めているのではなく、日本でIT化を進めようとしている人たちの”総意”が相変わらず、効率化・いながらにしてという人間の”怠惰化”=能力低下の推進であることが変っていないことにがっかりしたから。
日本には、メディア論という思想的背景がないので、メディアは工学のテクノロジーの問題でしかなく、その工学的発想は、効率化、いいかえれば人間自身の劣化に収斂するのだが、それをよしとしている(工学はメカを見て、人間を見ていない)。
アメリカ、いや新大陸には、メディア論という思想的背景があり、マーシャル・マクルーハンというカナダ人が、メディアを思想的・認知科学的に、すなわち人間における意味づけをした。
マクルーハンの時代は、メディアはラジオやテレビだったが、もちろん出現したばかりのコンピュータは最新の”メディア”だった。
この表現は当たり前に聞こえるかも知れないが、日本人にとってはしばらくはコンピュータは”計算機”であってメディアとはみなされていなかった。
マクルーハンにとってメディアとは、人間の能力を拡張したものである。
すなわち人間の素の能力をパワーアップするものである。
だから彼にとっては、靴は足の、服は肌の、メガネは目のパワーアップした立派な”メディア”であった。
この発想からいえば、コンピュータは”脳”のパワーアップ版ということになる。
この発想が日本にはいまだに根付いていない(計算機よりは中国語の訳語「電脳」の方がいい)。
マクルーハンの影響を受けた、アラン・ケイという人が、当時 IBMの大型計算機しかなかった時代に、これからのコンピュータは、人間の脳の拡張版すなわちメディアであるべきだと主張し、当時は存在しなかった、個人所有のコンピュータ、すなわち「パーソナル・コンピュータ」というコンセプトを提出した。
個人が使うコンピュータは、既存のあらゆるメディア、すなわち本・ノート、キャンバス、楽器・楽譜という既存のメディアのメディア=メタ・メディアであり、そして新聞、ラジオ、テレビというマス・メディアに対抗するという意味での”パーソナル・メディア”であるべきというもの。
すなわち、アラン・ケイが考えた”パソコン”とは、20世紀を支配したマス・メディアという情報権力に、情報で対抗できる個人の能力を育成し、個々人がオリジナルな情報創造者・発信者になれる道具(メディア)を意味した。
それは、マスコミの情報支配下にある20世紀的な”大衆”から脱して、個々人がアーティスト、ジャーナリストとして自由に情報発信する社会を可能にするメディアである。
そのアラン・ケイの思想に共鳴し、ではその意味での”パソコン”とやらを作ってやろうじゃないか、と思い立ったのがスティーブ・ジョブズであり、その作品が家のガレージで作られた Apple IIを経由したMacintoshである。
だから、Macには、最初から創造性をサポートするアプリがインストールされていた。
メディアは人間の能力を拡張するもの、というマクルーハンの思想が込められていた(だからその製作物をあえて”作品”と称したい)。
すなわちマクルーハン→ケイ→ジョブズという系譜には、パソコンは、人間の能力を拡張するために、すなわち自分がもっとハイレベルになるために、できないことができるようになるためにこそあるべきだという思想が一貫している。
一方、その頃、マイクロソフト社を立ち上げたビル・ゲイツは、パソコン=大型コンピュータ(計算機)のダウンサイズ版という発想でIBMのOSとして自社のMS-DOSの組み込みに成功した。
巨大企業IBMのマシンと、自宅のガレージで生まれたMacとのシェアの差は最初から歴然で、ほとんどの人にとってパソコンとは仕事を効率化する計算機、いながらにして楽をさせてくれるマシンと理解された(それは人間を怠惰にする)。
そして、今では、スマホがあれば充分でパソコンすら必要ないという人たちが増えている。
彼らにとっては、情報はネットから得続けるだけもので、自分から発信するのはラインやツイッターレベルの創造とはいえないつぶやきでしかなく、それ以外はスマホのゲームに興じて、デジタル情報の大量消費者=21世紀の大衆の位置に甘んじている。
その一方でユーチューバーのような、パーソナルな映像作家として、能力を確実に拡張している人たちが出現し、マス・メディアを圧倒しつつある。
彼らこそアラン・ケイの思想の体現者だ。
以上をふまえて、ITをどのように使うといいのか、もう一度考え直してもいいのではないか。
パソコンが出始めの頃、パソコンで徹底的に効率化して、できた時間を創造活動に使えばいいと言われていた。
でもどうすれば創造的になれるかわかる人がほとんどいなかった(また、せっかく効率化しても、人員削減で別の仕事が回ってきて、結局時間はできなかった)。
むしろ、パソコンこそが創造活動に向いているのだ。
Windowsで効率化して、Macで創造活動してみようか。