お経と挨拶は長いほどありがたい?
ブログネタに困って、妻方の叔父の葬儀に参列した際の焼香の際の『お経』を調べて見た。曹洞宗の僧侶が読み上げると「なむからたんの~とらや~や~」…正直なところ、この一文しか耳に残らないし、悲しみの場であるはずなのに、思わず吹き出しそうになる場合がある。(不謹慎である^^;)どうやら漢字に直すと「南無喝囉怚那 哆囉夜耶」となるらしく、漢字を拾い上げるにも「IМEパット」で一文字ずつ確認しないと書き出せないのでありますが…。現代語訳すると「仏法僧の三宝に帰依します。」ということになるのだそうでありますよ。正式名称が「大悲円満無礙神咒(だいひえんもんぶかいしんじゅ)」というお経らしく、千手観音の悟りの内容を説いたお経らしいのですが…残念、これだけで頭が痛くなる。結婚式の披露宴で、美味しそうな料理を前に、さほど新郎新婦とはお付き合いもないオジサンのスピーチを聞いているときのように、「はて、新郎はそんな性格をしてましたっけ?」などと内心思いながら『待て!』をくらっている『犬』のような状態が続く^^;
『ありがたい』には違いないのだろうけれど、『仏法僧』の教えも伝わって来ないのでありますよ。
何がありがたい…
さて、仏教に限らず『宗教』が活ける人々の救済を説くものだとすれば、死者を葬送するために『ありがたい』お経を唱えたところで、成仏できるとは限らない。むしろ『有り難し』…この世に生を受けたことさえ奇跡であり、『ありがたい』ことと諭していかなければいけないはずである。この世の『苦しみ』から逃れ、あの世とやらに行けば『楽になれる』などと考えるのは誤った考え方であり、若くしてその道を選んでしまってはいけない…とは言え、日々『苦しみ』を感じて生きている人がいらっしゃることも確かである。
はてさて、歳を重ねて、子どもの頃から身近にあったはずの『仏教』を考えてもこの程度である。お釈迦様の教えがサンスクリット語で伝えられ、古く高僧が漢字変換し、日本の高僧がそれを音読し…意味が分からないから『ありがたく』、意味不明な言葉が長く続くから『ありがたい』。とすれば、意味などないと考えている人生も、長く生きられただけでもありがたい。例え短い人生だったとしても、残された人々には記憶として長く心に残るから『ありがたい』…そんな風に、現代風に訳し直さないと伝わっていかないのかも知れないねぇ。「なむからたんの~とらや~や~」…にわか仏教徒の『おやじぃ』は、勝手に解釈して生きることにいたしますわ(笑)