ドゴール空港に無事到着 2009-12-27 08:09:20 | 海外旅行 日本航空の到着ターミナルがF2ではなくE2に変更になっているのに気づかずF2のつもりで歩いたので少し混乱しました。AFの方は今まで通りF2ですから、隣のターミナルまで移動しなければなりません。シャトルバスに乗るほどの距離ではありませんから、12時間の運動不足解消にあるきました。自動小銃をもったパトロール姿も相変わらずでした。 *スペイン国境に近い大西洋に面したBAYONNEのホテルで書いてます。(12/27) ">
ウエルカム・シャンパン 2009-12-24 16:57:22 | 海外旅行 待合室でスナックとビールを飲んでいるうちに乗り込む時間になった。 席につくと間もなくシャンパンが出て今回の旅はアルコール漬けの旅になりそうな予感だ。
年末旅行 フランスに旧友を訪ねて。 2009-12-24 16:55:19 | 海外旅行 フランスの友人サージさんの双子のお孫さんが1歳になり、歩いたり話したりしだしたと言うので会いに行くことにした。生後20日の時に会って以来だから成長ぶりをみるのが楽しみです。 成田はまだそれほどの混雑ではありませんでした。 JAL405便は定刻に出発しました。
野尻宿の活力 2009-12-21 13:10:39 | 国内旅行 野尻宿で子供の通学姿を見かけました。 今まで見てきた宿にも子供はいたのでしょうが、何故か大人しか見かけなかったので、ここで子供の姿を見かけたのはうれしい出来事でした。 たまたま今までは子供たちは学校にいたのかもしれませんが、子供の存在を確認できて次世代の子供がこの町にいて、この歴史ある町並みを受け継いでゆくのだと思うと希望がわいてきます。 家の中にはサッシをアルミサッシに取り替えたり、車庫を作ったりして使い勝手が良いように改造しているところもありますが、基本的な部分は昔のままにしているのです。無理に何も手を加えずに我慢しているのでは不便さに負けて今風のものに立て替えたくなってしまいます。こんな形で古い家を使いこなしていくのも一つの方法だと思いました。 最後の掲載した建物は宿場が栄えた時代の建物ではありませんが、このレンガ造りの建物も明治以降のこの町の歴史をものがったていると思い敢えて掲載しました。 "> "> "> "> "> *明日からちょっと出かけますのでブログの更新は帰国までお休みします。 私の泊まる安宿にnet接続の設備があったときには現地から貧乏旅行の ご報告が できるかもしれません。では、行ってまいります。 木曽街道の旅日記は帰国後にまた更新いたします。 ご覧くださってる皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。
野尻宿 2009-12-20 10:57:19 | 国内旅行 野尻宿にもかなりの数の古い家があった。 それらのいずれもが人が住み現役で生かされているのを見るのは嬉しいことだった。 宿場内の道は緩やかにカーブしていて、説明版によると外敵の侵入を防御する目的で道を蛇行させているのだという。 今まで見てきた宿場では道を直角に曲げて外敵に備えていたが、ここで見る七曲の道というのは初めてお目にかかった。 この程度のことで外敵の侵入に有効な備えになるのかは疑問だが、私にとっては風雅な趣があって好ましかった。 宿場内の道路が狭いので撮影のために車を止めるのに苦労した。私のような闖入者が住民に迷惑をかけては申し訳ないから交通の妨げにならないように注意して車を置いた。 "> ">
上松宿 2009-12-19 07:57:09 | 国内旅行 上松宿は古い家がなかなか見つからず何人もの人に聞いたあげくやっとこの家を探し当てた。二軒だけが健在で丁字路を挟んで向かい合って建っている。 二軒とも宿屋さんを営業中だが、上松の現在の中心部からはかなり離れているから果たして客が来るのかどうか心配になってしまう。きっと商人宿のような利用の仕方で古いお得意さんが支えているのだろうと思った。 ">
福島宿の店 2009-12-18 09:32:21 | 絵画 福島宿は上の段に古い家が集中しているのですが、その場所が分からないので最初に見つけたこの酒屋さんに入って尋ねました。 愛想の良い娘さんがとても親切に表まで出てきて教えてくれたので、お礼の意味もあってこの七笑と言うお酒を買い求めました。この宿にも漆やさんがあったり歴史ある家並みに相応しい商いをしている店ばかりで情緒たっぷりでした。 "> ">
福島宿上の段 2009-12-17 16:51:26 | 国内旅行 福島宿は現在の繁華街から狭い路地を上ったところにあり、分かりにくい場所だった。 駐車場の看板に関所と有るから昔は関所もあったのだろう。 紅葉した樹のある坂を上ったところが上の段という昔の宿場町だ。 狭い道に未だに多くの昔の面影のある家々が連なっていて、ここも人が住んで商売をしている生きた街だ。 傍らには道祖神も祀ってあり、昔の旅人が旅の安全を祈ったのだろう。 "> "> "> "> ">
おばあさんのお仕事 2009-12-16 19:17:26 | 国内旅行 おばあさんが玄関の前で何か洗っているから漬け物の準備かと思って近くに寄ってみたらペットボトルの蓋を洗っていた。 蓋を何に使うのか聞いたら、娘さんが集めて施設に贈るのだという。 この蓋が何万個か集まると何某かのお金が貰えるらしいのだ。 それにしてもこの蓋の数は半端ではない。それを丁寧に水洗いしていたのだった。 人見知りしないおばあさんでしばらく四方山話しました。 ">
宮ノ越宿の建物 2009-12-15 23:08:43 | 国内旅行 宮ノ越宿にも数軒の歴史ある家が残っている。 そのうちの二軒を掲載します。これ以外にもあったのですが、代わり映えしない家をご覧になるのも退屈されると思い割愛しました。 それぞれの家が今でも人が住んでいて、生きた使い方をしているのを見るのは嬉しいです。埼玉県浦和に古民家園という施設があり何軒かの古民家が移築されて展示されているのですが、事務所に管理人はいても単なる展示物ですから拝観していても虚しい感じがします。古民家に人が住んでいるのは素晴らしいことです。 ">
御膳水 2009-12-15 05:40:18 | 国内旅行 御膳水というのはなんだろうと標札を読んだら、明治天皇がこの水を飲んだことがあるので御膳水と名付けたもののようだ。 明治天皇がトイレに行ったらそのトイレは御放水厠とか御垂れ雪隠と言うのだろうか? あちこち旅をしていても御垂れ雪隠というのは見たことも使ったこともないから、やんごとなき方はトイレなど使わないのかもしれない??? 脇本陣跡は空き地になっていて草ぼうぼうだった。 荒れ地にわき本陣跡の立て札、「強者共の夢の跡」的感慨に耽ったことだったが、これが洒落たブティックなんかが建っていたら何の感興もわかなかったことだろう。 "> "> ">
木曾義仲と巴御前と私 2009-12-14 12:41:51 | 国内旅行 義仲館は休館でしたが庭までは入れたのでこんな写真を撮りました。 観光施設で休館なら門をしっかり閉め切っているところが多いのにここは建物には入れませんが庭を開放しているのは良い感じです。 木曾街道の古い家を見て回っているからか、こんな写真を撮ると自分も歴史をタイムトリップしているような気分になるのは不思議な感覚です。 もっともこの時代に私がいたとしたら木曾義仲と並んでいられる身分でなく、良くて雑兵か、水百姓と言ったところでしょう。 "> ">
木曾街道 五番目宿場 宮ノ越宿 2009-12-13 12:20:07 | 絵画 木曾街道の旧道は今の国道から中央線の線路と川を越えた反対側を通っていました。時代劇のロケーションにはそのまま使えそうな道です。 駅前には義仲館という木曾義仲と巴御前をメインにした資料館がありましたが私が訪れたときはあいにく休館でした。庭には入れるから銅像の前で記念撮影しました 。 "> "> ">
木曾街道 薮原宿の店舗いろいろ 2009-12-12 10:41:07 | 国内旅行 "> 薮原宿には歴史ある家屋を使っていろんな店が営業していました。 櫛店・薬店・酒屋・米屋・漆器屋、中には音楽教室なんて言うのも有りました。 この家屋で教えるなら琴や三味線なんかならイメージに合うのですが、おそらくピアノやエレクトーンなんかを教えているのでしょうね。 漆器店は木曾の名産ですから当然として櫛を専門に扱う店というのは珍しいです。 入ってみたかったけど私の頭髪は高価な櫛が必要なほどの量がないから素通りしました。今考えてみると希少な毛髪だからこそ高級な櫛で愛おしむように梳る必要があるのかもしれません。今度行ったら一つ奮発することにしましょう。 おぎのやと言う店は何を書きなっている店か外観からは分かりませんでした。 きっと土地の人にはよく分かっているから屋号を書くだけで十分なのでしょう。 よそ者はお呼びでないよ、と言われているような気がしましたが、そんな商いも有って良いのでしょう。 "> "> "> ">
宿場の水飲み場 2009-12-11 05:35:20 | 国内旅行 木曾街道の今まで歩いてきた宿場には何処にも必ず水飲み場が何カ所か有った。 どの水場にもきれいな水が滾々と湧き出していて誰でも飲めるように柄杓などもおいてあり、清掃の手も行き届いていた。 旅人がいつでも喉の渇きを癒やせるようにとの心遣いが嬉しい。 水場は清掃が行き届いているだけではなく花が飾ってあったりして地元民の優しい心遣いが伝わってくる。 この心遣いは旅人に対するためだけではなく、水神様に対する畏敬の念も有るのだと思う。 これなら自動販売機でミネラル水を買うよりずっと良い。 「空気と水は只だ。」というのは都会では死語になってしまったが、木曾街道では未だ生きた言葉だ。 "> ">