夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

作家の半藤一利さん御逝去、日本は大切な御方を失った、感嘆して・・。

2021-01-13 08:19:59 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住んでいる年金生活の76歳の身であるが、
今朝、いつものようにヤフーで配信されたニュースを見ていたら、
《・・作家
の半藤一利さんが死去 昭和史研究で著書多数、90歳

「日本のいちばん長い日」などの著作で知られる作家の半藤一利さんが12日午後、
東京都世田谷区の自宅で倒れているのが見つかり、死亡が確認された。

東京都出身。東京大を卒業して文芸春秋に入社。
「週刊文春」「文芸春秋」編集長を歴任、1994年から著述に専念した。
編集者として坂口安吾らを担当し、歴史研究に開眼。

終戦時の軍部関係者らを集めた座談会「日本のいちばん長い日」は、
 雑誌「文芸春秋」の記事となった後に単行本化され、映画化された。 

憲法9条と平和の大切さを次世代に説き続け、2015年に菊池寛賞を受けた。・・》

このように共同通信が発信され記事を読んだりした。



私は半藤一利さんの著作された昭和史に関する書物などで、
数多く学び、敬愛してきた半藤一利さんであった・・。

無力な私は、確かな日本の貴重な御方の御逝去に、
日本は大切な御方を失った・・
心より深くご冥福をお祈り申し上げます・・と心の中で呟(つぶや)いたりしている。




過ぎし2015年の初夏、私が購読している読売新聞の朝刊に於いて、
『戦後70年』の連載記事を読んだりした。

『[戦後70年 あの夏]どう負けた 皆知らない 作家 半藤一利さん 85歳』
と題された記事を襟を正して読んだりした。

もとより作家の半藤一利さんは、昭和史研究家として突出されたお方である。
一部を無断ながら、転記させて頂く。

《・・敗戦の原因は、日本人固有の精神構造にあると思います。
情報を直視せず、自分に都合のいい結論のままどんどん行った。

ミッドウェー海戦では、敵機動部隊は出てこないと決めつけ、
ガダルカナル島の戦いでも、敵はすぐに引くと根拠もなく信じた。
兵站(へいたん)が限界を超えても出て行った。

陸海軍合わせ240万人の戦死者のうち、7割が餓死か栄養失調か、それに伴う病死でした。
そんな無残な死に方をする戦争なんてありえません。

国全体が集団催眠にかかり、勢いで突き進んだ結果でした。・・》
                       


この後、半藤一利さんにインタビューされた編集委員・服部真さんが、
半藤一利さんの思いの記事が掲載されていた。

《・・「一等国」意識の暴走 背景に国民の熱狂

明治から昭和にかけての歴史は、

日露戦争(1904~05年)でいったん切った方がわかりやすいと、
半藤さんは言う。

日露戦争までは、欧米列強に植民地にされるのを回避するため、

近代化を急いだ時期だ。
巨額の軍事費をまかなうため、国民は重い負担に耐えた。
ロシアに対して、世界中が日本が負けると思っていた戦争を始めたのも、

自衛のためだった。

日露戦争から昭和の初めまでは、日本が大国として振る舞った時期だ。
戦争に勝ち、「一等国」の仲間入りをしたと国民は確信するが、

そこから日本が変わっていく。

自分たちは一等国民だという意識で動き始めたようだ。

例えば、第1次世界大戦の戦後処理を決める1919年のパリ講和会議では、
分け前を声高に主張して顰蹙(ひんしゅく)を買う。

国際社会で孤立を深めた日本は、

英米に敵対感情を抱くようになり、33年には国際連盟を脱退する。

当時の指導者たちは、情勢を直視せず、国際法を顧みずに暴走した。

 そして、米国を相手に、勝ち目のない戦争へと突き進んだ。

その背景に国民の熱狂があったことが、半藤さんの話から伝わってくる。 (服部)・・》




私は1944年(昭和19年)の9月に生を受けた身であり、
乳児で1945年(昭和20年)の8月の敗戦であったので、
戦争を知らないひとりである。

こうしたあの時代に、現世の私は心を痛め、ただ無力な私は、
深く学んだりしている。
        
     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする