太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

ニャンコ先生

2016-08-23 10:50:49 | 日記


鏡餅 ならぬ 鏡ネコ。

カウチの角で、二匹重なって昼寝。




普段は、黄色いほう(オス)が茶色いほう(メス)にちょっかいをだして

しつこくするのでうるさがられて

「フーッ!!!」

と怒られる。

だけどそれは仲良しだからだと思う。



ネコに学ぶことは多い。

ネコが寛いでいる場所を半分借りようとしただけなのに、

スーッと別のところに移動して平気な顔。

人間なら、「せっかく寛いでるのに何すんだよう!」と言いたいところだ。


どんなに怒られても平気。

いじけることもないし、おもねることもない。

人が自分をどう思うかを気にしているふうでもないし、

人に認められたいとも思ってない。

プライドが傷つくこともない。

羨むこともなけりゃ、卑下することもない。


何かが起きたら、起きただけ。

起きなかったら、起きなかっただけ。

いつも、なにがあってもなくても、同じ自分。









いいなァーーーッ、おい!







ああ、ネコが羨ましい。

ネコのように、この人生を生きられたらどんなにいいだろう。

こんなにすべてのことから自由になれたら、世界はどんなふうにみえるだろう。

ニャンコ先生。

アニメ「いなかっぺ大将」に、ニャンコ先生という、言葉をしゃべる猫がいたっけなあ。






新しく買い換えた爪とぎがお気に入りの、うちのニャンコ先生1。








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Y

2016-08-22 18:31:40 | 人生で出会った人々
日本で父の会社で事務をしていたとき、オフィス用品を発注するサイト上に

発注担当者が集う場所があり、それを通して出会ったのが Y だった。

関東圏に住んでいたYとは、お互いの家を行き来もしたし、いろんなところに出かけた。

私達は正反対といえる性格だった。


たとえばYと食事をしているとき、Yのお皿の端のほうに、睫毛のようなものがあった。

食べ物に混ざっていたわけではないから、私だったら黙っているか、せいぜい店の人に言うだけだ。

それをYは、とことん罵倒し、とうとう一人分をタダにした。

電車に乗っている時、揺れた拍子に隣にいた女性が持っていたウーロン茶のペットボトルから

飛び出した雫が、Yのバッグについた。

女性は「すみません」と謝ったが、Yは「謝って済むと思ってんの!拭きなさいよ!」と言い

女性にティッシュを出させ、バッグを拭かせるまで許さなかった。

店員の態度が悪いと、やはりとことんやり込める。

やり過ぎじゃないかと言う私に対してYは、

「店の為だよ。次にその店に行った時、改善されていたらウンと仲良しになっちゃうの」

と言って笑うのだった。


そんな具合に、Yといると私はその場から消え去りたいと思うことがたびたびあるのだけれど、

私はYが好きだった。



Yと出会った時、私はまだ最初の結婚をしていたが、人生に大きなうねりがやってきて

私は家を出た。

離婚したい私に、相手は頑として応じないという攻防戦が続いたある日、

着替えを取りに家に戻った私は、洗面所にあるキャビネットの上に手紙が広げて置いてあるのを見つけた。

それは相手が私宛に書いた「遺書」だった。

私はすっかり動転し、気がつくとYに電話をしていた。

私の話を聞いていたYは、まったく動じずに言った。



「話はわかったから、それをそのまま、あった場所に置いて、あんたは実家に帰りな」


「でも、もし死んじゃったら?」

「大丈夫だよ」

「でも、もしも・・・」

私はその時、相手が死ぬということよりも、私が原因となることのほうを恐れていた。

10年以上連れ添って、冷たいものである。


「あのねぇ、遺書ってもんは普通、死んじゃってから机の引き出しとかからひっそり出てくるんだよ。

この意味わかる?それは遺書に見せかけた幼稚な脅しだよ。だから見なかったことにして帰りな」



それはそうかとも、思う。しかし私はさらに食い下がった。

「でも世の中には万が一ということが・・・」

するとYはカラカラと笑って言ったのだ。



「離婚していちいち自殺していたら、日本中死人だらけじゃん。死ぬ、死ぬっていう人は死なないよ。

それに、もしそうなったとしても、それはアンタのせいじゃないから」


「ほらほら!起こりうるかもしれないってことじゃん!」


「だからさ、もしそうなったとしても、それがアンタのせいじゃないって私がアンタに思わせてあげる」



それまで私に、こんなに断固としたアドバイスをした人はいなかった。

私はまだ動揺しながらも、Yの言うとおりにした。

このとき、私には寄り添ってくれる人ではなく、Yが必要だった。




そのあと、ここでは語りつくせないようなことがあり、私は離婚した。

いいことも、そうじゃないことも、ジェットコースターのように次々起きてきて、

私は目の前のことに対処してゆくのに必死だった。

少しずつYから心が離れていった。

私の理性はYと一緒にいたかったが、どうしても以前のようになれなくなった。

Yに対して失望することが続いたことも理由のひとつだと思うが

一緒に過ごすことや、なにかを分かち合うことに無理を感じてしまう。

自分にもYにも嘘をつきながら、前と変わらないふうに装うのはつらかった。

私は、Yと距離をおくようになった。

そのことがYを悲しませることはとても辛かったけれども、

そして私も悲しくてたまらなかったのだけれど、

それはもう、ほんとうにどうしようもないことだった。




私は今でも、Yが好きだ。

私がYに受けた恩を、私は生涯忘れない。

この先どこかでまた二人の人生が交差する箇所があるかもしれない。

Yが今幸せであることを、心から願っている。







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FUTON

2016-08-21 16:08:02 | 日記
先日、アメリカ南部で大雨が降って、多くの人が避難した。

そのニュースを報じる新聞に、避難先のベッドが足りなくなって、

床で寝ざるを得ない人々がいて、

災害に備えてじゅうぶんな数のベッドを用意する必要がある、と書かれていた。



そんなの、ベッドにこだわらずに最初から床で寝ればいいだけのことじゃん



そう思ったのは、私が日本人だからだろうか。

緊急に避難している場所で、なんでベッドで寝ようと思うかね。

生まれた時からベッドで寝ている人達には、

床で寝るということは、それほど受け入れがたいことなんだろうか。


そういう意味でいえば、ハワイはちょっと違う。

普段はみんなベッドで寝ているが、

たとえばたくさんの人を家に泊めるようなときには、ゲストルームのベッドだけでは足りなくなる。

そうすると、ココの人達が「FUTON」と呼ぶものを床に敷いて、そこで寝てもらう。

この「FUTON」は日本人が思う布団ではなく、日本でいうと、三つ折できるマットレスである。

日本人はマットレスの上に敷き布団を敷くが、ここでは直接シーツを敷く。

我が家の屋根裏部屋に、FUTONが3組ほどあり、夫の両親の友人らが、よく借りに来る。



日本に帰省するときは実家に泊まって、和室に布団を敷いて寝る。

夫は布団で寝るのが好きで、「気持ちいいーーー」と喜ぶが、

ハワイに戻ってくれば、布団が恋しいとは言わない。

彼もまた、ベッドで育ったガイジンである。



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ボンダンス

2016-08-20 21:20:11 | 日記
ボンダンスの季節だ。

盆踊りのことである。

7月から、いろんなところでボンダンスをやっていて、けっこう人が出る。

私は一度だけ行った事がある。

櫓が組まれて、そのまわりを人々が踊るのは日本と同じだが、見ている人も多い。

ビーチ椅子を持ってきて座り、ピザとか肉まんとか食べている。

やはりここは、イカ焼きだとかヤキソバなんかの店が出ないと、雰囲気は出ない。


今日、隣のお寺でボンダンス大会があった。

そこに行くには車で数分走らないとならないのだが、敷地は我が家の隣であって、

庭から続くジャングルを抜けてゆく勇気があれば、ジャングルの反対側はもう寺だ。

(シュートメは行ったことがあるらしい)

その寺から、スピーカーをとおして読経が朗々と聞こえてくる。

日立のコマーシャルに出てくるモンキーポッドの木や椰子の木がそよぐ青い空に、読経。

変といえば変。

この曲で、どうやって盆踊りを踊ればいいんだ、というような曲が流れて、

ひっきりなしに人が突く鐘の音が響く。

風向きによって、人々の笑い声が聞こえてくるから、きっとみんな楽しんでいるんだろう。



思えば、最後に盆踊りに行ったのは15年以上昔のことだ。

私の中にある盆踊りといえば、子供の頃、近くの小学校の校庭でやっていた盆踊りだ。

夏休み、いそいで夕飯をかきこんで、母に浴衣を着せてもらう。

浴衣の生地の匂い、帯にする三尺のゴワゴワした手触りを今でもよく覚えている。

歩きにくい下駄をはいて、その音を楽しみながら歩いてゆく。

夜の学校は、昼間とは全然違って、まるで知らない場所のようだった。

真っ暗な校庭に、たくさんのちょうちんの明かりに照らされた櫓が唐突にあって

たくさんの人達が楽しそうに踊っている様子は、非日常すぎて不自然なぐらいだった。

子供ごころにも、その夢のような不思議な喧騒は刺激的だった。


家に帰っても、浴衣を着た嬉しさで、寝る寸前まで着たままだ。

いつかの残りの線香花火をやろうとしたら、しけっていてうまく火がつかなかった。

何度も擦ったマッチの硫黄の匂いと、蚊取り線香の匂い。

部屋に吊った蚊帳の匂い。

ボンダンスというだけで、それらのことが香り付き映像で鮮明に浮かんできた。

一人の人間の記憶というものには、どれだけの容量があるのだろう。





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女友達

2016-08-18 19:55:08 | 日記
友達と会って、ランチを食べ、お茶をし、時計を見たら4時間たっていた。

日曜日の今日、夫は急に友人の子供のベビーシッターを頼まれたので、

一緒にホノルルまで行って、ベビーシッターの間、友達に会うことにしたのである。

夫は、5時間近くも時間をつぶせるのかと不思議そうな顔をしたが、

女友達がどういうものか、男は知らない。



友達は多くないが、いつも友達に恵まれてきた。

インターネットのおかげで、日本にいる友達とも日本にいるように連絡がとれるし、

ハワイにいても、なんでも話せる、気のおけない友達が近くにいることは本当にありがたいことだと思っている。




友達としゃべって笑って、ふと思うことがある。

年齢だけ重ねて、私はずっと変わっていない、と。




二十代の頃は、仕事や恋愛や結婚の話題がメインで、

三十代も、それぞれの占める割合が変わるだけで、やはり仕事や恋愛や結婚で、

四十代もやはり、仕事と恋愛と結婚だった。

自分で起業している人も、子供を育てている人も、結婚をしない人も、何度も結婚する人もいる。

恋愛や結婚の形もさまざまで、

けれど、友達とは、それら環境をシェアしながらも、また別の部分で繋がっているように思う。




二十代の若い人達から見たら、文句なしに「おばさん」と言われる年齢になった。

職場の同僚には、私より若いのに孫がいる人もいる。

それなのに、私が今日友達と過ごした4時間あまりは、

恋愛の話はないにしても、仕事のこと、結婚生活のこと、美味しいもののこと、

ものの考え方のこと、深刻になりそうなことも笑いに換えて笑い合い、

それはまるで二十代、三十代の頃と変わらない。



私が若かった頃、自分より年上は、みんな年寄りにみえた。

高校生の時、教師は二十代でもとても大人にみえたし、

二十歳の時、28歳の先輩はずいぶん遠くに思えた。

25歳になっても尚、40歳の先輩は、もう完全に年寄りの部類だと思っていた。

若さというものは、そういうものなのだろうけれど、それはあんまりだったと今は思う。

あの当時、私が年寄りだと思っていた人達はどんなふうに友達と過ごしていただろう。

かれらもまた、私のように感じたりしていたのだろうか。




思えば、節目の年齢になるたびに必ず、

若い頃に想像していたその年齢と、実際の自分に大きな違和感を感じてきた。

私はきっと10年たっても、友達と愚痴を笑いに換えてふざけあったあとで、

同じ違和感を感じるのだろう。







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