伝えたんく

日々の何気ないできごとに感じた幸せ

久しぶりに・・・

2016-08-16 23:06:18 | 戦争遺跡

8/6の投稿で、ヒロシマの爆心地が島医院であることを書いた。

今回ココフカの旅で広島・福岡・山口・島根の4県を旅した。

その時に行くことができた。

広島平和記念資料館の人だかり、原爆死没者慰霊碑の人だかり、原爆ドームの人だかり・・・

そして人だかりのない場所へ行く。



爆心地の「島病院」 2016.08.09


長崎の爆心地は、しっかりとしたモニュメントとして成り立っている。

もっともここは爆心地になった時に病院があった。

そこで亡くなられた病院の職員、入院患者は80人にのぼるという。

このことを思えば当時院長だった島薫がここに病院を再建したのは自らの使命と、犠牲になられた方の鎮魂もこめてのことと思う。

再建されたのは3年後のことで、たくさんの骨が掘り出されたという。



爆心地モニュメントの写真


 当時、病院の玄関先にご遺体が一人。

残りの人たちは、皆この瓦礫の下敷きになったという。

ここを訪れる人は少ない。

しかし、現在も病院があることを思えばそれはそれで良いのだと思う。

そして人類が記憶にとどめるべき場所の1つと思うゆきたんくである。

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いろいろな思い。

2016-08-15 23:35:55 | 言いたんく

今日は終戦記念日なのか。

日本の法律の中では1982年に8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定された。

この閣議決定に基づき、毎年8月15日に「全国戦没者追悼式」も行われている。

日本の一般常識のなかでは、8月15日が終戦の日なのだろう。

 

ロシアとアメリカでは9月2日、中国では9月3日と若干のずれはあるが、日本の8月15日とは違っている。

8月15日に天皇陛下が「玉音放送」として日本国民に直接語りかけたのは、「戦争後の日本の在り方を定めたポツダム宣言の受諾」のことであり、武器を置き、敵対行為をやめるように命じたものである。

全世界に公表されていたのは、8月14日に日本がポツダム宣言を受諾したということだ。


 

 


アメリカでは8月14日に日本が降伏することが報道された。

トルーマン大統領はその日にポツダム宣言の内容を国民に説明し、日本がそれを受け入れたことを告げた。

VJデー(対日戦勝記念日)は9月2日の降伏文書調印を見届けた上で布告するとしていたのだ。

日本の降伏調印式は東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号で行われ、ラジオ中継で全世界に流された。

それが1945年9月2日のことであった。

そしてトルーマン大統領は第二次世界大戦を勝利で終えたことを宣言したのだ。

アメリカの第二次世界大戦の終了は1945年9月2日というのはそういうことからだ。

それに伴う8月15日後の侵攻のこともあった。

なぜこのようなことがしっかりと教育されないのだろうか。

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宿題 その2

2016-08-14 23:04:23 | 

さて、2番目の宿題である。

こちらは1998年の画像は撮っていない。

秋吉台を跨ぐ「山口県道242号秋吉台公園線」を自分が運転してしたのである。

曲線や登り下りが続く道路でカメラのシャッターを押す勇気はなかった。

事故の元である。

カルスト台地がどんなものか18年ぶりのご対面である。

もっとも、あちらはゆきたんくを覚えている訳がない。



これが目に入った時はワクワクである。


いたる所に石灰石。ここは昔海の底だった。このまま海の底だったらサンゴ礁になったという。


だいたい同じくらいの大きさの岩に見える。この岩をピナクルという。


この写真に観る擂鉢型の穴をドリーネという。


たくさんのピナクル。


秋吉台でのココフカ3人組。


 18年にも渡る、長い宿題を終えたゆきたんくである。

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宿題 その1

2016-08-13 23:21:47 | 

10日に書いた宿題のその1。

1998年に初めて山口に行った。

そして先に萩を旅していた次男のつっくんと女房ののりたんと山口駅で待ち合わせ。

こちらは仕事の関係で、遅れて参戦。

もちろん長男も一緒だ。

山口から日本海側の長門市まで車を走らせる。

その途中で秋芳洞に寄った。

その時に撮った写真はわずか5枚である。

「百枚皿」、「包柿(すぼがき)」、「巌窟王」、「マリア観音」、「洞内富士」

この時は、秋芳洞正面入り口からの登りコースだった。

今回は、秋芳洞黒谷入り口からの下りコースである。

撮った写真の枚数は182枚。

もちろん、失敗したのも入れてだ。

左側に1998年、右側に2016年のを貼ってみる。

同じアングルではないがお許しを。

1998年はフラッシュ使用、2016年はフラッシュ無しで撮影した。


 まずは百枚皿。



苞柿(すぼがき)


巌窟王


マリア観音


洞内富士


 

 

 まぁ、カメラの性能が良くなったよね。

暗闇でも少しカメラを固定するれば綺麗に撮れるようになってきた。

苞柿が少し残念な画質だが、全体像は写っているので良しとする。

かくして、宿題の1つは無事終了である。

 

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ヒューマンエラー

2016-08-12 23:31:23 | 言いたんく

今日は、日本人が忘れてはいけない日である。

その日に丁度読書の3巻目に入った。

山崎豊子氏の「沈まぬ太陽」…御巣鷹山扁である。

1985年8月12日に発生した日本航空123便墜落事故をモデルに描かれている小説だ。

圧力隔壁の修理ミスが事故につながったことは周知の事実だ。

飛行機が墜落した御巣鷹山(実際には高天原山…たかまがはらやま→通称御巣鷹の尾根)から10㎞のところに「慰霊の園」がある。

その納骨堂には身元識別不可能として、この地で荼毘に付された犠牲者のご遺骨が123の壷に納められている。



慰霊の園・納骨堂 2011.05.07 → Map


 あのような事故は2度とあってはいけない。

パイロットは最期まで一生懸命に職責を全うされた。

ハードウェアに関してのヒューマンエラーが原因だっとことは分からないままだったろう。

 

今夏、ゆきたんくは、ココフカ旅行にて山陰+九州の旅行に出かけた。

行きはB777-200からB777-300ERに変更で広島空港着。

帰りは萩・岩見空港発のA320という可愛い飛行機で羽田着である。

その帰りの便、A320で思い出したことがある。



150人乗りのかわいいハイテク飛行機A-320

 
安全のしおりに「A320」とある 


2015年3月24日に副操縦士の故意で墜落したと断定されたジャーマンウイングスがこの機材だったのだ。

そこでハッと気づいたことがある。

このA320は座席から操縦席の扉が見えるのだ。

飛行機によってはパーティションがあり、それにモニターがつけられている。


この裏側がトイレになっている場合もある。


 それがA320だと客席の中央に通路があって、その左右3列が座席である。

 そして客席のまっすぐ先には、操縦席の扉が見えている。


 
A320機内 前方に茶色の扉が見える。


 

 ジャーマンウイングスの事故では、機長がトイレの帰りに操縦室から閉めだされた。

 2時間余りの飛行時間ではパイロットはトイレに行かない。

 自殺を企てた副操縦士が機長の飲み物に利尿剤だか下剤だか入れたとの話もある。

 操縦室は内側から鍵がかけられて入れない。

 高度はどんどん下がっている。 

 操縦席に戻るために扉を斧で破壊しようと必死の機長がいた。

 つまり、乗客はその一部始終を見ていたことになる。

 そして窓からは眼前に迫ってくる山肌があったことだろう。

 亡くなられた方には、あらためてご冥福をお祈りしたい。

 さて、この事故の原因はハードウェアでもなくソフトウェアでもない。

 ヒューマンエラーだったのだ。

 事故を起こした副操縦士は悩みを抱えていたという。

 しかし、なんの罪の無い人たちが命を巻き添えにする理由はない。

 8月12日の事故もジャーマンウイングスの事故もヒューマンエラーだ。

 あってはならないことである。

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朝の散歩

2016-08-11 23:13:23 | 

旅に出ると、「朝の散歩」を予定に入れるゆきたんくである。

これは、ツアーであっても他人に迷惑をかけることがないからである。

ツアーでは単独行動は許されない。

朝早くならば、出発時間までは自由時間と同じだ。

そう、旅先でのゆきたんくの予定は早朝の散歩から始まるのである。

これは国内旅行でも海外旅行(治安にもよるが)でも変わりはない。



この日の日の時時刻は5時22分。5時20分に出発だ…萩グランドホテル天空 → Map 


 昨晩、ホテルのフロントでいただいた散策地図を頼りに歩く。

ホテルの一番近くにある史跡は長州藩の牢獄として有名な「野山獄・岩倉獄跡」である。


 


岩倉獄 → Map



野山獄 → Map


 市指定史跡の解説板より

 1645(正保2年)年9月17日の夜、藩士岩倉孫兵衛(大組禄高200石)は酒に酔って口を隔てた西隣の藩士道路の反対側に屋敷がある大組藩士野山六右衛門(大組禄高200石)の家に切り込み、家族を殺傷した。この事件のため、岩倉は死刑となり、両家とも取り潰され、屋敷は藩の獄になった。

 野山獄は上牢として士分の者の収容を、岩倉獄は下牢として庶民を収容した。

なお、現在の指定地は獄の一部分である。

 幕末、吉田松陰は海外渡航に失敗したのち野山獄に、その従者金子重之助(重輔)は岩倉獄に投ぜられた。松陰はここで仲間の囚人を教化するという前例のない教育活動を行っている。

 野山獄はまた維新前夜の藩内構想の中で、正義派(革新派)・俗論派(保守派)双方の藩士が投ぜられ、処刑された場所でもある。


 歩きで時間も7時までにホテルに戻るということで、次に近い場所選ぶ。

次は「旧萩藩御船倉」である。



旧萩藩御船倉 → Map


 国指定史跡 「旧萩藩御船蔵」の解説板より

 御船蔵は、藩主の御座船を格納した場所である。慶弔13年(1608)に萩城築城後、まもなく建てられたと思わせれる。構造は両側と奥に玄武岩で壁築き、上部に瓦屋根を葺き、全面は木製扉を有している。大きさは桁行26.9m、梁間8.8m、高さ8.8m、石壁の厚さは6mである。現在は、明治以後の埋め立てのため河岸から離れた所になったが、往時は松本川に面して船が自由に出入りできる場所であった。


 

 その他、旧家や「花 燃ゆ」の舞台となった海岸など見何処がたくさんあった。



なまこ壁の美しい、「旧山村家住宅」


「花 燃ゆ」の舞台となった「菊が浜」


 さあて情報が頭の中で散らかっていてまとめきれない。

拙サイト幸たんくの旅たんくにアップするまでにはまとまるだろう。

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県境

2016-08-10 23:31:52 | 

ココフカの旅2日目。

予定では、朝方広島平和記念公園周囲の散策、平和記念館見学となっていた。

昨日の飛行機が早い便だったので、昨日のうちにその予定は終了したのだ。

よって、広島から福岡は門司に直行。

ツアーというのはだいたい、同じブロック内で移動が普通だと思っていた。

広島からならば中国地方のどこかとかね。

距離的に近いとはいえ、九州だからね。



関門海峡に架かる関門橋。 あちらは山口県。


こちらは門司港。

2枚の写真は門司レトロ展望室(黒川紀章氏設計の高層マンションの32階)よりの眺め


さて、今回のゆきたんくの目玉の1つは、歩いて九州から本州に渡るということ。

関門トンネル人道というのがあるのを初めて知ったのである。

780mの海底トンネルを歩くのである。

おもしろいツアーだと思う。

そして到着地点には壇ノ浦古戦場跡がある。



関門トンネル人道 深さはおよそ60mである。


県境である。 


 またこの日は、最高気温の予報が38℃。

日本で一番暑い場所になっていた山口県の辺り。

この人道はいくらか涼しかった。

そして娑婆への帰還を果たした。

その暑いこと暑いこと・・・



どうにか生きてるココフカメンバー。
平知盛像「碇潜(いかりかづき)」と源義経「八艘飛び」の像をバックに記念写真。


 この後も予定通り旅は進むのである。

 水と塩飴のおかげでばてることはなかった。

 そして瀬戸内海周防灘から日本海側の萩に移動することになる。

 間に秋吉台と秋芳洞を挟む予定だ。

 秋吉台のカルスト台地、そして秋芳洞は1998年以来の宿題がある。

 カルスト台地は自分で運転する車で通過したが写真が撮れなかった。

 秋芳洞の写真撮影も宿題だ。

 当時のデジカメに8メガバイトのスマートメディアを4枚を持っていったので、1枚にかける容量は少なく、枚数も撮れなかった。

 おまけに写りも悪かったのである。

 18年越しの宿題をやっとすることができるのだ。 

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飛行機の窓から

2016-08-09 23:16:28 | 

ゆきたんくの友達ユニットのココフカの旅。

もう何度か書いているが、ゆきたんくの本名の頭文字のコ、メンバーのじまさんの名字のコ、お父さんの名字のフカでココフカ。

毎年、飛行機→レンタカーで旅を自由に楽しんでいたが、昨年度はツアーを試してみた。

能登半島一周の旅、70~80代の方たちばかりだが、なかなかハードな旅だった。

今年もツアーになった。

3人が一同に会する時間をあまり取ることができなかったからだ。

じまさんとお父さんのリクエストで山陰方面になった。

ということで、行きは広島空港、帰りは萩・岩見空港のツアーの始まりである。

さて、2014年9月1日より規制緩和で、飛行機からの写真撮影が可能になった。

もう、それだけで飛行機での旅の楽しみが倍増だな。

残念ながら座席は3人がけの真ん中。

両脇にお父さんとじまさんがいるのである。

まぁ、窓際のお父さんにお願いして写真を撮らせていただく。



羽田空港でござい。離陸が始まったところ。


東京アクアラインの海ほたるね。 写真右が川崎側。左が木更津側。


東京外環自動車道と彩湖。


 とまあ、いままで撮れなかった写真がとれてとても嬉しい。



何て言ってもこんな写真が撮れるのは飛行機からだけだ。


 

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駐車場にて

2016-08-08 23:06:22 | 言いたんく

今日は暑いが出張である。

まぁ、会場が地元だから焦ることはない。

着替えて扉を開けた途端に焦った。

というよりもビビッた。

 

自宅駐車場に彼がいたのである。

現在のところに住んで22年経つが、たぶん今回を入れて3回くらいの出来事だ。


 


駐車場の上は住まい。それを支える支柱のそばにいた蝉さん。


 これを見て一瞬ビビッタのである。

まぁ、蝉が怖い訳ではない。

ゆきたんくが恐ろしいと思うのは犬だ。

チワワでもだめ・・・

一生懸命に鳴いていたのに、もう力尽きてしまったのだ。

可愛そうにと思って、手に取ろうとした瞬間

けたたましく鳴いてどこかに飛んで行ってしまった。

最後の力を振り絞らせてしまったねかねぇ。

 

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今日は・・・2

2016-08-07 23:36:58 | 言いたんく

国産ジェット機がクローズアップされている。


201511152
ゆきたんくの好きなホンダHJ


  機体からエンジンまで完全自社開発のビジネスジェット機である。

 こんな自家用ジェットで仕事をしたらカッコ良いなぁと思いながら、ゆきたんくの仕事では使うことのない機材である。

 

 もう1つ、三菱のMRJである。

 90人乗りの試験飛行は成功して量産体制に入っているというが、その実は70人乗りだという。

 まぁ、細かいことはどうでもよい。

 日本の技術で国産ジェットが日の目を見る時代がやってきたことが嬉しい。

 

 さて、日本で最初に飛んだジェット機は「橘花(きっか)」である。

 その日が今日8月7日なのだ。

 それは1945年、広島へ原子爆弾が落とされた次の日である。

 日本の技術者が戦後の将来にその志の糸を繋げ、航空工業再開への強いモチベーションとなるべく最後に渾身を込めたのである。

 

 その後、1958年に戦後初の国産ジェット機T1の初飛行もあった。

 自動車メーカー富士重工で開発されたのである。

 その時のパイロットが高岡迪氏で、なんと「橘花」初飛行の人であった。

 小学校の同級生がT1に乗っていた。

 写真でしか見たことがないが、かっこよかったなぁ。

 現在はJALで旅客の機長だ。

 

 そう、8月7日のお話でした。

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8月6日

2016-08-06 23:15:19 | 言いたんく

今日8月6日は日本人にとって忘れてはいけない日の1つである。

人類が最初に人間に向けて、核兵器を使った日である。

国と国の関係や、責任等については専門家に任せる。

一番大事なことは、

「無辜の民」がたくさん亡くなったことである。

ねらわれた中心は相生橋のT字の交点だったという。

 しかし爆心地は、象徴として有名な広島産業奨励館(原爆ドーム)ではなく、相生橋でもなかった。

相生橋の交点と爆心地であった「島病院(現島外科内科)」の間に原爆ドームがある。 

爆心地となった島病院は、壁1m以上の頑丈なレンガ造りの2階建てだった。当時の院長だった島薫氏はアメリカ留学時代に感銘を受けたセント・メアリーズ病院の運営方針を範とし、患者が低料金で治療・入院が受けられるように工夫した方だ。

安い治療代と手術の上手さで評判の病院だったという。

1945年の今日、B29「エノラ・ゲイ」から投下された原子爆弾「リトルボーイ」は、島病院南西側の上空約600mで炸裂しその爆風と高熱によって病院は跡形も無く大破・炎上し、80人余の職員と入院患者は全員が即死したという。

 院長の島薫氏と付き添いの看護婦1人は前日から出張診療に出かけていたため難を逃れた。

市内から救援要請を受けた2人は、3人の患者のうち1人の手術を終えた後、直ちに広島市に引き返し、その日のうちに入市した。

激しい炎に遮られたため、病院に帰着できたのは翌8月7日の午後であった。

帰着した2人は瓦礫の下から夥しい数の白骨化した遺体を発見、焼け残った器具ケースの中にあった手術用具のみが島病院の唯一の痕跡であったという。

島薫氏は甲山の知人の病院から持ってきたわずかな救急用医療資材を持って8月6日の夜より、商工会議所前の広場(島病院より約300mで被爆者の救護活動をはじめ、その後、救護所となった袋町国民学校(島病院より約460mで被爆者の救護活動に従事したという。

以上wikiを参考にしてまとめた。


 このような事実がきっと、ヒロシマの様々な場所で、様々な形であったことだと思う。

それぞれに当時の人々の活動があったと思う。

それは長崎でも同様だろう。

平和の祭典とか、語り部さんの話もある。

 しかし、被災された方々の物語は戦後生まれの者にとっては貴重な財産なのであるからもっと目に触れる形になっても良いのではないだろうか。

 これはメディアを責めている訳ではない。

 ここに書いたことが、実はすでに放映されたかもしれないし、ゆきたんくが勉強不足であるからゆえのことかもしれない。

 そうであれば反省する。

 ただ、自分に届いていなかったことは事実である。

 報道の内容を万民が理解する形にするのは大変なことも分かっている。

 2013年に公開された映画「永遠の〇」が遺作になった俳優夏八木勲氏の台詞に

「私たちだけが特別なのではない。あの時代一人一人にそんな物語があった。みんなそれぞれ胸に秘めて、何事もなかったように生きているんだ。それが戦争で生き残ったということなんだ。あと10年もすれば、私たちの世代はほとんどいなくなる。この話をお前たちに伝えられて良かった。」

 というのがある。

自分は日本人としてもっと事実を知りたいと思うのだ。

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今日は・・・2

2016-08-05 23:57:48 | 言いたんく

今日は眼鏡を造る。

度が合わなくなってきて、本を読むのも少し苦労しなくてはならないからだ。

職場から一番近い眼鏡市場へ行く。

朝から御盛況だ。駐車場が丁度1台分しか空いていなかったのである。

中に入ると、初老の方(ゆきたんくも近づいているが)が多い。

眼鏡だけではなくて補聴器の相談にもみえているようだ。

順番を変えて職場に向かう。

職場に用事はあるのだが、本日は年次休暇を取ってある。

好きな時に行って、好きな時に帰ることができるようにだ。

取り敢えず簡単な仕事をし、昼飯を同僚と食べて職場を後にした。



たまのご馳走、糖質たっぷりの細切丼


 再び眼鏡市場である。

午後1時頃は貸し切り状態だ。

充分に細かなことまで相談しながら、新しい眼鏡を造る。

縁込みの値段なのでレンズだけ取り換えるということはしない。

前回と同じPCレンズで、縁も同じ形で注文した。

出来上がりは旅券が出来上がるのと同じ日だ。

帰りにゆきたんく号の調子を見てもらいに、懇意にしている車屋さんへ。

「代車はマニュアルですが、左足の練習をして下さい」( ´艸`)

とのことで、スバルレガシーを借りた。

歳を取ったのだろうか。

なかなかマニュアルが以前ほど上手く操れない自分がいた。

事故だけは気をつけよう。

 

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今日は・・・1

2016-08-04 23:39:37 | 言いたんく

忙しさにかまけて忘れていたことが2つある。

1つは、ゆきたんくが所有している田んぼの灌漑を担って下さっている改良区さんの口座の確認。

もう1つは旅券の有効期限が切れていたのである。

午前中は仕事をして、午後から口座確認と旅券申請に急ぐ。

旅券申請の締め切りは16時30分。

茨城の竜ヶ崎に行かねばと思っていたが、電話連絡で近隣の銀行で手続きをしていただければということだった。

これで2時間ほど作業時間が短縮された。

職場から一番近い流山おおたかの森で手続きをした。

正味1時間ほどかかった。



旅券事務所内。


 そして旅券事務所に急ぐ。

入り口近くにあった証明写真撮影機がない。

どうしたものかと思ったが、事務所のある階に上がったらそこにあったのでホッ。

写真を撮り、10年申込み書を記入して証紙を購入しようとした。

係の方が「パスポートを受け取る時にお願いしますね。」

そうだ、手続きを済ませてからもらえる、「旅券引換書」に添付するのだった。

10年前のことって覚えていないのだと思った。

10年歳を取るってことだからね。

きっと旅券申請は、あと1回やっと終わりかなぁと思いながら並んでいたら番が来た。

そう、どうにか間に合ったのである。

受け取りは1週間後だ。

前回は、作った2週間後くらいにICパスポートに切り替わったので、この10年間はICカード無しのものだった。

小さなことだが、それもある意味楽しみである。

 

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地図から消えた島12

2016-08-03 23:15:33 | 戦争遺跡

さて、休暇村本館に向かう。

いよいよ大久野島探索も終わりに近づく。

ベンチがあったので、そこで一休み。

目の前に遺構があった。



ベンチで一休み。



通信壕だという。毒ガス製造ラインからは離れたところにあった。


 周囲には、毒ガス処理に使われた防空壕跡があり、しっかりと塞がれたいた。

その対面には休暇村が見える。

まあ、現在の大久野島のメインである休暇村本館の辺りに毒ガス製造ラインの主たる所があったのだから。



防空壕跡。


休暇村全景


 ふと足元に気配を感じる。

そう、現在の大久野島はうさぎ島とも呼ばれている。

毒ガス製造時に実験動物として持ち込んだウサギの子孫だと思っていた。

諸説ある中で一番有力なのが、

「1971年に地元の小学校でかわれていた8匹のうさぎがはなたれて、今日にいたった」

 だそうだ。

野生化しているが、人懐こいのには驚いた。



ゆきたんくの足元でズボンを齧るうさぎさん。


 戦争遺跡についての記述がメインだったので敢えてうさぎを出さなかったが、これまで書いてきた記事のそれぞれの場所にうさぎがいたのである。

現在は、

         瀬戸内海に浮かぶリゾートアイランド。ウサギと温泉に癒され瀬戸内海の味覚に舌鼓♪

公式ホームページに示されている島である。

 

過去の歴史は事実であり、それはそれで貴重な日本人の遺産であると考える。

時間があれば、リゾートとして満喫し、軍事遺跡としての歴史にも触れてほしいゆきたんくである。

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地図から消えた島11

2016-08-02 23:37:22 | 戦争遺跡

さて、2日間の休憩を経て、大久野島だ。

発電所跡のトンネルを抜けると、眼前に海が広がる。

そこには芸予要塞時代の桟橋がある。



大久野島南東部の桟橋


「げいよ」というのは、広島県の旧国名の安芸の国と愛媛県の旧国名の伊予国から一文字ずつとったもの。

 芸予要塞として機能したのは1897年に大久野島北部砲台の着工に始まり、豊予要塞が完成したために存在意義を失う1924年までの間である。

島内を1周するまでの間に、海水タンクと南部砲台を残して、海岸線沿いの道を歩いて集合場所に向かう。

船に時刻に遅れては大久野島見学参加者の皆に迷惑をかけるからだ。

途中に埋めた防空壕跡のようなものを見る。

おそらく、ここに毒物を格納して塞ぎ海水を入れたり、さらし入れたりして毒を中和したとみられる。



先頭を歩く人たちは休暇村本館に向かう道の分岐点にあるビジターセンターを通り越して海沿いに更に進んだ。

最初に目に飛び込んできたのが慰霊碑である。

そんなに古いものではない。


 


西本幸男さんは昭和57~60年(1982~1985)まで医学部長であった。その間に建てられたと考えられる。


そばに捧げられた千羽鶴


 またしばらく進むと「大久野島神社」と「殉職碑」が隣り合っている。

 この島で毒ガス製造に携わり、亡くなった方のために建てた碑である。

 製造に重点が置かれたのはイペリットだという。

5000名を超えた従業員の多くは、「せき」、「たん」、「呼吸困難を伴う難治の慢性気管支炎」にかかった。

イペリットには発癌性があったため、「咽頭癌」、「肺癌」、「胃癌」が多発したという。

苦しみながら亡くなった多くの方のご冥福をお祈りしたいと思う。


  
大久野島神社

昭和4年(1929年)に毒ガス工場が開所された時、従業員が社殿を修復して「大久野島神社」とした。
境内では様々な年中行事が行われたという。 

 
殉職碑

1929年の開所から10年も経たない1937年にこの碑が建てられた
いかに危険極まりない作業だったのか・・・


先の西本幸男氏の調べによれば、大久野島で従事した方の全登録数は5793人。

うち、1287人の方が亡くなっている。

この全てではなくても、毒ガス造りに従事することの危険性を十分に示している。

ここで造られた毒ガスは福岡の曽根に貨車輸送で運ばれ充填される。

千葉県の習志野で運用訓練をして大陸に運ばれた。

1925年のジュネーブ協定により、戦争では化学兵器は用いないことになっていたが、多くの国では実践使用を想定して準備をしていたという。日本もこれにもれなかった訳だ。

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ブログ村Ping

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