毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

変わる意識、変わる世界

2019年06月06日 13時32分53秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「主体 = 意識」 という見方がいくらなじんだといっても、からだが受け取る実感が薄れたり変質したりするわけではありません。

五感が得る情報はこれまでと同じ、ただその解釈が変化するのです。

周囲の世界を享受しながら、ふとした折に 「ああこれ全部私の中にあるんだなぁ」 という思いが浮かんだりします。

人生という物語の登場人物の立場では 世界が自分を取り巻いて見えるけれど、作者の視点に立てば 目に映るものすべてが自分の意識から生まれ出た創作物、そんな二つの見方を行き来できるようになります。

自分の外にある世界はあまりにも大きくて頑丈で ちっぽけな自分がこんな強大なものを相手に何ができようかという感じですが、それが自分の中にすっぽり収まる ・ 手の内にあるイメージが湧くと、氣の持ちようひとつで世界はいくらでも変えられるんだと晴れ晴れした氣分になります。




当ブログを以前からお読みくださっている方はご存知でしょうが、この 「主体 = 意識」 の 「意識」 とは、個の顕在意識 ・ マインドのことではありません。

マインドを含む世界のすべてを眺めるともなしに眺めているもっと大きな意識、あの “在る” に示されるあたりを 貴秋はそう見ています。

“在る” へのフォーカスが増すほどに、こういう物事の捉え方の変化が自然と起きてきます。

ことさらそのように見ようと努力しなくても、向こうから勝手に起きてくるのです。




もうひとつ顕著に変わったのが、いい悪いと区別をつけたがる氣持ちがぐっと薄らいだこと。

もちろんマインドも健在ですから浮かぶことは浮かぶのですが、すぐに意味を持たなくなります。

何事であれ くっきりと線引きをして分け出さないと成立しないのがマインドの世界ですが、“在る” は言葉の及ばない領域ですから、そんな線引きも無効。

どんな景色であれ ただ映るものが映るがままに映し出されているのが “在る” であり、そこにはどんなふるい分けもジャッジも存在しません。

“在る” を通せば、どんな生き方も等しく 「その魂が意図し、生れ落ちた個人個人が選択行動して紡ぎ続ける物語」 であり、大切なのは ポジであろうとネガであろうと とにかくその物語を 「体験」 することです。

“在る” はゼロ地点であり、そこに意識を向けるのはクリアボタンを押すようなものなのかもしれません。

そんな “在る” が マインドにも影響を及ぼすのか、ついついクセで これはいい ・ これは悪いと区別をつけても、じきに 「そんなの無意味」 と思えてくるのです。

替わって出てくるのが、これがこの人の魂が望んだ体験であり この人の学びなんだなぁ、という見方。

そんなふうに距離を置いて客観的に眺めるとき、腹立たしさや痛ましさは消え、その出来事に影響されることもなくなります。

それが私たちみんなに関わることなら、いたずらに感情に煽られることなく どうしたらもっとよくできるかというほうに すっと意識が向きます。

これも自然に起きてきた変化ですが、まわりの出来事にいちいち動揺せずにいられるのは エネルギーを消耗しなくて済んで楽です。




五感の視点しかないときは、世界は強大すぎて歯が立たず、望まないこと不快なことが起きてもどうすることもできないという無力感に成すすべなしの氣分でしたが、ここに五感を超えた視点が加わると 視界が大きく開けます。

どんな悲惨も理不尽も 決して無意味に苦しめられているわけではなく、一度体験すれば十分なのであって、きちんと受け止めればそれで終わりにできます。

そして負をひとつクリアするごとに、私たちは新たな智恵や力や自信を身につけ成長します。

これこそ魂が望んでわざわざこの不自由な世界にやってきた醍醐味なんだろうなと思うのです。