人が集まった時、子供の頃、将来何になりたかったか、という話題になった。
幼稚園の頃は、ケーキ屋さんとか、お嫁さんだったと思う。
小学校の卒業文集に、寄せ書きのようにして将来の夢を書いた。何になりたいかわからなかった私は、先生に
「なりたいものがわからないから書かなくてもいいですか」と聞いた。
先生は笑って、「深刻に考えないでさ、こうだったらいいなぁーというものでいいんだよ、なんかあるだろう?」と言った。
クラスのほかの女子は、スチュワーデスとか、学校の先生とか書いていて、
男子は、社長、とか宇宙飛行士、中には、金持ち、なんて書いているアホもいた。
卒業文集はずっと残るものだから、と思うからこそ、余計に何を書いていいかわからず、でも結局無難なスチュワーデスと書いたような気がする。
1度も憧れたことはなかったのだけど。
高校生ぐらいになれば、自然と誰でもなりたいものがわかってくるのだと、私は子供心に思っていたけれど、
高校3年になっても、私は自分が何になりたいのかわからなかった。
はっきりと医者とか、通訳とか決めて、それに向かって進んでいく人たちが羨ましかった。
絵を描くのは好きだったが、先生の主観で良い・悪いを決められてしまう、小学校の図画や中学高校の美術の授業は大嫌いだったから、いつも音楽を専攻していた。
ここでも無難に、中国語なんかやっておけば将来的にいいかも、ぐらいの気持ちで志望校を決めたけれど、
結局高校3年の夏に、突然「美大に行こう」というヒラメキ(?)が降りてきて、美大を受け、なんと受かってしまったのだった。
美大には入ったものの、美大に行きたかったというよりも、受験というものに流されている自分に気づいて、その反発のほうが大きかったから、
相変わらず、私は何になりたいのかわからずにいた。
彫刻科や日本画科の人たちは、男子は特に、親から勘当同然で来ている人が多く(将来就職先がないから)、ものすごい貧乏なんだけど、好きなことをやっているという輝きがあり、それがすごくまぶしかった。
将来何になりたかったか、という話をしながら、
私はとうとう、そういうものがないまま大人になって、目の前にあることを選びながら生きてきてしまったなぁと思う。
実家の父は、大学に進学するのが夢だったが、終戦後まもなくのことでもあり、父の下には歳の離れた弟が二人もいたから、進学は諦めて働かなくてはならなかった。
家業を継いでほしかった祖父に逆らい、華やかなデパートに就職した。社交的で派手好きな父にはピッタリだったかもしれない。
しかし数年後、祖父が身体を壊し、余命いくばくもないと宣告され、泣く泣く家業を継いだのだった(その祖父は88まで元気に生きた)。
父がお酒を飲んだ時に、実は友達と東大を受験しに行ったんだ、と話したことがあった。
大学には行けないのはわかっているし、東大なんか受かるはずがないんだけれど、受験してみたかったのだと言った。
父にとって「大学」という言葉は、きっと今でも胸の隅にあって消えない、懐かしいシミのようなものなのかもしれない。
夫の父は、歯科医だが、昔はペンキ屋になりたかったのだという。
子供の頃からペンキを塗るのが好きで、本気でペンキ職人になりたかった時期があったというのだ。
今でも、ガレージにはプロ並みのペンキグッズが揃っていて、家の壁が剥げたといえば、即座に素晴らしい調合で色を作って直してしまう。
どこかの家で外壁を塗っていると、そこに通って飽きずに眺めていることもある。
夫がなりたかったのは、ロックのギタリスト。(フー ファイターズのデイブ・グロウになりたい、と言った)
何本もギターを持っていて、ヘッドフォンをつけて音量最大で弾きまくる。
なりたかったけど、なれなかったもの。ならなかったもの。
それに思いを馳せるときの気持ちは、どんなものだろう。
想像はできるけど、ほんとのところはわかりようがない。
それがたとえ、心のシミのようなものであっても、それを持っている人が羨ましいと思うのである。
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幼稚園の頃は、ケーキ屋さんとか、お嫁さんだったと思う。
小学校の卒業文集に、寄せ書きのようにして将来の夢を書いた。何になりたいかわからなかった私は、先生に
「なりたいものがわからないから書かなくてもいいですか」と聞いた。
先生は笑って、「深刻に考えないでさ、こうだったらいいなぁーというものでいいんだよ、なんかあるだろう?」と言った。
クラスのほかの女子は、スチュワーデスとか、学校の先生とか書いていて、
男子は、社長、とか宇宙飛行士、中には、金持ち、なんて書いているアホもいた。
卒業文集はずっと残るものだから、と思うからこそ、余計に何を書いていいかわからず、でも結局無難なスチュワーデスと書いたような気がする。
1度も憧れたことはなかったのだけど。
高校生ぐらいになれば、自然と誰でもなりたいものがわかってくるのだと、私は子供心に思っていたけれど、
高校3年になっても、私は自分が何になりたいのかわからなかった。
はっきりと医者とか、通訳とか決めて、それに向かって進んでいく人たちが羨ましかった。
絵を描くのは好きだったが、先生の主観で良い・悪いを決められてしまう、小学校の図画や中学高校の美術の授業は大嫌いだったから、いつも音楽を専攻していた。
ここでも無難に、中国語なんかやっておけば将来的にいいかも、ぐらいの気持ちで志望校を決めたけれど、
結局高校3年の夏に、突然「美大に行こう」というヒラメキ(?)が降りてきて、美大を受け、なんと受かってしまったのだった。
美大には入ったものの、美大に行きたかったというよりも、受験というものに流されている自分に気づいて、その反発のほうが大きかったから、
相変わらず、私は何になりたいのかわからずにいた。
彫刻科や日本画科の人たちは、男子は特に、親から勘当同然で来ている人が多く(将来就職先がないから)、ものすごい貧乏なんだけど、好きなことをやっているという輝きがあり、それがすごくまぶしかった。
将来何になりたかったか、という話をしながら、
私はとうとう、そういうものがないまま大人になって、目の前にあることを選びながら生きてきてしまったなぁと思う。
実家の父は、大学に進学するのが夢だったが、終戦後まもなくのことでもあり、父の下には歳の離れた弟が二人もいたから、進学は諦めて働かなくてはならなかった。
家業を継いでほしかった祖父に逆らい、華やかなデパートに就職した。社交的で派手好きな父にはピッタリだったかもしれない。
しかし数年後、祖父が身体を壊し、余命いくばくもないと宣告され、泣く泣く家業を継いだのだった(その祖父は88まで元気に生きた)。
父がお酒を飲んだ時に、実は友達と東大を受験しに行ったんだ、と話したことがあった。
大学には行けないのはわかっているし、東大なんか受かるはずがないんだけれど、受験してみたかったのだと言った。
父にとって「大学」という言葉は、きっと今でも胸の隅にあって消えない、懐かしいシミのようなものなのかもしれない。
夫の父は、歯科医だが、昔はペンキ屋になりたかったのだという。
子供の頃からペンキを塗るのが好きで、本気でペンキ職人になりたかった時期があったというのだ。
今でも、ガレージにはプロ並みのペンキグッズが揃っていて、家の壁が剥げたといえば、即座に素晴らしい調合で色を作って直してしまう。
どこかの家で外壁を塗っていると、そこに通って飽きずに眺めていることもある。
夫がなりたかったのは、ロックのギタリスト。(フー ファイターズのデイブ・グロウになりたい、と言った)
何本もギターを持っていて、ヘッドフォンをつけて音量最大で弾きまくる。
なりたかったけど、なれなかったもの。ならなかったもの。
それに思いを馳せるときの気持ちは、どんなものだろう。
想像はできるけど、ほんとのところはわかりようがない。
それがたとえ、心のシミのようなものであっても、それを持っている人が羨ましいと思うのである。
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