太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

毎朝とおる道

2016-08-17 19:28:42 | ハワイの自然


我が家から職場まで、車で10分余りの距離だ。

その間、ずっと海沿いを走るので、景色はこんな感じ。




もうちょい寄ってみたけど同じか。

三角に浮かんだ島は、チャイナマンズハット。中国人のかぶる帽子みたいな形。



ほらね。




ショベルカーで削り取ったような形のコオラウ山脈は、

ホノルルとこちら側を隔てる屏風のように横たわっていて、

トンネルをはさんで、気温も天気もまるきり変わってしまう。

我が家もこの山の麓にある。


私はこの景色が好きだ。

ホノルルまで通っていた時は、トンネルを過ぎるとすっかり街だらけの中を走る。

でも今は、起きてから寝るまで、ずーっとこんな自然の中にいる。

目にしみるような緑も、おおげさに咲き誇る花々も、毎日違う顔を見せる海もこんなに近くにあって、

なんという贅沢なことだろうか、と思う。





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8月になると

2016-08-15 19:38:42 | 日記
8月も半ばになった。

8月半ばから終わりにかけて、日にちを確認するたびに

重苦しい思いが雨雲のように湧き上がって、心を覆う。

小学校1年から、高校卒業までの12年間、毎年8月に体験してきたことが思い出されるからで、

それは何をもってしても取れない頑固なシミのようだ。


夏休みは大好きだが、大嫌いでもあった。

宿題さえなかったら、どんなに夏休みは楽しかろう。

夏休みが3ヶ月もあって(最近は2ヶ月になった)、宿題がないアメリカの子供に

羨ましさを通り越して憎しみすらおぼえた。


宿題をやればいいだけのことなんだけれど、それができたら世話はない。

夏休みが始まる頃、「よし7月中に半分は終わらせるぞ」と毎年決意する。

そして大変立派な計画表を作る。

2日か3日は表のとおりに宿題をやる。

8月になったらがんばって取り返せばいいやと思ってダラダラ遊ぶ。

ところが、8月になってもがんばらない。

がんばらずに何をするかというと、

計画表を見ながら、10日でやるはずのものを、いったい最高どこまで

やらずに引っ張れるか、を検討する。



わかっている。ここが私の失敗するところだ。

そんな検討をするぐらいなら、書き取りや夏休みの友の1ページでもやればいいのだ。


そうやって検討を重ねた結果、かなり無理なスケジュールになっているので、

そのとおりには進まない。

計画はズレにズレて、もはや計画表など存在の価値はなくなり、見るのも嫌になってくる。

残された日数と、残された宿題の量を頭の中で秤にかけて憂鬱になる。

それがだいたい、8月の半ばなのである。


憂鬱になりながらも、がむしゃらにやるかというと、そうでもない。

今日はおばちゃんちに行ったから、とか、家の手伝いをしたからとか、やらない言い訳を見つけては

まだぐずぐずとやっている、

そしていよいよ泣きが入るのが、20日過ぎである。

泣いても笑っても、あと10日しかない。

宿題をやらずに学校に行く度胸もない私は、母に叱られ、父や祖父にまで頼み、半泣きで宿題をやる。

小学5年の時の宿題に、先生にハガキを出すというのがあり、

それに気づいたのが28日で、今から出しても間に合わない。

さんざん叱られながら父の運転で先生のお宅まで行き、お宅の郵便受けにハガキを入れたこともあった。



さすがに中学あたりからは、父や祖父まで巻き込むことはなかったが、

それ以外はほぼ同じで、つまり12年間にわたり、ばかみたいに同じ夏を繰り返していたのだ。

「毎年毎年、どうしてそうなるの?!」

まったくもって母の言うとおりだ。

こんなに学習しないのも、これはこれですごい。



宿題の重圧、というより、宿題があるのにやらないことの重圧。

やればいいだけのことなのに、どうしてやらないのか自分でもわからない。

もう何十年も宿題のない夏を送っているのに、今でもあの重苦しさだけがよみがえるのである。









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リオ

2016-08-13 19:51:50 | 日記
いろいろと言われていたリオのオリンピックが始まった。



夫の父が、好意で我が家のテレビをケーブルテレビに繋げてくれたおかげで

夫はすっかりテレビっ子だ。

どういう仕組みか知らないが、すべての番組、コマーシャルにまで英語の字幕が付くので、

私も一緒にテレビっ子の仲間入りだ。

私一人の時にテレビを見ることはないのだけれど、夫が勝手にカチャカチャ変える番組を、

私はほかの何かをしながら見ている。


なかなか興味深い番組がある。

私が好きなのはヒストリーチャンネルで、はるか昔から宇宙人が人間の文明を助けてきた、

という仮説で、世界中を証拠を探してゆくというもの。


夫が好きなのは、「48」という番組で、アメリカで起きた殺人事件の捜査をドキュメントで追う。

事件が起きてから48時間にどこまで捜査を進められるかが、事件解決の鍵らしい。


変わったのもある。

初対面の男女が、全裸で21日間サバイバルする。

持ってゆける道具はひとつだけで、ほとんどの人はナイフを選ぶ。

過酷な自然、飢え、怪我、極限の状態での21日間は想像を絶する長さだ。

しかし、なぜ全裸なのかがわからない・・・

パンツぐらいはけばいいのに。



日本の番組もある。

Japan's Local secret という番組で

日本国内の都道府県の、その地域だけの食べ方や文化などを紹介する。

どうも10年ぐらい昔のものを繰り返し放送しているようなのだ。

その中で、静岡県を取り上げていて、静岡出身の芸能人が

「静岡人は、足をくじくことを ぐらす と言います」

と言うと、その場にいる人達が一斉に

「えーーー!」

と言うのと同時に私も、

「えーーー!」と叫び、

「ぐらす って言わないなら、なんて言うのさ!」

と言っていた。

くじく、とか、ひねる、という言葉もあるけれど、それは会話では使わない。

「足、ぐらしちゃっただよー」

と言う。(この「ただよー」は典型的な静岡弁である)

こんな具合に、その土地の人だけが常識だと思っていることを知るのは、

なかなかにおもしろい。




そうだ、オリンピックの話だった。


オリンピックはおもしろい。

この場に出ることだって大変なことなのに、こんな大きな本舞台で世界新の記録を叩き出せる人達。

リタイアしたけれど、目的を見失ってつまづき、再びオリンピックに戻ってきた人。

当然ながらアメリカ寄りの見方だから、日本の選手のことがわからないのが残念だ。


しかし、しばらく見ていると、私の癖がでてくる。

体操の選手の化粧が、ちと濃すぎやしないか。

小柄な彼女達が濃い化粧をすると、子供が化粧をしているようなバランスの悪さがあって気持ちが悪い。

水泳の男性選手は、永久脱毛をしているんだろうか、それとも毎日剃っているのだろうか。

陸上選手の長い金のネックレスが、足を踏みだすたびに口元にまで跳ね上がり、邪魔で仕方がない。

「そんなもん、はずしてこいや!」

思わず声に出して言うと、みかねた夫が言う。

「ねえ、競技を見てる?」


オリンピックは好きだが、これじゃあオヤジだ。

と自分でも思う。

思うが、今も、女子体操選手の脇の下が気になってしまうのだから、しかたがない。





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母性

2016-08-12 18:29:01 | 日記
職場に、ナッツの試食がある。

木製の器に入ったナッツを、小さなトングで取るようになっている。

父親と来ていた白人の6歳ぐらいの男の子が

ナッツをはさんだトングを、ついそのまま口に入れてしまった。

父親は息子を短く叱ったあと、

「申し訳ないけれど、息子が口に入れてしまいました」

とトングを私に渡した。

しばらくして、その男の子が別のナッツの試食をしようとして、またトングを口に入れてしまってすぐ、

自分でも気づいて、「しまった!」というようにおでこに手を当てた。

父親は離れたところからそれを見ていて、自分で言えよ、というようなことを言った。

男の子は少しの間迷っていたが、意を決したように私のところにやってきて

「ごめんなさい、ボク、また同じことをしちゃった・・・」

と言ってトングを差し出した。



か・・・・・・


かわいいッッ!!!!

もうむちゃくちゃかわええッ。


このぐらいの年頃の男の子のかわいさは猫に似ている。

だから猫みたいに、ぎゅーってしたいのを抑えて、

「謝らなくていいよ、教えてくれてありがとね、きみは正直な子だね」

と言った。



子供は苦手だ。

けして嫌いではない。

どうしていいのかわからないのだ。

見知らぬ赤ちゃんを「あらあらあらー」などと言って、上手にあやせる人がいる。

同僚の、3,4歳の子供を、自分の子供のように可愛がれる人がいる。

私には、それができない。

かわいいなあと思う赤ちゃんはいるし、小さな子供と仲良くできたらいいなと思う。

けれど、私は距離をおいて見ているだけだ。

だから6歳の子供に日本語を教えていた2年間は、楽しさと疲労と発見の連続だった。

それは私が子供を持ったことがないからだろうか。

それとも、母性の問題だろうか。

いつかそんな話をしたら、子供をもつ友人が、

「自分の子供以外は、あやしたいほどかわいいって思ったこと、あんまりないよ」

と言った。

そういうものなのかな。



私は生まれた時から父方の祖父母と暮らしていたが、

祖父母はいつも孫達と一線をおいている感じだった。

親に叱られたらおばあちゃんのところに行くといったことはなかったし、

孫は目に入れても痛くないというけれど、うちは違うと子供心に思っていた。

祖父母達も、どうしていいのかわからなかったのかもしれないと

今になって思うのである。






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ソウサツ

2016-08-11 19:47:55 | 英語とか日本語の話
人に対してなにかを指摘するのには、タイミングが肝心だと思っている。

昔、付き合っていた人が、「相殺(そうさい)」のことを「そうさつ」と言った。

こんな場合、相手にもよるし、その場のシチュエーションにもよって

私にはすぐ指摘できるときと、できないときがある。

相手に恥をかかせるのではないかとか、感じが悪いように思われないかとかいった思いが

ほんの一瞬の間に湧き上がって、たいがい、指摘できないことが多い。


このときは、すぐに指摘できなかった。

1度きりなら聞き流して終わりにすることもできるのだが、なぜか何度も会話にこの単語が出てくる。

彼が「そうさつ」と言うたびに、口の中がジャリッとする。

最初に指摘しなかったら、もう指摘するタイミングはない。

べつにそう決まっているわけじゃないけれど、私はそうだ。


仕事の話をしていたから、それは何度も出てくる。

口の中はジャリジャリするし、職場で恥をかくのも気の毒だし、相手は年下だし、

私は思い切って言った。

「ソウサツって書いて、ソウサイって言うんだよ」

相手は黙ったままだ。言わなけりゃよかったと思った。



こんなこともあった。

前の職場で、苗字に「松」の字がつく日本人スタッフがいたのだが、

常連のお客様がそれを「梅」と言う。

最初に間違えたときに、松だと指摘したのだけれど、その次もまた「梅」と言うので、

もう言えなくなってしまった。

本人と話す時には名前を呼ぶことはないので本人は知らない。

その人がいない時に、「梅○さん、今日はお休みなの?」と聞く。

とうとう私が働いていた間、ずっとその人は梅といい続けた。




すんなり素直に指摘できる人がいるのも知っている。

昨年、私の瞼になにかができたときに、顔を見て1秒で

「どしたぁー、その目!」

と言ったAちゃんのような人だ。

人の顔に何かができている時、それを1番気にしているのは本人に決まっているのだから

聞きたい気持ちはあっても、私は本人から言うまで何も言えない。

できればAちゃんのように、あっけらかんとしていたいと思うのに、

どうしてこんなことをいちいち考えているのだろうと

自分のことながら不思議でならないのである。







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