今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

クロネコヤマトを名乗るニセSMSが来た

2021年10月07日 | パソコン・メディア

携帯・スマホにも迷惑メール(SMS)のフィルターがかかっているはずだが、それを突破したSMSが届いた。

「ご本人様不在の為お荷物を持ち帰りました。ご確認ください。」
というメッセージで、連絡先に、http:lhzkj.mdwyw.com とある。

荷物に心当たりがなく、またこのURLがいかにもヤマトらしからぬものなので不信に思いながら、リンク先をクリックしてみると、クロネコヤマトらしきサイト画面になり、アプリをダウンロードするようにしむけてくる。

この誘導で不信感MAXになった。
もちろんダウンロードはせず、
パソコンの方でクロネコヤマトのサイト(https://www.kuronekoyamato.co.jp)を開いて、荷物確認をしてみた。
私はすでにメンバーズで、 ID・パスワードを入れてログインする。
荷物の問合せには、当然ながら送り状番号の入力が必要。

 SMSの方には、この送り状番号がない(なので本来的に問合せのしようがない)。

さらに、怪しげな「mdwyw」をぐぐってみた。
フェイスブックによると、クロネコヤマトを名乗る偽メールのリストに載っていた。

ということで、不信メールなら開くこと自体が危ないため、次回からはそうする。


真鍋淑郎氏のノーベル物理学賞受賞に思う

2021年10月05日 | 時事

ノーベル物理学賞というと、最先端の量子力学(素粒子論)か、世の中を変える工学分野の研究者が受賞するものだと思っていたが、なんと地球物理学、すなわち気象学の基礎となる分野から受賞者が出たこと自体に驚いた。

真鍋氏の研究成果は、気象学の教科書に当たり前のように紹介されている。
私自身は気象学者ではないが(気象学会員ではある)、身近な分野が注目されることはうれしい限り。

氏がなんで早々にアメリカに渡ったかというと、精密な数値シミュレーションを実施するには、当時の日本では不可能な世界最高速のコンピュータが必要だったため(2位じゃダメなんですよ)。

ただ氏は御年90。
はっきり言って過去の業績の評価。
昔の日本人は凄かった、で終るのか。
今の現役の日本の研究者から、将来ノーベル賞受賞者が出るだろうか。

岸田首相が就任早々日本を「科学立国」にすると明言したタイミングでこの慶事だ。
裾野の広い基礎研究に、人材と予算が集まることを期待してやまない。

ところで心理学関連でのノーベル賞受賞者はというと、学習の基礎となる「条件づけ」(条件反射)の発見者イワン・パブロフはノーベル医学・生理学賞を受賞したが、彼自身は心理学者ではなく生理学者。
あとノーベル経済学賞(正式なノーベル賞ではない)だが、行動経済学で受賞したダニエル・カーネマンはれっきとした心理学者。
フロイトは医者だったけど無冠。


夢を見る心④:見る心と見せる心

2021年10月03日 | 心理学

前回の記事(→夢を見る心③)の趣旨は、夢を、現実とのみ対比して、その荒唐無稽性を強調するのは、二元論的バイアスに引きずられている思考の偏りである、ということだった。
夢を覚醒時のイメージ表象(空想)に近いものと見なせば、これらはちっとも不思議でなくなる。
夢が空想と違うのは、現実の映像や音声に近い精細度であること(空想での音なんてほとんど音として聴こえない)。
夢の中で夢を現実だと思ってしまう理由の1は、この夢世界の高精細性(リアリティ)にある。

そしてもう一つの決定的な理由は、現実と同じく、自我にとって受動的体験だから。
夢は心の中の現象なのに、なぜ空想のように思い通りにならないのか。
夢の不思議な点は、内容の非現実性よりも、こちらに尽きる。
このシリーズの最後の今回は、この点を問題にする。

これ以降の説明は「心の多重過程モデル」※を使う。
※:”心”を以下のサブシステムからなる高次システムとみなす私のモデル
システム0:覚醒・自律神経などのほとんど生理的な活動。生きている間は常時作動
システム1:条件づけなどによる直感(無自覚)的反応。覚醒時に優先的に作動
システム2:思考・表象による意識活動。システム1で対処できない場合に作動
システム3:非日常的な超意識・メタ認知・瞑想(マインドフルネス)。作動負荷が高い

そこでまず、夢を見る主体と、夢の世界とに分けてみる。
夢の中での主体すなわち夢主は、覚醒時と同じ自我が経験している。
夢から覚めると、新たな自我が起動するのではなく、自分は今まで夢を見ていたと理解する(意識・記憶が連続している)のがその証拠。
であるからシステム2が作動している。
システム2の思考は、夢の中でも健全で、決してめちゃくちゃにはならない。
現実の世界ではあいまいに誤魔化していた問題を、夢の中で妥協せずに真剣に取り組むことすらある。
仮に夢での思考や判断が非現実的だとするなら、それは夢の世界のファンタジックな”文脈”に合わせているためであり、その夢に適応しようとしている結果だ。
つまり、夢の中でもシステム2である自我はフル活動している。

次に夢の世界側だが、夢を”自発的なイメージ表象(空想)とみなせば、自由な空想や記憶の再生による現実的でない状況設定は普通にありえる。
イメージ表象における論理は、現実世界の物理法則ではなく、”連想”という心理則に基づくからだ。
なので現実には無関係の人たち(たとえば職場の知人と学生時代の友人)が夢では同席していても、なんらかの共通性による連想作用によるので不思議ではない。
空間的風景も記憶を材料に任意に構成できる。
ストーリーは自我の思いとは独立に自己展開するようにみえるが、たいていクライマックスで目が覚める。
すなわち夢には予定された”終り”がある、というのも面白い。

まずシステム0(身体状態、睡眠段階)が夢を見る生理心理的環境を与える。
トータルな睡眠と覚醒をコントロールしているのはシステム0だが、
より高次過程のシステム1・2は、その制約下で作動することが可能だ。
睡眠中にシステム1が作動すると、知覚体験の素材であるエピソード記憶などが活性化される。
システム1だけの作動なら、夢といっても記憶のゴミ処理(昼の名残)程度のつまらない夢で終る(動物が夢を見るとすれば、このレベルの夢だろう)。
ノンレム睡眠での、映像的に淡泊で自我が介入しない夢も、これに該当する。

システム2が作動すると、システム1の 記憶素材を使って、空想的な物語化が可能になる。
物語の主人公になるのはもちろん自我だ。
ただし主人公(自我)だけが、夢(心)を構成しているわけではない。
他の登場人物もセットもまた夢(心)の一部である。
レム睡眠での現実を超えたSF的なイメージとストーリーを構成するのは、システム2にしかできない。

フロイトも(前回紹介した)ホブソンも、夢を現実認識より1段劣った心理現象とみなしているが、
私は、夢は覚醒時のシステム2による思考やイメージ表象(空想)と同レベルの心理現象とみなしている。

夢はシステム2による”物語”化だから、そりゃさまざなば解釈(深読み)も可能だろう。
自分の夢を解釈することは、システム2の受動的空想を同じシステム2で解説する作業だ。
その意味では自己理解は深まるだろうが、自分の夢に隠れた意味が発見できるかは、解釈に採用する論理図式に依存する。
面白いことに夢に関心をもつと、夢がその関心に応えてくれる。
フロイト派の分析を受けている人はフロイト的な(例えば、性的隠喩の)夢を、ユング派の分析を受けている人はユング的な(例えば、神話的)夢を見るというのだ(ということは、どちらの夢理論も普遍的妥当性はない)。
夢を見させているのはそれらの理論を理解し、連想しやすくなっているシステム2だから、そんなことはいとも簡単だ。

ということで、夢は「システム2の自作自演の現象である」、というのが私の考えだ。
ただし、統一した自作自演ではなく、夢を作るイメージ表象と演じる自我が乖離した状態である。
すなわち夢を見ている時、システム2は自我と世界表象とに乖離している。

そもそも、システム2そのものが、行動主体(システム1)から、それを眺める自我の乖離として発生した(逆に言えば、自我が積極的に関与しなくても、習慣的行動が自動的に発動される。システム0もシステム1も自我の外の心であり、自我は決して”心”の主人・独裁者ではない)。
システム2は最初から乖離能力をもっている。

この乖離において、システム2のイメージ表象部分は、世界という、自我を取り囲む環境として、自我に対して自律的に作動する。
この乖離は、レム睡眠中の前頭前野の機能低下により、乖離を抑制する統合力が低下したためといえる。
開眼夢は、強い眠気によって覚醒時にシステム2の乖離が起きる珍しい現象である(そのおかげで夢イメージが現実風景に匹敵する精細度であることを経験できる)。

実は、このシステム2の乖離能力が、次なるシステム3(メタ認知、マインドフルネス)の創発を可能にしている。
すなわち、夢見を経験できることは、システム2が日常的に乖離可能であるということであり、それは次なるシステム3が創発可能であることを示している。
※:この乖離が病的になると幻覚、人格解離となる。すなわち解離は乖離の病的な発現なので、その本質は乖離である。そもそも心の多重過程化が創発という名の乖離の積重ねである。またシステム2内の乖離は、自我にとっては不可思議な体験だが、多重な心全体からすれば、ちょっとしたバランスの揺らぎにすぎない。夢における明晰夢、多重夢、開眼夢しかり。

結論をいうと、夢は自我の制御を離れたシステム2のイメージ表象作用であり、生理的・心理的なこれといった重要な機能・意味はなく(記憶の固定に関与するらしい)、
ただシステム2の統合性が低下して、自我とイメージ表象の関係が逆転した(異常だが非病理的な)現象だといえる。
夢の内容にはたいして意味はないが(主観的経験であることは確かなので、経験としての意味はある)、夢を見る能力には、心の多重性をレベルアップできる意味があるといえる。
なので、夢は専用装置もいらない手軽なVR(バーチャルリアリティ)体験として楽しめばいい(たまにホラーもあるかも)。

→「夢を見る心・序」に戻る


92歳の松茸パーティ

2021年10月03日 | 身内

本日で92歳になる母の誕生パーティは、季節柄、毎年松茸パーティにしている。
私がアメ横で国産の松茸をセット買いし(今年は出来がいいので、軸が太めのいいやつを調達)、ついでに松茸ご飯の素(こちらに入っているのは中国産)と、永谷園の松茸のお吸い物を買う。
お吸い物は、松茸エキスだけなので、本物の松茸の傘の部分を入れる。

もちろん、我が家にとっても年に一度の贅沢。
先週7歳になったばかりの姪は、得体のしれないものは食べないので、他のメンバーで、松茸を縦に四分割して(写真)、それを鉄板焼きにして、かぼすと塩コショウをつけて食べる。
義妹が、「外れ」として同じく縦に切ったエリンギをその中に忍ばせる。

このシンプルな食べ方が、松茸の香りと歯触りを一番ストレートに堪能できる(炭火焼きより鉄板焼きの方が香りと歯触りを味わえる)。
しかもいくら食べても0カロリー!

その後はバースデーケーキを囲んで、「ハッピー・バーズデー」を歌って、ケーキを切り分けて食べる(写真)。

母は、昨冬、両膝の手術をして、長年苦しんでいた膝痛から解放され、見た目も両脚がまっすぐになった。
ほかに、内臓、血液、耳、目、歯も問題なく、頭もいたって快調で料理のレパートリーを増やしており、私がその恩恵にあずかっている。

一方、母の昔からの友人のほとんどは鬼籍に入っている。
存命の年下の友人たちの多くも、ガンなどを患っているか、耳が遠くなっている。
母は自分自身で健康に気を使っている。
それと母になついている七歳の孫と、毎日散歩に連れて行く飼い犬から元気をもらっているようだ。


夢を見る心③:夢であることの特徴

2021年10月01日 | 心理学

『夢の科学』(講談社・ブルーバックス)の著者アラン・ボブソン(医者、神経科学者)は、夢の最新理論である「活性化-合成モデル」の提唱者で、本書はその説明があるだけでなく、 彼自身の夢の実例を挙げて、 夢とはどのような体験なのかを論じている(夢についての本の中でイチ押し)。

彼によれば、覚醒と比較して、夢は以下のように「形」※が異なるという。
※:ボブソンは、夢の内容ではなく、夢のを問題にすべきだと言う。それは賛成だが、彼自身の夢は形の種類に乏しい気がする。
●情動は、高揚感、怒り、不安が誇張される。
●闘争および逃走シーンがよく出てくる。
●夢の中の出来事に没頭。
●時、場所、人物に関する認識が著しく欠如。

また「目覚めている時に夢を見るのは実質的に不可能である」といっているが、「開眼夢」(私が発見?)という現象があるため、それは誤りだと指摘しておきたい。
また個人的には、はじめの二つの●は、子供時代の夢にはあてはまっても、成人以降の落ち着いた夢に当てはまるだろうか。

さらに、睡眠中の脳の状態としては、ノンレム睡眠中、特に深い徐波睡眠は、脳活動全体が低下している。
レム睡眠中に活動低下するのは、前頭前野背外側部(作業記憶、熟考、意志の中枢)、帯状回後部、海馬傍回で、
一方、活動が活発になるのは、橋被蓋核、扁桃体(情動の中枢)、帯状回前部だという。
上の●で列挙した夢において活性化される諸機能は、コリン※作動系が扁桃体・海馬を含む辺縁系を刺激するためであるという。
※:神経伝達物質であるアセチルコリンの元物質。ちなみに私は毎晩寝る前にコリンのサプリを服用している

以上、とても参考になるが、気になるのは、夢の特徴を覚醒時の現実経験と対比して論じていること。
このやり方は、両者を対立概念化するため、相違点しか見えなくなる。
まさに二元論的思考の欠点だ。
ただし二元論思考は、言語による概念操作に必然的に付随するバイアス(無自覚な偏り)であるため、そう簡単に排除できない※。
※:二元論思考を批判して、不二一元論の思考を実践したのは8世紀のインドの思想家シャンカラ。
矯正しにくいその思考癖を変えずに二元論的結論に陥らないために、私が見出した方法は、二元にもう1つ要素を追加して、2対1の組みとし、その組合せを3回変えて比較をすることである。
毎回の思考作業は二元比較なのだが、これを各組みごと3つ繰り返すことで、三元間の相違だけでなく、共通性も見えてくる。
共通性が見えたら、そうれはもう二元論的思考によるバイアスから脱したことになる。

ということで現実にさらに空想を加えて、夢であることの特徴を三元比較による思考実験で捉えてみよう。
ここでいう空想は、覚醒時の自由なイメージ表象(想像、夢想、回想)をいう。
では、夢・空想⇔現実、夢・現実⇔空想、夢⇔現実・空想という3つの二元対比を以下にしてみる。

①夢・空想⇔現実
前者は主観的構成に対して、後者は客観的に他者と協働で構成される。
すなわち他者と共有体験できない⇔できる、という対比。
また、認知対象の内的生成(トップダウン)⇔外的刺激の知覚(ボトムアップ)の対比でもある。
時間経過として、非連続性⇔連続性という対比もある。
現実を外部に実在しているものとみなすと、現実は主体が認識していない間も主体から独立して変化するが、前者は主体の認識中にのみ生成変化する。
さらにこれは当然なのだが、非現実的(時空間。行動能力が物理法則に従わない)⇔現実的(物理法則などに従う)という対比もある。
すなわち、前者は、客観的な法則性とは異なる原理で生成変化する。

②夢・現実⇔空想
この対比によって、夢と現実との対比では見えてこない、夢と現実の共通性が見えてくる。
任意に構成できない⇔意のままに構成できる、受動的⇔能動的、という対比が明らかである。
ただ夢も現実も主体の働きかけは可能で、何もできないわけではなく、行動によって事態を展開できる。
この共通性があるからこそ、我々は夢を見ている間、それを”現実”と思うのである(明晰夢を除く)。
この共通性にもっと注目すべきである。

③夢⇔現実・空想
睡眠中と覚醒中の対比であり、両者でシステム0の状態が異なる。
では夢に対する現実と空想の共通性は何か。
これはけっこう難しい。
心理学者の渡辺恒夫氏※に頼ると、夢は現在しかないが、現実と空想は過去や未来という時間の幅をもって体験できる。
※:『人はなぜ夢を見るのか:夢科学四千年の問いと答え』(化学同人)。ただし氏も夢と現実の対比。

二元論バイアスを脱するもうひとつの方法は、対比する概念対の狭間に注目して、両者の移行・混合状態をあえて想定することである。
陰陽理論が単純な二元論でないのは、陰と陽との間に移行・混合状態を認めるためである。

①夢と現実の狭間
この狭間は、「開眼夢」すなわち開眼していて夢イメージを経験する場合である。
これは滅多に経験しないが、私は2020年7月に、読書中に経験した→「白昼夢(開眼夢)というものを見た
そこでは現実の書面の視覚像と夢イメージが二重写しになった、混合状態である。
それと、現実→レム睡眠の急激な移行現象が前回言及した「金縛り」。
覚醒状態のまま幻覚を伴うので、まさに夢状態との混合に等しい。

②空想と夢の狭間
入眠時幻覚が相当する。
寝床に入って閉眼しての空想が夢に移行する瞬間があり、自分が能動的にコントロールしていたイメージ表象(人物)が突如自律運動を始めるのである。
この劇的変化に驚いて、目が覚めてしまう(覚めずに見続けていたかった)。
空想と夢は、登場人物は共通でありうるが、動きの主体性が質的に変化する。

③現実と空想の狭間
覚醒時に現実と空想は並立可能で、明らかに区別できる。
現実の視覚経験中に、頭の中でイメージ表象しても、脳のスクリーン上での精細度がまったく異なっているので、混同することはない。
イメージ表象は、視覚像的には低精細で、半透明よりもさらに薄いためだ。
この点が現実と精彩度に差がない開眼夢と違う(開眼夢を経験すると、夢の精細度がいかに高いかが、現実視覚像と直に比較して分る)。
一方、記憶対象として、事実経験(記憶表象)と空想とが混同される事は、記憶の研究で確認されている。
この場合は、ともにイメージ表象であるため、精細度に差がないため、混同しやすいと思われる。

これで分ることは、夢は現実映像に近い精細度だということ(感覚・知覚的精彩度ではなく、心のスクリーンに映った認知的精細度)。
だから、夢の中では、それを現実と思ってしまうのだ。
記憶によって想起された夢では、その精細度自体は想起できないが、逆に夢が完全にモノクロであれば、夢の中でも違和感を覚えるはずである。
ただ、色彩が夢の主題でないため、あるいは自明視されているため、思い出してもその記憶がはっきりしないだけである。
もちろん、触覚や味覚・嗅覚も夢で体験しうる。

以上から分ることは、夢を現実だと思い込む理由は、精細度に差がないだけではなく、それが自我にとってはともに受動的な対象世界の経験、すなわち世界経験だからだ(夢=世界というのは渡辺氏の着想)。
もちろん、夢自体は客観世界ではない。
かといって深遠な内界への沈降でも、記憶の機械的処理でもない。
自我にとってはあくまで外の”世界”経験だ。
夢という疑似世界経験はなぜ可能なのか。
次はそれを問題にする。→夢を見る心④