夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

定年後の年金生活の中、確かに増えたことを思い馳せ、やがて微苦笑して・・。

2015-05-16 15:26:29 | ささやかな古稀からの思い
私は2004年(平成16年)の秋、ある民間会社に35年近く勤めて定年退職後、
多々の理由で年金生活を始め、早や11年生となっている。

そして私たち夫婦は厚生年金とわずかな企業年金を頂いて、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかに生活をしている。

こうした中で幸いにも、私たち夫婦は大病に遭遇せず、今日に至っている。
          

日頃の私は、午前中に平素の買物専任者として、家内から依頼された品を求めて、独りで最寄りのスーパー、
或いは駅前まで利便性ある路線バスも乗車せず、片道20分前後の歩道を歩き、
スーパー、パン屋とかドラッグストアーなど専門店で買い求めたり、ときには本屋に寄ったりしている。

その後は、健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わない、と確信を深めて、
独りで自宅の周辺3キロぐらいの中の住宅街の道、遊歩道、小公園などを
ひたすら歩いたりする中で、 季節のうつろいを享受している。
          
午後より夜の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

こうした中で、小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行を幾たびか遊学してきた。
          

このように年金生活を過ごしてきたが、午前中のひととき、霧雨が降る小庭の雑木を眺めながら、
年金生活して11年目となっている今、確かに増えたことは・・、
ぼんやりと思い馳せたりした・・。

失ったことは、年金生活を始めた60歳の当初より、体力の衰えを実感させられたり、
年金も減少する中、ささやかな生活を過ごしていると貯金を減少してきた。
そして知人、親戚の叔父さん、叔母さんの死去により、出逢うことより別れることが多かったりした。
          

やがて、確かに増えたことは、数多く浮かび、私は独りで微苦笑したりした・・。

私は亡き母の遺伝を受けたらしく、男の癖におしゃべりとなっている。
朝食とか夕食の時には、それぞれ家内と一時間ぐらいは談笑したりしている。

そして家内は従来通り料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
せめてと私は思いながら 家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、
日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている中で、お待たせ致しました、と言いながら家内に話しかけたりしている。

或いは家内と共に週に一度ぐらい駅前に行き、スーパー、ホームセンター、ドラックストアーで買物に行ったりし、
こうした時の私は積極果敢に、家内のボディガード兼お供となり、荷物持ちの重責を果たしながら、
歩いている中で、語り合ったりしている。

そしてときには、国内旅行の旅先でも語り合い、のちの思いを重ねたりしてきた。
          

私はデジカメを定年退職の記念品として買い求めて、数年前に買い改めてきたが、
この間に、私が散策したり、家内と国内旅行をしている旅先でも、
記念写真ねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら、記憶のかたみとして撮ったりしてきたが、
昨今、7000枚を超えていたので、少し多いかしら、と微笑んだりした。


私は年金生活を過ごしているなかで、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          
私は定年後、まもなく偶然にブログの世界を知り、丸10年が過ぎて、早や11年生に進級する中、
パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。

こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。
          
      
私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切にしているひとりである。
       
そして数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。    
                                                
こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは2年半前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。

         
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
恥ずかしながら筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省することが多い。
                                                                   

こうした中で、セカンドライフを過ごされる数多くの諸兄諸姉のブログの投稿文を読ませて頂き、
このように日常はお過ごしされている、このような思いを秘めている・・
多々教示させられ、ときには私が励まされるようなこともあったりしている。
          
何よりもこの広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、めぐり逢えたこと、
数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、心の財産となっている。
          

このように、私は幸運にも、ささやかな家内と年金生活を過ごす中、
数多く思いを増え、齢を重ねることも良きことだねぇ、と微笑んだりしている。


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熱き初秋の頃まで、私の最良の友は冷茶、そしてアイス・コーヒーとなり・・。

2015-05-15 15:59:13 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む齢ばかり重ねた70歳の年金生活の身であるが、
過ぎし今年初めての台風一過となった13日から、急激に30度近い暑さとなり、
何かと暑さ苦手な私は戸惑ったりしている。

こうした中、私は煎茶の冷やしたお茶、そしてアイス・コーヒーを飲み、
今年も夏の余韻が残る初秋のお彼岸の頃まで、こよなく愛飲するなぁ、と微苦笑したりした。
                    

冷茶は、一年中に愛飲している狭山茶が原則であり、程々の廉(やす)い価格の品である。

私の幼年期、祖父と父が健在の時は農業を営んでいた時代、
茶の樹木を村道と畑の境界に幅は半間(90センチ)、長さは50間(90メートル)前後を植えていて、
お茶の葉を摘む頃から桐の茶箱まで収納したりするまで確かな深い想いがある。

そして家族で年中飲んだり、来宅の方の1部の方に、祖父はお茶を差上げたりしていた・・。

私たち夫婦がここ38年ぐらい買い求めてきた煎茶は、
独断と偏見の多い私は、この煎茶の味に限りなく近いと感じられる。

我家の冷茶は、煎茶用の大き目の急須にお茶を淹れて、その後は冷蔵庫で冷やすだけである。

やがて私が2004年(平成16年)の秋に定年退職後は、家に居ることが多いので、
やむなく家内は冷茶用の1リットル前後のポットを買い求め、
煎茶を多めに入れ、水を入れて、冷蔵庫で保管する簡略方法としている。

こうした日常生活で私は、お寿司屋さんから頂いた大き目の湯呑茶碗で、
この熱き時節は日に5杯前後は飲んだりしているが、
アイス・コーヒーも3杯程度は頂いている。

コーヒーに関しては、手軽なインスタントのゴールド・ブレンドを少なくとも45年ばかり愛飲しているが、
アイスに限り、水に溶けやすいエクストラとし、
多少のコーヒーの香りと濃い味でブラックで飲めれば、私は充分である。

このような安易な方法で、お盆に冷茶とアイス・コーヒーを乗せ、
居間にあるビデオケースの上に置いたりしている。
          

日常の多くは午前中のひととき、私は平素の買物専任者であり、
独りで家内から依頼の品を求めてスーパー、専門店に行き、ときおり本屋に寄ったりしている。

その後も私は独りで自宅の周辺にある遊歩道、小公園などををひたすら歩き廻り、散策をしながら、
この時節のうつろい情景を享受している。
          

私は夏用のストレッチパンズの長ズボンの数種類、アロハシャツかスポーツシャツの半そで、
そしてウォーキング・シューズとなり、夏用の帽子を深めにかぶることが多い。

真夏日になると、サングラスをして、扇子〈せんす〉を扇〈あお〉ぎながら、颯爽と歩くことが多い。

いずれも紳士用の小物入れのA4サイズのショルダー式バックを斜め掛けをし、
買い物したり、散策したりしている。
          
          
しかしながら燦々と照らす道を歩いたりすると、汗がひたたり落ちることが多い・・。
やむなくハンドタオルで顔などを拭(ぬぐ)いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
炎天下の道もあるので、高齢者の私でも気合いを入れて、足早に歩いているのが実情である。

こうした中で、30数度を越えて暑さに負けそうと思う時
単細胞の私は冬の寒さの情景を思い浮かべて、歩いたりしている。

或いは疲れを感じたら、大きな樹の下の付近のベンチに腰掛けて、緑陰に心身寄せたりしてきた。
          

こうした中、喉の渇きを感じたら、最寄りの自動販売機で、積極的に冷たい煎茶を買い求めたりしている。

やはり高齢者の体力の衰えを感じているので、熱中症で路上で倒れて、救急車で病院に・・、
或いは目が覚めたら、病院のベットの上だった・・
こうしたことは回避したく、水分は十分に補給して歩き廻ったりしている。

そして自動販売機などペットボトルを買い求める時は、伊藤園かサントリーの『濃い味』の冷えた煎茶を愛飲している。
こうした時に、この『濃い味』にめぐり逢えない時、何故か悲しくなるのである。

家内は中学生の頃から、茶事を学んでいるが、主(あるじ)の私に向かって、
『やはり・・貴方は農家の児(こ)ねぇ・・』
と結婚して、まもない時に私は言われたりしている。

私は香り、味わいの上質な高価な煎茶より、
百グラム千円前後で、幼少期の味わった煎茶を濃い味で淹れるのが好きであるので、
こればかりは38年ばかり寝食を共にしている家内でも、同意できないでいる。
          

外出で駅前に出たりする時は、何かとコーヒー・ショップの『ドトール』を利用しているが、
Lサイズのアイス・コーヒーを飲んだりしている。

こうした時は家に居る時と同様に、ガム・シロップ、ミルクを入れず、愛飲している。
何かしら私は自身の言動に甘い上、世間にも甘いので、せめて飲物ぐらいは、苦く濃い味としている。


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数多くの健康食品よりも、私はキャベツをこよなく愛食して、早や5年生となり・・。

2015-05-14 13:59:44 | ささやかな古稀からの思い
私は2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で直ちに年金生活に入り、
現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。

そして年金生活を当初は、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。

こうした中で、純米酒の辛口が好きの私は、晩酌の時は現役時代と同様に2合、ときには3合を呑んだり、
或い日はビールの時は500mlの缶ビールを数本を呑んだり、
ときには日中に小庭のテラスに下り立ち、簡易椅子に座り、缶ビールを呑みながら、
最後の出向時代の5年間は、何かと大変だったなぁ、と思い重ねたりした・・。

この結果、身長は170センチ、体重は70キロだった私は、毎年少しずつ体重が増えてしまった・・。
          

この当時の私は、朝食は五穀米の入った白米のご飯を腹いっぱい食べながら、インスタントのワカメの味噌汁、
そしてコブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、シャケの瓶づめ、或いは鯖(サバ)の味噌煮の缶詰が、
日々貫徹のように食べたりしていた。

私は幼年期に農家の児として育ったので、齢ばかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』が、
何かと心身の波長に合ったりしていた。

そして夕食は牛肉、豚肉、ラム肉、鶏肉などをそれぞれの日に於いて、たらふく食べたりしてきた。
          
        
やがて2008年(平成20年)の秋に健康診断を受診した後、肥満体と診断され、
まもなく市の斡旋の『メタボの研修』を受講した後、
国内旅行、冠婚葬祭、或いは懇親会などに限り、地酒をある程度は呑んだりしたが、
平素は缶ビールの350mlを2本までを殆ど守ってきた。

こうした中、もう少し呑もうかしら、と思うと、
何故かしら優しい保健師の女医さんのアドバイスの笑顔が蘇(よみがえ)り、
缶ビールの350mlを2本までの夜が圧倒的に多かったりした。

やがて翌年の2009年(平成21年)の秋に健康診断を受診した時は、
体重は3キロばかり減少て、75キロとなり、
優しい保健師の女医さんのおかげかしら、と私は微笑んだりした。

そして私は悦びながら、家内に伝えたら、
『あなたの健康にも良いし・・家計費のアルコール代も減りますから・・』
と家内は私に微笑みながら、言われたりした。

この後、私は相変わらず缶ビールの350mlを2本までを守り、
幾たびか旅行を重ねた時、昼はビール、夕食の時は地酒も呑んだりした。

こうした中、日常生活は散策と買物ぐらいの運動不足、その後の猛暑でエアコンの冷風の中で昼寝も多くなり、
2010年(平成22年)の秋に健康診断の結果、ふたたび78キロに戻ってしまったりした・・。
                              

この結果、『糖尿病で、内科に受診して下さい』と明記され、私は青ざめ、
翌日に自宅から徒歩10分ばかりの内科専門病院に行き、検査、そして問診の時、
『国内旅行に何とか70歳ぐらいまで行きたいので・・何なりと御指導をお願い致します』
と私は内科の医師に懇願した。

そして高橋真梨子さんが唄われた『桃色吐息』は妖艶であるが、
体力の衰えた66歳の私は青色吐息のような表情で、内科の医師のアドバイスを聴いたりした・・。

私は定年の5年前の頃から、60代は五体満足で生かしてくれ、その後は余生である、
と公言してきたが、家内との共通趣味は国内旅行であり、
糖尿病の場合は、もとより食事制約がある。

このような時、家内は旅行の宿泊先で美味しい夕食を頂いていた場合、
私は食べてはいけない料理だったら、余りにも惨(みじ)めである、と思ったりした。


やがて医師から、料理のカロリー試算表を渡された上、軽い運動を毎日して下さい、と私は言われた・・。

この後、6週間の私は、家内が料理のカロリー試算表を確認しながら野菜を多くした料理を作って貰い、
これ以来、朝夕頂いたりした。

こうした時、私は今は亡き俳優の森繁久弥さんが、確か30年前の頃に、
胃腸薬のキャベジンの宣伝に出演していたことを思い馳せて、
キャベツの多大な効力を信愛して、食事の前にキャベツこそがわが命なり、と思い前菜とした。
          

そして朝食前、夕食前に大きな皿にキャベツとニンジンの千切りした盛り合わせを大皿で食べたりしている。
こうした結果、朝食のご飯は半分ぐらいとなり、夕食の食べる肉も減少した。

これ以来、キャベツは愛食となっているが、寒さを感じる時節は、電子レンジで少し温めて、
ミッカンぽん酢か、ときにはもずく三杯酢をかけて盛大に頂いている。

しかしながらキャベツは、もとより農作物であり、天候の不順で不作の時はスーパーなどの店頭にない時は、
サニーレタス、或いはタマネギを代用している。

タマネギの場合は、スライスし、ワカメであえて、ミッカンぽん酢をかけて、
盛大な前菜としている。


そして私は晩酌の缶ビールの350mlを2本さえも取りやめて、
お酒はしばらく・・さよならねぇ、と夕食の時も煎茶を飲んだりしていた。

昼食は婦女子のようなフルティ・ランチで、リンゴを一個、そして柿一個としていた。

その上、散策は時速3キロぐらいの歩みから、時速6キロぐらいのウォーキングとなり、
汗をかきながら最低30分は歩き廻り、ほぼ毎日していた。

この結果、体重は74キロとなり、4キロばか減少し、
ズボンの腰回りも楽になり、ベルトについている穴も2つばかり減り、
何かしら身体が軽快に成ったと微笑んだりしていた。
          

しかし、以前ゆっくり歩いた散策の時は、
この時節の晩秋の朱紅色、黄色に染められた錦繍の情景に、深い心を寄せられることができたが、
ウォーキングとなれば、風景が通り過ぎるように心を寄せる瞬時の思いが、なくなってしまった。

やむなく私は、公園を目指して、ウォーキングに専念した後、
公園内で汗をふきながら、ゆっりと散策して過ぎ行く美麗な錦繍の情景に心を寄せ、
そして帰路は、ウォーキングして、日中のひとときの定例事項としてきた。

この間、私は最寄の内科に3週間毎に定期健診を受けて、
糖尿病の範囲の対象から克服でき、悪玉コレステロールは基準値の90%、
これ以外はすべて優等生となったのは、2011年(平成23年)の3月の初旬であった。
                     

そして私としては何よりも不思議と感じたのは、冷蔵庫の中にビールがあること、
台所の片隅の収納所に日本酒の一升瓶、四合瓶も忘れてしまっていることである。

かって呑兵衛と自任してきた私は、平素の夕食に煎茶でもまったく違和感が感じることなく、
過ぎている・・。

このように私は20代から何かと日本酒、ビールを中核にワイン、ウィスキーも呑んできたが、
歌を忘れたカナリヤのようにアルコールから遠ざかり、
国内旅行、冠婚葬祭、或いは懇親会、そして我が家で週に一度ぐらい呑むぐらいとなり、激少となった。

この後、国内旅行で家内と共に各地を幾たびも行ったりすると、
やはり宿泊処で地酒を呑んだりしてきたが、体重が増えてしまった。
          

やむえなく糖分の多い日本酒とお別れして、ウィスキーに氷を入れただけのオンザ・ロックとし、
弱くなったので少しだけ水を入れた濃いめの水割りで呑むこととした。

そして糖尿病と宣告されて以来、 冠婚葬祭、懇親会、国内旅行など以外は、
原則として自宅で呑むのは、5日に一度ぐらいとなっている。

ここ数年木は、お世話になっている最寄の内科専門医院に4週間毎に定期健診を受けているが、
ここ3年ぐらいは悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はほぼ優等生となって、
改善努力の成果となっている。

こうした定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。

そして私は世の中に数多くの健康食品よりも、キャベツをこよなく愛食して、早や5年生となっている。
                    

こうした中、過ぎし40代前後に弐合徳利、ぐい呑むを幾種類も買い求めて、
晩酌の時に、今宵はどの弐合徳利にしようかしら、と選定しながら夜の友のひとりとしてきたが、
今やガラス戸の棚に、ひっそりと鎮座していることも、忘れていることが多くなっている。

過ぎゆく人生は、無念ながら何かしら断念することもある、と私は微苦笑している。

私はこれまでの60代の10年の日々は、幸運にも大病に遭遇せずに過ごしてきたが、
健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わない。
そして私自身の糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症である。

こうした根底があり、自宅の周辺3キロぐらいの中の住宅街の道、遊歩道、小公園などを
ひたすら歩いたりする中で、 季節のうつろいを享受している。


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ときには、今日は1円も使わなかったなぁ、と心の中で呟(つぶや)きながら微苦笑して・・。

2015-05-13 14:56:49 | ささやかな古稀からの思い
今朝、いつものように私は家内と共に朝食を頂き、一時間過ぎた頃、
家内は、新聞に添付されているスーパーのチラシを見たりし、
やがて赤のサインペンで丸印を付けたりしている。

まもなくして、この赤丸が我が家の本日の必須の購入品とし、
あとは私が店頭の商品で魅了された品を買い求めてくるのが、我が家の鉄則となっている。

この後、家内からスーパーのチラシを私は手渡し、
『本日は・・これだけお願い・・』
と家内は私に言ったりしたりしている。

私は現役サラリーマン時代の緊張感から解放されて、早や年金生活11年生であり、
体力の衰えも感じている中、せめてボケてはいけないと思い、
『はい! 了解致しました!』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく返事をしている。

このような我が家の平素の買物パターンで、私は独りで指定された駅前のスーパー、専門店に行ったり、
或いは最寄のスーパーに行くこともある。
          

やがてまばゆい初夏のような陽射しの中、私は独りでスーパーに向かった。
私は定年後は多々の理由で年金生活を始めて、
平素の買物専任者となり、老メールボーイように週に4日ぐらい行ったりしている。

私は何かとプラス思考の上、母の遺伝を純粋に受けたらしく、男の癖におしゃべりとなり、
血液型はB型となっている。

家内はA型の性格を忠実に受けたらしく、洗濯、掃除、料理など徹底的にして、死語となった昭和妻の役割をして、
専業主婦の鑑(かがみ)のような人となっている。

私たち夫婦で欠けていることは、無念ながら子供に恵まれなかったことぐらいかしら、と私は思ったりしている。
          

こうした風変わりなカップルの夫婦であり、過ぎし日に、私はおとぎ話の桃太郎の一部を思いを重ねることもあったりした。

《・・山里にお爺さんとお婆さんが仲よく住んでおりました。
まことに情ぶかい正直ものでありましたから村人からも慕われておりましたが
淋しい事に子供がありませんので、お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行って一生懸命働きながら・・》

たまたま私は買物にスーパーに向い、家内は家の中の掃除をしていると思え、
何かと単細胞の私は《・・お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行って・・》を想い重ねで、
独り微苦笑しながら歩いたりした。
          

我が家は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む、
家内とたった2人だけの家庭であり、雑木の多い小庭に築後37年の古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

ここ数が月の実態は、私は週に4日ぐらい買物老ボーイの責務を果たした後、
独りで自宅周辺の遊歩道、小公園を歩き廻り、季節のうつろいを享受している。

そして家内と共に週に一度ぐらい駅前に行き、スーパー、ホームセンター、ドラックストアーで買物に行ったりしている。
こうした時の私は積極果敢に、家内のボディガード兼お供となり、荷物持ちの重責を果たしている。

或いは週に一度ぐらい私は小庭の手入れをして、汗まみれ泥まみれで孤軍奮闘している。

残りの一日は、買物お休み日となるが、私は独りで自宅周辺の遊歩道、小公園を歩き廻ったりしている。
           
         
こうした時の私は、この時節は制服のようになっている服装として、
スリー・シーズンのストレッチパンズの長ズボン、長袖のスポーツシャツ、ウォーキング・シューズとなり、
紳士用の小物入れのA4サイズのショルダー式バックを斜め掛けをしている。

そして時折コンバクト・デジカメを首回りからネクタイのように下げて、颯爽と歩くことが多くなっている。

こうした中で、情景に瞬時に魅せられた時、立ち止まりデジカメで、
記念写真ねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら、記憶のかたみとして撮ったりしている。
          

私がよく歩いている遊歩道などで、幾たびかすれ違う人には、
年配の男性には黙礼をしたり、女性グループの人たちから微笑みかけられると、
こんにちわ、と明るく声をかけたりしている。

こうして遊歩道などを歩いたりして、道端のベンチに独りで休んでいる年配者の男性を見かけると、
『さわやかなお天気ですね・・お元気そうで・・何よりです』
このような意味合いの言葉を、私は話しかけてしまうことが多いのである。

私は恥ずかしながら男の癖にオシャベリのタイプであるので、
特に独りポッンと休んでいる人には、声をかけてしまう時が多いのである・・。
          

そして独りだけの女性の場合は、私は小学一年生の頃から何かと女性に憧憬してきている為か、
気楽に声をかけることが出来ないが、ときには女性から話かけられることもある。

過ぎし日、ある小公園て、私が樹木の情景を撮ったりしている時、
麗しき60代の女性から、この公園のいきさつを話しかけて下さった。

そして私は、地元の人なので、小学校の頃から少し知っています、と応(おう)じると、
この女性は、私は昭和30年にこの地にきましたので・・確か昔の情景は・・
このような話題で私たちは30分ぐらい談話したりした。

何よりも気楽で嬉しいは、私が樹木、花木を撮ったりしていると、
女性グループのひとりの方から、
『良きご趣味ですねぇ・・』と私は話しかけられることもある。

こうした時の私は、少し高揚しながら、それぞれの女性と均等に談笑し、数分ぐらい立ち話をする時もある。

私は一期一会の出会いでも、ささやかな人生のひとときを大切にしているひとりである。
          

こうした日の夕食の時などで、今日は1円も使わなかったなぁ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
独り微苦笑する時もある。


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団塊の世代より少し年上の私、2025年問題の先の時代は、漠然として・・。

2015-05-12 12:51:36 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
生家も近く、遠い昔の1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受けた。

兄はふたり、そして妹ふたりに挟まれて、何かとサンドイッチように育った。

妹のふたりは1946年(昭和21年)と1948年(昭和23年)の生れであり、
私の家内も1949年(昭和24年)の生れで、
私が民間会社に何とか中途入社できた25歳の時は、職場で机を並べたのは、
新卒された人が多かったである。

この世代は作家・堺屋太一(さかいや・たいち)さんが命名された『団塊の世代』であり、
私は妹、家内、友人、知人に、これまでの人生航路の中で、何かと意識させられて今日に至っている。
          

私は2004年(平成16年)の秋に民間会社を定年退職後、多々の理由で年金生活を始めたが、
相変わらず新聞、月刊総合雑誌を読んだり、ときにはネットでビジネス情報サイトなども見たりしている。

こうした中で、今から10年後に団塊の世代の晩年期に襲来する2025年問題については、
私たち夫婦も影響するので、何かと注視してきた・・。

そして偶然に昨年にネットで、この『2025年問題』については解説文を見たりして、
私が知る限り義務教育を果たした中学校を卒業した方であれば、
誰でも解りやすい解説文があり、私は微苦笑させられたひとりである。

この解説文は、『東京新聞』の【生活図鑑】コーナーで、
『2025年問題とは?(No.483) 団塊の世代 75歳 負担増が問題』と題し、
制作・亀岡秀人さんが昨年の2014年2月5日に公開された記事である。
          

無断ながら転載させて頂く。
《・・2025年問題がささやかれています。
2025年は、団塊の世代が75歳以上の後期高齢者になる年です。
日本は急速な高齢者が問題でした。

しかし2025年以降は、2200万人、4人に1人が75歳以上という超高齢社会が到来します。
これまで国を支えてきた団塊の世代が給付を受ける側に回るため、医療、介護、福祉サービスへの需要が高まり、
社会保障財政のバランスが崩れる、とも指摘されています。

1947~1949年(広くは1951年)生まれは、団塊の世代と呼ばれます。
約700万人(広くは1000万人超)と人口も多く、消費文化や、都市化などを経験した戦後を象徴する世代です。
          

●まずは2015年

団塊の世代はまず、15年に65歳以上、前期高齢者になります。
これは2025年問題前の「2015年問題」ともいわれています。
この後、2025年に向け、急速に高齢化が進んでいきます。

2025年には、団塊の世代が75歳以上となるため、
2010年に11・1%だった75歳以上人口の割合は、2025年には18・1%に上昇します。

2025年を境に、75歳以上人口は2200万人超で高止まりします。
現役世代(15~64歳)が減少するため、2060年には4人に1人が75歳以上という超高齢社会になります。

このため、2010年には現役世代5・8人で75歳以上一人を支えていたのが、
2025年には3・3人、2060年には1・9人で支えることになります。
          

●医療・介護リスク

高齢になれば、疾病などにかかるリスクも高まります。
生涯医療費の推移を見ると、75~79歳でピークを迎えます。
また、70歳以降に生涯の医療費の約半分がかかることが分かります。

介護はどうでしょうか。
要介護(要支援)になるリスクは75歳から上昇し、85~89歳では、半数が要介護の認定を受けています。

また、認知症高齢者も2025年には470万人になる、と推計されています。

しかも、75歳以上の1人暮らしの高齢者数は、男女ともに増え続けます。
2025年には290万人、特に女性では4人に1人が1人暮らしの状態です。
          

●給付とのバランスは

社会保障と税の一体改革時の推計では、
2012年度と2025年度(改革後)の給付費を対国内総生産(GDP)で見ると、
年金は11・2%から9・9%に下落します。

一方、医療は7・3%から8・9%へ上昇。介護は1・8%から3・2%へほぼ倍増する見込みです。
介護・医療の負担と給付が大きな問題であることが分かります。

このため、高齢者の保険料負担を見ても、後期高齢者医療は月5400円から6500円へ上昇します。
また、介護では月約5000円が8200円にもなります。
介護保険料は月5000円が負担の限界ともいわれ、深刻な問題です。

高齢世代だけでなく、現役世代の負担も重くなります。
そこで、消費税率の引き上げのほか、高所得の高齢者への社会保障や税での負担増を進めています。

しかし、増税と給付削減は、若年世代ほど負担が重くなり、
高齢者になったときには給付が十分ではないという結果にもなりかねません。

2025年問題は、単年で終わる話ではありません。
団塊の世代が65歳以上になる2015年、4人に1人が75歳以上の超高齢社会が到来する2025年。
それぞれの節目になる年に向け、社会保障をどのようにするのか?

給付を削減し、負担だけを求めるのでは解決しません。大きな課題です。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

この『2025年問題』については、到来時は私が80歳、家内は75歳となり、
真摯に我が家としては、思案をしたりしてきた。

しかしながら2025年の先の時代は、私は漠然として、視野外となっている。

最近、松谷明彦・著作の『東京劣化 ~地方以上に劇的な首都の人口問題~』(PHP新書)を購読し、
《2040年の頃には、東京では高齢者が30年間で143・8万人増える・・
東京はインフラが維持できなくなり、スラム化する》とか、教示されたが、
私は想像外となり、何かしら他人事の到来する出来事と思ったりしている。
          

こうした根底には、私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなく、一代限りの家となり、もとより孫もいない上、
2040年の頃には、私が生きていても95歳、家内も90歳となり、正常な判断が覚束ない年齢になっている。

或いは2040年の前に、私も家内も、この世と別れを告げた後の時代と思えているので、
私は思案もしなく、視野外となっている。

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団塊世代の家内も、やがて70代を迎えた時、その頃の私たち夫婦は果たして・・。

2015-05-11 16:39:15 | ささやかな古稀からの思い

私は過ぎし東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、私は大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、明日も見えない青年期を彷徨(さまよう)ような過ごしたが、やがてはかなくも敗退した。

そして止(や)むえず何とかして民間会社に中途入社したい為に、
苦手な理工系のコンピュータの専門学校のソフト科に1年間ばかり学んだりした。

やがて1970年(昭和45年)4月、この当時は音響・映像メーカーの大手のある民間会社に、
知人のご尽力もあり、何とか中途入社が出来たのは、25歳の時だった。

まもなく創立された外資系のレコード会社に移籍させられ、
音楽に直接に携わる制作畑でなく、商品、情報、経理、営業を配属されたが、
当初、職場の机を共にしたが、新卒まもない団塊世代の人たちであった。

このような関係で私が音楽業界の片隅で、何かと団塊世代の人たちと同じ空気を長年共にし、
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。

そして最後の5年半はリストラ烈風の中、私はあえなく出向となり、
各レコード会社がCD、DVDなどの音楽商品を委託している物流会社に勤めて、サラリーマンを卒業した。
          

私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

定年退職する数年前の頃、経済にも疎(うと)い私が、
信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読んだりした。

こうした中で、デフレ経済の蔓延している中、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
預貯金が3000万円あれば、少しづつ取り崩して生活すれば、少しはゆとりのある年金生活ができる、
と学んだりした。

そして世の中の多く人たちから、人生の3大支出は教育資金、住宅資金、老後資金と言われたりしているが、
私たち夫婦は子供に恵まれなく、「教育資金」は不要となったので、少し多めの預貯金ができたこともあり、
定年した直後から年金生活を開始ができた。

家内は私より5歳ばかり若い団塊世代で、我が家はたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、年金生活を開始した・・。
          

世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、何かと安堵しながら、
セカンド・ライフに於いて、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。

そして私も過ぎ去った60代の年金生活の10年間の日々は、私の人生の中で何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受してきた・・。
             

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
我が家の周辺は、それぞれ住宅が密集している住宅街となっている。、

そして最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。

或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
そして私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれの最寄駅までの路線バスの利便性は良い所で、たとえば都心の新宿のデパートに買物に行っても、
電車を利用すれば、我が家よりデパートの店内に45分ぐらい、
或いは東京駅でも我が家から一時間前後となっている。
          

2004年(平成16年)の秋、年金生活の当初は、
現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。

そして独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。
                

そして私は年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。
                                      

定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなく、平素の買物専任者を自主宣言したのであった。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、
お若いですねぇ・・仲良し恋しねぇ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。

しかしながら実際は日常生活の中で、ときおり私が失敗事をしたりすると、
平素は『あなた・・』と呼ばれるのに、
『ボケチンねぇ・・』と家内から微笑みながら私に苦言される時もある。

こうした中で、私は66歳の時に糖尿病と診断され、青色吐息となる中、
食事の改善とひたすら歩いて、何とか克服してきたので、
糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、ひたすら歩くことが多くなっている。
                                                
      
この後の大半は居間で過ごしたりすることが多く、何かと随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多い。
定年後の年金生活の単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、徳岡孝夫、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は45年近く購読し、毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は買い求めたりしている。

新聞は『読売新聞』を40年近く購読しているが、気になり記事を更に深く知りたい時は、
総合ビジネス情報誌として名高いビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】に縋(すが)り、
多々教示されている。

ときおり映画に関しては、20世紀の私の愛してやまい作品を居間にある映画棚から、
DVD、ビデオテープなどを取りだして、テレビを通して鑑賞したりしている。

或いは音楽を聴きたい時は、やはり居間にある音楽棚からCD、DVDなどを取りだして、聴いたりしている。
                    

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。
             
こうした中で、ときおり我が家の小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行を幾たびか重ねている。

私たち夫婦は、子供に恵まれなかった為か、新婚時代から幾たびか旅路を重ねてきた。

現役サラリーマン時代は、殆ど2泊3日ぐらいの日程であったが、
年金生活を始めると日程の制約から解放されて、5泊6日前後の旅路が多くなっている。

こうした中で私たちは観光ホテルなどに滞在して、周辺の山里、遊歩道、街並みの中を歩きながら
その地の情景を観ながら風土、文化を教示されて、遊学したりしてきた。

そして観光ホテルなどに帰館すれば、心身共に解放感が満たされる露天風呂、大浴場に入り、
享受したりしてきた。

そして早朝、夕食前など時に広い露天風呂などで、たったひとり身を預けたりすると、
更に心も身も解放された上、四季折々の中のひととき景観を観ながら、圧倒的に充たされたりしてきた。
                                      

年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則とし、
お互いの趣味を互いに尊重して、ささやかに日常を過ごしている。

しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
このように年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。
                            

こうした60代の中で、多くの退職された方たちも同様と思われるが、
過ぎ去る年の会社時代の先輩、同僚、後輩たちの集いより、
家族の団欒はもとより、孫の世話で・・自身の病院の治療、或いは親族、親戚関係の冠婚葬祭が優先となっているのが、
私の周囲には多くなっている。
   
こうした中で、私の現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、
知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。

或いは定年後の62歳で、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
       
何よりも思いがけないことは、知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。

こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。
                            

やがて私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

このように学んできた私は、昨年の9月に古稀と称せられる70歳になり、
家内も12月に高齢者入門の65歳となり、お互いに介護保険を支払う無職高齢世帯となった。
       

昨今、同世代の知人たちと懇親会の中で、何かしら葬儀の話題が多くなっている。
たとえば現役時代だったら葬儀に多くの友人、知人に来て貰いたいが、
今や退職後の10年・・自分なりのささやかな家族葬で執り行って欲しいよ、と私は聞いたりしている。

そして昨今の私は、布団の中で目覚めた後でもボンヤリとして正気には程遠く、
やがて起床してボンヤリとして煎茶を飲んだりして、
15分ぐらいの後に正気になり微苦笑することが多くなっている。

こうしたことは少なくとも60代には感じなかったことであり、
体力の衰えを増したのかしら、と苦笑してしている。

或いは亡き作家の渡辺淳一さんが、その歳になって見なければ解らない、
と確かこのような言葉を発露されていたので、
そうですよねぇ、と定年まで敗残者のような人生航路を歩んで私でも、同意したりしている。
                            

いつの日にか私たち夫婦は、片割れとなり、残された方は『おひとりさま』となるが、
果たして・・と年に数回は思案したりしている。

しかしながら私は何とか60代を大病もせず卒業できたが、
不幸にも知人の病死、大病で入退院している友人を思い重ねれば、涙を浮かべたりしている。

そして現役サラリーマン時代でも、幾たびのリストラ烈風の中、
何とか障害レースを乗り越えて、敗残者のようなつたない私でも、
五体満足で生かされているのは、ある面に於いては選ばれたひとりかしら、と微苦笑したりしている。   
               

私はゴールデン・イヤーズと称される60代を昨年の9月に卒業して、
私としてのこれまでの10年は、我が人生として最も安楽な期間を享受できたりしてきた。

そして70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
       
こうした中で、私は母の遺伝を受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人さまと話し合ったりすることが多い。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
          

こうした中で、家内は昨年の12月に高齢者入門の65歳となり、介護保険を支払う通知書が郵送されて、
あらぁ・・あたし高齢者になってしまったわ・・と実感が乏しく、苦笑したりしていた・・。

私は昨年の「敬老の日」に合わせて、総務省は9月14日に於いて、15日現在の高齢者の人口推計を公表を
偶然に読んだりしてきた・・。

何かしら65歳以上の高齢者人口が3296万人(総人口の25・9%)、
75歳以上が1590万人(同12・5%)となり、いずれも過去最高。
「団塊の世代」の1949年生まれが65歳になったのが一因で、4人に1人が高齢者、8人に1人が75歳以上と、
と学んだりしてきた・・。

そして私は家内と同様な団塊の世代の多くは、やがて5年過ぎれば、70代となり、
どのように変貌するのか、思案させられたりした・・。

少なくとも我が家では、私が75歳となり家内は70歳となるので、
お互いに体力の衰えを実感させられる中、五体満足で過ごせれば、と私は念願したりしている。
          

こうした中で、過ぎし日に本屋で読みたい本を探している中で、
随筆家・桐島洋子(きりしま・ようこ)さんの『ほんとうに70代は面白い』(海竜社 )に於いて、
《・・聡明な女は素敵に老いる・・》の一節に私は微苦笑させられたりした。

私は確か5年前の頃、作家・曽野綾子(その・あやこ)さんの『晩年の美学を求めて』(朝日文庫)を購読し、
まえがきの中で、深く教示され勇気づけられた一節があった。

《・・晩年の意味は、年を追う毎(ごと)に濃厚になり、発見も多くなる、
とすれば、そこには楽しみな部分も増えるだろう。・・》
          

やがて私が75歳となり、家内は70歳になる頃は、
お互いに体力の衰えを実感させられる中、五体満足で過ごせれば、もとより最上であるが、
どちらかが大病となり、やむなく介護施設に移住することも思案する時もある。

長年私たちが生活してきた古びた家・・居間、寝室、台所、洗面所など、そして小庭に、
どのような断腸の思いで、愛惜を重ねて別れる時が到来するかも知れない・・。

このような悲嘆な出来事の思いも確かにあるが、こればかりは天上の神々の采配に寄るものである。

そして何かとプラス思考の私は、曽野綾子さんの一節を鑑(かがみ)として、
私たち70代の夫婦の時代に、過ごせれば最良と思ったりしている。


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母の日、亡き私の母を思い馳せ、母にささげる深い思いは・・。【下】

2015-05-10 18:22:15 | ささやかな古稀からの思い
祖父が生前の時、村役場の要職を兼ねて農業をしていたが、
祖父も父も大学で学ぶことが出来なかったので、
跡取りの長兄に期待をかけ、小学5年生の頃から、家庭教師を付けたりした。

長兄は当時通っていた村立小学校の創設60年の卒業生の中で、
祖父が亡くなる直前、初めて国立の中学校に入学できて、周囲の期待に応(こた)えたりした。

次兄は活発な伸び伸びとして育成されたが、
それなりに学校の成績は、クラスで一番と称せられていた。

こうした中で、私は小学校に入学しても、通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生であった。
          

そして祖父が亡くなった後は、大黒柱をなくした農家の我家は没落しはじめた・・。

母、そして父の妹の未婚の叔母、そして私達の兄、妹の5人の子供が残され、
私たち子供は母と叔母に支えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった。

この当時も義務教育は中学校までであったが、PTA(授業料)の会費は有償であり、
確か教科書も有償であった。

祖父が亡くなって後、私は担任の先生から母あてに一通の手紙を渡されたりした。
帰宅後の私は母に手渡した後、
『PTA会費・・当分・・免除するって・・』
と母は呟(つぶや)くように小声で云っていた。

そばにいた小学5年の次兄は母の小声の内容を知り、
『いくら貧乏でも・・PTAの会費・・払おうよ・・』
と次兄は怒ったような声で母に云った。

次兄は翌日から下校した後、手入れが余り行き届かない我が家の畑で農作物を採り、
程近い国債電電公社(現在、KDDI)の社宅に売りに行ったりした。
このお陰で、何とか人並みにPTAの会費を支払うことができたのである。

そして長兄は旧家の跡取りであったので、たとえ没落しても、冠婚葬祭などは中学生の身であっても、
主(あるじ)の役割として、参列したりしていた。


この間の私は、学校に行くのが苦手な児となった・・。
兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生がため息まじりに云われたりしていた。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは家の留守番をしている時は、
♪笛にうかれて 逆立ちすれば・・
と私は何となくこの歌に魅了されて、かぼそい声で唄っていた。

そして唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。
          

私が小学5年になる頃、小学校の音楽室にピアノが導入されて、
何かしら女の子の児童はピアノに触れることが、羨望の的となっていた。

そして母は私が中学校に入学した1957年(昭和32年)の春、
やむえず田畑を売り、駅の近くにアパート経営をしたが、
何とか明日の見える生活となったが、学業に何かと経費を要する5人の子供がいたので、家計は余裕もなかった。

妹の2人が小学5年、3年で私が中学1年になったばかりの時、
小学5年の妹は先生に誉(ほめ)られた、と母は聞いて有頂天になり、無理してピアノを購入した。

小学校の音楽の成績は、兄2人と妹2人は通信簿『5』であり、
何故かしら私だけが『2』の劣等生であった。

その後、私が25歳を過ぎた時、民間会社に中途入社し、たまたまレコード部門に配置されて数年後、
妹のひとりが母の前で、
『お兄ちゃんがレコード会社で・・家にいる時はモーツァルトを聴いているなんて・・想像できる・・
信じられないわ・・』
と云ったらしく、私は苦笑していた。

昨今の兄妹は、日常はクラシック音楽から遠ざかった普通の人々で、
日常生活で最も音楽をこよなく愛聴しているのは私だけとなったりしている。

そして、母が苦労して購入したピアノは、10数年後、埃(ほこり)を被(かぶ)り、
中古業者に引き取られた。


あの当時の1958年(昭和33年)の頃は、東京の都心に近いサラリーマンの女の子のいる家庭では、
ピアノの練習曲のバイエルなどを習い、少しばかり誉められると、
親は無理しながら、秘かに子供に期待し、ピアノを購入した宅が多かったりしていたのである。

このようなことを思い浮かべ、私は微苦笑したりしている。
          

やがて私が高校に入学した1960年(昭和35年)の春、
私たち子供は中学、高校、そして大学が進むあいだ、
入学金や授業料はもとより、何よりも育ち盛りで家計が多くなった。

そして母は、ラブホテルのような旅館を小田急線とJRの南武線の交差する『登戸駅』の多摩川沿いに建て、
仲居さんのふたりの手を借りて、住み込み奮闘して働いた・・。
やがて私たちは、私たちの生活は普通の生活レベルになったりした。

この当時の母は、里子として農家に貰われ、やがて跡取りの父と結婚し、
これといった技量といったものはなく、素人の範囲で何とか子供の五人を育ちあげようと、
なりふりかまわず連れ込み旅館を経営までするようになった、と後年の私は思ったりした。

確かに母の念願したとおり、兄ふたりと私も大学を入学し、
妹ふたりは高校を出たあとは専門学校に学ぶことができたりした。

この間の母は、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、
子供たちを何とか世間並みの生活に、と働らいたくれた成果として、
ふつうの生活ができた上、私達五人の子供は成人できたのは事実である。


まもなく、この地域で10数軒あったラブホテル、連れ込み旅館は、
世情が変貌して衰退する中、やがて母はアパートに改築した。

そして私達はお互いに独立して、社会に巣立ち、
私も25歳で遅ればせながら、民間会社に中途入社した後、
結婚する前の3年足らず、アパートの別棟に母が住んでいる中、私は同居したりした。

この後、私は結婚して、千葉県の市川市の賃貸マンションで新婚生活を過ごした後、
実家の近くに一軒屋を建て、2年後に次兄は自営業で経済破綻して、自裁した。

私は次兄に声ばかりの支援で、私も多大のローンを抱えて、
具体的な金策の提案に立てられない中、突然の自裁に戸惑いながら、後悔をしたりした。

何よりも、親より先に絶つ次兄を母の動揺もあり、私なりに母を不憫に思ったした時でもあった。
そして特にこれ以降、私達夫婦は、毎週の土曜日に母と1時間以上電話で話し合っていた。
          

母は食事に関しては質素であっても、衣服は気にするタイプであったが、
古びたアパートの経営者では、ご自分が本当に欲しい衣服は高く買えなく、
程ほどの衣服を丸井の月賦と称せられたクレジットで購入していた。

私は民間会社のサラリーマンになって、賞与を頂くたびに、
母には衣服を買う時の足しにして、とある程度の額をお中元、お歳暮の時に手渡していた。


この頃、親戚の裕福のお方が、身体を壊して、入院されていたが、
母が見舞いに行った時は、植物人間のような状態であった、と教えられた。

『あたし・・嫌だわ・・そこまで生きたくないわ』
と母は私に言った。

母は寝たきりになった自身の身を想定し、長兄の宅などで、下半身の世話をなるのは何よりも険悪して、
私が結婚前に同居していた時、何気なしに死生観のことを話し合ったりしていた。

容態が悪化して、病院に入院して、一週間ぐらいで死去できれば、
多くの人に迷惑が少なくて良いし、何よりも自身の心身の負担が少なくて・・
このようなことで母と私は、自分達の死生観は一致していたりした。

こうした母の根底には、敗戦後の前、祖父の弟、父の弟の看病を数年ごとに看病し、
やがて死去された思いがあったと思われる。

そして近日に植物人間のように病院で介護されている遠い親戚の方を見た思いが重なり、
このような考え方をされたのだろう、と私は思ったりしたのである。
          

やがて昭和の終わり頃、古びたモルタル造りとなったアパート経営をしていた母に、
世間のパプル経済を背景に、銀行からの積極的な融資の話に応じて、
賃貸マンションを新築することとなった。

平成元年を迎えた直後、賃貸マンションは完成した。
そして3ヶ月過ぎた頃、
『あたし、絹のブラウス・・買ってしまったわ・・少し贅沢かしら・・』
と母が高揚した明るい声で私に言ったりした。

『お母さんが・・ご自分の働きの成果で買われたのだから・・
少しも贅沢じゃないよ・・良かったじゃないの・・』
と私は心底から思いながら、母に云ったりした。

この前後、母は周辺の気に入ったお友達とダンスのサークルに入会していたので、
何かと衣服を最優先に気にする母にとっては、初めて自身の欲しい衣服が買い求めることが出来たのは、
私は、良かったじゃないの・・いままでの苦労が結ばれて、と感じたりしていた。
          

母が婦人系のガンが発見されたのは、それから6年を過ぎた頃であった。
私たち兄妹は、担当医師から教えられ、
当面、母には悪性の腫瘍があって・・ということにした、

それから1年に1ヶ月程の入院を繰り返していた。
日赤の広尾病院に入院していたが、
母の気に入った個室であって、都心の見晴らしが良かった。


1997年(平成9年)の初春、母の『喜寿の祝い』を実家の長兄宅で行った。
親族、親戚を含めた40名程度であったが、
母は集いに関しては、何かしら華やかなさを好んでいるので、私たち兄妹は出来うる限り応(こた)えた。

そして翌年の1月13日の初春の頃、死去した。

母は最初に入院して、2回目の頃、
自分が婦人系のガンであったことは、自覚されたと推測される。

お互いに言葉にせず、時間が過ぎていった。
ご自分でトイレに行っている、と私が見舞いに行った時、看護婦さんから教えられた、
私は母の身も感じ、何よりも安堵したりした。


私たち兄妹は無念ながら次兄は40歳前に自裁され、欠けた4人となり、
そして60、50代となった私たち兄妹は、
もとより亡き母へのつぐないもこめて、葬儀は実家の長兄宅で出来うる限り盛大に行った。

母は昭和の時代まで何かと苦労ばかりされ、
晩年の10年間は、ご自分の好きな趣味をして、ご自分の欲しい衣服を買われたのが、
せめての救いと思っている。
          

納骨の四十九日目の納骨の『七七忌』法要、そして『百カ日』と続き、夏の新盆となり、
晩秋に喪中の葉書を関係者に送付したりした。

年末年始、喪に服するのは戸惑いを覚え、
何よりも母親の死去で失墜感、空虚感が私にはあったりした。

世間の人々は残された息子は幾つになっても、父親の死より、母親の死の方が心痛と聞いたりしていたが、
私の場合は父は小学2年に病死され、もとより母、そして父の妹の叔母に育てられたので、
53歳を過ぎた私でも、心は重かったのである・・。

このような私の感情を家内は察して、
『年末年始・・どちらかに旅行に行きましょう・・』
と私に云った。

そして私たち夫婦は、年末年始に初めて旅行に出かけたりした。


秋田県の山奥にある秋の宮温泉郷にある稲住温泉に、
12月31日より3泊4日の温泉滞在型の団体観光バスプランを利用し、滞在した。

何かしら開放感があり少し華(はな)やかな北海道、東北の著名な温泉地は、
亡き母との歳月の思いを重ねるには相応しくないと思い、山奥の素朴な温泉地とした。

私たち夫婦は防寒服で身を固めて、積雪のある幅5メートルぐらいの閑散として県道を歩いた。
周囲は山里の情景で、常緑樹の緑の葉に雪が重そうに掛かっていたり、
落葉樹は葉の全てを地表に落とし、小さな谷沿いに小川が流れていた。

しばらくすると、雪が舞い降りてきた・・。

ゆるく蛇行した道を歩き、車も通らず人影も見えなく、秋田県の奥まった処だと、実感できた。
そして雪は強まってきたが、風もなく、静寂な中を歩いた。

このように1時間ばかり歩いたのだろうか。

そして町営スキー場が観え、ゴンドラなどもなく、リフトが2本観られる素朴なスキー場であった。

スキー場の外れにある蕎麦屋さんに入り、昼食代わりに山菜そばを頂こうと、
入店したのであるが、お客は私たち夫婦だけであった。

こじんまりと店内の中央に薪ストーブのあり、私達は冷え切った身体であったので、思わず近づき、
暖をとったのである。


私の幼年期は、今住んでいる処からは程近く、この当時は農家を営んでいた。
家の中の一面は土間となり、この外れに竈(かまど)が三つばかり有り、
ご飯を炊いたり、煮炊きをしたり、或いは七輪の炭火を利用していた。

板敷きの居間は、囲炉裏であったが、殆ど炭火で、家族一同は暖をとったりしていた。

薪は宅地と畑の境界線にある防風林として欅(けやき)などを植えて折、
間隔が狭まった木を毎年切り倒していた。

樹高は少なくとも30メートルがあり、主木の直径は50センチ程度は最低限あり、
これを30センチ間隔で輪切りにした後、
鉈(なた)で薪割りをし、日当たりの良い所で乾燥をさしていた。

そして、枝葉は竈で薪を燃やす前に使用していたので、
適度に束ねて、納戸の外れに積み上げられていた。


薪ストーブの中、薪が燃えるのを眺めていたら、
こうした幼年期の竈(かまど)の情景が甦(よみがえ)ったりした。
          
   
そして1周忌の法事の日には、
粉雪が舞い降る朝となり、私たち兄妹は、親戚、知人の方達には来て頂くことに、心配したりしていた。

お墓のあるお寺で法事が終り、ふるまいの会場に向かう時、
相変わらず粉雪が舞い降りていた・・。

叔母と妹の2人で私は歩いていたが、
『お母さん・・私を忘れないで・・と降っているのかしら・・』
と私は不謹慎ながら云った。

『そうよねぇ・・義姉(ねえ)さん・・苦労が多かったから・・
天上の神様・・覚えていたのよ・・』
と叔母のひとりがは私に微笑んだりした。

私と妹は微苦笑し、粉雪が舞降る空を見上げ、そして会場に急いだ。


私は今でも、雪が舞い降る情景を見たりすると、
ときおり亡き母のしぐさ、言葉が思い重ねることがある・・。

母の命日が近づくと毎年、私たち夫婦は妹ふたりと、お墓参りをしている。
そして母の好きだった花をささげて、やがて食事処で、
お母さん・・あの時は・・などと私たち4人は微苦笑を重ねて、早や17年が過ぎている。


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母の日、亡き私の母を思い馳せ、母にささげる深い思いは・・。【上】

2015-05-10 16:10:41 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であり、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見つめると、『母の日』と朱記されていたが、
私たち夫婦は子どもに恵まれなく我が家は2人だけの家庭なので、思わず微苦笑した・・。

私は小学2年の1953年(昭和28年)の春に父に病死され、
母の保護下のもとで、父の妹の叔母がこの当時は未婚で、
母と叔母の中で、兄ふたり、妹ふたりの中で、サンドイッチのような挟(はさ)まれながら育った。

私が25歳を過ぎ、遅ればせながら何とか民間会社に中途入社できた後、
『母の日』の前日には、何か洋服を買い求める時に足しにして下さい、といくばくかの現金を包み、
母の好きな和菓子と共に、母に手渡したりしたりした。

やがて私は結婚して、少し遠方に住んでいたので、送金をしたりしていた。

私の50代のなかば、平成10年(1998年)に入退院を繰り返していた母に死去された。

古来より男性は、ともすれば父親に対しては忘れがちであり、
母親はいつまでも心に残る、と云われているが、
ときおり私も母の言葉やしぐさを思いだされる・・。
          


私の母は、広尾にある赤十字の病院で入退院を3年ばかり繰り返した後、
1998年(平成10年)1月13日の深夜の1時過ぎに亡くなった。
そして前年の1月に新年会を兼ねて、母は77歳を迎えるので『喜寿の祝い』をしたこともあるが、
78歳になったばかりに他界され、私は53歳の時であった。

年末に体調が悪化して、救急車で入退院をしていた赤十字の広尾の病院に運び込まれた。
年始を過ぎると、医師より危篤状態が続いていると教えられたので、
私は会社に於いて勤務していた時は、少し緊張気味で覚悟はしていた。

こうした状況の中、12日に私は帰宅した後、家内と夜の9時過ぎに食事し、少し呑んだりしていた。

まもなく長兄より連絡があったのは、10時過ぎであり、
長兄夫婦、私達夫婦は長兄の自動車でかけつけた。

母は少し息苦しいそうであったが、穏やかな表情をしていたので、何よりの慰めと思った。
そして甥にあたる長兄の子供二人も到着後、真夜中の1時過ぎに、母は見守られるように死去した。


やがて私の実家の長兄宅の一室に母の遺体を安置した後、
葬儀は私の実家の長兄宅で行うことを長兄と私、親戚の叔父さんなどで取り決めた。

仮通夜はどんよりとした曇り空の寒い一日となり、
翌日のお通夜の日の朝から、この地域としては珍しく15センチ前後の風まじりの大雪となった。
公共の交通機関も支障が出たり、
ご近所のお方の尽力で、実家、周辺の雪かきをして頂いたりした。

そして、翌日の告別式は積雪10センチ前後の晴れ渡った中で行われた後、
火葬場に向う車窓から、除雪された雪がまぶしく私は感じられたのである。
やがて帰宅後、『初7日』が行われ、忌中(きちゅう)の法事を終った・・。
          

母の実家は、明治の中頃に国内有数のある企業の創設に関わった都心に住む裕福な家で、
跡継ぎの肝要のこの家の長兄が結婚前に遊び果てていた時、
ある人気の出始めた芸者との交遊との結果、母が生まれた。

この頃の風潮として、当然ながらある程度の富豪の家としては、
家柄の名誉に関わる問題となったので、母は里子に出された・・。

私の祖父の親戚の家をワンクッションして戸籍の経路を薄れさせた後、
私の実家に貰われてきたのは、一歳前で1921年(大正10年)であった。

私の祖父は、農家で16代目となり、田畑、雑木林、竹林などがあり、使用人、小作人を手を借りて、
東京郊外のよくある旧家であった。
そして祖父は、男2人、女も4人の子を設けていたが、祖父の妻は末児が生まれた後、
まもなく亡くなった。

こうした中で、母は祖父の子供と一緒に幼年期、少女期を過ごした。

母の実家からは、いくばくかの金銭、品物が絶えず送られてきて、
祖父としても母を粗末には出来なかったが、
母の級友の何人かは上級の中等高校に行ったのに、母は家の何かと便利のように手伝いとして使われた。

今の歳で云うと13歳であり、祖父は村役場の要職を兼ねていたので、
書生のようなことも手伝いをさせられたり、もとより田畑の作業も駆りだされていた。

後年、私が高校生になった時に感じたのであるが、確かに母の筆跡は綺麗な部類に入っている。

この時、母の級友であったひとりが都会議員となった時、
『あの方・・あたしの小学校の同級生なの・・家柄も良かったけど・・
大学まで行けたのだから、幸せな方・・』
と母は私に言った。

私は母が上級の学校、少なくとも中等高校、希望が叶えられたら大学の勉学をしたかった、
と私は母の思いが初めて解かった。

そして母の尋常小学校の卒業しかない学歴を私達子供の前で、ため息をついたのを私は忘れない・・。
          

母は祖父の子供達に負い目とひけ目の中で過ごされたと思うが、
祖父からしてみれば、母の実家から多くの金銭の贈り物で田畑、金融資産を増やしたことも事実である。

こうした環境の中で、祖父の子供の跡取りの長兄と母が17歳になった時、結婚した。
母は祖父、そして父の弟、妹の4人と共に母屋の屋根の下で生活を共にするのだから、
何かと大変だった、と私は後年になると思い深めたりした。

後年、母は看病の末、亡くなった祖父の弟や父の弟、
そして父の妹たちの婚姻などもあり、多くの冠婚葬祭もあったりした上、
親族、親戚の交際は、何かと気配りが必要で・・と私に語ったことがある。


父が死去される前の1952年(昭和27年)、私が小学2年なる秋の頃、
母は家の裏にある井戸のポンプを手でこぎながら、風呂桶に入れるために、バケツに満たそうとしていた。
つるべ落としのたそがれ時だった。

♪あなたのリードで 島田もゆれる・・
母がこの当時に流行(はや)っていた歌のひとつの『芸者ワルツ』を小声で唄っていた。

私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、祖父、父は今度は女の子と期待していたらしい。

やがて私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

母の唄っている歌を聴きながら、華やかさの中に悲しみも感じていたが、
♪みだれる裾も はずかしうれし、
聴いたりすると子供心に色っぽい感じをしたりしていた。

母は幾つになって里子の身を自覚されたのか解からないけれど、
その後の祖父の長兄との結婚後、何かと労苦の多い中、
気をまぎらわせようと鼻歌を唄いながら、その時を過ごされたのだろう、と私は後年に思ったりした。


1953年(昭和28年)3月になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。

祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、翌年の1954年(昭和29年)5月に亡くなった。

どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたり、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。
          

このような時、翌年の春のお彼岸の近い日に、母の実家の方が心配をされて家に来た・・。

母からしてみれば、実の父の正規な奥方になった人であり、
家柄も気品を秘めた人柄であったが、思いやりのある人であった。
この方が娘さんを同行してきた。

この娘さんき映画スターのようなツーピース姿でハイヒール、帽子と容姿で、
私は小学3年の身であったが、まぶしかった。
そして、あれが東京のお嬢さんかよ、と子供心でも瞬時で感じたりした。

この人は、幼稚園の頃から、人力車、その後は自動車でお手伝いさんが同行し、
送り迎えをされてきたと聞いたりしていたからである。

私は子供心に困窮した家庭を身に染み付いていたが、
何かしら差し上げるものとして、母に懇願して、日本水仙を10本前後を取ってきて、母に手渡した。

『何も差し上げられなく・・御免なさい・・』
と母は義理にあたる妹に言った。
『お義姉(ねえ)さん・・悪いわ・・』
とこの人は言った。

そして『この子・・センスが良いわ・・素敵よ・・ありがとう』
と私に言った。

私は汚れきった身なりであったので、恥ずかしさが先にたち、地面を見つめていた。

私にとっては、このお方を想いだすたびに、
『水色のワルツ』の都会風のうら若き女性の心情を思い浮かべる。
                         

この『水色のワルツ』、そして『芸者ワルツ』歌のふたつは、
私にとっては血は水より濃い、と古人より云われているが、
切り離せない心に秘めたひとつの歌となっている。

                        (つづく)


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小庭の手入れを孤軍奮闘すれば、やがて純白の花にめぐり逢い・・。

2015-05-09 16:55:29 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活の身の70歳で、家内は65歳となり、高齢者の夫婦となっているが、
昨今の私は何かと小庭の手入れが多くなっている・・。

過ぎし4月25日、4月30日、5月4日は、私は家内の支援を受けて、樹木の剪定をしたりした。

もとより、小庭の手入れは私の責務の範疇であるが、蚊(か)の出る5月下旬頃から10月頃までを除き、
ときおり家内の支援を受けることが多くなっている。

しかしながら、雑草はこの時節またたくまに繁るので、
私は草むしりに専念する為に、今朝は5時少し前に起きだした。

やがて6時過ぎに、朝食を頂きながら地元の天気情報をテレビで視聴したりした。

朝の6時は18度、昼下がりは23度前後、夕方の6時は22度前後、
日中は曇り空となりますが、午後3時過ぎより小雨が予測されます、と報じられていた。

気温は平年並みとなり、過ぎし大型連休は初夏のような暑さが続き、
何かと暑さに苦手な私は戸惑ったりしてきたが、本日の気温だったら、庭の手入れに最適だ、と微笑んだりした。

こうした根底には、草むしりを終えた頃に、小雨が降れば、
打ち水のように清々(すがすが)しい小庭の情景になる、と単細胞の私は微笑んだのである。
          

家内は本日は衣料整理に専念している間、私は小雨が降る前に草むしりを完了させようと、
6時半過ぎに、テラスに面した庭に下り立った・・。

こうした時の私の容姿は、いつものようにストレッチパンズの長ズボン、着古したスポーツシャツ、
ウォーキング・シューズ、帽子、滑り止めの軍手をし、剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにしている。

そして草むしりを始めてまもなく、遠い昔の明治の末期、作家の徳富蘆花(とくとみ・ろか)さんが、
私の住んでいる近くに、都心の青山より田園生活の中で農作業をされていた。

こうした中で畑など、この時節は雑草と戦いだ、このような趣旨を綴られていたことを思い馳せ、
そうですよねぇ、と私は微苦笑したりした。

まもなく樹木の下とか周囲を雑草を取る為に地面を這うようにすると、泥まみれになったりした・・。

やがて9時過ぎに、突然に霧雨が降りだしてきて、
どうしてなょ、小雨は午後の3時過ぎじゃない、と戸惑ったりしたが、
今しなくていつするょ、と自身を叱咤激励して、霧雨の中、私は継続した・・。

やがて泥まみれの上、汗か霧雨に濡れたか解らないが、衣服は汚れきってしまったが、
まもなく霧雨は止(や)み、どんよりとした曇り空に変貌した。


こうして孤軍奮闘していると、数多く純白の花にめぐり逢った・・。
          

そして私は疲れ切った腰を上げながら、
今年も咲いてくれたねぇ、と私は微笑んだりした。

この純白の花は、ゴルフボールぐらい小ぶりの実が成る伊予地方産の柚子(ユズ)の樹である。

確か37年前、私の生家の近くに家を建て後、
少し遠い都立公園に家内と共に行き、帰路、苗木屋さんに立ち寄り、買い求めた樹であった。

私の幼年期は農家の児として生を受け、宅地の外れに大きな柚子(ユズ)の樹があり、
晩秋になると、祖父が長い竹竿(たけざお)で捥(も)いて折、
黄色い色艶した大きな実が数多く収穫できた。

お正月の御雑煮などに、幼児の私でも一切れ入れてもらったり、
祖父や父の晩酌の友としたり、春先までの大人楽しみの食べ物のひとつだった。

このような幼年期の体験があったので、
苗木屋さんで、柚子(ユズ)の樹に買い求めようかなぁ、と思ったりしていた。

『旦那さん、この柚子(ユズ)の樹・・お買い得よ・・』
と店の奥さんから声を掛けられた。

私は見ると、簡素な鉢(はち)に入った根元2センチぐらい、樹高は80センチぐらいで、
一人前に接木したあった。

『おネエさんさぁ・・その柚子(ユズ)、小さくない?』
と私は言った。

『あらぁ、旦那さん・・伊予(いよ)地方の柚子(ユズ)なのょ、
この辺に成る大きめの実と違うけれど・・小振りな実で評判良いわょ・・』
と店の奥さんは微笑みながら、私に言った

『小振りは、解ったけれど、実は成るかなぁ・・』
と私は言った。

『心配なしょ・・数年したら、食べきれなく程、成ります』
と店の奥さんは力強く私に言った。

『そうしたら、家から出荷するか・・』
とB型のお調子者の私は、明るく応じた。


こうして私は買い求めて、テラスに面した庭に植え、水をたっぷり上げた。
その後、肥料を施し、数年過ぎた。

しかし花が咲かず、実も成らなかった。

『XXちゃん、地植えが駄目なのかなぁ』
と私は家内に言ったりした。

『あなたぁ、柚子(ユズ)は時間が掛かると言うじゃ、ありませんの・・
柚子(ユズ)の馬鹿・・何とか・・』
と家内は笑いながら、私に言った。

『苗木屋さんの奥さん・・調子良すぎぎだったなぁ・・』
と私は家内に言った。

『・・』
家内は笑ってばかりだった。

『だまされたかなぁ・・』
と私は呟(つぶや)くように、未練たらしく言ったりした。

この後、私は伊予地方と東京の郊外では、土壌が違うのか、
或いは主(あるじ)の私に反抗して、のろまな態度なのか、私は心配していたのは確かであった。

こうして7年が過ぎた・・。
          

そして5月になると、純白の花が咲いた。

その晩秋、初めて3つばかり収穫があった。


翌年の5月になると、若芽が伸びたので、刈り込んだ。
栄養分を主木から枝に行き渡らす為に、刈り込んだりした。

しかし私の期待に反して、この秋、収穫ゼロとなった。


それから数年、刈り込まず、肥料も与えず、草むしりだけは丁重にするだけで、放置した。

そして晩秋は、確実に10数個、収穫があった。


私が定年退職する10年前の頃からは、百個は超える実りとなった。
この秋の時は、たわわに淡い黄色の実を眺め、
『XXちゃんさぁ・・やっと念願どおりになったょ・・』
と私は家内に歓声を上げながら言った。
             
このように我が家の伊予柚子は、苦節10何年の歳月を要したりした。

その後、5月初旬の頃になれば、伊予柚子の枝からは、たわわに白い花を咲かせ、
私は微笑みながら、この樹木の下とその周辺を草抜きをしたりする時、
♪白い花が 咲いていた ふるさとの 遠い夢の日・・・とかぼそい声で唄ったりしてきた。
          

このような伊予柚子に関して、私の住む武蔵野地方から遥か遠方の四国の伊予地方の柚子(ユズ)は、
最初は敬遠されたが、この後は馴染んでくれて、愛(いと)おしさを増している・・。


本日、私は草むしりを6時間ばかり孤軍奮闘して終え、
体力の衰えた私は、『疲れ切ったょ・・』と家内に言ったりした。


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私のブログは、投稿文は平素の外出着、コメントは心の普段着、と思い深めて・・。

2015-05-08 16:27:20 | ささやかな古稀からの思い
私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して、2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めた。

そしてネットの世界は、殆ど無知な癖に、ホームページの開設を思案したりしていた。
自身のこれからの日々の思い、或いは過ぎ去った時代の思いのことなどを出来うる限り随筆風の散文で綴り、
公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で果たして、
と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。
           
ブログの世界は、多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
それぞれのお方が自由に私生活の出来事から、政治、外交、軍事、経済などの分野まで表現でき、
日本でも2002年(平成14年)の頃から急速に普及し、誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来している。

この少し前の時代は、それぞれの専門知識のある有識者が、
雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の身は、新聞・雑誌などの読者コーナーで、記事を投書できる範囲であり、
もとより掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。

こうした結果として、私は自在に私の生活のことから、政治、社会などに専門知識がない私でも、
私なりの思いを発露でき、何よりブログはホームページより手軽に開設、運営できると感じ、
ブログに加入しょうと決意した。
          

そして2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入した。

しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり【gooブログ】を中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
       
このような軌跡で、ブログの世界を知って丸10年が過ぎて、早や11年生に進級した。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
                                      
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
         
私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切にしているひとりである。
       
従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。    
                                                     
こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは2年半前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。

そして私の投稿文の最初の一行に於いては、殆ど私の住んでいる地域を明記している。
このことは私が投稿文の中で、散策、買い物したりする場合、日本のどの地域なのか、
初めて読んで下さる方に理解して頂く為である。

こうしたささやかな思いで、つたない投稿文を繰り返して、早くもブログは11年生となっている。
          
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
恥ずかしながら筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省することが多い。
          

こうして私はブログの投稿文を重ねている中、専門知識のなく疎(うと)い身ながら、
ときおり心の節度が欠けた政治、外交、軍事、経済、社会の出来事に対して、綴ったりしてきた。
しかしながら、一時的な感情だけで吐露(とろ)し、後で後悔することが多かったりしてきた。

その上、心の奥に感じてきた危険な事柄は、心の節度として抑止してきた。
たとえば、
◎XX党は、うわべの平和を念仏のように発言し、平和ボケであり、国家の主権さえも欠落している。
◎XX党は、財源の悪化を無視してまでも、福祉だけを最優先とする政策を掲げ、日本の衰退を招く悪質な党である。
◎社会を震撼させる卑劣な悪質な犯行する方は、たとえ法治国家の日本であっても、即時に絞首刑にしなさい、

このようなことを私が記載すれば、もとより私の人格が疑われてしまい、
感情と理性の間を往還しながら、ためらい平坦な発言の投稿文となってしまうことが多かった。
                                          

しかしながら私自身、家庭、或いは生家の事柄に関しては、余すところなく表現してきた、
誰しも光と影があるので、ためらいながらもマイナスと称される影も私は描写してきた。

たとえば
◎母は生まれてまもなく里子にだされて、やがて私たち兄妹の母親となった。
◎私の小学生の前半に、父や祖父が病死し、残された母や私たち兄妹は、貧乏な生活を一時期を体験したこと。
◎或いは、亡き母が40代の時代は、私たち兄妹の五人が何とか世間並みの生活にする為に、
 ラブホテルのような連れ込み旅館を経営し、仲居さん2名の支援を受けながら睡眠時間を削りながら奮闘し、
 私たち五人の子供は成人したこと。
◎又は次兄は自営業で、経済破綻して、自殺と称せられる毒物を飲み自裁して、亡くなったこと。
          
◎そして私自身の場合は、幼児の頃からいじけたことが多く、小・中学生は通信簿『2』と『3』の多い劣等生であった。
◎大学を中退して映画・文學青年の真似事をして、純文学新人賞に3回応募したが落選し、やがて敗退したこと。
◎或いは定年の五年前にリストラ烈風の中、無念ながら出向となり、定年時を出向先で迎えたこと。

こうした出来事のことは、小心者の私としては匿名であることで、初めて発露できたことであり、
心のわだかまりを吐露しなければ、私としては一歩先でも進めない時もあったりした。
                               

このような心のうめごきをリアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、対人の受け止めることに困り果てることもある、と感じたりした。

小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションとして読者は受け止めることができ、
ブログの匿名で公開する内容も、間接的な意味合いからして同じかしら、と思ったりしている。
   
私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたようで恥ずかしく、
文字通り、夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら発信名を『夢逢人』と命名したりした。
          

しかしながら私は、どうしても表現できないこともあったりは事実である。
このことは私の人格さえも問題視されることで、感情と理性の間を往還しながら、
ためらいながらも結果としては、綴れなかったことがある。

たとえば、皇室の問題であり、もとより天皇陛下、皇后陛下は限りなく敬愛しているが、
肝要の皇太子殿下、妃殿下のご夫妻に憂うことも感じたりしている。

或いは私の勤めた音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めてきた中で、秘めたる事柄は、
守秘義務もないが、退職後の11年生となった今でも、心の礼節として綴れない。

そして格差の問題は歴然として、この世の中に各分野に露呈している現実があるが、
特に生活保護の難題は、綴れないのである。
          
                               
このような思いで描写してきたが、もとよりブログはこの広い世の中に公表することであり、
1(私)対N(多くのお方)と思い、少しは抑制した表現としている。

こうしたことは私の日常生活の中で、買物とか散策する外出の時は、少しは身なりを整えるのと同様に、
私のブログの投稿文は、平素の外出着かしら、と思ったりしている。
      
しかしながら都心に買物や懇親会などの出かける時は、多くの方に恥ずかしくないように、
程ほどの衣服を整えて出かけるが、
このように準じたお洒落でうわべの事柄は、つたない半生を歩んできた私は、
少し背伸びした投稿文を私は書くことができない。

そして素直な心に準じた身の丈に合った投稿文を重ねることが圧倒的に多い・・。
          
                   
              
コメントに関しての私の場合は、そのお方との個人的に心情で、
1(私)対1(相手のお方)のささやかな心の交流と思いながら、
私は本心を発露して綴り、相手のお方の返信にも本心が見え隠れし、微笑んだり、苦笑したりする。

まるで我が家の中で、リラックスした普段着のような感じなので、
コンントは、心の普段着かしら、と感じたりしている。
                                        
或いはそれぞれのお方よりコメントを頂き、
私は思いかけずに喜んだり、私の投稿文をこのように解釈されたのかしら微苦笑したりし、
返信を認(したた)めたりしている。

こうした中で望外の喜びとして、ブログサイトを開設していない数名の方より、
幾たびかコメントを頂き、もとより私は本心を発露して、返信を認(したた)めてきたりした。
          

そして私は毎日のように数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、とご教示されることが圧倒的に多く、
確かな人生の教科書と思い、多々ご教示を受けている。

そしてこうした中で、感きわまってコメントをしたりする時もある。

このように私は、多くのお方がブログのコメントを活用しているのは、
それぞれのお方の秘めたる心の発露の交流かしら、と感じたりしている。

このように私は、ブログの投稿文を重ねて11年生となっている。


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ネット上のクリック連動型広告に、時代遅れの私は、微苦笑させられ・・。

2015-05-07 17:24:12 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
我が家は私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、家内とたった2人だけの家庭である。

そして私たち夫婦はインターネットに関して、固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
据え置き型のパソコンを利用している。

私は平素に愛用しているパソコンは『ウィンドウズ7(セブン)』のディスクトップ型があり、
広い画面を見ながら、キーボードでブログの投稿文などを綴ったりしている。

そして『ウィンドウズ8。1』ノートパソコン型は予備機としてきた。
          
           ☆左側が現在愛用している『ウィンドウズ7(セブン)』、そして右側は予備機の『ウィンドウズ 8。1』☆

こうした中で、私はネットでニュースを見たり、ビジネス情報公式サイト、生活情報公式サイトを愛読したり、
或いはブログを投稿したり、愛読しているブログを読んだりしている。

こうした中で、私が興味を感じた映画や音楽の作品、カメラの商品など、
ネットで検索して、クリックすると目的の作品、商品などが的確にパソコン画面に表示される。

やがて私が加入しているブログの【gooブログ】で、投稿文を綴ろうとする時、
画面の一部に、先ほど見た映画や音楽の作品、カメラの商品が表示されて、当初はどうしてなょ、
と驚いたりした。

その後も、しばらくこ広告が出てきて、いつまで追いかけてくるょ、と苦笑したりしてきた。

その後、私の友のひとりにネットに詳しいので、こうした話題を話したりすると、
笑いながら教えてくれた。

何かしら世界的に有名なグーグルが、クリック連動型広告を開発して、
大企業はもとより、数多く中小企業まで取り込んで、1件ごとの広告費は少ないが、
それが積み重なってグーグルは世界の中で突出した広告会社になった、
と教えられたりした。
          
  
年金生活の今、我が家のパソコンは私が殆ど独占しているが、
ときおり家内も利用することがあるが、キー・ボードに入力することはできず、
幾たびか私がやさしく教えても、そのうちに覚えますから、と今日に至っている。

家内は検索して確認したい要素・・たとえば旅行プランの周囲の観光地などは、
私が必要項目を入力し、『お気に入り』に記憶させた後、
家内は長い時間くまなく見て、確認したりしてきたのが実態となっている。

やがて家内がパソコンで検索が終えると、私がブログの投稿文を綴ったりすると、
何かしら観光ホテル名が画面の一部に、表示された・・。

そして私は、家内が宿泊したい観光ホテルは、こういう処なのか、と微苦笑したりした。

たかがクリック連動型広告されどクリック連動型広告かょ、と時代遅れの私は、微苦笑させられたりしている。

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まばゆい風光る中、老ボーイの私は、いつもように買物と散策をして・・。

2015-05-06 17:30:00 | ささやかな古稀からの思い
今朝の7時半過ぎ、いつものように私は家内共に朝食を頂いたりした。

私は何かと単細胞の為か、この時節の前菜は千切ったキャベツを電子レンジで少し温め、
もずく三杯酢を入れた大きめの皿で、キャベツを盛大に食べたりしている。

この後、五穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
そしてコブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、シャケの瓶づめ或いは鯖(サバ)の味噌煮の缶詰が、
日々貫徹のように食べたりしている。

私は幼年期に農家の児として育ったので、齢ばかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』が、
何かと心身の波長に合うのであるので、このような内容が多いのである。

家内はこの日は、食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、コーヒーを飲みながら頂いている。

こうした中、私は亡き母の遺伝を受けた為か、男の癖にオシャベリ大好きなタイプで、
家内に話しかけて談笑をしている。
          

朝食後、私は皿運びをした後、私は冷茶、家内用にコーヒーを淹れて、茶坊主の真似事をしたりしている。

やがて家内は、新聞に添付されているスーパーのチラシを見たりした後、
赤のサインペンで丸印を付けたりしている。

まもなくして、この赤丸が我が家の本日の必須の購入品とし、
あとは私が店頭の商品で魅了された品を買い求めてくるのが、我が家の鉄則となっている。

この後、家内からスーパーのチラシを私は手渡し、
『本日は・・これだけお願い・・』
と家内は私に言ったりしたりしている。

私は現役サラリーマン時代の緊張感から10年近く解放されて、
体力の衰えも感じている中、せめてボケてはいけないと思い、
『はい! 了解致しました!』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく返事をしている。

このような我が家の平素の買物パターンで、私は独りで指定された駅前のスーパー、専門店に行ったり、
或いは最寄のスーパーに行くこともある。
                    

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

家内は私より5歳若く、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は2004年(平成16年)の秋に定年後の年金生活を始めて以来、
平素の買物は自主的に専任者となった私は、
家内の依頼された品物を買い求めに、殆ど毎日スーパー、専門店に買い物に行ったりしている・・。

そして我が家は住宅街の片隅に住みにあり、
最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。

或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
そして私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

そして私の生家も近くにあり、私は結婚前後の5年を除き、早や65年ばかり、この地域に住んでいる。

いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。
                 

たまたま本日は、最寄のスーパーを2店ばかり廻ることとなり、
まばゆい皐月(さつき)晴の中を歩き、風光る時節だねぇ、と心の中で呟いたりした。

こうした中で、微風を受けたりすると心地よく、薫風だ、と微笑みながら、
颯爽とスーパーに向かったりした。

こうして歩いていると、、♪まばゆい 五月・・と心の中で唄ったりしてしまった。
過ぎし年の1973年(昭和48年)に、尾崎紀世彦さんのアルバムの中で、
『五月のバラ』が収録されたことを思いだして、何かと単細胞の私は思い重ねたりした。

やがてスーパーを2店ばかり買い物を終えて帰宅した後、
いつもように独りで遊歩道、小公園を散策したりした。
          
          
こうした中で、私の住む近く公園では、まもなくバラが咲く時節になる、とぼんやりと思い浮かべた。


私は2004年(平成16年)の秋に定年退職した後、多々の理由により年金生活をしているが、
こうした年金生活の中で、家内との共通趣味のひとつとして国内旅行を幾たびか遊学してきたが、
こうした時に、ときには薔薇(バラ)園にも立ち寄り、鑑賞したりしてきた、

そして私の地元の都立神代植物公園のバラ園にも、ここ数年鑑賞してきた・・。

私は昨年の「春のバラフェスタ」開催期間中は、人出が多いと思われたので、
散策の代わりに、後日に春のバラ鑑賞をした。
          

しかしながら田舎者育ちの私は、高貴な薔薇(バラ)こ縁遠く、
一昨年の6月初旬に訪れた時、入園した入口の近くで頂いた『神代 花だより』(NO.213、平成25年5月)に於いて、
バラについて解説されていたので、初心者の入門書として精読したりした。
          

《・・バラは、北半球の新旧両大陸を中心に広く分布する植物で、
世界に約120~200種の原種があると言われています。

バラの栽培は、古代オリエントで始まったといわれており、
薬用・香料として、ギリシャ、ローマ時代には盛んに栽培されるようになりました。

ヨーロッパやオリエント原産のバラは一季咲き(春のみ開花)で、
長い間、バラは春しか咲かないものでした。

その一季咲きまバラに、四季咲きの性質を中国産の「コウシンバラ」や「ロザ・ギガンティア」の系統が掛け合わされ、
四季咲性の現代のバラの第1号は、’ラ・フランス’といい、
このバラに作出された1867年をもって、
それ以前に作出された系統のバラをオールドローズ、
それ以降に作出された系統のバラを現代バラ(モダンローズ)といいます。
          

現代において栽培されているバラは、
主にこの現代バラと呼ばれる栽培品種群で、多くの品種がありますが、
この栽培品種群は、わずか8種の野生種から作り出されたものです。

その8種とは、ロサ・ガリカ、ロサ・ダマスケナ、コウシンバラ、ノイバラ、
テリハイノバラ、ロサ・ギガンティア、ロサ・モスカータ、ロサ・フォエティダです。

神代植物公園には「野生種・オールドローズ園」というバラ園があります。
このばら園には、中国や日本の代表的な野生種、オールドローズのうち、
現代バラに作出に当たり大きな役割を果たした野生種やオールドローズ、
現代のバラの第1号の、’ラ・フランス’などのバラが産地や系統別に植栽され、
現代バラの作出の歴史をたどことができます。・・》

このような解説を私は読んだか、やはり高貴な薔薇(バラ)は、貴婦人ように感じて、
やはり高嶺の華(はな)だよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

無念ながら富も名声もない無力な私は、つたない感性を頼りに、
一時間半ばかりバラ園を鑑賞した。
          

そして私は気後(きおく)れしてしまうと思い、人影の少ない園内の小道を歩きながら、
やむなく尾崎紀世彦さんの『五月のバラ』 ♪まばゆい 五月・・
かぼそい声で唄ったりした。

このようなことを思い浮かべて、微苦笑して歩いたりして、帰宅したは午後1時過ぎであった。

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私の人生の楽園のひとつには、読書と昼寝かしら、と微笑み・・。

2015-05-05 17:52:05 | ささやかな古稀からの思い
今朝、いつものように私は家内と朝食を頂く中、
『今日はお買いもの・・やめたら・・』
と家内から平素の買物専任者の私は言われたりした。

昨日の午前中、6時間半ばかり小庭の手入れをして、初夏のような暑さの中、
家内の支援もあったりしたが、私は汗まみれ泥まみれで奮闘した為か、
今朝も疲れが残り、俺も齢をとったと感じるょ、と私は家内に言ったりした。

結果的には、私は本日は一歩も我が家から外出しなかった。

午前中のひととき、居間から下駄を履いて降り立ち、テラスにある簡易椅子に座り、
少し高いモミジの樹の下で、新聞を読んだりしたりした。

ときおり吹く風は、薫風だよねぇ、と心地よく、モミジの枝葉が揺れるを眺めたりした。

やがて一冊の本を持ち出して、読み始めたりした・・。
          

一昨日の3日、駅前のスーパーに片道20分ばかり歩いて、家内から要望の買物の前に、
本屋に立ち寄り、文藝雑誌、単行本、新書本、文庫本コーナーを見たりして、
たった二冊の本を買い求めたりした。

清武英利・著作の『切り捨てSONY ~リストラ部屋は何を奪ったか~』(講談社)、
そして松谷明彦・著作の『東京劣化 ~地方以上に劇的な首都の人口問題~』(PHP新書)であった。

『切り捨てSONY ~リストラ部屋は何を奪ったか~』を読み始めて、
悲惨で過酷な実態を学び、ため息を重ねたりし、ときおり前方に見えるツツジの花を眺めたりした。
          

私は1955年(昭和30年)の小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
都心の高校に入学した直後から、遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。

新潮文庫本、岩波文庫本を中核に読み、ときおり単行本を購読したのであるが、
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。

若き20代の頃は小説を読むことが圧倒的に多かったが、サラリーマン生活で奮戦していると、小説は激少し、
定年後の年金生活をしている10年は、随筆、ノンフィクション、近現代史、総合月刊雑誌などが多くなっている。

そしてときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりするが、やはり読書が最優先となったりしている。


昼食後、まもなく居間のソファに座り、本の続きを読んだりしたが、
横たわって読みたくなり、やがて寝室の布団に横たわり読んだりした・・。

まもなく睡魔の誘惑に負けて、昼寝をしてしまった。

やがて目覚め、まどろみながら、いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、
と現役サラリーマン時代は数多く人と同様に、睡眠時間を削り奮闘してきたので、
微苦笑したりした。
          

洗面した後、ぼんやりとテラスに降り立ち、
微風を受けたりすると、昨今の流行(はやり)言葉に『人生の楽園』があるが、
私にとってのひとつには、読書と昼寝かしら、と微笑んだりしている。

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小庭の手入れ、人生は気合だ、と体力の衰えた私は呟(つぶや)き奮戦し・・。

2015-05-04 16:04:48 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活の身の70歳で、家内は65歳となり、高齢者の夫婦となっているが、
昨今、私は何かと小庭の手入れが多くなっている・・。

こうした中で、家内は私の体力の衰えた私を見かねて、
過ぎし4月25日、4月30日、そして本日の5月4日、
私は家内の支援を受けて小庭の手入れをした。

もとより、小庭の手入れは私の責務の範疇であるが、
蚊(か)の出る5月下旬頃から10月頃までを除き、
ときおり家内の支援を受けることが多くなっている。

今朝も私は4時に起きだして、さぁ庭の手入れはするぞぉ、と気力は充分であったが、
居間に降り立つと、すでに家内は庭の手入れ用のトレーナー姿にエプロンした容姿だったので、
『早いじゃないの・・気合充分だねぇ・・』
と私は家内に朝の挨拶代わりに言ったりした。

そして私は冷茶、家内はコーヒーを飲みながら、地元の天気情報をテレビで視聴したりした。

朝の6時は18度、昼下がりは26度前後、夕方の6時は21度前後、
日中は快晴に恵まれ初夏のような暑さになりますが、夜半に雨が予測されます、と報じられていた。

私は昨日の昼下がりに、本日の天気情報はおだやかな曇り、と報じられていたので、
何かと暑さに苦手な私は微笑んだりしたが、快晴に変わってしまった、と苦笑したりした。

しかしながら単細胞のプラス思考の私は、本日手入れを終えて掃き清めれば、
夜半に打ち水のようになった後は、すがすがしい小庭の情景になる、と微笑んだりした。
          

やがて私たち夫婦は6時過ぎに、玄関庭に下り立った・・。

こうした時の私の容姿は、ストレッチパンズの長ズボン、着古したスポーツシャツ、
ウォーキング・シューズ、帽子、滑り止めの軍手をし、剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにしている。

家内はトレーナー姿にエプロンした容姿でタオルを姉さん被(かぶ)り、
ウォーキング・シューズの万全な容姿で、滑り止めの軍手をしている。

そして私は切れ味抜群の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、
適度な台に乗り、枝葉を切り落としはじめた。

家内も剪定用の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、小枝を切り落としたり、
或いは剪定鋏(ハサミ)を使ったりしていた。

やがて我が家の樹木を剪定を終えた後、
家内は散乱している枝葉を市から指定されている『燃えるゴミ袋』のLLサイズに、
袋に破れないように入れる為、枝葉を適度に剪定鋏(ハサミ)で切ったりした。

そして私は3年前から切り倒した数多くの太い枝を整理を怠(なま)けて、
主庭の一角に積み上げていた残り分を鋸(のこぎり)で、『燃えるゴミ袋』の高さに応じて、
伐(き)り落としたりした。

このような作業をしていると、初夏のような陽射しを受けると、
汗はひたたり落ちて、やがて着古したスポーツシャツは汗まみれになったりした。

その後、私は草むしりをして、樹木の雑草を取る為に地面を這うようにすると、
泥まみれ汗まみれになったりした・・。

そして疲れを感じて休憩をすると、後日にしょうかなぁ・・ともうひとりの私が思ったりしたが、
今しなくていつするのょ、と自身を叱咤し、人生は気合だ、と私は呟(つぶや)きながら、
樹木の下に向かったりした。
          

やがて家内と共に掃き清めて、本日は終わりにしましょう、と家内は言ったは12時半過ぎであった。


私は昨年の9月に古稀と称せられる70歳となり、これからの日々の年金生活を、
どのように過ごせるか、と思案したりしてきた。
          
人それぞれの『生きがい』を持ち続けて、今日は明日はこれだけは実行しょうと『気力』があれば、
たとえ病(やまい)に遭遇して介護付き施設に入居しても、
晩年期は、その人なりに充実した人生になる、と思い深めたりしている。

このように思いのある私は、ときおりダラケると、人生は気合だ、と自身を叱咤激励をしている。

しかしこうしてブログの投稿文を綴っていると、本日は熱い中6時間半ばかり奮戦し、
疲れたよなぁ・・と本音を心の中で呟(つぶや)いたりしている。

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この時節の風物詩のひとつは、『目には青葉・・』、と私は思い馳せて・・。  

2015-05-03 18:54:27 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
昨日の昼下がりは、26度前後の初夏のような陽気に恵まれ、
長袖のスポーツシャツを腕まくりして微笑んだりしていた。

そして私は世の中は大型連休か、と思い浮かべながら、
主庭のテラスに下駄を履(は)いて下り立ち、新緑の樹木を褒めたりし、薫風に身をゆだねたりした・・。
 
目には青葉 山ほととぎす はつ松魚(かつお)

どういう思いなのか、江戸時代の俳人・山口素堂(やまぐち・そどう)氏の創作された句が浮んだりした。
          

そして現代の俳壇の雄である長谷川櫂(はせがわ・かい)氏の解説をお借りすれば、
《・・鰹(かつお)は春、黒潮に乗って日本の南岸を北上し、 初夏、関東の沖に達する。
『かまくらにて』と前書がある。
目にしみるような青葉の山で時鳥が鳴き、浜は初鰹の漁で賑わっている。
鎌倉の初鰹はただちに江戸に運ばれ、高値で売りさばかれた。・・》

このような解説が綴られている。

私は江戸時代から、多くの人々にこの時節に里山の若葉きらめく中、
新緑の樹木を褒(ほ)め、鳥も歌い、そして初鰹を賞味していた、と思いを馳せたりした。

私は一昨日の夜、鰹を頂いたが、私なりに毎年この時節、鰹の刺身を褒めたりしている。
そして、どうしたわけか解からないが、
昨夜も鰹の刺身が夢の世界のひとつにでてきて、今朝ぼんやりとしながら、微苦笑している。


過ぎし5日前、買物の途中、歩道と道路のグリーンベルトが
白の躑躅(つつじ)が咲いていた・・。

300メートルぐらいの長さにわたり、幅2メートルのグリーンベルトであり、
この周辺の風景を変貌させるようだった。

スーパーに入ると、鶏肉か牛肉かに迷って、後に決めようとして、
何気なし魚のコーナーに立ち寄った。

鰹が身の色が鮮やかな薄紅色だったので、夕食は鰹の刺身と決めた。

我が家では、醤油にニンニクと生姜(ショウガ)、そして細ネギを加味しただけであるが、
日本酒かビールを呑みながら頂くと、風薫る新緑の時節になった、と実感させられるのである。

私は食べ物に関しては、出来る限り旬のものを基軸して、
感謝しながら食味しているが、出来る限り季節感を大切にしたいためである。
          

過ぎ去る遠い昔、1968年(昭和43年)の頃、
私は大学を中退し、映画・文学青年の真似事をしていた時、
制約時間が何かと少ない警備員を契約社員として働いていた時期もあった・・。

そして派遣先は都心のスーパーマーケットであった。

その中に、魚コーナーがあり、この責任者と直ぐに仲良くなった。

この頃は、私は家族5人に囲まれながら実家にいたので、旬の鰹を家に持ち帰ろうとした。

『多少たかくても・・鮮度の良いのを一本お願い・・』
と私は魚コーナーの責任者にお願いした。

数日後、いつものように徹夜明けの勤務を終えて退社する時、
声を掛けられ1本の鰹を手渡してくれた。

体長60センチを越えるくらいの縞模様がはっきりし、身が締っているようだった。
そして私は礼を言い、給料の確か一週間分に相当する額を支払った。

その晩、長兄が捌(さば)き、義姉に喜んでもらい、
独身の身であった次兄、私、妹の2人たちの皆な家族で談笑しながら、頂いた・・。

そして、まもなく各人が実家から独立し、
もうあのような無邪気の光景は戻らなく、世間の荒波に巣立ったのである。

このようなささやかな想いを浮かべて、微苦笑したりしている。


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