さて、2日間の休憩を経て、大久野島だ。
発電所跡のトンネルを抜けると、眼前に海が広がる。
そこには芸予要塞時代の桟橋がある。
大久野島南東部の桟橋
「げいよ」というのは、広島県の旧国名の安芸の国と愛媛県の旧国名の伊予国から一文字ずつとったもの。
芸予要塞として機能したのは1897年に大久野島北部砲台の着工に始まり、豊予要塞が完成したために存在意義を失う1924年までの間である。
島内を1周するまでの間に、海水タンクと南部砲台を残して、海岸線沿いの道を歩いて集合場所に向かう。
船に時刻に遅れては大久野島見学参加者の皆に迷惑をかけるからだ。
途中に埋めた防空壕跡のようなものを見る。
おそらく、ここに毒物を格納して塞ぎ海水を入れたり、さらし入れたりして毒を中和したとみられる。
先頭を歩く人たちは休暇村本館に向かう道の分岐点にあるビジターセンターを通り越して海沿いに更に進んだ。
最初に目に飛び込んできたのが慰霊碑である。
そんなに古いものではない。
西本幸男さんは昭和57~60年(1982~1985)まで医学部長であった。その間に建てられたと考えられる。
そばに捧げられた千羽鶴
またしばらく進むと「大久野島神社」と「殉職碑」が隣り合っている。
この島で毒ガス製造に携わり、亡くなった方のために建てた碑である。
製造に重点が置かれたのはイペリットだという。
5000名を超えた従業員の多くは、「せき」、「たん」、「呼吸困難を伴う難治の慢性気管支炎」にかかった。
イペリットには発癌性があったため、「咽頭癌」、「肺癌」、「胃癌」が多発したという。
苦しみながら亡くなった多くの方のご冥福をお祈りしたいと思う。
大久野島神社
昭和4年(1929年)に毒ガス工場が開所された時、従業員が社殿を修復して「大久野島神社」とした。
境内では様々な年中行事が行われたという。
殉職碑
1929年の開所から10年も経たない1937年にこの碑が建てられた
いかに危険極まりない作業だったのか・・・
先の西本幸男氏の調べによれば、大久野島で従事した方の全登録数は5793人。
うち、1287人の方が亡くなっている。
この全てではなくても、毒ガス造りに従事することの危険性を十分に示している。
ここで造られた毒ガスは福岡の曽根に貨車輸送で運ばれ充填される。
千葉県の習志野で運用訓練をして大陸に運ばれた。
1925年のジュネーブ協定により、戦争では化学兵器は用いないことになっていたが、多くの国では実践使用を想定して準備をしていたという。日本もこれにもれなかった訳だ。