私は東京の調布市に住む年金生活の76歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。
一昨日の7日の朝、冬晴れの朝の中、我が家のお正月に彩〈いろど〉ってくれた松飾りに、
別れを告げた後、いつものような日常になったよねぇ・・、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。
一昨日の7日の朝、冬晴れの朝の中、我が家のお正月に彩〈いろど〉ってくれた松飾りに、
別れを告げた後、いつものような日常になったよねぇ・・、
と私は家内を労(いた)わるように言ったりした。
まもなくした後、我が家の平素の買物の専任者の私は、
家内からの依頼された品を求めて、スーパーで買物を終えた後、
家内からの依頼された品を求めて、スーパーで買物を終えた後、
やがて自宅の近くに流れている野川の遊歩道を散策した・・。

そしてまもなくして、昭和天皇がご逝去された日だった、と遅ればせながら気づいたりした。
私は1944年(昭和19年)の秋に、今住んでいる近くに生家があり、
農家の三男坊として生を受けたりした。
こうした中で、多くの家庭と同じように天皇家には何かと敬(うやま)う空気の中で育ち、
農家の三男坊として生を受けたりした。
こうした中で、多くの家庭と同じように天皇家には何かと敬(うやま)う空気の中で育ち、
昭和天皇に関しては、私の40代かばまで『昭和』の時代で過ごしたので、
もとより自己形成、歴史観などで、多大な影響を受けていた。


1988年(昭和63年)の晩秋、私はこの当時は、
音楽業界のあるレコード会社に勤務して15年が過ぎ、
音楽業界のあるレコード会社に勤務して15年が過ぎ、
管理部門の情報畑で、翌年の4月より実施される『消費税』のシステム対応の開発に追われていた。
こうした中で、昭和天皇が病状が悪化し、社会は何かと自粛の空気につつまれていた・・。
そして、私の勤めていた会社でも、
音楽の世界では世界的な有名なロック・グループの『ボン・ジョヴィ』が、
音楽の世界では世界的な有名なロック・グループの『ボン・ジョヴィ』が、
日本のある大手家電メーカーが強力なスポンサーとなり、
年末に日本で公演されることになっていた。
こうした中、公演中にテンカウントダウンを華はなしく実施する予定が、
なぜか中止となり、せっかくのチャンスだったのに、
と私なりに落胆をしたりしていた・・。

こうした中、公演中にテンカウントダウンを華はなしく実施する予定が、
なぜか中止となり、せっかくのチャンスだったのに、
と私なりに落胆をしたりしていた・・。

やがて1989年(昭和64年)の1月7日の朝、
私は昭和天皇が崩御された、とNHKのテレビのニュースで視聴し、
とうとう陛下様は亡くなわれてしまった、というのが率直な思いであった。
私はいつものように出社し、社内の恒例の朝礼の時、
専務取締役の指示で、フロアーを共にした各部署の一同は、皇居の方面に向かい、黙祷をささげた。
その後の私は、4月から『消費税』の対応策で多忙な身である上、
更に『昭和』から新たな『平成』と制定されると、
コンピュータの和暦の表示を『請求書』に至るまで改定したので、慌しい日々を過ごしていた。
こうしたこともあるが私の心情は、平成元年といわれるより、
昭和64年といった方が心身の波長が合うので、何かしら戸惑ったのは事実である。
もとより平成の時代は、昭和天皇がご逝去されたのが1989年(昭和64年)の1月7日により、
平成元年は1月8日から初まり、やがて平成31年・・
その後は、新たな令和の時代となっている・・。
その後は、新たな令和の時代となっている・・。

私は平成の時代の始まりを思う時、
何故かしら1989年(平成元年)の11月9日から東ドイツが
市民に寄る『ベルリンの壁』を実質的に撤去の出来事と重ねてしまうのである。
この後、米ソの冷戦構造が終結され、世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、
やがて社会が一変したからである。
このした中で、私たち日本の生活に於いて急速に変貌したのは、アナログからデジタルに変貌したこと、
そして水をペットボトルなどで購入したことなどを思い馳せたりした・・。
音楽愛好者からすれば、音楽の録音品のレコード、カセットはCDに普及して平成を迎え、
録画のビデオ・テープは平成になってまもなくDVDに変貌し、
この後はブルー・ディスクも普及している。
この後はブルー・ディスクも普及している。
そして音楽配信が携帯電話が主流で普及した後、
昨今はスマートフォンに隆盛化の時代を迎えている。

何よりも国民全体すれば、圧倒的に社会を変貌させたことはパソコンが普及し、
インターネットの急激な浸透である。
インターネットの急激な浸透である。
1995年(平成7年)の秋に『Windows 95』が発売され、
それまでのパソコン愛好者、専門職を領域から、 大衆化したことである。
そして、これに連動して、インターネットが急激に普及し、ネット通販の隆盛となっている。
もうひとつの変貌は、モバイル情報の発生であり、携帯電話の急激に普及であり、
そしてここ10数年はスマートフォンに隆盛化の時代を迎えている。
映画のオリバー・ストーン監督の『ウォール街』は、
1987年(昭和62年)にアメリカで公開された作品がある。
冷酷で貪欲な投資銀行家が、浜辺で大きな携帯電話を持ち、会話しているシーンがある。
1987年(昭和62年)にアメリカで公開された作品がある。
冷酷で貪欲な投資銀行家が、浜辺で大きな携帯電話を持ち、会話しているシーンがある。
確か、この頃は大きめのラジカセのような形の携帯電話であり、破格な高価な品であった。
平成になると、形も性能も向上、価格も廉くなり、やがて日本で一億台突破となり、
殆どの日本人が愛用した後、ここ10数年は高性能のスマートフォンの急速に普及となっている。


私は20世紀の時代は、テレビと原子爆弾の世紀だった、といわれたりしているが、
こうしたことを流用すれば、
過ぎ去った平成の時代は、ネットとモバイルの代表の携帯電話、と断言したくなる。
こうした中で、何よりも変貌の実感をさせられたことは、
一部の専門のマスコミ、著名人などから発信できる時代から、
誰でも簡易に発信できる時代となり、こうしたことは文明史上初めてのことである。
もうひとつの日常生活に於いて、水を買い求める時代である。
『缶』から『ペットボトル』に変貌しているが、私は日常の外出先とか旅先で、
自動販売機で煎茶のペットボトルを買い求めることが多い。
これも平成の時代の始まりの頃からと記憶している。


私は4年前までは煙草の愛煙家のひとりであったが、
日本に嫌煙ブームが始まったのも、平成になってからである。
日本に嫌煙ブームが始まったのも、平成になってからである。
喫茶店でテーブルの上には、灰皿と喫茶店独自のマッチが置いてあったりした。
飛行機の機内でも水平飛行になれば、スーモキング・ランプが点(つ)いたり、
そしてJRの車内の座席の脇に灰皿が設置されたりして、ときおり煙草を喫う方が見られたりした。
私がギックリ腰が酷く入院生活を1991年(平成3年)の頃は、
整形外科のフロアーの片隅に喫煙コーナーがあり、
煙草を吸わない人でも憩いの場として、団欒していたりした。

私は定年退職した2004年(平成16年)の秋であり、
多々の理由で年金生活を始めたりしたので、社会状況に疎(うと)く、
もとより若き諸兄諸姉はご存知であるから、省略する。
もとより若き諸兄諸姉はご存知であるから、省略する。
こうしたことを思いつくまま馳せたりし、
昭和の時代が終わり、平成の時代になってから大きく変貌したことは、
私は何より社会が劣化し、言葉、しぐさが雑になった、と憂(うれい)いている。
そして平成の時代に育ち、現在は10代、成人となられた世代の方たちに、
たとえば映画の小津安二郎・監督の『東京物語』(1953年=昭和28年)を観た時、
どのように反応するのかしら、と齢を重ねた76歳の私は限りなく関心がある・・。
このようなこと散策しながら思ったりし、せんなきことかしら、と苦笑し帰路に向った。