ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

文学と非文学の倫理

2013年05月07日 | 日記

吉本隆明さんと江藤淳さんの対談集。

 1965,1970 ,1970,1982.1988年の全5回の対談である。これらの対談は、いままで全部読んできたが、今回読み通してみると、以前は江藤淳の言っていることが随分冗長であまり気にもとめなかったのだが、なぜか響いてくるものが随所にあった。その中の一つに憲法問題があるので時節がら触れておきたい。

 江藤は現行憲法の成立過程をつぶさに調べ上げて、特に宮沢俊義の発言・行動を厳しく論難している。宮沢は私達にとっては現行憲法推進の旗頭だったから、彼の憲法制定当時の言動に目を向けることはほとんどなかった。江藤の指摘によると、宮沢は戦争時に憲政関係の中心にいて、ポツダム宣言受諾によっても、新憲法は帝国憲法と少しも変わらないものになるだろうと述べていた、という。それが敗戦後一転、8・15革命だとして、新憲法論の基本をつくるという変身の仕方の中に、戦後の問題が隠されていると言っている。憲法に限らず戦後の価値というのは、占領軍などの資料によって事実関係をつぶさに調べていくと、明らかに虚妄なのではないか、というのが江藤の主張である。

 何年か前に加藤典洋氏が「敗戦後論」というのを出版し、敗戦から戦後にいたる過程を点検、いわゆる戦後民主主義への転換に相当な「ねじれ」があって、これを理解することが大事だと指摘したが、江藤と相通ずるところがあるようだ。こういう過程論というところに目を向ける視線というのは、若い頃はどうてもいいように思えたが、最近は一概に否定しないほうがいいのかもしれないなあ、と思うようになった。こういう細かなことが実証されることによって、価値の実感が深みを増すのだろう。

 対して吉本は、そういう政治過程はあったかもしれないが、そこは捨象していいんだ、根本のことは新憲法に接した時の解放感なんだと言う。少し長いが引用します。

「例えば江藤さんが取り上げている、1946年の新憲法をみても新憲法の第一条と旧憲法の第一条とを比較すると、やっぱり新憲法の方が解放という感じがします。江藤さんが実証されたように、新憲法は占領軍の誰かが起草して、それを日本語に翻訳して押しつけたということがあるかないかという、そういう統治過程は過程論として、それは認めてもいいんです。しかし項目としてみて、46年の新憲法の、天皇は日本国の象徴であり、国民統治の象徴であるという一点をとってもですね、これこそいい文体ではないかもしれないけれど、これは主権の存する国民の総意に基づくみたいな記載がありますね。要するに、国民が主権を持ってて、国民が総意で、これを認めるんだよという意味だと思うのですよね。それは戦前の旧憲法の「神聖ニシテ侵スへカラス」というものよりは解放感だというふうに受け止めるのが、ぼくはいいように思うんです。」

 吉本のいうとおり、そういう後からの過程論というのは、ものの実感を補填することはあっても、価値の判定に際しては関与させないでもよい、のだろうと思う。どんな場合でも、私たちは事実関係のプロセスに関わることは、ほとんどの場合ありえないからである。特に政治に関しては。

 安倍政権下での憲法論議の場合、手続き論とか、過程論、文体論などいったことは、とりあえず無視していいのだということである。【彬】

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