夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

長生きのためにやっても意味ないこと5つ、薬、減塩など、76歳の私は学び、やがて微苦笑して・・。

2021-01-16 08:33:31 | ささやかな古稀からの思い

昨夜、ときおり愛読している公式サイトの【介護ポストセブン】を見ている中、

『 長生きのためにやっても意味ないこと5つ
      習慣で飲んでいる薬、無理な減塩・・・』、
と題された見出しを見たりした。


私は東京の調布市に住む年金生活の76歳の身であり、
家内は私より5歳ばかり若く71歳となる。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、
我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後40数年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。




こうした中、過ぎし2010年(平成22年)の秋、私は66歳の健康診断の時の結果、
『糖尿病で、内科に受診して下さい』と明記されてしまった。

私は青ざめ、翌日に自宅から徒歩10分ばかりの内科専門病院に行き、検査、そして問診の時、
『国内旅行に何とか70歳ぐらいまで行きたいので・・何なりと御指導をお願い致します』
と私は内科の医師に懇願した。

そして高橋真梨子さんが唄われた『桃色吐息』は妖艶であるが、
体力の衰えた66歳の私は、青色吐息のような表情で、内科の医師のアドバイスを聴いたりした・・。

私は家内との共通趣味は国内旅行であり、糖尿病の場合は、もとより食事制約がある。
このような時、家内と共に旅行の宿泊先で美味しい夕食を頂けそうな時、
私は食べてはいけない料理だったら、余りにも惨(みじ)めである、と思ったりした。

やがて医師から、料理のカロリー試算表を渡された上、 軽い運動を毎日して下さい、と私は言われた・・。

この後、6週間の私は、家内が料理のカロリー試算表を確認しながら野菜を多くした料理を作って貰い、
これ以来、朝夕頂いたりした。

そして私は、ウォーキングをしたり、或いは早足で遊歩道を歩いたりし、
お酒はしばらく・・さよならねぇ、と夕食の時も煎茶を飲んだりしていた。

          


こうした中、私は最寄の内科に8週間毎に定期検査日、そしてこの間に検査結果日と健診を受けて、 
 糖尿病の範囲の対象から克服でき、悪玉コレステロールは基準値の90%、
これ以外は、ほぼ優等生となって、改善努力の成果となっている。

そしてこうした定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。


しかしながら家内は、糖尿病の予備群ですから、程々に注意して下さい、と言われる時もある。
   
そして私は、身長は169センチ、体重は74キロ前後であるが、

あと3年を過ごし、80歳のお誕生日を健康寿命で迎えたい、
ささやかな目標がある・・。

このような深情のある私は、今回の《・・長生きのためにやっても意味ないこと5つ・・》、
学びたく記事を精読してしまった。

この記事の原文は、『女性セブン』の2021年1月7・14日号に掲載された記事のひとつで、
関連の【介護ポストセブン】に1月10日に配信され、記事の殆どを転載させて頂く。



《・・長生きや健康のためにと思ってやっていることが、
実は意味がないことも・・・。

年齢とともに増える服用する薬の量や、
健康のためにと思ってする減塩やダイエット・・・
本当に必要なのか?

60歳を過ぎたら、やる必要のないこととは。
専門医に聞いた。



1.その薬は本当に必要?|血圧・コレステロール・血糖値

年を取れば取るほど増えるのが、服用する薬の量だ。
60代以降は、数種類の薬を併用している人が多く、
月に5種類以上の薬を処方されている人は、65~74歳で28%、  75歳以上で40%にのぼるという。

その薬は本当に飲む必要があるのか…?

★血圧を下げる「降圧剤」
多くの人がのんでいる薬の中で、まず見直すべきは「降圧剤」だ。
東京都立大学名誉教授の星旦二さんは
「日本では必要のない人も、高血圧の薬をのんでいる」と指摘する。

「世界の降圧剤の全生産量の5割が、日本で消費されています。
血圧はただ下げればいいものではありません。
年とともに血圧は自然に上がり、それによって全身に血液が循環されているのですから、
薬で無理に下げるのは危険を伴います。

脳に血液がいかなくなれば、認知症のリスクが高まり、
心臓に血液が充分に送られなければ、心筋梗塞になる。

血圧がそれほど高くないのに、降圧剤をのみ続け、
結果的に心筋梗塞になった患者もいます。

一般的に、血圧が140/90mmHg以上あれば軽度高血圧です。

一方、1987年に厚生省(当時)が決めた高血圧服薬基準は180/100mmHg以上です。
高血圧基準と服薬基準は異なるのです」



★「コレステロール値」を下げる薬
コレステロール値を下げる薬も、のみすぎている可能性が高い。
岡田さんは「60代以降は不要」と話す。

「悪玉コレステロールといわれる『LDLコレステロール』は、
加齢とともに自然と数値が上がるものです。

年を取って食べる量が減れば、自ずと数値は下がっていきます。
60代以降、健康状態に問題がなく、ただ数値が高いだけなら、
薬で下げる必要はありません」



★「血糖値」を下げる薬
血糖値を下げる薬を常用している人も、少なくないだろう。
動脈硬化などの重大な合併症を引き起こすため薬で、
下げる必要があるが、高齢になるほど、のみすぎはリスクとなる。

「年齢とともに血糖値の調整能力は衰え、
数値の上下の振れ幅が大きくなります。

少し値が高い程度で薬をのむと、
低血糖で失神するリスクがあり危険です。

正常な血糖値は110mg/dlですが、
60歳で150mg/dl、70歳で170mg/dl、80歳以上で200gm/dl以下なら
のまなくてもいいでしょう」(岡田さん)

薬を常用している人は、本来の効果以前に、
のむことで安心感を得ているケースも多いという。

何年も習慣的にのみ続けるのではなく、
最小限に減らすことを心がけたい。



2.がん検診は本当に必要?

がん検診も60代を機に見直すべき項目の1つだ。
高齢になるほど、がんになりやすいため、検診で細かくチェックしたくなるものだが、
仮に見つかったとしても、高齢者の場合は、
治療が体に与えるダメージの方が大きい。

岡田さんが指摘する。
「早期発見で治療して、治る人がいるのも事実です。
しかし、過剰診療による施術で寿命が短くなる人の方が、
寿命が延びる人より少し多いのではないかといわれており、
効果には疑問があります。

さらに欧米では、仮に85歳でがん検診を受け、
治療をしなければ余命5年だとわかったとしても、すでに平均寿命を超えているので、
治療をしても本人の利益にはならないのではないかという議論があります」

現在、がん検診で推奨とされているのは、
40~75歳までの乳がん検診、65歳までの子宮頸がん検診、
75歳までの大腸がん検診、80歳までの肺がん検診だ。

少なくとも、それ以外のがん検診はやめてもいいだろう。



3.健康のための減塩は必要?

健康のための減塩も、無理して行う必要はないという。
「近年、高血圧と塩分の摂りすぎは、あまり関係ないことがわかってきました。

高齢になってくると、高血圧を気にして味気ない食事でがまんしようと考える人もいますが、
60歳以上になったら、好きなものをおいしく食べて、
人生を豊かに生きるというのがベースの考え方です」(星さん)




4.60歳超えたらダイエットは必要?

ダイエットも60歳を超えたら、やめて構わない。
むしろ、無理な減量は、寿命を縮める恐れがある。

「いかなる年代においても、やせている人より、
少し太った人の方が長生きするという統計があります。

特に高齢になると太らないことより、やせすぎないことが大事。
やせすぎると、体の免疫機能が低下します」(星さん)

女性は、40代半ばから50代半ばの更年期になると、
女性ホルモンの分泌の低下から、肥満になりやすくなる。

その頃に始めたダイエットを60代以降も継続していると、
将来的に介護リスクが高まる危険がある。

医療ジャーナリストの増田美加さんが指摘する。
「60、70代になると、筋肉量を維持することが、大事になってきます。
高齢になって体重が落ちるということは、筋肉量や骨量が減少しているということ。

やがて歩けなくなり、食事も不自由になって、認知症や寝たきりになりかねない。
60代以降は、しっかり食べて運動をして、体重を増やす意識を持った方がいい」



5.入浴は毎日する必要ある?

寒い冬は、お風呂場での「ヒートショック現象」で心停止し、
亡くなる高齢者も多い。

日本では毎日お風呂に入って、清潔にすることが常識とされているが、
神経質になるのは禁物だ。

「石けんをつけて、体をタオルでごしごし洗う人が多いですが、
皮膚の細胞が傷つき、そこから細菌が侵入することがあります。
それが原因で脚に炎症を起こしているかたも珍しくありません。

お風呂は湯船につかるだけで、石けんを使わなくても汚れは充分落ちます。
また医学的に、入浴の有無は、健康状態に影響しないといわれています」(岡田さん)

寒くて億劫だと感じる日は、無理してお風呂に入るより、
暖かい布団で早く寝る方がいいかもしれない。


★教えてくれた人
岡田正彦さん/新潟大学・名誉教授・水野介護老人保健施設長、
星旦二さん/東京都立大学名誉教授、
増田美加さん/医療ジャーナリスト ・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。



今回の《・・長生きのためにやっても意味ないこと5つ・・》、
多々私は学んだりした。

私は65歳の頃からは、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるようにと願いながら
何かとプラス思考で過ごしている。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフ健康体と信愛し、年金生活を過ごしている。 

こうした中、私は殆ど毎日のように自宅から3キロ以内の周辺にある遊歩道、
小公園、住宅街などを散策している。



こうした根底として、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。




しかしながら糖尿病の再発防止の薬を毎日習慣のように服用し、
8週間ごとの検査結果が、たとえば血糖値が私の年齢の平均値範囲から、
大きく差異があった時は、注意して次回にその範囲にしょうと努力しているのが、
実態となっている。

こうした中、薬をやめて、ウォーキングなどを活発にして、
果たして私の年齢の平均値範囲に入れるか、何かと体力の衰えを実感している私は、
ウォーキングなどを継続する自信がない・・。

やむなく習慣のように薬を服用しているのが実態であり、
恥ずかしながら、微苦笑をしたりしている。
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新型コロナウイルス感染症・インフルエンザ・風邪の“違い”と見分け方、改めて学び・・。

2021-01-15 10:21:32 | ささやかな古稀からの思い

昨夜、ときおり愛読している公式サイトの【All About(オールアバウト)】を見ていたら、
『新型コロナウイルス感染症・インフルエンザ・風邪の“違い”と見分け方』、
と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む年金生活の76歳の身であり、
家内は私より5歳ばかり若く71歳となる。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、
我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後40数年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。




こうした中、私は季節の変わり目に風邪をひきやすいタイプで、
過ぎし3日前に鼻水の病状があり、体温計で測定したら、
平温の36.3度であったので、安堵したりした・・。

もとより世の中は、新コロナの烈風で、
私はマスクをして、我が家の平素の買い物に行ったり、
体力の衰えを少しでも防ぎたく散策をしたりしている。



もとより怖いのは、新型コロナウイルス感染であり、
今回、『新型コロナウイルス感染症・インフルエンザ・風邪の“違い”と見分け方』、

遅ればせながら学びたく、記事を精読してしまった。

この記事は、小児科医・アレルギー専門医の清益 功浩さんより、

解説して頂いた記事であり、
無断であるが記事を転載させて頂く。


《・・新型コロナウイルス感染症の拡大・・・症状から判断することは可能?

ウイルスは、増殖過程で変異を起こすことがあります。

新型コロナウイルスも昨年12月にイギリス、南アフリカで変異ウイルスが確認され、
感染力が強くなっていると報告されました。

新型コロナウイルスの流行は、今なお拡大しております。
今、発熱や咳症状が起こった場合、
既存の風邪やインフルエンザの症状と、どう見分ければよいのでしょうか?




▼新型コロナウイルス感染症の主な症状・特徴新型コロナウイルスは、
風邪の原因にもなる多くのコロナウイルスとは異なり、
重症の肺炎を起こしやすく、死に至ることもあるウイルスです。

症状がひどくなると、息苦しさ(呼吸困難)、強いだるさ(全身倦怠感)、
高熱等を起こします。

しかし軽症の場合は、くしゃみ、鼻水、鼻づまり、のどの痛み、咳、痰、
発熱などの風邪症状に似た症状のみのことも多いようです。

特徴としてよく味覚障害、嗅覚障害が挙げられますが、
頻度としては多くはないようです。

また、これらの症状は同じように出るわけでなく、
いずれかの症状が出たり出なかったりすることもあり、
無症状者も多くいると考えられています。



▼インフルエンザの主な症状・特徴インフルエンザは、
普通の風邪とは異なり、突然高熱が出るなど症状の起こり方が
急激であることが多いです。

くしゃみ、鼻水、鼻づまり、のどの痛み、咳、痰、高熱、全身倦怠感、
筋肉痛があります。

高齢者の場合は、肺炎を合併するリスク、
幼児から学童では、インフルエンザ脳症を起こすケースがあります。



▼よくある風邪の主な症状・特徴よくある風邪の症状は、
くしゃみ、鼻水、鼻づまり、のどの痛み、咳、痰、発熱などです。
発熱期間や発熱の程度は、インフルエンザより軽いとされています。

新型コロナ・インフルエンザ・風邪の違い・・・症状のみでの見分け方はない

上記の通り、新型コロナウイルスもインフルエンザウイルスも
風邪を引き起こす多くのウイルスも、気道に感染するため、
その症状は似ています。

特に初期症状だけで見分けることは難しいでしょう。

新型コロナウイルスにより嗅覚障害、味覚障害が起こることが報告されていますが、
これらの症状がインフルエンザで起こることもあります。

ただ、インフルエンザで嗅覚障害、味覚障害が見られることが多いのは高熱時ですが、
新型コロナウイルスの場合は、軽症例でこれらの症状が見られるようです。

新型コロナウイルスが、嗅覚神経に何らかの炎症などを
起こしている可能性が考えられています。

欧米では、味覚障害、嗅覚障害は、
新型コロナウイルスの初期・軽症の症状の一つとして考えられていますが、
欧米人と比較すると日本人には少ないという報告もあるため、
症状だけで、新型コロナかインフルエンザか風邪かを見極めるのは
やはりかなり難しいといえるでしょう。



★突然の高熱・咳などの呼吸器症状・・・今、疑うべきは新型コロナ

インフルエンザは、風邪よりもひどいことが多く、
新型コロナウイルスに似た症状が起こりますが、
今期はインフルエンザの患者数が非常に少ないです。

厚生労働省によると、2019年の16週間のインフルエンザの総患者数は、
全国で32万8125人でしたが、
今期は同期間の総患者数は、全国でわずか453人でした。

32万人強が500人以下になったわけですから、
非常に少ないことが判ります。

そのため、この時期に高熱、咳などのインフルエンザのときに
経験したような呼吸器症状があれば、
今期はインフルエンザよりも新型コロナウイルス感染症が
疑われると考えた方がよいでしょう。



★急な発熱や咳症状が出たら・・・新型コロナを疑い感染させない対策を

特に成人の場合、今期のようにインフルエンザの流行が少ない状況で、
急な発熱や咳症状があれば、新型コロナウイルスが疑われます。
もちろん、ある程度の割合で、風邪もあるでしょう。

例年も冬の高熱がすべてインフルエンザではなかったのですから、
急な発熱や咳症状が、すべて新型コロナウイルスとは言い切れません。

そして新型コロナウイルスは、80%が軽症です。
糖尿病などの基礎疾患がなく、呼吸困難、高熱でない場合は、
自然に治癒する可能性があります。

また、10歳未満の子どもでは、新型コロナウイルス感染者も少なく、
クラスター発生も少ない状況です。
子どもの発熱や咳症状は、風邪の方を疑います。

とは言え、現在は全国的に新型コロナウイルスが急速に感染拡大している時期です。
症状だけで自己判断することは不可能ですので、
無症状者、軽症者が多いことを念頭に、
人にうつさない行動をしっかり工夫して過ごすようにしましょう。・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。



今回の《・・安らかな最期”ピンピンコロリ”のために医師が実践する5つの習慣・・》、
多々私は学んだりした。

私は小心者のひとりであり、昨年に政府より公布された、
新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために、
「新しい生活様式」を遵守したりしてきた。




こうした中、おひとりおひとりが、「相手と身体的距離を確保すること」、
「マスクの着用」、「 手洗いや咳エチケット」、
「三密(密集、密接、密閉)」を避けるといった、
約束は国民のひとりとして、確かな責務、と実施したりしてきた。

そして世の中は、自粛から自衛、再び自粛となっているが、
無力な私でも大切な社会経済の復興を願っているが、
新型コロナウイルスが沈静化するまで、自分の身は自分で守りながら、
程々に自粛生活の延長戦、と受け止めたりしている。
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安らかな最期”ピンピンコロリ”のために医師が実践する5つの習慣、こっそりと私は学び・・。

2021-01-14 08:42:03 | ささやかな古稀からの思い
昨夜、ときおり愛読している公式サイトの【介護ポストセブン】を見ている中、
『 安らかな最期”ピンピンコロリ”のために医師が実践する5つの習慣 』、
と題された見出しを見たりした。


私は東京の調布市に住む年金生活の76歳の身であり、
家内は私より5歳ばかり若く71歳となる。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、
我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後40数年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。


こうした中、過ぎし35年近くのサラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
17年近く過ごしてきた年金生活は、予測した以上に安楽な生活を享受している。

しかしながら、誰しも70代の頃になれば、
いつの日か自身が亡くなる時を思い馳せる時があると思われ、
何かと単細胞の私でも、漠然としながらも思案する時がある。




こうした深情を秘めている私は、
今回の『安らかな最期”ピンピンコロリ”のために医師が実践する5つの習慣』、
どのようなことですかと思いながら、
こっそりと記事を読んでしまった・・。

この記事の原文は、『女性セブン』の2021年1月1日号に掲載されていた記事のひとつで、
関連の【介護ポストセブン】の『暮らし』コーナに2021年1月13日に配信され、
無断であるが転載させて頂く。



《・・「理想の死に方」について最も多くの医師が挙げたのが、
「老衰」だった。

最も穏やかな最期だと思えるという老衰・・・
安らかな最期、ピンピンコロリのために、実際に医師たちが実践していることとは?


1.食べすぎないことが第一

「理想の最期」を迎えるため、
医師は医学的根拠に基づく独自の方法を実践している。

ちくさ病院総合内科医・近藤千種さんは、食事の量に着目している。
「健康寿命を延ばすためには、食べすぎないことが第一です。
糖尿病などの生活習慣病を予防するうえ、
カロリー制限は長寿遺伝子を活性化させることにもつながります。

好きなときに好きなものが、食べられる豊かな時代ですが、
“お腹が空いた”という感覚を思い出すことは、とても大切です。
私は食べすぎたと感じたら、翌日に半日程度の断食をすることもあります」(近藤さん)



2.魚と野菜、発酵食品を積極的に摂る

とはいえ、食べる量を減らすだけでは、不充分。
食事内容にも気を配る必要がある。

「摂るべきは、魚と野菜。
魚の良質な脂分は、血液に関する疾患を遠ざけ、
野菜は生活習慣病を予防します。

これに加え、発酵食品を取り入れて免疫力を上げる。
添加物の多い食品を避けることも心がけたい」(麻酔科医師・大西良佳さん)



3.1日8000歩は歩く 

生活習慣に関しても、医師の大西さんは「1日8000歩く」、
「朝日を浴びる」、「毎日入浴する」、「定期的にヨガ・瞑想をして深い呼吸を意識する」など、
さまざまなルーティンを取り入れている。



4.ストレスをためない

ハタイクリニック院長・西脇俊二さんが尽力するのは、ストレスの緩和だ。
「ストレスをためることは免疫力を下げるうえ、
興奮したときに働く交感神経が優位な状態になり、
消化機能が下がって睡眠障害も起きる。

アトピーやがんの原因にもなりうるといわれており、
まさに万病のもとです。

認知症を患った人は、もともとの性格が精鋭化する場合が多い。
もともと性格がきつい人は、より攻撃的になり、
もともと穏やかな人は、よりニコニコするようになる。

ですから、いま現在もストレスなく機嫌よく過ごしている人は、
ニコニコするような認知症になる可能性があります」(西脇さん)



5.ポジティブに自己固定を

理想の最期になるかどうか、それを決めるのは、最終的には心の在り方だと、
昭和大学病院緩和医療科特任教授・緩和ケアセンター長の岡本健一郎さんは言う。

「私は痛みの緩和の専門医療を行ってきて、10の痛みが7になったときに、
“まだ7もある”と言う人と、“3も痛みが取れた”と言う人とでは、
“3も取れた”と言う人の方が、痛みが和らぎやすい。

ポジティブに“これでいいのだ”と自己肯定し、
悲観的にならないことが大切だ、と感じています」

故・女優の樹木希林さんは生前、
<人生がすべて必然のように、私のがんも必然だと思っています> 
<人生なんて思い通りにならなくて当たり前>
という言葉も残している。

いまこのときを、前向きな気持ちを持って生きることが、
安らかな死につながる、いちばんの方法なのかもしれない。




☆ピンピンコロリのために医師が実践していること【まとめ】

【食事】
「カロリー制限は長寿遺伝子を活性化させ、生活習慣病を予防するため、
食べすぎないことが第一。
半日程度の断食をすることも」(近藤さん)

「良質な脂分を含む魚と生活習慣病予防の効果がある野菜に加え、
免疫力を高める発酵食品を取り入れている。
添加物の入った食品をなるべく控えることもポイント」(大西さん)

「糖質を摂りすぎないことを意識しており、
朝と夜は炭水化物を抜いている」(西脇さん)

「バランスよく、なるべく多くの種類の食材を食べるようにしている。
1つの食材に発がん性物質があったとしても、
摂取するほかの食材の量が多ければ相殺される」(医療法人社団進興会理事長・森山紀之さん)


【生活習慣】
「朝日を浴びる、定期的にヨガや瞑想をして
深い呼吸を意識するなどルーティンを作り、実践している」(大西さん)

「睡眠時間の確保とこまめな手洗いをずっと続けている」(総合診療科医・山口征大さん)

「がんからアトピーまで、ストレスは万病のもと。
なるべくためないように意識している」(西脇さん)


【運動】
「日常にウオーキングを取り入れて一日8000歩歩いている」(大西さん)


★教えてくれた人
近藤千種さん/ちくさ病院総合内科医、
大西良佳さん/麻酔科医、
西脇俊二さん/ハタイクリニック院長、
山口征大さん/総合診療科医、
岡本健一郎さん/昭和大学病院緩和医療科特任教授・緩和ケアセンター ・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。



今回の《・・安らかな最期”ピンピンコロリ”のために医師が実践する5つの習慣・・》、
多々私は学んだりした。

私は65歳の頃からは、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるようにと願いながら
何かとプラス思考で過ごしている。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフ健康体と信愛し、年金生活を過ごしている。 

こうした中、私は殆ど毎日のように自宅から3キロ以内の周辺にある遊歩道、
小公園、住宅街などを散策している。



こうした根底として、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。




今回、安らかな最期”ピンピンコロリ”のための5つの習慣、
学びながら、出来ていないことに苦笑してしまった。

1.食べすぎないことが第一に関しては、
何かしらここ数年、タバコは禁煙して3年目、お酒も5日に一回に激少となり、
こうした関係か食欲の衰えもなく、旺盛で30代の時のように食べたりしている。

2.魚と野菜、発酵食品を積極的に摂るに関しては、
私は野菜を二人前ぐらい食べながら、牛肉、ブタ肉、トリ肉、ラム肉など、
その日に応じて食べているが、魚は殆ど食べていないのが実態である。

この2つの要素が欠けていて、これ以外の要素は何とか及第点であり、
安らかな最期”ピンピンコロリ”は、
ほど遠いかしら、と微苦笑したりしている。
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作家の半藤一利さん御逝去、日本は大切な御方を失った、感嘆して・・。

2021-01-13 08:19:59 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住んでいる年金生活の76歳の身であるが、
今朝、いつものようにヤフーで配信されたニュースを見ていたら、
《・・作家
の半藤一利さんが死去 昭和史研究で著書多数、90歳

「日本のいちばん長い日」などの著作で知られる作家の半藤一利さんが12日午後、
東京都世田谷区の自宅で倒れているのが見つかり、死亡が確認された。

東京都出身。東京大を卒業して文芸春秋に入社。
「週刊文春」「文芸春秋」編集長を歴任、1994年から著述に専念した。
編集者として坂口安吾らを担当し、歴史研究に開眼。

終戦時の軍部関係者らを集めた座談会「日本のいちばん長い日」は、
 雑誌「文芸春秋」の記事となった後に単行本化され、映画化された。 

憲法9条と平和の大切さを次世代に説き続け、2015年に菊池寛賞を受けた。・・》

このように共同通信が発信され記事を読んだりした。



私は半藤一利さんの著作された昭和史に関する書物などで、
数多く学び、敬愛してきた半藤一利さんであった・・。

無力な私は、確かな日本の貴重な御方の御逝去に、
日本は大切な御方を失った・・
心より深くご冥福をお祈り申し上げます・・と心の中で呟(つぶや)いたりしている。




過ぎし2015年の初夏、私が購読している読売新聞の朝刊に於いて、
『戦後70年』の連載記事を読んだりした。

『[戦後70年 あの夏]どう負けた 皆知らない 作家 半藤一利さん 85歳』
と題された記事を襟を正して読んだりした。

もとより作家の半藤一利さんは、昭和史研究家として突出されたお方である。
一部を無断ながら、転記させて頂く。

《・・敗戦の原因は、日本人固有の精神構造にあると思います。
情報を直視せず、自分に都合のいい結論のままどんどん行った。

ミッドウェー海戦では、敵機動部隊は出てこないと決めつけ、
ガダルカナル島の戦いでも、敵はすぐに引くと根拠もなく信じた。
兵站(へいたん)が限界を超えても出て行った。

陸海軍合わせ240万人の戦死者のうち、7割が餓死か栄養失調か、それに伴う病死でした。
そんな無残な死に方をする戦争なんてありえません。

国全体が集団催眠にかかり、勢いで突き進んだ結果でした。・・》
                       


この後、半藤一利さんにインタビューされた編集委員・服部真さんが、
半藤一利さんの思いの記事が掲載されていた。

《・・「一等国」意識の暴走 背景に国民の熱狂

明治から昭和にかけての歴史は、

日露戦争(1904~05年)でいったん切った方がわかりやすいと、
半藤さんは言う。

日露戦争までは、欧米列強に植民地にされるのを回避するため、

近代化を急いだ時期だ。
巨額の軍事費をまかなうため、国民は重い負担に耐えた。
ロシアに対して、世界中が日本が負けると思っていた戦争を始めたのも、

自衛のためだった。

日露戦争から昭和の初めまでは、日本が大国として振る舞った時期だ。
戦争に勝ち、「一等国」の仲間入りをしたと国民は確信するが、

そこから日本が変わっていく。

自分たちは一等国民だという意識で動き始めたようだ。

例えば、第1次世界大戦の戦後処理を決める1919年のパリ講和会議では、
分け前を声高に主張して顰蹙(ひんしゅく)を買う。

国際社会で孤立を深めた日本は、

英米に敵対感情を抱くようになり、33年には国際連盟を脱退する。

当時の指導者たちは、情勢を直視せず、国際法を顧みずに暴走した。

 そして、米国を相手に、勝ち目のない戦争へと突き進んだ。

その背景に国民の熱狂があったことが、半藤さんの話から伝わってくる。 (服部)・・》




私は1944年(昭和19年)の9月に生を受けた身であり、
乳児で1945年(昭和20年)の8月の敗戦であったので、
戦争を知らないひとりである。

こうしたあの時代に、現世の私は心を痛め、ただ無力な私は、
深く学んだりしている。
        
     

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新型コロナウイルス感染の対策、我が家も遅ればせながら強化して・・。

2021-01-12 09:26:35 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の76歳の身であり、
家内は私より5歳ばかり若く71歳となる。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、
我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後40数年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。


昨年の新春、世界の誰しもが予期できなかった新型コロナウイルスに伴い、
世界の多くの人が、生死の関わる難題に遭遇して、今日に至っている。

過ぎし昨年の2月上旬の頃から、新型コロナウイルスに伴い、テレビのニュースなどで、
感染した事態が日々報じられ、これ以来何かと重苦しい風潮の中、
私は戸惑いながら過ごしてる。 




こうした中で、せめて私ができることは、
政府から公布された、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために、
やむなく「新しい生活様式」を遵守したりしてきた。

おひとりおひとりが、「相手と身体的距離を確保すること」、
「マスクの着用」、「 手洗いや咳エチケット」、
「三密(密集、密接、密閉)」を避けるといった、
約束は国民のひとりとして、確かな責務、と実施したりしてきた。

そして世の中は、自粛から自衛の風潮に変貌し、
無力な私でも大切な社会経済の復興を願っているが、
新型コロナウイルスが沈静化するまで、自分の身は自分で守りながら、
程々に自粛生活の延長戦する、と受け止めたりしている。



この間、私はマスクが苦手で、
昨年の2月の中旬まで、これまでマスクをしたことはなかったが、
生まれて初めて極く一般の白いマスクを付けて、歩いたりしてきた。     

しかしながら、この後の3月になると、ドラッグストア、スーパー、コンビニなどで、
私たち夫婦のマスクを更に必要となり、買い求めようとしたが、
母を訪ねて三千里のように探し求めてきたが、
わずか6つばかり何とか入手できたが、マスク迷子の悲惨な時を過ごしたりした・・。
        
やがて4月23日、あるドラックストアーに寄った時、
たまたまマスクの入荷にめぐり逢えて、久々に買い求めることが出来たりした。

この後、ドラックストアーで買い求めることができたが、
私は我が家の平素の買物専任者、或いは散策と、毎日使い捨てのマスクをしてきたした。


こうした関係により、我が家の家内の使用分を含めると、

少なくとも300以上は買い求めたかしら、と思ったりしている。



しかしながら、私が新型コロナウイルスの烈風で、
何よりも驚嘆した出来事が、心の片隅に残っている・・。

過ぎし2020年2月27日、新型コロナウイルス対策本部に於いて、
安倍晋三内閣総理大臣は3月2日から、
全国すべての小学校・中学校、高等学校について、
春休みに入るまで臨時休校とするよう要請する考えを示し、
文部科学省は全国の関係機関に要請を行った。

多くの子供たちや教員が、日常的に長時間集まることによる大規模な感染リスクに
あらかじめ備えるのが狙いであった。

そしてこれを受けて企業でも事業の中止や縮小が相次いだ。

教育産業である学習塾に留まらず、小売店やレジャー施設も休業や休園を表明した。

これに関連して、学校給食がなくなったことによる食材ロスや業者の損害が発生したりした。

そして児童、生徒への直接的な影響としては修学旅行の中止または延期などがあったした。

こうした中で、共働きあるいはシングルマザーの世帯において、
子供を職場に連れていくことが困難なために、仕事を休まざるを得ずの情況を学んだりした。

このような全国で3月から5月にかけて、
新型コロナウイルス感染症拡大予防のためにとでの一斉休校は、
多大な社会影響に及び、私なりに感じて、学べば学ぶ程、
震撼させられたりした・・。



こうした中で、体力の衰えた私は、殆ど毎日のように、
自宅の3キロ周辺にある公園、遊歩道、住宅街の歩道を散策している。


そして小学校の登校時などで学童を見かけない情景、
学童たちの下校時の歓声の声も聴こえなくなったりした・・。



或いは市内にある深大寺の付近を散策していた時、
深大寺に立ち寄った時、境内で人影が少なく、付近の多くの食事処が閉店となったりしていた。

このような閑散とした情景は、ここ50年、私としては初めての視た実態に、
感嘆させられたりした。



昨年の12月26日の土曜日、昨日の27日の日曜日を遊歩道、
やがて住宅街にある小公園は家族連れの多くが、
日頃のコロナの烈風の閉塞感から、解放されたように陽射しの中で、
 歓声も上がったりしていた・・。

やがて住宅街の歩道を歩いていた時、ひとつの掲示板を見て、
私は微苦笑をしてしまった・・。



過ぎし一カ月半前の頃、長らく感染に対応する医療関係者の重圧、疲労感が増し、
医療崩壊の危険が叫ばれる中、
西村康稔コロナ対策担当大臣が確か昨年の11月25日頃、勝負の3週間、と決意されたりした。

この後、都心の街並みは、人出が多く、
やはり『三密』のエチケットも無視される御方が多く、
無力な私は憂いたりした。

私は菅義偉首相が国民の命を守る為に、感染が沈静化するまで、
人の動きを止める為『GoTo』関係を中止、
宣言されることを待ちわびたりした・・。




やがて昨年の12月14日夜、、遅ればせながら菅義偉首相は、
首相官邸で開いた新型コロナウイルス感染症対策本部の会合で、
観光支援事業「GoToトラベル」について、
28日から来月11日までの間「全国一斉に一時停止する」と表明されたりした。

私は、西村康稔コロナ対策担当大臣が確か昨年の11月25日頃、勝負の3週間と公明され、
12月14日まで、菅内閣として感染の拡大を放置していたのか、
と余りにも遅い言動に不信を深めたりした。



このような憂いながら心痛の思いで過ごしてきた私は、
政府の要人のあきれ果てる言動、一貫性のない言動にあきれ果てて、
多くの国民は緊張感をなくし、つい気がゆるみ、
今回の感染拡大に至っているので、悲嘆を深めたりした・・。

更に1月8日に『緊急事態宣言』が発令されたが、
専門知識のない私でも、余りにも規制されていることが生ぬるく、
愕然としたりした・・。

この『緊急事態宣言』が発令する前の序曲として、菅義偉首相は、
衆参の国家議員に、終息するまで朝食、昼食、夕食を問わず、
禁止する要請を行うべきであった。

その上、各自治体の協力を依頼して、首長の知事より村会議員まで、
会食を自粛を願う。

或いは今後、国会で審議される新型インフルエンザ等対策特別措置法に
罰則規定を盛り込んだ改正案は、18日召集の通常国会に提出される、
と報じられている。
 
この審議に関して、公共放送のNHKに協力要請をして、

実況中継の行い、視聴している国民の前で国家議員の論説と言動を見守る・・。

このようなことを見た国民は、改めて再び自粛を強めて、
終息にむかっていく・・と夢想してきた。

しかしながら菅義偉首相は、このような新型コロナを終息させるふるまい、
そして渾身の力量は欠け、やはり国民の命と健康を守る責務は、
無理なのかしら、と思いを深めたりした・・。



昨日、我が家は遅ればせながら、
家内の進言で、室内の感染防止を少し強化した・・。

何かしらスーパーなどの出入り口に設置してあるアルコールで
手指の消毒を行い、
ウィリスを持ち込まないように固定型の大きな除菌のスプレーが設置してある。

これに準拠して、家庭用の据え置き型を買い求めたりした。

或いは玄関などで、使用したバックや靴などのウィルス除去や除菌を行うように、
持ち運びが簡単なスプレー式も買い求めた。

そして私たち夫婦は、我が身は自身が守る決意を、
改めて再確認したりしている。

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まもなく1月15日は『苺(イチゴ)の日』、ささやかな私のイチゴの想いを思い馳せて・・。

2021-01-11 09:00:35 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の高齢者の76歳の身であるが、
今朝ぼんやりと、我家のキッチンの壁際に掲げている風物詩に富んだカレンダーを見ていると、
何故かしら1月15日は『苺(イチゴ)の日』とイチゴの絵も描かれて、可愛らしく表示されていた。

私はイチゴの生産か販売に携(たずさ)わる方たちが、
イチゴの消費拡大を目的として、1月15日に於いて、
【一五(いちご)】の語呂(ごろ)あわせ、健気(けなげ)に制定した、
と何かの本で読んだことがあった。

そして私は、イチゴかょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
つたない私でも少しばかり思いがあり、ささやかな想いも秘めているので綴る。




私は2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めて、自主的に日常の買い物を担当しているので、
もとよりスーパーの生鮮野菜コーナー、果物コーナーなどを見たりしている。

この時節、イチゴの赤く成熟した大粒が並んでいる。
家内は好きな果物のひとつであるので、買い求めたりしている。



★ネットより、写真をお借りした★


過ぎし1951年(昭和26年)の頃、小学1年生であった私は、
祖父、父が健在で、小作人だった人たちのご協力を得ながら、程々広い田畑を耕していた。

こうした中、父の妹のひとりは20歳で未婚だったので、

私はこの叔母に何かと懐(なつ)いたりしていた。

この叔母は陽当たりの良い畑の一角で、草花を植えたり、
イチゴなどの果物を植え込んでいた。

草花は仏様、お墓の墓前に供えたり、或いは室内の花瓶に生けたりしていた。

こうした中、イチゴは5月頃になると、

白い花をつけた後、結実し、初夏の頃に赤み帯びて成熟する。


★ネットより、写真をお借りした★


私は幼年期であり、イチゴを見つめながら、
『まだ駄目・・!?』
と私は叔母に懇願するように言ったりした。

『まだ白さがあるでしょう・・もう少し・・待ってからねぇ・・』
と叔母は言いながら、2坪ぐらいの広さのイチゴ畑の中で、
少し赤く色づい実を捜して、ひとつぶを私の口に入れてくれた。

私は口の中で噛み砕いているうちに、甘み拡がってきた・・。




1975年(昭和50年)、家内となる女性と交際をはじめ、婚約した後、

確か1月の下旬だったと思うが、
東京駅で待ち合わせ、新幹線の『こだま』で清水駅で下車して、

やがて路線バスを利用し、日本平付近の丘陵のイチゴ園に行ったりした。

陽当たりの良い丘陵の中、ビニールハウスの中で養育されていた。


そして入り口でカップに入れたミルクを頂き、

ハウス内のイチゴを捥(も)で食べる方法であったが、
途中で私は家内となる女性に私のミルクを手渡して、私は外に出たりした・・。

まもなくハウスの入り口から少し離れた所で、
ぼんやりと私は、海上の光る浪間を観たりしていたが、

ときたま微風を受けると寒さが感じられた。

そして私はいちごを3粒を頂いたが、
初夏の果物がどうしてと思いながら、戸惑ったことは確かであったりした。



思い馳せれば、1960年(昭和35年)の高校生になると、

季節を問わずショート・ケーキの上にイチゴが載せられたり、
日本の各地でビニールハウスの情景が見られたりした。

私は民間会社に中途入社した1970年(昭和45年)を過ぎる頃、
会社の部署旅行で2月に旅先で、イチゴ園に寄ったりした。


このように私は露地栽培の初夏、

実がまばらな小粒で、淡い甘さが幼年期の想いでを体験している為か、
昨今のイチゴには、殆ど一年の大半にイチゴを見かけたりすると、
季節感がなくなった、と戸惑いを覚えたりしている。

そして、私は日本酒の辛口、ビールなどのお酒大好きな呑兵衛のひとりだったので、
イチゴは女性、そして女の子、男の子らの婦女子の果物のひとつであると確信し、

40数年過ぎている。

家内が、この冬の時節も愛食しているが、
私は買い求めてきたイチゴのパック詰の中から、

2粒ぐらいお付き合いしている程度が実態となっている。




このようなイチゴに、ささやかな思いがあるので、
昨今は、コンビニなどでも、イチゴのスイーツのおしゃれな食べ物を見かけたりし、
高齢者の私には無縁かしら、と微苦笑したりしている。
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明日は『鏡開きの日』、やがて『女正月』かしら、と高齢者の私は思い馳せたりして・・。

2021-01-10 08:16:06 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の76歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見ると、明日は『成人の日』と朱記されていて、

確か20年前の頃までは15日だったよなぁ・・と微苦笑したりした。

そして11日は確か『鏡開きの日』だったよなぁ、と思ったりした。

数多くの御方が3連休の中、ご家族でゆっくりと過ごされ、
家庭を守る主婦たちは『女正月』として、今年初めてのんびりとくつろげる日かしら、
と私は思ったりした・・。




もとより家庭を守るご主婦たちは、昨年の中旬までにお歳暮を済ませた後、
その後は大掃除、年末年始の準備をしたり、御節料理の買物、料理などで多忙な日々を過ごしてきた。

そして新年を迎え、ご家族一同で初詣をしたり、新年会をされたりした後、
6日には仕事始めの主人を送りだし、7日の朝食の代わりに『七草がゆ』を頂き、
お子様も三学期の『始業式』となる。

そして明日の11日には、お供えの鏡餅を下ろし、『鏡開き』をして、
小豆(あずき)がゆを食べたり、 何かしら初めてほっとご家族で過ごすことができるのは、
この時節と思ったりした・・。


私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなかったので、
我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
叔母、長兄、或いは友人のご家庭を見たり、聞いたりしてきたので、
このようなことを長らく思ったりしたのであった。

大正時代の頃から日本の多くの人たちは、このように過ごされ、
特にご婦人たちがゆっくりとした気持ちになれるので、『小正月』と命名されたり、
『女正月』とも称せられたりしてきた。


しかしながら昨年の初春より、新コロナの烈風に伴い、
多くの御家庭で平年に比べて、大幅に生活が変更が余儀なくされたことも確かである。
          



私は1944年(昭和19年)の秋に生を受けて、
東京オリンピックが開催されて1964年(昭和39年)に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、やがて敗退し、
ある民間会社に何とか中途入社できたのは、1970年(昭和45年)の春であった。

職場で共にした多くは、新卒の団塊の世代であり、妹のふたり、そして家内もこの世代の人である。

そして私たちの先輩たちは、1960年(昭和35年)の前後から、日本の高度成長と共に、
一生懸命に社内で働いて、一家の収入の責務を負い、
奥様は専業主婦となり、子供の育児などを含めて、家庭内の専守防衛に徹して、

主人の後方支援となっていた。



このような先輩たちを学びながら、私達の世代、そして団塊の世代も邁進した。

こうした中で、一家の主(あるじ)が懸命に働ければ、年収は確実に上昇し、
専守防衛の専業主婦に収入を渡すことができ、喜びを共にできた時代であり、
確かに明日に希望を託すことの出来た時代であった・・。

こうした中で、ささやかながら、白黒テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機など、
その後は自動車、クーラー、カラーテレビなどの耐久商品を少しつづ購入しながら、
住宅を一生の高い買物と思いながら、ローン返済に奮闘したり、
子供の教育にも自分たちの夫婦より、少しでも高いレベルと思いながら、捻出して、
家族それぞれが悦びを共に享受できた時代であった。



         
やがて1989年(平成元年)11月初旬に東ドイツが市民に寄る『ベルリンの壁』が崩壊した後、
やがて米ソの冷戦構造が終結され、
世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済そして社会が一変した・・。

世界は社会共産経済も消滅し、世界の主要国は自由経済となり、
日本は東ヨーロッバ、アジアの諸国などの経済競争力に巻き込まれて、経済は低下した。

こうした中で、日本に於いては、1991年(平成3年)にバブル経済の崩壊後は、
日本経済の足かせになってきた企業の《雇用・設備・債務》の過剰問題は、
民間会社の多くは自助努力に基づいて、過酷な程、事業の再編、人員削減を行なってきた。

私は中小業の民間会社に勤めた身であったので、
まともに大波を受けたりし、多くの先輩、同僚たちと別れ、
そして残された私たちは困苦の時期を過ごした体験もある。

この間、数多くの民間会社のサラリーマンはもとより、多くの国民が困惑した時期を送られた、
と私は確信を深めたりした。



          
そして周知の通り、失われた20年の政治は混迷、経済は低迷、そして社会も劣化し、
ここ10年は特にたえず短期に成果を問われる勤務となったりした。


こうした中で、たとえ大企業の正社員であっても、安住できない時代となり、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉の人たちは、このように過酷な状況の中で奮戦している。

もとより私達が30、40代まで昭和の時代と共に過ごし、
やがて昭和の時代が終わった頃から、『昭和妻』と称せられた専業主婦の家庭も激減し、
数多くの家庭も共稼ぎ時代となったのは、まぎれなく30年近く実態となっている・・。

このように無力な年金生活の私は、時代に翻弄され、明日に希望を託せない閉塞の現世に、
ときおり思い馳せたりすると、瞼(まぶた)が熱くなる時もある。
          


昨年の今頃、たまたま私は買物に出掛けた時、
私の甥っ子である長兄の子供ふたりの中の一番目の子に逢った・・。

長兄の子供といっても、45歳となり、お嫁ちゃんを連れ立っていた・・。

『女正月の日だから・・たまには・・のんびりとお2人で・・』
と私は甥夫婦のふたりに云ったりした。

『叔父様・・女正月は昭和妻の名残りだわ・・
叔父様たちには悪いけれど・・当世では昭和妻は死語ですょ・・』
と甥のお嫁ちゃんは、微苦笑しながら私に云ったりした。

この後まもなくして、私は別れたが、
甥夫婦の後ろ姿を眺めながら、確かに甥夫婦にしても、
妹の子供ふたりも40代で夫婦共稼ぎをしながら、仲良く堅実に生活している状況となっている。


そして私は思い重ねたりし、私たち夫婦が過ごしてきた時代と、
大きく変貌していることに改めて実感させられたりした。

こうした心情を秘めてきた私は、働いて下さる諸兄は多忙の中、せめてこの3連休ぐらいは、
愛する妻と可愛い子供と共に、ご家族でのんびりと過ごされれば・・と無力の私は願ったりしている。
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ときには昭和天皇の崩御の時を思い馳せ、そして時代の変貌に溜息を重ねて・・。

2021-01-09 08:02:47 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の76歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

一昨日の7日の朝、冬晴れの朝の中、我が家のお正月に彩〈いろど〉ってくれた松飾りに、
別れを
告げた後、いつものような日常になったよねぇ・・、
と私は家内を労(いた)わるように言ったりした。

まもなくした後、我が家の平素の買物の専任者の私は、
家内からの依頼された品を求めて、スーパーで買物を終えた後、
やがて自宅の近くに流れている野川の遊歩道を散策した・・。



そしてまもなくして、昭和天皇がご逝去された日だった、と遅ればせながら気づいたりした。


私は1944年(昭和19年)の秋に、今住んでいる近くに生家があり、
農家の三男坊として生を受けたりした。

こうした中で、多くの家庭と同じように天皇家には何かと敬(うやま)う空気の中で育ち、
昭和天皇に関しては、私の40代かばまで『昭和』の時代で過ごしたので、
もとより自己形成、歴史観などで、多大な影響を受けていた。


1988年(昭和63年)の晩秋、私はこの当時は、
音楽業界のあるレコード会社に勤務して15年が過ぎ、
管理部門の情報畑で、翌年の4月より実施される『消費税』のシステム対応の開発に追われていた。

こうした中で、昭和天皇が病状が悪化し、社会は何かと自粛の空気につつまれていた・・。

そして、私の勤めていた会社でも、
音楽の世界では世界的な有名なロック・グループの『ボン・ジョヴィ』が、
日本のある大手家電メーカーが強力なスポンサーとなり、
年末に日本で公演されることになっていた。

こうした中、公演中にテンカウントダウンを華はなしく実施する予定が、
なぜか中止となり、せっかくのチャンスだったのに、
と私なりに落胆をしたりしていた・・。


やがて1989年(昭和64年)の1月7日の朝、
私は昭和天皇が崩御された、とNHKのテレビのニュースで視聴し、
とうとう陛下様は亡くなわれてしまった、というのが率直な思いであった。

私はいつものように出社し、社内の恒例の朝礼の時、
専務取締役の指示で、フロアーを共にした各部署の一同は、皇居の方面に向かい、黙祷をささげた。

その後の私は、4月から『消費税』の対応策で多忙な身である上、
更に『昭和』から新たな『平成』と制定されると、
コンピュータの和暦の表示を『請求書』に至るまで改定したので、慌しい日々を過ごしていた。

こうしたこともあるが私の心情は、平成元年といわれるより、
昭和64年といった方が心身の波長が合うので、何かしら戸惑ったのは事実である。

もとより平成の時代は、昭和天皇がご逝去されたのが1989年(昭和64年)の1月7日により、
平成元年は1月8日から初まり、やがて平成31年・・
その後は、新たな令和の時代となっている・・。



私は平成の時代の始まりを思う時、
何故かしら1989年(平成元年)の11月9日から東ドイツが
市民に寄る『ベルリンの壁』を実質的に撤去の出来事と重ねてしまうのである。

この後、米ソの冷戦構造が終結され、世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、
やがて社会が一変したからである。

このした中で、私たち日本の生活に於いて急速に変貌したのは、アナログからデジタルに変貌したこと、
そして水をペットボトルなどで購入したことなどを思い馳せたりした・・。

音楽愛好者からすれば、音楽の録音品のレコード、カセットはCDに普及して平成を迎え、
録画のビデオ・テープは平成になってまもなくDVDに変貌し、
この後はブルー・ディスクも普及している。

そして音楽配信が携帯電話が主流で普及した後、
昨今はスマートフォンに隆盛化の時代を迎えている。



何よりも国民全体すれば、圧倒的に社会を変貌させたことはパソコンが普及し、
インターネットの急激な浸透である。

1995年(平成7年)の秋に『Windows 95』が発売され、
それまでのパソコン愛好者、専門職を領域から、 大衆化したことである。
そして、これに連動して、インターネットが急激に普及し、ネット通販の隆盛となっている。

もうひとつの変貌は、モバイル情報の発生であり、携帯電話の急激に普及であり、
そしてここ10数年はスマートフォンに隆盛化の時代を迎えている。

映画のオリバー・ストーン監督の『ウォール街』は、
1987年(昭和62年)にアメリカで公開された作品がある。

冷酷で貪欲な投資銀行家が、浜辺で大きな携帯電話を持ち、会話しているシーンがある。
確か、この頃は大きめのラジカセのような形の携帯電話であり、破格な高価な品であった。

平成になると、形も性能も向上、価格も廉くなり、やがて日本で一億台突破となり、
殆どの日本人が愛用した後、ここ10数年は高性能のスマートフォンの急速に普及となっている。


私は20世紀の時代は、テレビと原子爆弾の世紀だった、といわれたりしているが、
こうしたことを流用すれば、
過ぎ去った平成の時代は、ネットとモバイルの代表の携帯電話、と断言したくなる。

こうした中で、何よりも変貌の実感をさせられたことは、
一部の専門のマスコミ、著名人などから発信できる時代から、
誰でも簡易に発信できる時代となり、こうしたことは文明史上初めてのことである。

もうひとつの日常生活に於いて、水を買い求める時代である。
『缶』から『ペットボトル』に変貌しているが、私は日常の外出先とか旅先で、
自動販売機で煎茶のペットボトルを買い求めることが多い。
これも平成の時代の始まりの頃からと記憶している。


私は4年前までは煙草の愛煙家のひとりであったが、
日本に嫌煙ブームが始まったのも、平成になってからである。

喫茶店でテーブルの上には、灰皿と喫茶店独自のマッチが置いてあったりした。
飛行機の機内でも水平飛行になれば、スーモキング・ランプが点(つ)いたり、
そしてJRの車内の座席の脇に灰皿が設置されたりして、ときおり煙草を喫う方が見られたりした。

私がギックリ腰が酷く入院生活を1991年(平成3年)の頃は、
整形外科のフロアーの片隅に喫煙コーナーがあり、
煙草を吸わない人でも憩いの場として、団欒していたりした。



私は定年退職した2004年(平成16年)の秋であり、
多々の理由で年金生活を始めたりしたので、社会状況に疎(うと)く、
もとより若き諸兄諸姉はご存知であるから、省略する。

こうしたことを思いつくまま馳せたりし、
昭和の時代が終わり、平成の時代になってから大きく変貌したことは、
私は何より社会が劣化し、言葉、しぐさが雑になった、と憂(うれい)いている。

そして平成の時代に育ち、現在は10代、成人となられた世代の方たちに、
たとえば映画の小津安二郎・監督の『東京物語』(1953年=昭和28年)を観た時、
どのように反応するのかしら、と齢を重ねた76歳の私は限りなく関心がある・・。

このようなこと散策しながら思ったりし、せんなきことかしら、と苦笑し帰路に向った。
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寒さが増す時節の時候、挨拶を思い馳せて、やがて私は独り微苦笑を重ねて・・。

2021-01-08 08:27:34 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の76歳の身であるが、
今朝、地元の天気情報を視ていたら、
朝の6時はマイナス2度、昼下がりは5度前後、そして夜の6時は3度前後、
晴れ一時曇りとなり、ときおり北風が吹き、寒さを感じる一日になります、
と報じていた。

過ぎし6日に『小寒(しょうかん)』となり、寒さの始まりの『寒の入り』と伝えられ、
この頃から寒さは厳しくなり、寒中見舞いを小寒から出し始める、と亡き母から教えたりしてきた。

やがて 1月20日頃には『大寒(だいかん)』を迎えて、一年で最も寒い時期と古来から伝えられている。
そして小寒から大寒までの15日間と大寒から立春までの15日間の合計30日間を『寒の内』と
古人から長らく伝えられてきている。


私はこうした寒い期間でも、我が家の平素の買物専任者であるので、
殆ど毎日であったが、昨年より新コロナの烈風より3日分を一回に集約して、
駅前とか最寄りのスーパー、専門店に買物をしたりしている。

そして体力の衰えを実感している私は、
殆ど毎日のように、自宅の3キロ周辺の遊歩道、小公園を歩き、
季節のうつろいを享受している。
              

こうした時の私の容姿は、冬の厚手のスポーツ・シャツの上に、フリース状のジャンパー、冬用の長ズボン、
そしてウォーキング・シューズで颯爽と歩いたりしている。

ときには寒気団が襲来している時は、冬用のフィールド・ジャケットを着こむぐらいで、
いずれもマフラーは不要としている。

こうして天上の気候の神々のきまぐれな采配の三寒四温の中、
人生は気合だ、と自宅の3キロ周辺を歩くことが多い。

私は夏の暑さ何よりも苦手であるが、この時節に寒いと感じたら、
夏の猛暑を浮かべたりしている。

こうした中、♪さ霧(ぎり)消ゆる湊江(みなとえ)の・・『冬景色』の歌、
ときには、♪春は名のみの風の寒さや・・『早春賦(そうしゅんふ)』の歌、
人影のない遊歩道、小公園を歩きながら、かぼそい声で唄ったりしている。
       


先ほど私はぼんやりと、この寒い時節は、厳冬、酷寒などと古来が称せられ、
この時節の時候、挨拶とかを思い馳せたりした・・。

例年になく寒い毎日

いよいよ本格的な冬将軍の到来

ちらちらと白いものが舞う今日この頃

寒気身にしむこの頃

大寒に入ってから寒さがいっそうつのり

などと手紙の前文の時候挨拶に使われるが、
たまたま1952年(昭和27年)の頃の雑誌を読んでいた時、

忍従の冬はいつ果てるとも知れず

いよいよ大寒に入り、寒威逐日相募(あいつの)り

と表記されていたので、私は独り微苦笑させられたりした。

あの頃の時代の寒さに比べて、
昨今の地球温暖化で、多少寒さが柔らだいたと思われる・・。

そして何より各ご家庭の暖房の設備が大きく変貌した上、
衣服も遥かに快適となってきたので、
あの頃の人々は、それぞれの地域に御住まいの人たちは耐えた、というのが実感だった、
と私なりに想いを馳(は)せたりしている。

       

私は幼年期は農家の児の三男坊として育ったのであるが、
小学校に入学して1951年(昭和26年)の当時は、
母が陶磁の湯たんぽに熱湯を入れて、古着の布切れを巻いて、
私の寝る布団の中に入れてくれたりした。

この当時の農家は、炭を熾(おこ)した火鉢(ひばち)を数箇所の部屋に置き、
台所の付近にある食事処は、囲炉裏のある板の間であったので、それぞれ座布団を敷いて、
それぞれのお膳を前に頂いたりした。

確かに火の近くは暖かかったのであるが、全般としては寒い部屋であった。



私の幼年期は、毎年、冬の時節になると、雪が30センチ前後が数回降った。
       


1951年〈昭和26年〉の春に私は地元の小学校に入学したが、
初めての冬に雪が降り、登校した時が想いだされる・・。

ゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
番傘を差して、家を出た。

家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、ときおり風が吹き、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。

そして駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、一キロぐらいで、

学童の身としては15分程度の村道を歩いていた。

この時の村道も雪かきもされていないのが殆どであったので、
祖父、父の知人の畑も雪に埋もれて、少し吹雪いていたが一直線に畑の上を歩いて登校した。

この当時の小学校は、木造の二階建てであり、

教室の片隅にあった木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)があったりした。

こうした中、この当時のこの地域の村立小学校に於いては、
コークスはもとより、石炭も使用される前の時代であったので、
正方形の中心に簡易に造ったブリキの中で、炭を熾(おこ)してあるか、

薪(まき)が燃やされていた。

私たち学童は、この木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)を囲みながら、
衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。

そして、学級のクラスの中で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と互いに悪口を言い合っていたりした。

下校のひととき、私も番傘でチャンバラの真似事をし、番傘の数箇所が破れ、

帰宅後に母に怒られたりした。

このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。

        

その後、1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉であるが、
この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。

やがて1964年〈昭和39年〉に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。
          



このような遠い私の幼年期のことも思い馳せ、
昔は寒かったよねぇ・・、と微苦笑したりしている。

そしてこの当時より、やがて石油、ガス、電気などのストーブ、ファン・ヒーター、
何よりもエアコンにより部屋全体が暖められることに、
私は甘受をしたりしている。
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七草粥の朝、我が家は今年も無縁となり、私は平素の一汁三菜の朝食となり・・。

2021-01-07 08:35:26 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の76歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

今朝、冬晴れの朝の中、我が家のお正月に彩〈いろど〉ってくれた松飾りに、
別れを告げながら、整理した。





       
☆我が家のお正月飾りは、家内が中学生の頃から茶事 を学び、
たまたま裏千家の流派で、お正月の祝いのひとつの品に準拠して、
左側にあるひとつばかりの品を代用し、簡素としている☆


この後、私は五穀米が入った白米のご飯、ワカメの味噌汁、春菊のゴマ和え、
カブの醤油漬、コブの佃煮、海苔(ノリ)が五枚、ラッキョの塩漬けを頂いたりした・・。


私は幼年期に農家の児として育ったので、齢ばかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』が、
何かと心身の波長に合うのであるので、頂いたりした。

家内は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、コーヒーを飲みながら頂いている。

もとより古来より正月の7日の朝食には、七草粥を食べる習慣の家が圧倒的に多いと思われるが、
恥ずかしながら我が家の朝食は、世の中の時流に逆らっているよねぇ、
と私は朝食の時に話しかけて、お互いに微苦笑したりした・・。
          

我が家は、私の定年退職した2004年〈平成16年〉の頃からは、
この日の朝は七草粥は食べた記憶はない。

昨日、平素の我が家の買物専任の私は、午前中のひととき最寄のスーパーに買物に行った。
野菜売り場のコーナーで、『春の七草』のセット品が50前後があり、
私は立ち止まり眺め、微苦笑したりした。

このスーパーは、4日の月曜日から、『春の七草セット』が販売されて折、
チラシの中に於いては、下記の通り明記されていた。


《・・ 七草がゆ
1月7日正月、七草正月とも言われ、早春の若草を粥に入れて、春の訪れを楽しむ日です。

7日の朝に、春の七草を入れた粥を食べると万病がさけられると言われ、今年一年の家族の健康を願います。
中国から伝わり江戸時代に広まった習慣のようです。》

と中学校の義務教育を卒業した方なら、だれでも解るように優(やさ)しく明記されていた。

私は、『春の七草』の1パックの品を眺め、『新春を祝う 春の七草』と明記され、
神奈川県産と表示されて、1パック398円(税込)と大きく棚の所に明記されていたので、
微苦笑を重ねたりした。

もとより七草は、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベ、ホトケグサ、スズナ、スズシロであり、
スズナは野菜のカブであり、スズシロはダイコンであることは多くの御方に知られている。



                           
☆ 過ぎし確か8年前の1月2日に都立『神代植物公園』に私は訪れた時、

正面出入り口に近い植物会館に於いて、この中に展示室がある。

そして時節ごとに展示品が公開され、たまたま一角に新春を祝う『春の七草』が、
このように展示されていたので、30センチ足らずの竹かご飾りに瞬時に魅了され、

私は記念に撮ったりした。


ここ10数年、 私は七草粥の祝い事には興味がなく、
遠い昔の頃は、この冬の時節は何かと野菜不足であったので、
新春のひととき七草粥(ななくさがゆ)をそれぞれの御家庭で召し上がった、

と私は解釈している。

少なくとも現代は、この寒い時節でもキャベツ、レタス、セロリ、ホウレン草、ダイコン、カブ等が多品種にあるので、
私たち夫婦は、特に七草粥には興味がなく今日に至っている。
          

私は今住んでいる近くに生家があり、そして農家の児として、

1944年(昭和19年)の秋に生を受けたりした。

やがて、1951年(昭和26年)の小学1年生の頃は、
祖父、父が健在で、程々の広さの田畑を小作人だった人たちのご厚意の助けも借りて耕していた。

旧暦の1月7日は、今の暦に於いては2月中旬頃であると思われるが、
田んぼのあぜ道、畑の小道の外れに多彩な野草が数多くあった。




父の妹の叔母の2人は、結婚する前の時期であり、
ノビルやヨモギなどを取り、私たち長兄、次兄、私にも食べさせてくれた。

ノビルは今でいうとラツキョの小型の形をしており、真っ白な小玉が先端にあり、
さっとお湯をとおした後、味噌に砂糖を加えた甘味噌を付けて口に含んだりした。

早春の頃は、カブ、ダイコン、ホウレンソウ、ネギ等の野菜の中、
子供心にもノビルは早春の香りを感じたりしていた・・。

ヨモギも叔母達が摘んで、撞(つ)きたての餅などに入れ、私たちも香りと歯ごたえを共にした。

ナズナはペンペングサと呼んでいたが、次兄が兎(ウサギ)を飼っていたので、
次兄は叔母に教えられて、餌として盛んに採っていた、と微かな記憶が残っている。

この他の七草は多分生えていたと思われるが、無念ながら幼年期であったので記憶が定かでない。




このようなささやかな想いも秘めている私であるが、
日本人の古来からの行事のひとつ『七草粥(ななくさがゆ)』を頂くこの日の朝、
私たち夫婦は何かと和事に関心は多いが、ときには矛盾することもあるよなぁ、と私は苦笑している。
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『寒の内』の時節を迎えて、都心の郊外は冬麗の季節の到来、とプラス思考の私は微笑み・・。

2021-01-06 09:14:12 | ささやかな古稀からの思い
昨日の朝、ぼんやりとカレンダーを見ると『小寒(しょうかん)』と明記されていた。

1月6日の『小寒』は古来より、寒さの始まりの『寒の入り』と伝えられ、
この頃から寒さは厳しくなり、その後の1月20日は『大寒(だいかん)』を迎えて、
一年で最も寒い時期と伝えられている。

そして『小寒』から『大寒』までの15日間、
その後の『大寒』から2月3日の『立春(りっしゅん)』までの15日間の合計30日間を『寒の内』と
古人から長らく伝えられてきている。

『寒の内』と称せられる『小寒』、『大寒』そして『立春』までの時節は、
旧暦であるので、今の暦(こよみ)に於いては2月中旬頃から始まると思われるが、
私の住む東京の郊外の調布市の地域でも、寒い時節となる。


私はこの地域に生家も近くにあり、結婚前後5年間を除き、
早や71年ばかり住んでいる。



私は農家の児として育ち、遥か70年前の頃は、この冬の時節に30センチ前後の雪が降っていた。




1951年〈昭和26年〉の春に私は地元の小学校に入学したが、
初めての冬に雪が降り、登校した時が想いだされる・・。

ゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
番傘を差して、家を出た。

家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、ときおり風が吹き、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。

そして駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、一キロぐらいで、

学童の身としては15分程度の村道を歩いていた。

この時の村道も雪かきもされていないのが殆どであったので、
祖父、父の知人の畑も雪に埋もれて、少し吹雪いていたが一直線に畑の上を歩いて登校した。

この当時の小学校は、木造の二階建てであり、

教室の片隅にあった木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)があったりした。

こうした中、この当時のこの地域の村立小学校に於いては、
コークスはもとより、石炭も使用される前の時代であったので、
正方形の中心に簡易に造ったブリキの中で、炭を熾(おこ)してあるか、

薪(まき)が燃やされていた。

私たち学童は、この木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)を囲みながら、
衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。

そして、学級のクラスの中で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と互いに悪口を言い合っていたりした。

下校のひととき、私も番傘でチャンバラの真似事をし、番傘の数箇所が破れ、

帰宅後に母に怒られたりした。

このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。

        

その後、1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉であるが、
この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。

やがて1964年〈昭和39年〉に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。
          
こうした幼年、少年期を体験した私は、この時節の寒い時期を迎えると、心の奥底に雪恋しとなり、
私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、この時節になると北の地域に旅行し、
雪の情景を享受してきている。


そして5年前の頃まで、舞い降る雪の旅路を幾たびも重ねてきた・・。



もとより積雪の多い地域に御住まいの御方は、
雪の除雪、通勤、通学、買物などの日常生活は、過酷な冬の季節となる
と3人の知人から学んできたが、
私たちの場合は、あくまで遊学の旅路であるので、ご容赦を願いたい。
        
      

ここ2週間に於いても、どんよりとした曇り空の中、ときおり北風が強く吹く日は、
少し寒いじゃないのと思いながら防寒服を着て、手袋をしたりした・・。

そして私は歩きながら、何かと単細胞の私は、
♪春は名のみの風の寒さや・・
かぼそい声で『早春賦(そうしゅんふ)』の歌を唄ったりした。

しかしながら天上の気候の神々のきまぐれな采配より、
ときには南風に乗って暖気が運ばれて、陽射しは燦燦と、風もなく、
冬晴れの日中となり、平年より5度ぐらい暖かく、戸惑いながら微笑んだりしてきた。

こうした三寒四温に高齢者の私は戸惑いながら、家内より、幾たびも教えられてきた、
寒い時節は暖かさが何よりのごちそうです・・と思い浮かべて、微笑んだりした。

この後、朝のひととき、地元の天気情報を視聴していたら、
朝の6時は3度で寒い朝を迎えましたが、昼下がり12度前後の平年より暖かな日となり、
冬晴れのおだやかな日中となります、と報じられていた。

          
      
このように毎年、3月中旬のような暖かい日もあれば、平年より寒い日もあり、
やがて女の子が全国的に祝賀される3月3日の『桃の節句』まで、三寒四温の時節でもある。

          

          

          

          

私は午後の大半を冬眠のように読書をしたり、
午前中の散策の時には日本水仙、福寿草、椿(ツバキ)、或いは白梅に励まされながら、

冬麗の美を心の友と私は思いながら、年金生活の冬の季節を16年ばかり過ごしたりしてきた。



          

このようなことを思い馳せたりした・・。

そして私は、いつものように買物メール老ボーイの身であるので、
ご近所の奥様方に恥ずかしくないように清潔感のある容姿に着替えて、
家内から依頼された品を求めて、スーパーに行ったりしている。




やがて買物を終えた後、自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを歩き廻ったりしているが、
新コロナの烈風により、人影の少ない処は・・、

と思案し、選定して散策したりしている。
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時折とりとめなく、つたない私は、数多くの名言に思いを馳せれば・・。

2021-01-05 08:21:26 | ささやかな古稀からの思い
昨日、我が家の近くにある明照院を散策した時、
この中で、美人の神様と称せられている観音堂に祀ってある弁財天がある。




こうした中で、この横に掲げられていた格言を突然に思いだされた・・。
          



私は恥ずかしながら齢ばかり重ねた身で、このように達観できず、
少しは出来るように致しますから・・
勘弁して下さい、と微苦笑したりした。

そして帰路、独りトボトボと歩きながら、ひとつの格言が思いだされた・・。

醜いことは、他人の生活をうらやむこと、
尊いことは、奉仕して恩に着せぬこと、
素晴しいことは、感謝の念を忘れぬこと

確か福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち)さんの遺(の)こされたひとつの名言と記憶している。

もとより福澤諭吉さんは、天保5年12月(1835年1月)に生を受けられ、
亡くなわれる明治34年(1901年)2月までは、月3日)は、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者となり、
慶應義塾の創設者であり、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、土筆ヶ岡養生園(後の北里研究所)、
そして伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の創設にも尽力されたりした。

更に新聞『時事新報』の創刊者であり、東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長を務め、
こうした業績を元に明治六大教育家として列される御方である。

私は大学を中退し、やがて民間の中小業の会社でサラリーマンをしてきた身とは、

まさに天と地の差は歴然としている。

まして私が大切にしている一万円札の表面には、この御方の肖像が掲げられ、
私からすれば、地に伏して見上げるような御方でもある。
          


こうした御方の名言には、少しは理解できるが、
実行となれば、恥ずかしながら遠いのが実情となっている。

つたない私は、時折とりとめなく、こうしたことも思い馳せたりして、

こっそりと溜息をしたりしている。
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とりとめなく年末年始を過ごす中、都心の郊外に住む私は、自宅の周辺を散策すれば・・。

2021-01-04 10:46:19 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の住む年金生活の76歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後40数年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中、今朝ぼんやりとカレンダーを眺め、4日と知り、

働いて下さる諸兄諸姉の年末年始の休暇も昨日で終わりを告げて、
いよいよ本日から官公庁は『御用始め』となり、
これに準拠した数多く民間会社も『仕事始め』と思ったりした。

過ぎ去ってしまえば、齢を重ねるたびに早く感じたりしている・・。

やがて私は年末年始を過ごしてきた中、家内と談笑したり、
本を読んだり、昼寝をしたりしてきたが、
とりとめなく自宅の周辺を散策したぐらいかしら、と微苦笑をしたりした・・。



私の住む地域は、世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅で、
生家に近く、私としては結婚前後5年間を除き、
この地域に71年ばかり住んでいる。

年末の大晦日の日、私は一日早いが初詣をしょう、
と近くにある神社、寺院を訪ねることを思い立ったした・・。

私は高校時代から都心の学校に通った頃から、初詣に関しては、
きまぐれに原宿駅に近い『明治神宮』、鎌倉の『鶴岡八幡宮』、
或いは我が家から3キロばかり歩いた『深大寺』などに、参拝したりしてきた。

やがてサラリーマンを定年退職してから、人出の多い中が苦手となり、
込み合う季節は避けて、参拝したりしてきた。


ましてコロナの烈風の中、都知事が、われら都民に向けて、
お互いに一致団結しましょう、と掲示板、広報誌など公知されている。



このような深情を秘めてきた私は、地元の神社、寺院だったら、人出も少なく、
ゆったりした心で参拝できると思い秘めていた・・。


                           

そして私は霞嶺(かすみね)神社に寄ったりした。


暖かな冬の暖かな陽差しの中、人影も少ない静寂の中を歩いたした・・。


                           

やがて私は、明照院(みょうしょういん)寺院に寄ったりした。

         

この霞嶺神社、明照院は、1985年(昭和60)年に調布市の市制30周年を記念の中、
調布市内の自然、史跡などの中から市民に選ばれ、『調布八景』のひとつとなっている。

やがて私は雑木林が残る道を歩いたりした後、遊歩道を歩いたりし

た・・。










このような情景を見たりした・・。

私は初冬の時節、昼下りのひととき、風もなく暖かな陽だまりの中、
遊歩道の外れにコナラ、クヌギなどが群生している冬木立の情景を眺めたり、
大きな欅(ケヤキ)の樹が陽射しを受けながら、
悠然(ゆうぜん)と、青い空に向うように、たわわな枝を伸ばしている情景も、
この時節は私の好きな光景でもある。

そして、遊歩道、住宅街の垣根とかで、
白、淡紅色、ビンク色した可憐な山茶花(サザンカ)の花を観たり、
椿(ツバキ)の幾分小さめの朱紅色の藪椿(ヤブ・ツバキ)の花を眺めたりすることが多い。

このようなことを思い馳せたりして、帰路に向かったりした。




そして新年の2日も、自宅の近くにある游歩道、小公園を歩いたりした・・。














このような情景を眺めたりして、やがて帰宅に向かったりした。

こうして私は、年末年始を過ごす中、人影の少ない処、時間を配慮しながら、

とりとめなく自宅の周辺を散策をしたりしてきた。
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初夢は、時としてホロ苦く、つたない人生航路を歩んだ私は、独り微苦笑して・・。

2021-01-03 09:32:28 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の76歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後40数年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝ぼんやりとカレンダーを眺め、3日かょ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
過ぎ去ってしまえば、齢を重ねるたびに早く感じたりしている・・。
    
私は新年の三が日の朝は、お雑煮を頂いたが、昼食の時は大根(ダイコン)を下(お)ろして、
お醤油をかけて、温かい白米のご飯にのせて食べたりした。
そして最も素朴な食べ物で、この世で最も贅沢な主食と感じて、頂いたりした。

こうした中、新年に初めて昇ってくる太陽を拝(おが)む『初日の出』は、
私は平素の日々、ときおり朝のひとときに陽射しに向って両手を合わせて、感謝をしているので、
改めて新年に拝(おが)むようなことは、今回は省略してしまった。




2日は『書き初(ぞ)め』の日と古来から伝えられているが、
私は小学生の『習字』の授業の時、通信簿『2』の劣等生の採点をされ、
これ以来、毛筆、鉛筆、万年筆、サインペンなどで字を書くのは苦手となっている。

そして冠婚葬祭などで署名で困苦する体験を重ねてきたので、『書き初(ぞ)め』は論外となっている。

しかし正月の2日の夜に見る『初夢』は、思い込みが強い性格であるので、
ほとんど日頃から夢の中で叶(かな)えられ、毎年享受している。

もとより夢は貧富に関係なく、その人なりの日頃の思い、言動の余韻、余情、
そして感性の賜物(たまもの)と私は確信を深めて、微苦笑したりしている。
この年始の時も夢をみることもあり、目覚めた朝方に薄らと汗ばんたりしていることが多い。

          

私は2004年(平成16年)の秋に定年退職するまでの半生は、
何かと屈折と卑屈感を秘めて、つたない人生航路を歩んだりしてきた。

こうした中、夢はときには昨日の続きの連続ドラマのようなことがあれば、
或いは映画館で観た三本立てのようにみることがある。

そして、総天然色(カラー)の時もあれば、白黒(モノクロ)だったりし、
目覚めた朝、ぼんやりと微苦笑することもある・・。
          
私は小学生の後半期、地元の映画館などで3作品を一挙に上映した三本立てを
数多く観たりしていた映画少年だったので、
この習性の余情かしら、と思ったりしている。

          


私は1960年(昭和35年)の中学3年の終りの頃、
私は職員室で担任の女の先生から呼ばれ、『XXくん・・あなた眼・・悪いわね・・0.3って・・』
と先生は、健康診断書を見ながら、私に言った・・。

『・・どうして・・今まで黙っていたの・・メガネを掛けないと・・黒板の字も見えないでしょう・・』
と先生は苦笑しながら、私に言った。

私は教室の指定された後部に座って、黒板の字もかすれていたが、
同級生もこのような状態と思い、信じていたのである。
こうした根底には兄ふたり、妹ふたりもメガネをしていないので、それなりに思い込んでいたりした。

このようなことがあり、特に算数の基礎である因数分解など理解できず、
高校生になっても微分、積分などの授業には、理解できず逃げ回っていたグループのひとりであった。

このような結果として、もとより期末試験などは惨澹たる結果であり、
ときおり今でも、悪夢となり呻(うな)されたりすることもある。

                         

サラリーマン現役時代だった頃の夢みる時は、どうしてなのか、業務の成功例より、
遥かに失敗したことを多く、目覚めた時に苦笑したりしている。
たとえば、上司、同僚、後輩がいる中、突然に中学時代の悪友が出てきたり、
どうしてお前がいるのょ・・、 と私は戸惑ったりしている。

ときには秘かに思い続けた小学校時代の初恋の同級生に見つめられたりし、
貴女はどうしているのょ・・、とありえない時代の落差に戸惑ったりし、冷や汗をかくこともある。

或いは幼年期は私は農家の児であったので、
田畑、雑木林など景観を観たり、湧き水、竹林の筍(タケノコ)、野菜の収穫時などの情景をみることもある。

こうした体験をしてきた私は、夢はもとより貧富に関係なく、その人なりの日頃の思い、言動の余韻、余情、
そして感性の賜物〈たまもの〉と私は確信を深めて、微苦笑したりしている。

          
               

私の理想的な夢のひとときは、恥ずかしながら告白すれば、
齢ばかり重ねた今でも、女性への煩悩を捨て切れない拙(つたな)い身として、
秘かに思いながら、眠りにつくこともある・・。

街中、駅前などで、たまたまワンピース、ツーピースが似合う60代、70代の人を見かけ、
たまたま謙虚な会話が聴こえたり、魅了されるしぐさを感じた時、
或いは紬(つむぎ)が似合いそうな臈長(ろうた)けた人を見かけた時などある。

ときにはブログの世界で、シニア層と称せられる女性の方の投稿文に於いて、
読ませて頂だく中で、瞬時に魅了されたりすると、
どのような顔立ち、しぐさ、言葉を平素の生活の中で重ねる御方かしら、
と思わず想像してしまい、微笑んだりすることが多い・・。

私はこうした方と語り合い、散策した後、無念ながらお別れねぇ、と握手する、
このようなことを私なりに夢で願望したりしている。

私はこのようなことを思い馳せれば、思い込みが強い性格であるので、
ほとんど日頃から夢の中で叶(かな)えられるひとりである。

          

昨夜は初夢とこの世で定められているが、たまたま夢の中でお逢いできた人は、
サラリーマン時代にめぐり逢えた上司、同僚、後輩であったりした。

何かしらOB懇親会で、男性メンバーで二次会まで有志が参加され、やがて延長戦として、
新幹線で熱海まで行き、宿泊してゆっくりと語り合おう、という内容であったりした。

現実的には、二次会まで考えられるが、この年代で突然に社員旅行のように宿泊することはないので、
目覚めた後、どうしてなの・・と戸惑いながら微苦笑したりした。

思い当たることは、新年に年賀状を頂き、それぞれの御方の顔立ち、しぐさを思い重ねたりしてきたので、
こうした余韻が脳裏に残っていたと思われ、独り微苦笑したりした・・。
         
                          

私の現(うつつ)の日常生活に於いては、
近所の奥様、ときには御主人と自治会の回覧、買物、散策の時などで、
私は立ち話をしたりすることが多い。

昨年の年末に於いて、日常の買物専任者の私は、いつものように独りでスーパーに行った。

そして家内から依頼された品を買い求めた後、
レジ袋を両手に提(さ)げた上、12ロール入った1ケースのトイレット・ペーパーも提(さ)げて、
重くてかさばるよなぁ、と歩きながら帰宅に向っていた。

こうした時、近所で好感している奥様と出会ってしまい、大変ですわねぇ、と言葉をかけられて、
私は赤面したりした。

このように私は、夢のひととき、現(うつつ)の日常生活では、落差がありすぎる、
と苦笑することが多く、つたない人生航路を歩んだ私は、戸惑ったりしている。
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私たち夫婦、新年の挨拶も今年から変り果て、独り微苦笑して・・。

2021-01-02 09:12:10 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の血液型B型の76歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

こうした中、年金生活を始めた時より、元旦の朝、私たち夫婦は恒例のように、
朝の挨拶をしてきた・・。


昨年の元旦の朝、布団の中でまどろんでいた私は、新たな年を迎えて、
今年は恥ずかしながら9月の誕生日を迎えると76歳かょ、と思ったりした。

横の布団には、家内が軽い寝息をしていた。

やがて家内は目覚めたらしく、私は家内に新年の挨拶をしなければと思い、
私はわが身の掛布団と毛布を払い、敷布団2枚と電気毛布を敷いたシーツの上で、正座した。

そして私は横の布団の中にいる家内に向かって、
       



『昨年は事あるごとに・・何かとノロマの私に・・幾たびもお心遣いを賜り、感謝したします。
おかげさまで・・私も楽しい一年を過ごすことができました。
本年も・・よろしくお願い致します・・』
と私は家内に真摯に言ったりした。

家内は横の布団の中で、少しうなずいた後、
『何時ごろ、お雑煮を頂きましょうか?』
と家内は私に笑いながら言ったりした。

『7時半ごろ、頂きましょうか・・』
と私は家内に言ったりした。

そして私は敷布団の上の正座から、横たわり掛布団と毛布をわが身に掛けながら、
家内に対しての新年の挨拶を終わり、安堵したりした。

このように準じた新年の挨拶・・私は定年退職後に多々の理由で年金生活をき始めた以来、
毎年してきたので、確か16年だょなぁ・・、と微苦笑したりした。


          

しかしながら私は、昨年の4月に右膝を痛めて、近くの整形外科に通院してきた中、
もとより正座も出来ず、これ以来和室が苦手となってきた・・。

そして寝室も布団からベットに変貌した・・。

こうした中で元旦を迎えたが、恒例の布団に正座して、家内に新年の挨拶は出来なくなり、
私は洗面した後、家内は居間でコーヒーを飲んでいた・・。

私は家内の2メートル前で、若き自衛官に負けないように、
背筋を伸ばして、手先も伸ばして、
『昨年は事あるごとに・・何かとノロマの私に・・幾たびもお心遣いを賜り、感謝したします。
おかげさまで・・私も楽しい一年を過ごすことができました。
本年も・・よろしくお願い致します・・』
と私は家内に明るくさわやかに言ったりした。

家内は突然の私からの挨拶に戸惑った表情であったが、少しうなずいた後、
『こちこそ・・よろしくねぇ・・』
と家内は私に笑いながら言ったりした。





平素、我が家の戸締りの責任者は、もとより主(あるじ)の私であり、
夜の9時過ぎには、玄関、台所、お風呂場などを点検する時、
『ハイ、OKです!』
と指差し確認し、若き自衛隊の諸兄に負けないように、元気な声で言ったりしている。

もとよりボケては恥ずかしいから、このように言動をしたりしている。

この後、居間でテレビを視聴しているか、雑誌を読んでいる家内に、
 『戸締り・・終了致しました!』
と私は家内に報告したりする。

その直後、 『ご苦労であった!』と家内は私に言うのである。

私の現役サラリーマン時代に於いては、
ご苦労さまでした、と家内は何かと従順で優しく労(ねぎら)いの言葉をしていたが、
どうしてなの、と私は不思議に思ったりした。

その後、思い当るとすれば、家内は以前に2008年の頃に、NHKの連続ドラマの『篤姫』を視聴した頃からで、
お姫さま、或いは奥方に影響されたのか、
 
このような言葉を私にするようになっていることが多い。




こうした日常もあり、我が家は家内安全が何よりだよねぇ・・、
と私は心の中で呟(つぶや)いたりして、独り微苦笑をしたりしている。
コメント (2)
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