夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

雑草との戦いだ、と草むしりをしている中、過ぎし苦い思いが浮び、微苦笑して・・。

2015-05-23 15:57:15 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
昨今の私は何かと小庭の手入れが多くなっている・・。

私の住む地域は住宅街となっているが、片隅にある我が家はご近所のお宅より少し広く、
この時節は、小庭の雑草がまたたくまに追い繁るので、私は汗まみれ泥まみれになり、奮戦している。

そして疲れながら奮闘していると、雑草との戦いだ、と心の中で叱咤激励しながら、
草むしりをしている。

雑草との戦いだ、と的言されたのは、遠い昔の明治の末期、作家の徳富蘆花(とくとみ・ろか)さんが、
私の住んでいる近くに、都心の青山より田園生活の中で農作業をされていた。

こうした中で農作物を畑で育成していると、この時節は雑草と戦いだ、このような趣旨を綴られていた。
私はこうしたことを思い重ねて、確かにそうですよねぇ、と私は微苦笑したりしてきた。

今朝4時半過ぎに起床して、5時半過ぎに玄関の軒下に降り立ち、
草むしりを始めた。

やがて家内は蚊(か)の出る前に、樹木の剪定を残した樹があるから、
と薄手のトレーナー姿にエプロンした容姿で、夏用の大きな帽子を被(かぶ)り、
適度な台に乗り、剪定用の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、小枝を切り落としたりした。

この日の私は、草むしりに専念したが、雑草を抜いたりしている中、過ぎし年のことが浮かんだりした・・。
          

私は1951年(昭和26年)の春に地元の小学校を入学したが、
この当時は、祖父、父が健在で、程ほど広く田畑を小作人だったの手助けを借りて、農業をしていた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた男の子で三男坊の身であり、
跡継ぎ候補が2人であったので、今度は女の子と期待されていたらしく、
また男の子かょ、と云う視線を幼年期の頃から何となく感じたりしていた。

そして幼児の頃から屈折したいじけたような思い過ごし、
兄2人が通っていた小学校に入学した。

長兄は原則として跡継ぎの身であったので、祖父と父たちは家庭教師を付けて、
長兄はそれなりに応(こた)えて、XX小学校60年開校で初めて国立の中学校に入学できた、
と村中の評判となっていた。

次兄は活発で運動神経にも優れ、クラスの人気者であったので、
何かと私はあいつの弟、という視線を先生、同クラスの人々から見られた。

そして兄達は通信簿を頂く際、『5』と『4』の優れた成績で、
私は同じ小学校を通っても『3』と『2』で占められいた。

ともかくいじけ屈折した可愛げのない子で、日陰のような子であった。

こうした中で、小学校一年の秋、 初めて運動会で50メートル競争に出場した・・。

この当時は、6人で同時に走ったが、そのうちに頑張れば、
と私は思っているうちにゴールに着いた。

結果は、後ろから2人目の5位だった・・。
この頃は、走り終えると、1位の旗から6位まで並列されていたので、
もとより私は『5』の旗の後に並ばされた。

そして私は何故かしら、小学校を卒業するまで、
6人で走るといつも5位が続き、勉強の成績と同様に劣等生であった。
          

やがて私が長兄、次兄の全(まった)く影響のない私立の都心の高校に入学してから、
心が解放された為か、勉強に初めて目覚めて、授業も楽しくなり、優等生グループになったりした。

そして体育の授業でも、長距離の5キロ競争は、いつか追いつけると走りながら思い、
上位グループに属した。
          

後年、私は音響・映像メーカーに何とか中途入社できたのは、25歳の時であった。
この会社はこの当時は大企業であり、音楽事業本部の一部門に勤め始めたが、
まもなく大きなレーベルが独立会社として発足して、外資系のレコード会社となり、
私は転属させられたりした。

やがて半年過ぎた頃、正社員登用の研修を上司から指示された。
何かしら研修センターで3泊4日で、研修を受けて、この中で審査の結果で、
初めての正社員になることができる制度であった。

この時、研修センターで審査を受けられたは中途入社メンバーであり、
100名ぐらいであり、私は緊張して研修を受けたりした。

こうした中で、偶然に私と同じ25歳の入社組のふたり知り合って、
この後、数年はお互いに連絡を取り合ったりしていた。

やがてひとりは別会社に配置されたが、まもなくリストラの中で、解雇されたりした。

もうひとりの勇士は、やがて大病され、休職した後、退社されたりした。
          

私は中小業の多いレコード会社であり、大波小波の中で、
障害レースのような幾たびのリストラの中をくぐり抜けたりした。

しかし最後の5年半はリストラ烈風の中、無念ながら出向となってしまった。
そして各レコード会社が音楽商品を委託する物流会社に勤めて、定年を迎えた。

定年後、多々の理由で年金生活を始めた時、
雑木の多い小庭のにある古ぼけた一軒家、そして程ほど貯金しか残せなかったょ、
と私は家内に苦笑しながら言ったりした。

このような幾たびも敗れながらも何とか残り、定年退職を迎えることができたので、
敗残者と私は思ったりしている。

そしてサラリーマン時代をあえて大相撲の世界で表現するならば、
8勝7敗かしら、と私は思ったりして微苦笑したりしてきた。
          

しかしながら亡き作家・色川武大(いろかわ・ぶだい)さんが、
『人生もバクチも9勝6敗のやつが一番強い』と発露された名言を思い馳せ、
つたない人生航路を歩んできた私は、うなだれることもある。

このようなことが草むしり最中、思い浮かんだりした。
やがて10時過ぎに家内は剪定を終え、そして私も10時半過ぎに草むしりを終了として、
初夏のような熱さの中、5時間ばかりの奮戦は疲れたよなぁ、と汗まみれ泥まみれ私は苦笑したりした。


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