この額紫陽花はあまり品種改良の洗礼を受けていないのではないかと思います。
野山に自生しているような野性味というか素朴さがあります。
人間の手が加えられて花は大きく色は濃くなったアジサイも悪くはありませんが
私は楚々として咲いているこんな貧弱な姿のアジサイに風情を感じます。
この額紫陽花はあまり品種改良の洗礼を受けていないのではないかと思います。
野山に自生しているような野性味というか素朴さがあります。
人間の手が加えられて花は大きく色は濃くなったアジサイも悪くはありませんが
私は楚々として咲いているこんな貧弱な姿のアジサイに風情を感じます。
揚水発電というのは夜間は電力が余るからその電力で下の池から水を吸い上げ、昼間電力が多く消費される時には
その水を落として発電機を回し夜間にはまた水を上の池へすあげる発電装置です。
原発は常にコンスタントにタービンを回さないとならないから、夜間でも同じ電力を生み出します。
その余分な電力を揚水に使うと言うわけです。
池の水がバッテリーの役をしているのです。
絵の解説ではなく社会科のお勉強ですね。
日光には四季を通じてよく出かけます。
秋は土日は人出が多いので平日に行くか、土日の場合はいろは坂の下で写生地を探します。
この絵の場所もそんなところで、発電機に吸い込まれる取水堰で激しい水の流れが
心地良かったのですがこの場所には道も無く当然激流には柵もありません。
歩くのは水路の端の狭いコンクリートの上だけですから、もし落ちたら水力発電機のタービンに
巻き込まれて人間のミンチが出来るスリル楽しめるのです。
花火見物はこれで二回目です。
ifoneで写したので画像はイマイチです。
ある会社の入っている共同住宅の屋上で見ました、小さい植え込みがあって
驚いたことになんとそこから虫の音が聞こえたのです。
虫の声を聞きながら遠くで打ち上げられる花火を見るのは乙なものでした。
熱海駅からMOA美術館へ上る道の途中に有る共同住宅の一室からの眺めです。
知人が避暑用に所有している部屋です。あまり使わないと言うことで何回かお借りしました。
熱海の花火をここから眺めるのは楽しいです。
目の高さより下で花火が炸裂します。
爆発音が山と海に木魂して迫力があります。
道を奥に向かって書き込むと画面に奥行きが出るかな? なんて無精な考えで描いたと言うことでは無いのですが
結果的にはそうなったかな、と思うのです。
今どき土の道等のは農道でも滅多にお目にかかれません。
ほとんどの道はアスファルト舗装されています。
時代劇の撮影などでは電柱と電線の存在と同じで、さぞ困ることでしょうね。
絵の場合なら描きたくないものは有っても描かないし、無いものでも構図上必要なら描き込むこともかのですが、
映画の場合はCGなどで切り抜けるのでしょうか?
これはかあなり前に描いた絵です。
最近の漁船はグラスファイバーの船ばかりで、形も似たり寄ったりですから描く意欲がわきません。
船でも家でも日本中どこに行っても代わり映えがしないのです。
どこに旅しても同じ形の家や船では絵描きにとっては情けない現象です。
アジサイは日本が原産ですがシーボルト等によってヨーロッパに持ち帰られて
改良され派手な色合いのものが数多く逆輸入されています。
アジサイは花にボリュームがあり、色の変化もおもしろいので私の好きなモチーフです。
日中は勿論、夜になっても賑やかなモンマルトルも朝早い時間だと人も少なくて
スケッチブックを広げてもあまり邪魔にはなりません。
奥のサクレクール寺院はモンマルトルの丘の天辺に建っているから
パリのどこからでも見ることが出来ます。
エッフェル塔とサクレクールを見つければ自分が今居る場所の大凡の見当がつくのです。
石狩平野、石狩川というとかなり広範囲の地域を連想しますが、札幌市の北北西の方向に
石狩市(町?)という自治体があります。
石狩湾に面しているのですから詐称ということではないのですが、なんかなぁ~という感じです。
日本市とか本州市、関東市というのがないですから・・・
絵は石狩市の中心部では無いにせよ石狩市内で描いたものです。荒漠とした感じが伝わればうれしいです。
富士山を描くのは有名画家か小学生で、中途半端な技術しか無い私などにはとても描けません。
単純な形を描くのは難しいのです。
利尻富士も同じような形ですが、手前に花の原野を描いて誤魔化したというか、何とかうまく収まるように
描けたと思います。
ピエモンテ風景はいろんな場所から何枚か描いています、バローロ近くから高台を
通る小径を発見し何回かその道をたどっています。地元の車も滅多通らない細道ですが
眺望は素晴らしいです。バスは通れない道幅ですから団体客に邪魔されることなく
落ち着いてスケッチできます。