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あなたに「ぬくもり」を届けたくてブログをつくっています

幸せになろうね🎵

2019-07-26 20:13:58 | 日記

今日は取材で豊田市の猿投の運動公園にきている。名古屋からは初めて行くルートなので、不安だった。自分の乗っている電車がどこへ行くのか不安になる。だんだん自分の存在が不安になる。このまま別な次元に消えてしまいそうだ。駅に着いて、サッカー仲間が迎えに来てくれた。ああ、よかった❗

この大会は知っているメンバーが多い❗本当によくしてくださる。いつからだろうか、みんなに感謝出来るだけようになったのは。みんなさんの支援であちこちに出かけられる。サッカー友もたくさんできた。

振り返ってみると、神と出会い、大切な人と出逢いそこから幸せが始まった。そう、私は幸せでいなくてはいけないのだと思うようになかった。まず、健康でいようと思った。そして、神さまと亡くなった祖父母、両親に感謝した。ただ、それだけの繰り返しだった。勿論、大事な人にも。

幸せになろうと思うこと。それだけで人生は変わった!幸せになるには、ありがとうをたくさん言うことかな。きれいごとでなくって実感だ。

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母親か妻か?

2019-07-25 18:35:17 | 日記

季節は梅雨が明けてそろそろ葉月になろうとしている。夕暮れが少し早くなった。夕方、ドラックストアーに出かけたら、とても混んでいる。薬品よりも食品を山のように買っている。ああ、お給料日のあとか と思った。そういう感覚がなくなっている。年金ももらうとほとんどさようならなので なにかをどか~んと買うことはない。たまには買い物籠いっぱい買い物してみたいなぁ、と思う。

今朝、お隣のおばあちゃんと息子さんが大きな声で(おばあちゃんだけ)いい争っていた。窓が開いているのでよく聞こえる。どうもごみをだすのに、何かを捨てないでほしいというのがおばあちゃん、もうないから捨てるというのが息子さん。おばあちゃんが強い!母は強し!なのだ。普段のもごもご話すおばあちゃんとは別人のようだ。やはり、息子は折れるのだろう。娘は折れないが、息子は母親にやさしい。特に長男と母親の関係は特別のような気もする。2分もすると静かになった。

よく例に出るはなしで、「母親と妻が川でおぼれていたら、どちらを助けるか?」がある。一人しか助けられないとしたら と限定されることもある。あなたならどうですか?これはたしか仏教の話だったような気がする。正解はないだろうが、近くにいるほうを助ける だそうだ。そんな緊急のときに、「妻」か「母親」かなどと考えるほうがおかしいという。この話はカウンセリングのときに聞いた話だが、「母」と答える人が多いという。

では、妻と恋人では?という話になった。もちろん「妻」に決まっている という。まぁ、その後の話は書かないが、どちらかを選ぶなんて無理なことだ ということだった。男性の場合は母親との関係がどうしても大人になってからも残るということだ。優柔不断な(やさしい)男性に「選びなさい」はきつすぎる。母も妻も大事に生きるしかないらしい。

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最後に残る思い出は?

2019-07-24 19:34:01 | 日記

梅雨明けはまだらしいが、暑くなった。午前9時ごろで2階は30度を越えていた。午前中は宅急便が来るので出かけられない。夕方に買い物に出よう。NPOの写真の整理や引っ越したときに会えなかったお友だちに手紙を書くことにした。

引っ越した理由を話さないと と思い書き始めるがうまく伝わりそうにない。京都の近くへいずれ住みたいとは思っていた。その想いがなぜあのときに長浜へ越すことを決意させたのか 説明がつかない。私の中では当然理解しているが、これがうまく書けない。ただ、ここで引っ越さないと、もうそのときがない と思えた。

「百花」という小説に認知症になった母親の最後まで覚えていたことがテーマになっていた。それは人が大きな決意をしたときに関係する場面のようにも思う。認知症の母は、嫁いできた文京区の家の話をよくした。母にとっては東京で暮らすことがうれしいいことだったのだろうか。人はそんなふうに大事なことを覚えているのだろうか。私が認知症になっても思い出すことはどんなことなのだろうか?

私の人生の大転機?は文京区から埼玉の田んぼの中へ越したことだった。都会の生活から越した先は、家の隣は田んぼだった。家のものは3分の1くらいしか持ってこられなかった。全部捨てた。そんな引越しの日、おそらく夕方になっていたと思う。引っ越屋さんは3人だった。一人が学生さんのアルバイトのようだった。終わって帰るときに、彼が何度も手を振っていたのを憶えている。夕方の風景の中のトラックと彼の姿が思い出される。

長浜の引越しは運送屋さんが最後まできちんと配置してくれて「さぁ。もう最低限の生活はできますよ」と言われた。忙しい1日だったがガスも使えて、暖房も使えた。特に2階は広くて新しい生活が始まる という喜びがあった。あの遠い昔のさびしい田園風景の引越しとは違う。何回も引越しをしたが、「ここから始まる」という気持ちが湧いてきた新婚さんのような幸せの香りがした。

あの琵琶湖に沈む真っ赤大きな太陽のように燃えて走った気持ちは文章では書くことはできない。きっと最期まで心にしまわれているのだろうな。

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パソコン見ないで わたし診て

2019-07-23 19:55:30 | 日記

2日ほど出かけていた。夕方、長浜の駅に着くとほっとする。ああ、ここ長浜がいい と。梅雨が明けたのか、午後から暑くなった。ともかくなまけものの眠い・だるいが続いている。

2日間は「待つ」日だった。まず、港区役所で2時間半。ある調べごとで(実家の売買に関して)根気よく待つしかなかった。幸い、待った甲斐があった。時間ぎりぎりで、大学病院の眼科へ。病院の入り口から混んでいるのがわかった。眼科のフロアーは人が溢れていた。ああ、月曜日だった!検査があるので、お昼は食べに出かけられない。この日は予約時間より2時間遅れて診察になった。今日は、整形外科の定期検査へ。また、混んでいる。今日も待つ日だ。やはり終わるまで2時間半はかかった。そして、銀行へNPOの住所変更へ。たいしたことでもないのに45分ぐらい待った。派遣の方が多いからかもしれない。座りっぱなしで腰が痛い。

待つことは、意外に得意分野だ。「わたし、待つわ、いつまでも待つわ・・・」タイプなのだろう。そんな2日間で、眼科の先生と話ができた。3年前に網膜はく離のす術をして頂いた先生だ。術後は地元の眼科へ というのを「地元の眼科がわからないので」と無理にお願いして通院していた。つかみどころのない先生だったが、誠実によく診てくださった。今回の診察で、引っ越したこと話した。「京都の付近に住みたかった・・・」の話をした。「ぼくは京都の大学の医学部卒なんですよ」と話してくれた。祇園祭へ行ったこと、先生の出られて大学病院の眼科は評判がよく夜まで診察をしなくてはならないと聞いたこと、そんな話をした。先生が嬉しそうに、自分が東京の大学の理工科卒業後、医学部をチャレンジしたこと、その理由、物理や数学が得意だったこと、京都のこと・・・と私が時間を気にするくらい話してくださった。でも、その時間は2.3分だったかもしれない。お互いに嬉しかったと思う。先生が身近に感じられた。

「お医者さん、パソコン見ないで 俺を見て」はサラリーマン川柳に何年か前にあった。たしかにそうだと思う。たった2.3分の会話で今まで自分が信頼して通ってきていて本当によかった と思えた。長浜の地に着てから、私は自分からいろいろ話すようになった。地元の人との会話は、都会ではそこまで話さないようなこともある。(スーパーの帰りだと何を買ってきたかとか)だから、だんだん自分から話せるようになった。眼科の先生にも「祇園祭に行ってきたんですよ!」から始まった。

ひとは自分のことに関心をもってもらえるのが嬉しい。だから、パソコン見ないで、わたしを診て ね。

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最期くらいは自由にさせてよ

2019-07-22 20:26:07 | 日記

東京に来ている。東京タワーが靄ってよく看ない。港区の大門の辺りは懐かしい。参議院選挙も終わった。比例区の多様性が今までと違う。そのニュースと吉本興業の社長の会見も大きく扱われている。そして、京アニメの痛ましいニュースも毎日新たな異様性を感じる。

FBのヒトコママンガに、男性が友達に「わたくし、初めて女の人を好きになったの」とあった。これが普通の会話として聞けるのはいつのことだろうか。二人の同性愛者が今回の選挙で当選したことはまだニュースだ。れいわ新撰組の重い障害のある二人の当選もニュースだ。多様な動きは受け入れられない人もあるかも知れない。

新しいモラルなら、許されるかも知れないことが、時にはマスコミなどで袋叩きに遇うこともある。まだまだ根っこに古い道徳観も存在する。私のようなものはまだまだ生きにくい。そういう私の中にも古い観念もある。多数が少数を排除する。それもひどくなっているかもしれない。

自分の生きにくさも、少数が故に生きにくい他人のことも考える機会だった。難しい生きにくい時代かもしれない。⚪⚪をぶっ壊せという政治家も出てきた。そんな中で若者は安定を求めるらしい。ううん、はあ、どうせなら、最期くらいは自由にさせてよ❗ですね。

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