伝えたんく

日々の何気ないできごとに感じた幸せ

8月6日

2016-08-06 23:15:19 | 言いたんく

今日8月6日は日本人にとって忘れてはいけない日の1つである。

人類が最初に人間に向けて、核兵器を使った日である。

国と国の関係や、責任等については専門家に任せる。

一番大事なことは、

「無辜の民」がたくさん亡くなったことである。

ねらわれた中心は相生橋のT字の交点だったという。

 しかし爆心地は、象徴として有名な広島産業奨励館(原爆ドーム)ではなく、相生橋でもなかった。

相生橋の交点と爆心地であった「島病院(現島外科内科)」の間に原爆ドームがある。 

爆心地となった島病院は、壁1m以上の頑丈なレンガ造りの2階建てだった。当時の院長だった島薫氏はアメリカ留学時代に感銘を受けたセント・メアリーズ病院の運営方針を範とし、患者が低料金で治療・入院が受けられるように工夫した方だ。

安い治療代と手術の上手さで評判の病院だったという。

1945年の今日、B29「エノラ・ゲイ」から投下された原子爆弾「リトルボーイ」は、島病院南西側の上空約600mで炸裂しその爆風と高熱によって病院は跡形も無く大破・炎上し、80人余の職員と入院患者は全員が即死したという。

 院長の島薫氏と付き添いの看護婦1人は前日から出張診療に出かけていたため難を逃れた。

市内から救援要請を受けた2人は、3人の患者のうち1人の手術を終えた後、直ちに広島市に引き返し、その日のうちに入市した。

激しい炎に遮られたため、病院に帰着できたのは翌8月7日の午後であった。

帰着した2人は瓦礫の下から夥しい数の白骨化した遺体を発見、焼け残った器具ケースの中にあった手術用具のみが島病院の唯一の痕跡であったという。

島薫氏は甲山の知人の病院から持ってきたわずかな救急用医療資材を持って8月6日の夜より、商工会議所前の広場(島病院より約300mで被爆者の救護活動をはじめ、その後、救護所となった袋町国民学校(島病院より約460mで被爆者の救護活動に従事したという。

以上wikiを参考にしてまとめた。


 このような事実がきっと、ヒロシマの様々な場所で、様々な形であったことだと思う。

それぞれに当時の人々の活動があったと思う。

それは長崎でも同様だろう。

平和の祭典とか、語り部さんの話もある。

 しかし、被災された方々の物語は戦後生まれの者にとっては貴重な財産なのであるからもっと目に触れる形になっても良いのではないだろうか。

 これはメディアを責めている訳ではない。

 ここに書いたことが、実はすでに放映されたかもしれないし、ゆきたんくが勉強不足であるからゆえのことかもしれない。

 そうであれば反省する。

 ただ、自分に届いていなかったことは事実である。

 報道の内容を万民が理解する形にするのは大変なことも分かっている。

 2013年に公開された映画「永遠の〇」が遺作になった俳優夏八木勲氏の台詞に

「私たちだけが特別なのではない。あの時代一人一人にそんな物語があった。みんなそれぞれ胸に秘めて、何事もなかったように生きているんだ。それが戦争で生き残ったということなんだ。あと10年もすれば、私たちの世代はほとんどいなくなる。この話をお前たちに伝えられて良かった。」

 というのがある。

自分は日本人としてもっと事実を知りたいと思うのだ。

コメント
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