毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

「かえり」 の道はどんな道

2018年06月14日 10時20分08秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


時すでに6月半ば、一ヶ月近くブログを更新していなかったことに氣づいてびっくりです、ご無沙汰しております <(_ _)>




「ほんとうの自分として生きるには ほんとうでない自分を手放せばいい」 ということを 「雲が消えれば太陽が顔を出す」 とたびたび例えていますが、実際にそうなってみると、雲が薄れたときのように 明るさが増すとか青空が覗くとか 不意に雲間から一筋の光が差し込むとか すぐそれとわかるのではなく、ぱっと見いつもと同じような日々が淡々と続くうち、あるときふと 「あれ? そういえば私 ずいぶん変わってない?」 と氣づくようだと書いた記憶があります。

これは そもそも五感を超えた世界というのが くっきりした境界線のない領域であり 時空の感覚も曖昧なためというのともうひとつ、まず先に生じるのが 「新たに何かが起こる」 変化ではなく、「よく起きていたことが起こらなくなる」 変化なためではないかと。

目の前の世界は自身の意識から創られているので、ほんとうの自分でない要素 (絶えず不安に駆られているとか しょっちゅういら立つとか) を手放すに従い そういう事象が現れる頻度も落ちてゆくのですが、変わりようが地味なので しばらく後にならないと氣づけないんですね。

太陽と雲の例えでいうと、太陽が現れる瞬間はわかりやすいけれど、雲が次第に薄れてゆく変化というのは目につきにくいものだ、ということでしょうか。




そんな 「そういえばだいぶ明るくなってきたな」 的変化が、「あ、光が差してきた」 に転じたと氣づいたのは、疼くような喜び、微かなときめき、言い知れない温もりとでもいうようなものが なんの前触れもなくぽちっと胸の中に灯ったとき。

ことさらうれしいことがあったとき じわっと沁み出すその感覚は 滅多にはもらえない特別なご褒美のようなもので、わけもなく突然現れるなんて かつてなかったこと。

理由なく現れる不安はいやというほど体験していても その逆はまずないことだったので、驚いたのを覚えています。

ただそれも ささやかにほんのいっとき灯っただけで じきにまた消えてしまったので、さほど強烈な印象は残さなかったのですが、その後 この 「わけもなく現れる喜び」 が、出現頻度も持続時間も徐々に増してゆくようになるのです。

不意に訪れた至福の境地に浸ったまま 長い時間を過ごせる幸せよ

その合間合間には 相変わらず不快な記憶がやっても来るのですが、それはいじらずそのままにしてやり過ごすこともできるようになり、喜びと不安の比率が逆転した感があります。

となれば、明るく前向きでいることも 以前ほど難しくはありません。




「主よ、願わくば 変えられないものを受け入れる心のゆとりと 変えられるものを変える勇氣と その二つを見分ける知恵をお与えください」

以前にも何度か取り上げたと記憶している 「従容の祈り」 ですが、“スピリチュアルな変容” とでもいうような領域については この 「変えられるもの」 というのは どうも想像していたよりはるかに少ないようだと思うようになりました。

ほとんどのことは、こちらが変える ・ 起こすのではなく 向こうから変わる ・ 起きてくるのです。

貴秋がしたことといえば、とにかくジタバタあがきまくったあげく 「からだに浮かぶ感覚を 言葉を使わずただ感じる」 という手立てを見つけて ひたすら実践しただけ。

その間マインドがやたら動き続けていたため ついいろいろなことを一杯したような氣になりますが、実際自分から進んでしたといえるのは ほんとこれだけなのです。




新しく何かを生み出すとか立ち上げるとかいうときは すること ・ 起こすことも多いのでしょうが、本来の姿に 「かえる」 ときは 「行き」 の道でいっぱいくっつけてきたものをこつこつ手放すぐらいしかないのかもしれません。

こうなると、最初からそうと知っていたら ジタバタをぐんと減らしてもっとラクにやれたのになぁとため息をつきたくもなりますが、一方で そのジタバタから氣づけた多くが今の自分の財産でもあるのだと まんざらでもない氣分なのです