夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

寒さが増す時節の時候、挨拶を思い馳せて、やがて私は独り微苦笑を重ねて・・。

2021-01-08 08:27:34 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の76歳の身であるが、
今朝、地元の天気情報を視ていたら、
朝の6時はマイナス2度、昼下がりは5度前後、そして夜の6時は3度前後、
晴れ一時曇りとなり、ときおり北風が吹き、寒さを感じる一日になります、
と報じていた。

過ぎし6日に『小寒(しょうかん)』となり、寒さの始まりの『寒の入り』と伝えられ、
この頃から寒さは厳しくなり、寒中見舞いを小寒から出し始める、と亡き母から教えたりしてきた。

やがて 1月20日頃には『大寒(だいかん)』を迎えて、一年で最も寒い時期と古来から伝えられている。
そして小寒から大寒までの15日間と大寒から立春までの15日間の合計30日間を『寒の内』と
古人から長らく伝えられてきている。


私はこうした寒い期間でも、我が家の平素の買物専任者であるので、
殆ど毎日であったが、昨年より新コロナの烈風より3日分を一回に集約して、
駅前とか最寄りのスーパー、専門店に買物をしたりしている。

そして体力の衰えを実感している私は、
殆ど毎日のように、自宅の3キロ周辺の遊歩道、小公園を歩き、
季節のうつろいを享受している。
              

こうした時の私の容姿は、冬の厚手のスポーツ・シャツの上に、フリース状のジャンパー、冬用の長ズボン、
そしてウォーキング・シューズで颯爽と歩いたりしている。

ときには寒気団が襲来している時は、冬用のフィールド・ジャケットを着こむぐらいで、
いずれもマフラーは不要としている。

こうして天上の気候の神々のきまぐれな采配の三寒四温の中、
人生は気合だ、と自宅の3キロ周辺を歩くことが多い。

私は夏の暑さ何よりも苦手であるが、この時節に寒いと感じたら、
夏の猛暑を浮かべたりしている。

こうした中、♪さ霧(ぎり)消ゆる湊江(みなとえ)の・・『冬景色』の歌、
ときには、♪春は名のみの風の寒さや・・『早春賦(そうしゅんふ)』の歌、
人影のない遊歩道、小公園を歩きながら、かぼそい声で唄ったりしている。
       


先ほど私はぼんやりと、この寒い時節は、厳冬、酷寒などと古来が称せられ、
この時節の時候、挨拶とかを思い馳せたりした・・。

例年になく寒い毎日

いよいよ本格的な冬将軍の到来

ちらちらと白いものが舞う今日この頃

寒気身にしむこの頃

大寒に入ってから寒さがいっそうつのり

などと手紙の前文の時候挨拶に使われるが、
たまたま1952年(昭和27年)の頃の雑誌を読んでいた時、

忍従の冬はいつ果てるとも知れず

いよいよ大寒に入り、寒威逐日相募(あいつの)り

と表記されていたので、私は独り微苦笑させられたりした。

あの頃の時代の寒さに比べて、
昨今の地球温暖化で、多少寒さが柔らだいたと思われる・・。

そして何より各ご家庭の暖房の設備が大きく変貌した上、
衣服も遥かに快適となってきたので、
あの頃の人々は、それぞれの地域に御住まいの人たちは耐えた、というのが実感だった、
と私なりに想いを馳(は)せたりしている。

       

私は幼年期は農家の児の三男坊として育ったのであるが、
小学校に入学して1951年(昭和26年)の当時は、
母が陶磁の湯たんぽに熱湯を入れて、古着の布切れを巻いて、
私の寝る布団の中に入れてくれたりした。

この当時の農家は、炭を熾(おこ)した火鉢(ひばち)を数箇所の部屋に置き、
台所の付近にある食事処は、囲炉裏のある板の間であったので、それぞれ座布団を敷いて、
それぞれのお膳を前に頂いたりした。

確かに火の近くは暖かかったのであるが、全般としては寒い部屋であった。



私の幼年期は、毎年、冬の時節になると、雪が30センチ前後が数回降った。
       


1951年〈昭和26年〉の春に私は地元の小学校に入学したが、
初めての冬に雪が降り、登校した時が想いだされる・・。

ゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
番傘を差して、家を出た。

家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、ときおり風が吹き、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。

そして駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、一キロぐらいで、

学童の身としては15分程度の村道を歩いていた。

この時の村道も雪かきもされていないのが殆どであったので、
祖父、父の知人の畑も雪に埋もれて、少し吹雪いていたが一直線に畑の上を歩いて登校した。

この当時の小学校は、木造の二階建てであり、

教室の片隅にあった木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)があったりした。

こうした中、この当時のこの地域の村立小学校に於いては、
コークスはもとより、石炭も使用される前の時代であったので、
正方形の中心に簡易に造ったブリキの中で、炭を熾(おこ)してあるか、

薪(まき)が燃やされていた。

私たち学童は、この木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)を囲みながら、
衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。

そして、学級のクラスの中で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と互いに悪口を言い合っていたりした。

下校のひととき、私も番傘でチャンバラの真似事をし、番傘の数箇所が破れ、

帰宅後に母に怒られたりした。

このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。

        

その後、1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉であるが、
この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。

やがて1964年〈昭和39年〉に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。
          



このような遠い私の幼年期のことも思い馳せ、
昔は寒かったよねぇ・・、と微苦笑したりしている。

そしてこの当時より、やがて石油、ガス、電気などのストーブ、ファン・ヒーター、
何よりもエアコンにより部屋全体が暖められることに、
私は甘受をしたりしている。
コメント (2)
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