今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

夢を見る心④:見る心と見せる心

2021年10月03日 | 心理学

前回の記事(→夢を見る心③)の趣旨は、夢を、現実とのみ対比して、その荒唐無稽性を強調するのは、二元論的バイアスに引きずられている思考の偏りである、ということだった。
夢を覚醒時のイメージ表象(空想)に近いものと見なせば、これらはちっとも不思議でなくなる。
夢が空想と違うのは、現実の映像や音声に近い精細度であること(空想での音なんてほとんど音として聴こえない)。
夢の中で夢を現実だと思ってしまう理由の1は、この夢世界の高精細性(リアリティ)にある。

そしてもう一つの決定的な理由は、現実と同じく、自我にとって受動的体験だから。
夢は心の中の現象なのに、なぜ空想のように思い通りにならないのか。
夢の不思議な点は、内容の非現実性よりも、こちらに尽きる。
このシリーズの最後の今回は、この点を問題にする。

これ以降の説明は「心の多重過程モデル」※を使う。
※:”心”を以下のサブシステムからなる高次システムとみなす私のモデル
システム0:覚醒・自律神経などのほとんど生理的な活動。生きている間は常時作動
システム1:条件づけなどによる直感(無自覚)的反応。覚醒時に優先的に作動
システム2:思考・表象による意識活動。システム1で対処できない場合に作動
システム3:非日常的な超意識・メタ認知・瞑想(マインドフルネス)。作動負荷が高い

そこでまず、夢を見る主体と、夢の世界とに分けてみる。
夢の中での主体すなわち夢主は、覚醒時と同じ自我が経験している。
夢から覚めると、新たな自我が起動するのではなく、自分は今まで夢を見ていたと理解する(意識・記憶が連続している)のがその証拠。
であるからシステム2が作動している。
システム2の思考は、夢の中でも健全で、決してめちゃくちゃにはならない。
現実の世界ではあいまいに誤魔化していた問題を、夢の中で妥協せずに真剣に取り組むことすらある。
仮に夢での思考や判断が非現実的だとするなら、それは夢の世界のファンタジックな”文脈”に合わせているためであり、その夢に適応しようとしている結果だ。
つまり、夢の中でもシステム2である自我はフル活動している。

次に夢の世界側だが、夢を”自発的なイメージ表象(空想)とみなせば、自由な空想や記憶の再生による現実的でない状況設定は普通にありえる。
イメージ表象における論理は、現実世界の物理法則ではなく、”連想”という心理則に基づくからだ。
なので現実には無関係の人たち(たとえば職場の知人と学生時代の友人)が夢では同席していても、なんらかの共通性による連想作用によるので不思議ではない。
空間的風景も記憶を材料に任意に構成できる。
ストーリーは自我の思いとは独立に自己展開するようにみえるが、たいていクライマックスで目が覚める。
すなわち夢には予定された”終り”がある、というのも面白い。

まずシステム0(身体状態、睡眠段階)が夢を見る生理心理的環境を与える。
トータルな睡眠と覚醒をコントロールしているのはシステム0だが、
より高次過程のシステム1・2は、その制約下で作動することが可能だ。
睡眠中にシステム1が作動すると、知覚体験の素材であるエピソード記憶などが活性化される。
システム1だけの作動なら、夢といっても記憶のゴミ処理(昼の名残)程度のつまらない夢で終る(動物が夢を見るとすれば、このレベルの夢だろう)。
ノンレム睡眠での、映像的に淡泊で自我が介入しない夢も、これに該当する。

システム2が作動すると、システム1の 記憶素材を使って、空想的な物語化が可能になる。
物語の主人公になるのはもちろん自我だ。
ただし主人公(自我)だけが、夢(心)を構成しているわけではない。
他の登場人物もセットもまた夢(心)の一部である。
レム睡眠での現実を超えたSF的なイメージとストーリーを構成するのは、システム2にしかできない。

フロイトも(前回紹介した)ホブソンも、夢を現実認識より1段劣った心理現象とみなしているが、
私は、夢は覚醒時のシステム2による思考やイメージ表象(空想)と同レベルの心理現象とみなしている。

夢はシステム2による”物語”化だから、そりゃさまざなば解釈(深読み)も可能だろう。
自分の夢を解釈することは、システム2の受動的空想を同じシステム2で解説する作業だ。
その意味では自己理解は深まるだろうが、自分の夢に隠れた意味が発見できるかは、解釈に採用する論理図式に依存する。
面白いことに夢に関心をもつと、夢がその関心に応えてくれる。
フロイト派の分析を受けている人はフロイト的な(例えば、性的隠喩の)夢を、ユング派の分析を受けている人はユング的な(例えば、神話的)夢を見るというのだ(ということは、どちらの夢理論も普遍的妥当性はない)。
夢を見させているのはそれらの理論を理解し、連想しやすくなっているシステム2だから、そんなことはいとも簡単だ。

ということで、夢は「システム2の自作自演の現象である」、というのが私の考えだ。
ただし、統一した自作自演ではなく、夢を作るイメージ表象と演じる自我が乖離した状態である。
すなわち夢を見ている時、システム2は自我と世界表象とに乖離している。

そもそも、システム2そのものが、行動主体(システム1)から、それを眺める自我の乖離として発生した(逆に言えば、自我が積極的に関与しなくても、習慣的行動が自動的に発動される。システム0もシステム1も自我の外の心であり、自我は決して”心”の主人・独裁者ではない)。
システム2は最初から乖離能力をもっている。

この乖離において、システム2のイメージ表象部分は、世界という、自我を取り囲む環境として、自我に対して自律的に作動する。
この乖離は、レム睡眠中の前頭前野の機能低下により、乖離を抑制する統合力が低下したためといえる。
開眼夢は、強い眠気によって覚醒時にシステム2の乖離が起きる珍しい現象である(そのおかげで夢イメージが現実風景に匹敵する精細度であることを経験できる)。

実は、このシステム2の乖離能力が、次なるシステム3(メタ認知、マインドフルネス)の創発を可能にしている。
すなわち、夢見を経験できることは、システム2が日常的に乖離可能であるということであり、それは次なるシステム3が創発可能であることを示している。
※:この乖離が病的になると幻覚、人格解離となる。すなわち解離は乖離の病的な発現なので、その本質は乖離である。そもそも心の多重過程化が創発という名の乖離の積重ねである。またシステム2内の乖離は、自我にとっては不可思議な体験だが、多重な心全体からすれば、ちょっとしたバランスの揺らぎにすぎない。夢における明晰夢、多重夢、開眼夢しかり。

結論をいうと、夢は自我の制御を離れたシステム2のイメージ表象作用であり、生理的・心理的なこれといった重要な機能・意味はなく(記憶の固定に関与するらしい)、
ただシステム2の統合性が低下して、自我とイメージ表象の関係が逆転した(異常だが非病理的な)現象だといえる。
夢の内容にはたいして意味はないが(主観的経験であることは確かなので、経験としての意味はある)、夢を見る能力には、心の多重性をレベルアップできる意味があるといえる。
なので、夢は専用装置もいらない手軽なVR(バーチャルリアリティ)体験として楽しめばいい(たまにホラーもあるかも)。

→「夢を見る心・序」に戻る


92歳の松茸パーティ

2021年10月03日 | 身内

本日で92歳になる母の誕生パーティは、季節柄、毎年松茸パーティにしている。
私がアメ横で国産の松茸をセット買いし(今年は出来がいいので、軸が太めのいいやつを調達)、ついでに松茸ご飯の素(こちらに入っているのは中国産)と、永谷園の松茸のお吸い物を買う。
お吸い物は、松茸エキスだけなので、本物の松茸の傘の部分を入れる。

もちろん、我が家にとっても年に一度の贅沢。
先週7歳になったばかりの姪は、得体のしれないものは食べないので、他のメンバーで、松茸を縦に四分割して(写真)、それを鉄板焼きにして、かぼすと塩コショウをつけて食べる。
義妹が、「外れ」として同じく縦に切ったエリンギをその中に忍ばせる。

このシンプルな食べ方が、松茸の香りと歯触りを一番ストレートに堪能できる(炭火焼きより鉄板焼きの方が香りと歯触りを味わえる)。
しかもいくら食べても0カロリー!

その後はバースデーケーキを囲んで、「ハッピー・バーズデー」を歌って、ケーキを切り分けて食べる(写真)。

母は、昨冬、両膝の手術をして、長年苦しんでいた膝痛から解放され、見た目も両脚がまっすぐになった。
ほかに、内臓、血液、耳、目、歯も問題なく、頭もいたって快調で料理のレパートリーを増やしており、私がその恩恵にあずかっている。

一方、母の昔からの友人のほとんどは鬼籍に入っている。
存命の年下の友人たちの多くも、ガンなどを患っているか、耳が遠くなっている。
母は自分自身で健康に気を使っている。
それと母になついている七歳の孫と、毎日散歩に連れて行く飼い犬から元気をもらっているようだ。