白木屋のBOOK OFFで1ドルコーナーにあって、何の気なしに買った本。
「チーズはどこへ消えた?」(WHO MOVED MY CHEESE?) スペンサー・ジョンソン著
本の帯に『新世紀初の超ベストセラー!』と書いてあるが、私は全然知らなかった。
もしかしたら、「誰でも知ってる本だよ、あんた!」と言われてしまうのかも・・・
ある迷路が舞台で、登場人物は、二匹のネズミと、二人のコビト。
この二匹と二人が、迷路の中でチーズを捜し求める物語だ。
このチーズは、私達が人生で求めるもの、仕事、家族、恋人、お金、大きな家、自由、健康、人に認められること、そういうものを象徴している。
物語の中で、二匹と二人は、チーズを見つけるまでは同じだが、見つけたチーズがなくなってしまうところから、生き方が分かれる。
ネズミは単純だ。なくなったから、他のものを探すだけ。
コビトはネズミよりも頭がいいから、起きた出来事を頭でこねくりまわす。
チーズさえあれば幸せになれる
→〔仕事・恋人・お金・自由・健康・・〕さえあれば幸せになれる
私もそうだった。
もちろん今でも、そういう思考はしっかり残っているが、以前は疑いもせずにそう信じて、いろんなチーズを追い求めてきた。
手に入れても、一瞬の喜びのあとは幸せが続かなかったのはなぜだろう、と不思議だった。
きっとそれは、まだ他のチーズを手に入れていないからだろうと思い、別のチーズを探す旅に出る羽目になる。
ずっとあると信じていたチーズがなくなってしまったら??
→ずっとあると信じていた〔仕事・恋人・お金・自由・健康・・〕がなくなってしまったら?
状況を受け入れられず、社会や誰かのせいにして、その場にとどまって怒りをぶちまける。
悲劇の主人公になって、自分を哀れんでみる。
起きたことの意味をさがしだそうとする。
これが私がやってきて、今も時にハマってしまう反応だ。とりわけ3番目は・・・・
チーズが私を幸せにしてくれる、と信じている限りは、死ぬまでチーズを探し続けなくてはいけなくなる上に、
チーズを見つけられない間は不幸のどん底である。
どんなチーズを手に入れたかが一番大事な人生の目的であり、それが「成功した人生」の指標であり、だけど、そんな人生は常に恐怖と背中合わせだ。
「良い」チーズを手に入れたら、それを失うことの恐怖がセットで付いてくるのだから。
ネズミのように、チーズがなくなったら、スイッチをONからOFFに切り替えるように、あっさり次を探せたら苦労はしない。
人間には、ONとOFFの間に、調光ダイヤルのようにさまざまな感情や思考の段階があって、
そのモヤモヤした思考をくぐり抜け、じたばたしながらOFFに切り替える体験こそが、人間を選んで生まれてきた醍醐味かもしれないのだ。
わかっている。
私のどこかでは、確実にわかっているのだが、そのモヤモヤを楽しめない。
仕方がないから、その楽しめない自分を楽しんでしまおう、という無理矢理なことをしようとする。
ただ、以前と違うところは、私の迷路を楽しい風景で飾ったことだ。
人生が迷路だとするなら、どんな迷路にするかは個人の自由。
コンクリートの床と、高い塀に囲まれた迷路にするか、
花が咲き乱れる、気持ちの良い原っぱにするか。
森があったり、煉瓦の敷かれたこぎれいな街がある道にするか。
それは、チーズを探している間もハッピーでいることを選ぶかどうか、ということでもある。
チーズを求めることが悪いんじゃない。
チーズが欲しくなくなったら、それはそれでつまらない。
ただ、どんな心持でチーズを探すか、そのチーズに対してどうつきあうか、自分には古くなってしまったチーズに気がつけるか、
古いチーズを捨て、次のチーズを探す勇気があるか。
この本の帯の裏側に書いてあった文にドキリとした。
『あなたのチーズはなんですか?』
私が探しているチーズはなんだろう。
私が持っていて、もう古くなってしまったチーズはあるだろうか。
「チーズはどこへ消えた?」(WHO MOVED MY CHEESE?) スペンサー・ジョンソン著
本の帯に『新世紀初の超ベストセラー!』と書いてあるが、私は全然知らなかった。
もしかしたら、「誰でも知ってる本だよ、あんた!」と言われてしまうのかも・・・
ある迷路が舞台で、登場人物は、二匹のネズミと、二人のコビト。
この二匹と二人が、迷路の中でチーズを捜し求める物語だ。
このチーズは、私達が人生で求めるもの、仕事、家族、恋人、お金、大きな家、自由、健康、人に認められること、そういうものを象徴している。
物語の中で、二匹と二人は、チーズを見つけるまでは同じだが、見つけたチーズがなくなってしまうところから、生き方が分かれる。
ネズミは単純だ。なくなったから、他のものを探すだけ。
コビトはネズミよりも頭がいいから、起きた出来事を頭でこねくりまわす。
チーズさえあれば幸せになれる
→〔仕事・恋人・お金・自由・健康・・〕さえあれば幸せになれる
私もそうだった。
もちろん今でも、そういう思考はしっかり残っているが、以前は疑いもせずにそう信じて、いろんなチーズを追い求めてきた。
手に入れても、一瞬の喜びのあとは幸せが続かなかったのはなぜだろう、と不思議だった。
きっとそれは、まだ他のチーズを手に入れていないからだろうと思い、別のチーズを探す旅に出る羽目になる。
ずっとあると信じていたチーズがなくなってしまったら??
→ずっとあると信じていた〔仕事・恋人・お金・自由・健康・・〕がなくなってしまったら?
状況を受け入れられず、社会や誰かのせいにして、その場にとどまって怒りをぶちまける。
悲劇の主人公になって、自分を哀れんでみる。
起きたことの意味をさがしだそうとする。
これが私がやってきて、今も時にハマってしまう反応だ。とりわけ3番目は・・・・
チーズが私を幸せにしてくれる、と信じている限りは、死ぬまでチーズを探し続けなくてはいけなくなる上に、
チーズを見つけられない間は不幸のどん底である。
どんなチーズを手に入れたかが一番大事な人生の目的であり、それが「成功した人生」の指標であり、だけど、そんな人生は常に恐怖と背中合わせだ。
「良い」チーズを手に入れたら、それを失うことの恐怖がセットで付いてくるのだから。
ネズミのように、チーズがなくなったら、スイッチをONからOFFに切り替えるように、あっさり次を探せたら苦労はしない。
人間には、ONとOFFの間に、調光ダイヤルのようにさまざまな感情や思考の段階があって、
そのモヤモヤした思考をくぐり抜け、じたばたしながらOFFに切り替える体験こそが、人間を選んで生まれてきた醍醐味かもしれないのだ。
わかっている。
私のどこかでは、確実にわかっているのだが、そのモヤモヤを楽しめない。
仕方がないから、その楽しめない自分を楽しんでしまおう、という無理矢理なことをしようとする。
ただ、以前と違うところは、私の迷路を楽しい風景で飾ったことだ。
人生が迷路だとするなら、どんな迷路にするかは個人の自由。
コンクリートの床と、高い塀に囲まれた迷路にするか、
花が咲き乱れる、気持ちの良い原っぱにするか。
森があったり、煉瓦の敷かれたこぎれいな街がある道にするか。
それは、チーズを探している間もハッピーでいることを選ぶかどうか、ということでもある。
チーズを求めることが悪いんじゃない。
チーズが欲しくなくなったら、それはそれでつまらない。
ただ、どんな心持でチーズを探すか、そのチーズに対してどうつきあうか、自分には古くなってしまったチーズに気がつけるか、
古いチーズを捨て、次のチーズを探す勇気があるか。
この本の帯の裏側に書いてあった文にドキリとした。
『あなたのチーズはなんですか?』
私が探しているチーズはなんだろう。
私が持っていて、もう古くなってしまったチーズはあるだろうか。