早咲きのツバキ
季節を問わず、学校給食の場では年に何回か食中毒トラブルが起きる。給食センターなどで一括調理し、各校に配達、それからクラスごとで配膳されるから、それらの経由の中で事故が起こるのは避けがたいのだろう。人手を極力減らし、費用も節約すると、こうしたシステムになるのかもしれない。
しかし、こうした合理性は食の観点からは最も理想とかけ離れていよう。
敗戦後の貧しい食生活から子供を守るために始まった学校給食であるが、その成果をいつまでも引きずった結果が、食の本来のあり方からもっとも遠ざかってしまったと言うわけだ。初期の給食には子供達の栄養面を含めた食の改善という近代的な眼目があった訳だが、同時に貧しい人たちへの配給という側面があった。配給されるものだから文句は言えないという考えもあったはずだ。だから今でも給食費を払わないという父兄が後を絶たないのである。
食べ物は、調理した場所で直ちに食べると言うのが最善だ。生ものを扱う寿司がその代表である。貧しい時代はともあれ、現代において学校給食のように調理と食事場所が相当な距離で隔てられているという状況はあまりにも異常だ。
そこで思いつくままに、いくつか提案したい。
その一つは、校内に専用の給食室を作ることだ。図書室や音楽室、理科室、図工室を作るより給食室を作ることが最優先されるべきだ。生徒全員が集まる場所がないと言うなら、低学年、高学年で時間を分ければ済む。なぜ給食室かと言えば、教室はあまりによごれているからだ。掃除をしているとは言え、授業でホコリが立っている上、教師たちの使うハクボクが飛び散っているのが教室である。調理室で料理し、出きたてを食べることが、衛生面から考えても最善の方法である。早急に給食室を作るべきである。
二つ目は、父兄の参加である。子供にとって学校は学習と同時にもっとも大切な生活の場である。そこに父兄は参加すべきだ。PTAというのは、父兄が行事に加わったりパンフレットをつくるのが本来の目的ではない。teacherとparentsが協同するという意味では、父兄が参画できるのは食の場がふさわしい。父兄が交代で食事の場に立ち会うというのが生徒の生活マナーを習得する意味でも重要なことだ。
そして給食という名称を変えたい。名は体を表すというが、配給という名残を払拭しきれない給食だから、子供たち自身で配膳をし、汚れた教室内で食べるということを甘受しているのだと思う。配給ではなく、みんなで食事を共にする、共食あるいは校食にしたい。共に食べることは共同生活の根本である。【彬】