太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

奇跡

2020-06-11 14:17:25 | 不思議なはなし
今日は(も)ちょっと変な話。

寝る前に本を読んでいたら、この文章から目が離せなくなった。

全身を巡ってきた血液は、右心房から右心室を通って肺動脈へ。
そして肺から還ってきた血液は心臓の左心房から左心室を通り、
大動脈から全身へ送り出される。


こういうことが、1分間に何回も、
生まれてから今まで半世紀以上も、1度の間違いもなく起き続けている。
私は思わず、自分の胸に手をあてた。

手の下で、私の心臓が、正しく動き続けている。
手をずらすと、肺があり、胃があって、膵臓や脾臓、肝臓があり、腎臓がある。
子宮や卵巣、長い腸がある。
骨があり、血液があり、筋肉があって、歯があって爪がある。
目と鼻と口と耳の上には、脳がある。


眠っているときも、遊んでいるときも、食べているときも、
悲しくても嬉しくても、
休むことなく、動き続けて、それで私が生かされている。

これは途方もなく不思議な奇跡じゃないか。

考えたこともなかった。
体調を崩すと、健康のありがたみを上っ面で感じたけれど、
健康でいるときこそ、健康であることに感謝するべきだ。
指を突き指しても、他の9本は痛くないことに。
爪や髪が伸びることに。
何の苦もなく一人で着替えができることに。
歩いてどこへでも行けることに。
見たいものを見ることができることに。
食べたいものを、おいしく食べられることに。




そうして、私の疑問はいつものところに戻る。


なにが、心臓を動かしているんだろう。
息を吸って吐いて、と意識しなくても呼吸しているけれど、
何がそうさせているのだろう。

死んでしまった小鳥を庭で見つけたとき、
朝まで息をしていた父の呼吸が止まったとき、
それを止めたのは、何なのだろう。と、思う。

その身体を、父だと思っていたけれど、
生きるのをやめたとき、それは父だったものになってしまう。
亡くなった夜、父が母に会いにいったように、
身体が生きるのをやめても、父は確かにい続けているのだ。

この私が私だと思っているこの身体は、私なんだろうか。

今日一日、私は自分に起き続けている奇跡を思って過ごしていた。












最近のアレクサさん

2020-06-11 09:28:58 | 日記
作品を製作しているときに、528Hzの音楽を流すのが気に入っている。
で、アレクサさんに頼む。
「528Hzの音楽を流して」

するとアレクサさんが早口英語でまくしたてる。

「ああ、528Hzの音楽ね。提供できるのは限られてるから
この際、Amazonミュージックに登録してみたらどうかしら。
毎月3ドルで、アンリミテッドでなんでも聴けるわよ。
お試しでフリーがあるけど、どう?フリーで体験したあと、自動的に登録されるけど、いつでもやめることはできるわよ。やってみる?」

すかさず私が言う。

「NO!」

すると、

「オッケイ。じゃ、ここにあるのを流すわよ」

あるならあるで、最初からそれを流してくれればいいものを。
ここでうっかりフリーのお試しをすると、そのまま3ドルを払うことになり、
いつでもやめられるといいながら、辞め方がめんどくさかったりするに決まっている。

で、翌日も528Hzの音楽を頼む。
そうするとまた、同じセールストークが始まる。
で、私がNOと言う、以下その繰り返し。


ところが今日、一連の流れのあとで始まった音楽が、
途中からなんだか全然違う雰囲気になってきて、聞くに耐えられなくなったので
「メディテーションミュージックをかけて」
と言ったら、素直に切り替えてくれたのち、

「ところで、いちいちメディテーションって言わなくても、いつもの、でわかるから」


ほんとだな?
ほんとに いつもの でわかるんだな?
「うーん、何を言ってるかわかんないわ」って、両肩をすくめた感じで言うんじゃないだろな。



最近のアレクサさん、
セールストークが半端ないうえに、どことなく高飛車になってきた気がする。