「虹の橋」のたもとには…
最近、ペットの死を意味する『虹の橋を渡る』という表現があるらしい。エドナ・クラインという方の散文詩が元ネタという説もあれば、2番、3番の詩も追加され、作者も曖昧というお話もある。1番の詩の内容だけを見れば、先だったペットたちは虹の橋のたもとにあるという快適な暮らしができる草原で飼い主を待っていてくれているというお話になるのですが…。
妻方の叔父さんが亡くなり、葬儀に参列したのだけれど、ひと足違いで最後のお別れが出来ず仕舞いに…遺影は生前の最高の笑顔であり、長患いした後の姿が記憶に残るよりも、それはそれで良いとしようとオッカーを慰めたのではあるけれど…。火葬から告別式を待つ間に、列席者の携帯が鳴りまして、「今月、三つ目のお葬式だわ。」なんて会話が耳に入りましてね、そりゃ~そうですわ、叔父さん叔母さんもみんな80歳を超え、いつお呼び出しが掛かってもおかしくはない年齢なのだからと今さらながらに思うのでありました。疲れて家に帰り、腰を下ろしたところに電話が入りまして、今度は集落のお年寄りが亡くなったというお知らせ…『おやじぃ』もまた三つ目のお葬式となってしまいましたよ。
そのまま受け入れるしかないが…
さて、少々お酒も入り、通夜会場に駆け付ける訳にもいかず、喪主から聞きたいことがあると言われても電話の応対しかできない情けなさ。またしても、集落の『しきたり』と喪主の意向に悩むことになる。喪主が簡素に送りたいというのであれば、それはそれで可能なのだけれど、中途半端に『しきたり』を気にされるから、コチラも中途半端な折衷案しかお話できないことになる。この際、一切合切を葬儀屋さんに委ねて、『しきたり』とは無縁の喪主さんの意向に沿ったお葬式に変わって(変えて)いくべきじゃないかとも思い始めておりますよ。
はてさて、ペットたちが待つと言う『虹の橋』のたもと。「あの世でも…」と思うのは自由であるけれど、恐らくは『オッカー』よりも先に旅立つことになるだろう『おやじぃ』が待つかと言えば、さっさと『虹の橋』を渡ってしまうかも知れない。最近では、二人で並んで歩くのも葬儀会場くらいだもの…それより何より、子どもの頃の、そして若い頃の顔のイメージを引きずっているから、親戚の顔さえ『おやじぃ』の方が憶えているってどういうことよ…。きっと、虹の橋のたもとで待っていたところで、『おやじぃ』の顔さえ分からなくなっているかも?そうそう、先のお話よりも、今あることの幸せを感じていることの方が大切だわ。捨てられないように、忘れられないようにしないといけないねぇ(笑)