落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

あたしの名前はキム・ソンリョ

2023年09月02日 | movie

『福田村事件』

日本統治下の朝鮮を離れ、妻・静子(田中麗奈)とともに故郷に戻ってきた澤田(井浦新)。リベラルな村長・田向(豊原功補)は京城(ソウル)で教師をしていた澤田の帰郷を喜び、村の学校で教えてほしいと頼みこむが、なぜか心を閉ざした澤田はにべもなく断るのだった。
一方、薬の行商をしている新助(永山瑛太)は一族を率いて讃岐を出発、関東方面に商いの旅に出る。
関東大震災直後の1923年9月6日、千葉県福田村(現在の野田市)で起きた行商団虐殺事件をドキュメンタリー作家の森達也が映像化。

このブログで何度か書いている通り、私は在日コリアン3世だ。
祖父母が渡日したのは関東大震災から数年後の1920年代後半〜1930年代と聞いているから、私自身と関東大震災当時の朝鮮人虐殺事件に直接的な関わりはない。
でも、2011年の東日本大震災をきっかけに各地で災害復興支援ボランティアとして活動したとき、被災地で100年前とほとんど同じデマを何度も耳にした経験は、トラウマのような傷となって、心の底にこびりついて離れなくなった。

デマを口にする人々に悪意はないかもしれない。だが、自分が発しているその言葉に何の責任も保とうとはしていない。むしろ善意で語っていることさえある。怖かった、傷ついた、という被害者意識がそうさせていることもある。
人間には知性があるから、極端に偏った情報に触れたとき、本来ならば一度立ち止まって冷静に判断することができるはずなのに、できなくなってしまうのはなぜなのだろう。

映画では、被害が大きかった東京市内から避難してきた被災者の口伝いに「朝鮮人が集団で人を襲った」「強姦をはたらいている」「井戸に毒を放りこんでいる」などというデマが村にもたらされるが、そもそも地震の前から日本人に朝鮮人への差別意識が潜在的に存在していたことも描かれている。
1910年の日韓併合以来、日本が朝鮮の人々をどれだけ虐げてきたか。ならばこういうときこそひどい仕返しをされるかもしれない、という罪悪感に基づく警戒心があったことや、それが、互いに抑圧しあう閉鎖的な農村社会に不穏な波風を立てる過程も、丁寧に表現されている。

さらには、在郷軍人会の存在が悲劇を助長したことも明確にしている。戦場を経験した彼らは、命を守るためなら相手の命を奪っても構わない、いざというときには考えている猶予などない、というある意味異常な生存本能をもっている。しかも、軍国主義のもとで自警団を指揮する彼らの立場が、行政の指示系統を機能不全に陥れる。

人は、事件といえば「起こってしまった犯罪」そのもののことを認知・記憶するけれど、この映画では、犯罪に至るまでに具体的にどのようなプロセスが重ねられていったのか、どんな要因が絡まりあっていたのか、いつなら悲劇をくいとめることができたはずなのかを、わかりやすく語っている。
村長は「軍隊、憲兵、警察の許可なく通行人を誰何してはならん。許可なく一般人民は武器または凶器を携帯してもならん」という政府の戒厳令を村に伝え、自警団の解散を促す。
新助たちは、彼らを朝鮮人だと決めつけようとする自警団に、行政発行の行商人鑑札を提示している。
5日前に朝明(浦山佳樹)と信義(生駒星汰)から湯の花を買った静子と澤田は、彼らはほんとうに讃岐からきた行商人だと証言している。

立ち止まるチャンスは、何度もあったのに。
まるで、村人たちは初めから人殺しがしたかっただけのような気がしてしまうのが、悲しい。

新助の最後のセリフは、おそらく、この作品のつくり手がいちばん伝えたかった一言だと思う。
そして在郷軍人・秀吉(水道橋博士)の最後のセリフは、やはりつくり手たちが、絶対に許容すべきでないと考えた概念なのだろう。
登場人物たちのセリフで人々の名前を強調する場面が繰り返されるのも、すごく大事なメッセージだと思う。

正直にいうと、森達也のドキュメンタリーを何回か観ていて「ドキュメンタリー作家の劇映画ってどうなんだろう」という疑問を持ちつつ劇場に足を運んだ。
失礼しました。ほんとにすいませんでした。
映画は脚本というけど、今作の脚本は荒井晴彦・井上淳一・佐伯俊道という超ベテラン勢が手がけている。この脚本がもう素晴らしい。完璧。文句のつけようがない。
人物設定もよく計算されている。福田村の住人でありながら外地からの帰還者という“異物”である澤田夫妻や、新聞記者の楓(木竜麻生)、行商団の少年・信義は、現代人である観客や語り手の視線を表し、観る者を物語の世界へ導く役目を果たしている。倉蔵(東出昌大)と咲江(コムアイ)、貞次(柄本明)とマス(向里祐香)の不倫や、大地震で人々が恐れ慄いているときこそ儲けどきと意気込む新助たちの阿漕な商売など、時代背景を反映した人の業の描写も、とても生き生きしている。

劇中には、福田村事件以前に起きた亀戸事件や堤岩里事件、部落差別やハンセン病患者への差別、水平社宣言など、日本の国家犯罪や差別の歴史を語る上で欠くことのできないいくつもの事例が登場する。行商団の人々や澤田夫妻の会話でも、差別がいかに理不尽で人道に反しているか、本質から目を背ける思考停止がどれほど罪深く非人間的かが、自然に語られている。
会話の一つひとつの完成度に、この映画をつくろう、世に問おうとする人たちの覚悟を感じました。したがって、なぜこの作品が朝鮮人虐殺ではなく福田村事件をとりあげたのかという確信も伝わる。

これが世紀の傑作と評価されるかどうかはまだわからない。
だけど、誰もが観るべき素晴らしい作品であることに間違いはないです。

倉蔵のキャラ設定には笑ったよね…この役に東出昌大をキャスティングした人は鬼だと思う。
芸術的なプロポーションで露出高めな造形が存分に堪能できたのは眼福だったけどもさ…例の醜聞でなんか嫌な印象もっちゃってましたけど、大丈夫、そういう人も今作の東出さんは楽しく?観れると思います(笑)。


関連記事:
『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』 加藤直樹著 
加藤直樹さんと一緒に、埼玉から関東大震災・朝鮮人虐殺を考える(フィールドワーク)
関東大震災時の朝鮮人虐殺地のフィールドワーク
アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所訪問記

『FAKE』
『虐殺のスイッチ 一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか』 森 達也著
『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う。』 森達也著
『放送禁止歌』 森達也著
『言論統制列島 誰もいわなかった右翼と左翼』 森達也/鈴木邦男/斎藤貴男著
『ご臨終メディア ─質問しないマスコミと一人で考えない日本人』 森達也/森巣博著


塔をめぐる冒険

2023年09月01日 | movie

『君たちはどう生きるか』

*ネタバレが不快な方は読まないでください。

空襲の夜、眞人(山時聡真)は入院中の母を火災で亡くす。父(木村拓哉)が経営する軍需工場とともに母方の郷里に疎開すると、母の妹で父の再婚相手の夏子(木村佳乃)が待っていた。彼女はすでに父の子を身篭っていた。
眞人がひとりになると、一家の屋敷の庭に住む“覗き屋の青鷺”(菅田将暉)がひそかに「母君のご遺体を見ていらっしゃらないでしょう。あなたの助けを待っていますぞ」と囁く。ある夕方、つわりで寝こんでいたはずの夏子が屋敷から姿を消し、眞人は手製の弓矢を携えて彼女を探しに、屋敷の庭に建つ“塔”の中に踏み込む。

子どものころ住んでいた家の周りには、水田が広がり、小さな山があって川が流れていて海も近くて、一年中、さまざまな野鳥がやかましく飛び回っていた。中でも身体の大きな鷺の優雅な姿態や、ゆったりと翼を広げて羽ばたく光景は幼心にとても神秘的で、ついつい見惚れてしまうことがあった。日暮どきに木々にとまっている鷺の群れが、寄り集まって何を話しあっているのだろうと想像したものだった。
やがて水田が次々に造成されて住宅地に変わっていったある朝早く、カラスが騒ぐのに気づいて家の裏手の狭い用水を覗いたら、丸々とした青鷺の死体が水に浮かんでいた。外傷はなく、どうして死んだのかはわからなかったが、とりあえず死体を引き上げて空き地に穴を掘って埋めた。
何十年も前のことだけど、とてもよく覚えている。

主人公の眞人は、そのころの私とちょうど同年代だ。
少しずつ自立の階段を上り始め、自分の世界を切り拓いていく年ごろ。同時に、親や家族や身近な人たちとの間にある距離を朧げに感じつつ孤独の味を覚えていく。子どもの舌に孤独はあまくほろ苦く、ときに美しくあたたかく、なぜとはなしに未知の世界へと自らを導いていく。
その昏い道にわくわくして、勢いに任せて先に進みたくなる気分に抗えず、すぐ傍にいる親兄弟や友だちと触れあう現実よりも、肥大化していく自我の中に埋没していく快楽。限りなく危険でありつつも、子どもの人格形成の過程においてはたいせつなプロセスでもあり、そのときを過ぎてしまえば二度と味わうことのできない稀有な心地でもある。

眞人は亡母が遺した吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』のページの上に、継母の行方を追う旅の中に、その道の行くてを見出す。
「お屋敷の血をひく者」にしか訪うことの叶わない“塔”の世界には海があり、島があり、ペリカンやセキセイインコの大群がいて、覗き屋の青鷺やキリコ(柴咲コウ)やヒミ(あいみょん)といった塔の住人たちに助けられながら、眞人は前を目指して突き進み、冒険を乗り越えていく。彼にとって「夏子さんを助けて連れて帰る」という使命は誰のためでもなく、自分で自分の子ども時代を終わらせ、自立した人間として現実に向きあって生きていく覚悟のためにこそ必要だったのではないかと思う。

これまでの宮﨑駿作品の集大成といってもいいようなこの物語には、生きる道に迷い、孤独を畏れ、己れの価値を見失っているあらゆる「子どもたち(大人を含め自らの未熟さや不運に立ち止まっている人々)」に対して、大丈夫だよと、静かに背中に掌をふれるようなメッセージがあるように感じた。
大義や教訓は重要じゃない。ただ大地を、水を、風を、火を、星や月や鳥たちが住う世界の大気を胸いっぱいに含んで、前を向いてごらん。思いきり手を伸ばしてごらん。心を開いて、きみの思うことを伝えてごらん。きっとできるよ。
そんなシンプルな話だと思うんだけど、そのメッセージに辿り着くまでの旅路を、塔の不思議な千変編花で彩る映像美とめくるめくように鮮やかな場面の連続が、華やかに煌びやかに照らしている。

私は宮﨑駿フリークではないけど、大雑把にいえば「千と千尋の神隠し」と「風立ちぬ」を足して二で割ったような印象を受けました。親(今作では継母)を探して助け出すというストーリーは「千と千尋〜」っぽくて、戦時中の日本の世界観や、風と光に満ちた塔の世界が幻想的に表現された情景描写は「風立ちぬ」に似ている。
ナウシカやラピュタやトトロみたいな不朽の名作かどうかはさておいて、日本のアニメーションの美を極めた芸術作品であることは間違いないし、誰にでも一見の価値はある作品だと思う。

同名の小説で劇中にも一瞬登場する『君たちはどう生きるか』は読んでなかったんだけど、読まなくても全然楽しめます。
けど前から読みたかったし、この機会に読もうと思います。

ところで覗き屋の青鷺=鷺男の風態が某巨匠を彷彿とさせるのはただの偶然ですよね。私の思いこみですよね。うん。きっとそうです。はい。


腐女子上等、BL上等。

2023年08月18日 | movie

『赤と白とロイヤルブルー』

初の女性大統領(ユマ・サーマン)の長男アレックス(テイラー・ザハール・ペレス)とイギリス王子ヘンリー(ニコラス・ガリツィン)は些細なきっかけで犬猿の仲となるが、米英関係を円満にするためのキャンペーンのなかで急接近。親しくなるにつれて互いの秘めた想いに気づくのに、時間はかからなかった。
ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラー小説を映画化、アマゾンプライムで公開中。

アマゾンのレビューでは賛否両論あるみたいだったのでどうかな?と思ってたけど、あるオープンリーゲイの方がX(ツイッター)で「こういうのが観たかった」と書いていたので鑑賞。
うん。おもしろかった。

ストーリー自体はすごく単純だし、あくまでもファンタジック(非現実)なラブコメとして楽しむための軽いコンテンツとしては、気持ちよく観られる作品に仕上がってます。
もちろんラブシーンもあるにはあるけど昨今の規制はきっちりまもられていて、これなら親子で観ても問題ないと思う。というかむしろ親子で観てほしいかもしれない。

物語のベースは古き善き少女漫画のテンプレートとよく似ている。
王子様とお姫様が出逢って、恋に落ちて、なんやかんやの障害を乗り越えてゴールインする。現実にはあり得ないけど、おとぎ話としてなら誰もが子どものころに絵本で読み親しんだ話だ。
違うのは、王子様と出会うのがお姫様ではなくてアメリカ大統領の息子(しかも政治家志望)という設定である。
そこが21世紀だよね。まさに。

アレックスはヘンリーとの関係にほとんど葛藤らしい葛藤は抱かない。だがヘンリーはそうはいかない。日本でもそうだけど、王室の人にプライバシーはない。人権もない。どんなにアレックスが好きでも、本気でのめりこむわけにはいかない。
だから常に自分を欺き、恋した相手をも突き放し、傷つけ、ただ背を向けて涙を堪えるしかない、そんな恋愛を彼は繰り返してきたのではないだろうか。画面には直接は出てはこないが、彼の挙動には、そんな孤独な過去がうっすらと見え隠れして切ない。

この映画を、セクシュアルマイノリティを商品化した低俗なBL作品だといって怒る人もいる。
その気持ちはとてもよくわかる。確かにその通りだ。
だけど、ヘンリーの苦しみを我がことのように感じる人もいるだろうし、アレックスの両親の愛情深さや、アレックスのスピーチに感動する人もいると思う。彼らのセリフは徹頭徹尾正論だし、青少年を含めて、家族でセクシュアリティについて語りあう機会があったら、是非参考にしてほしい作品でもある。あくまで入り口としてだけど。
少なくとも私はそう考える。

この物語には悪人は出てこないし、暴力シーンもない。肌の露出は必要最小限、下品な単語も(ほぼ)出てこない。
ポリティカリーコレクトネスにおいてはこれ以上ないくらいコレクトです。
老若男女、お子さんからお年寄りまで、誰でも楽しめます。
腐女子上等、BL上等。
セクシュアルマイノリティの恋物語をこんなキラキラハリウッド映画に仕立てて、みんなで楽しく観て、笑える。これこそ平和じゃないかと私は思うんだけど…。

本編はこちら。

あと、英語でもアメリカ英語とイギリス英語の違いが会話のなかでちょこっと出てきて、英語使う人ならそこも楽しめるかもです。
ヘンリーのお気に入り映画が『花様年華』だったり、アレックスがネックレス代わりにチェーンで鍵を首にかけていたり、深夜にふたりが抱き合って踊るシーンがあったりと『ブエノスアイレス』のオマージュらしき部分があって、監督か原作者はウォン・カーウァイ(王家衛)推しではないかと思う。どうかなー。

 


みんなに愛されてるサイコーにイケてる私

2023年08月15日 | movie

『バービー』

バービーランドで完璧なガールズライフを謳歌するバービー(マーゴット・ロビー)。ある日、自分が“劣化”していることに気づき、変わり者のバービー(ケイト・マッキノン)の助言で、自分を使って遊んでいた持ち主に会うために人間の世界への旅に出かける。そこはバービーが知っていたバービーランドとは何もかもがまるであべこべで…。

子どものころ、いつだったかバービーが大ブームで、周りの女の子は誰もが1体や2体は持っているのが当たり前だった気がする。私は大して気に入ってはいなかったのだが(もともと人形が好きではない)、その後、子どもたちが遊ばなくなったバービーたちを、人形が好きな母が大事に保管していて、いまは甥っ子と姪っ子がそれを使っておままごとをしている。
そう、いまどきの男児には、女児と人形遊びをするというスキルがすごく大事なのだ。

映画は、乳幼児を模した抱き人形で遊んでいた幼女たちが、バービーの出現に触発されて、手に手に抱き人形を振り上げ、地面に叩きつけて破壊するという、『2001年宇宙の旅』のオマージュで始まる。
個人的にはこのシーンの再現度というか完成度だけでお腹いっぱい爆笑してしまったのだが、観客の中には『2001年〜』を知らなくてこのシーンの暴力性にドン引きしてしまった人もいるという。それは気の毒だなと思うと同時に、若い世代の中にはバービー人形で遊んだ経験のない人もいる昨今、この映画のターゲットは意外に限られるのでは?という気もする。

バービーランドに住むバービーたちは皆、大統領やら裁判官やらノーベル賞受賞者やらジャーナリストやら、いわゆる「夢のある社会的地位」を設定された女の子ばかりである。主人公は「Typical」版らしくとくに肩書きはないものの、何もかもが女性優位で社会を動かすのはすべて女性(バービー)で、ボーイフレンドのケン(ライアン・ゴズリング)はあくまでも「ボーイフレンドという名のアクセサリー」扱いという世界観に満足し、幸せを感じている。
だから、人間の世界では家父長制と男尊女卑が横行していて、どこに行っても男性ばかりが威張っていることに混乱してしまう。

という風に説明するとまるでフェミニズムの話みたいだけど、実はこの映画のいちばん重要なところはそこではない。
そもそもバービーは「女の子は子どもを産んでお母さんになるだけでなく、何にでも好きなものになれる」という夢を少女たちに与える革新的なおもちゃとして登場したが、結果的には過剰なルッキズムや拝金主義を助長してしまったことを、主人公バービーの持ち主の少女(アリアナ・グリーンブラット)に批判されるシーンがある。
要は、バービーはアメリカの「みんなに愛されてるサイコーにイケてる私」至上主義の象徴というわけです。

それを、ポップな音楽と衣装とファンタジー・コメディというパッケージで裏返しにして見せている。
性別や容貌や社会的ステータスや人種や言語や宗教や文化や性自認や性的指向や、そういうものの枠に自分をはめこんで生きていくのは楽しいですか。ラクですか。むしろちょっとしんどくないですか。うんざりしてませんか。めんどくさくありませんか。じゃあやめちゃいませんか。あなたはありのままのあなたで、そのままのあなたでよくないですか。

言葉にしてしまえばなんだか大したことじゃないんだけど、それを説教くさく言葉で語るのではなく、あくまで純粋な笑い話として表現してるところが、さすがハリウッドだよなと思いました。
この映画、バービーの発売元であるマテル社も製作に入っている。バービーのメーカーが、製品のブランドを否定するような映画を堂々とつくっちゃうのも、やっぱアメリカは違うぜ?なことない?

この映画、SNSをみてると刺さる人と刺さんない人の両極端に分かれるみたいですね。まあむべなるかなというところです。
実はあんまり興味なかったんだけど、映画評論家の町山智浩さんのXの投稿をみて、興味を持ちました(観て意味がわからなかった方は彼のアカウントを参照してみてください)。観たいといって誘ってくれた友だちにも感謝です。
面白かったです。

しかし上映中、劇場で誰も笑ってなかったのがちょっと不気味でした。なんでみんな笑わないんだろう…。


掌とチャイナドレス

2023年08月02日 | movie

いまはもうそれほど映画館に行かなくなったけど、一時期は年間に100本以上の映画を劇場で観ていた。
土日祝日に2本3本ハシゴするのはもちろん、映画祭の期間にあわせて有休をとって朝から晩まで会場に入り浸って、世界中の映画を片っ端から観ていた。
まあだからこのブログに映画のレビューが800本以上あるわけだけど、これは実際に観た映画の一部に過ぎない。さほどまめにレビューを書く性分ではないから、観ても書かないことの方が多かった。

わけても最も多くの映画を観ていた時期は、アジア映画、それも中国語圏の映画にどっぷりハマっていた。
中華圏映画はだいたい中国、香港、台湾を中心に製作された作品で、ちょうどその当時は日本でも香港映画がブームだった。香港映画以外にもたくさんの中華圏映画が公開されてたけど、一度ハマると一般公開作だけじゃ物足りなくて、最終的には中国人向け書店で日本未公開作のビデオを借り、中国の通販サイトで現地盤のソフトを買い漁るようになっていた。

香港映画ブームの火付け役といわれたのが、ウォン・カーウァイ(王家衛)監督の作品にポップな邦題をつけて大ヒットさせたプレノン・アッシュという配給会社。
私もごたぶんに漏れずプレノン・アッシュの配給作品を全部観てたけど、やがてブームは去り、リーマン・ショックや日中関係の悪化といった社会情勢の影響をうけて、日本で公開される中華圏映画は激減してしまった。プレノン・アッシュは10年ほど前に倒産した。
そしてそのころには、私自身のライフスタイルも大きく変わり、以前のように熱心に映画を観なくなっていった。

今日観た2本は王家衛の旧作5本のBlu-rayが発売されたのにあわせて4Kリマスター版が再映されている。
どちらも2004年の公開時に劇場で観たはずなのに、あまり記憶に残ってない。なんでかはわからん。

『花様年華』

1960年代の香港。
同じアパートの隣同士に同じ日に越してきたチャウ(トニー・レオン/梁朝偉)とスー(マギー・チャン/張曼玉)。やがてふたりはチャウの妻とスーの夫が不倫関係にあることに気づき、傷ついた者同士、静かに心を通わせるようになっていく。
『欲望の翼』から『2046』までの三部作のうちの1本。世界各国の映画祭でなんかいっぱい賞獲ってました。

最近あんまり恋愛映画を観なくなってるけど、久しぶりに観るといいもんですね。恋愛。ドキドキ。ときめき。
といっても、この作品はどちらかといえば、人に恋をする、誰かを愛することの苦しみや葛藤に重きを置いて描かれている。チャウもスーも既婚者だけど、ふとした瞬間に通じあう何かを感じとり、自然に引き寄せられていく。その力には争いがたく、どうしようもなく相手を必要としているのに、己のプライドを前に感情に流されることができない。夫に浮気された人妻の悲しみと恋心の狭間で煩悶するスーと、自身も既婚者であることを棚に上げて隣の奥さんにぐいぐい迫ろうとするチャウの対比が、男女間の埋めがたい距離を如実に再現している。

なので、ふたりとも初めから終わりまでめちゃくちゃくよくよしている。ひたすらくよくよ。いろんなくよくよが、ありとあらゆる角度で微に入り細にわたって緻密に繊細に描写される。それを象徴しているのが、この作品独特の映像美と音楽です。
王家衛作品といえば、鏡やカーテンや窓など複合的なレイヤーと反射を使った画面構成が毎度の特色だけど、この作品ではそこに狭い廊下や階段や坂道という、視界を縦に遮るロケーションが多用されている。
チャウとスーはこの狭い空間で何度も何度も繰り返しすれ違う。身体が触れあうほどの近距離にいるのに、自ら手を伸ばして触れることは叶わない。
観ててもだもだすることこの上ない。そこが味なんだよね。恋ってもどかしければもどかしいほど味わい深いもんだよなあなんて、大した経験もないのに妙に共感してしまう。

王家衛組の美術監督、ウィリアム・チョン(張叔平)のミッドセンチュリーモダンてんこ盛りの美術と衣装が眩しいほど美しい。とくにマギーをはじめ女性陣が着用している超オシャレなチャイナドレスがピタピタにボディラインくっきりです。マギーがとっかえひっかえいろんなドレスを着て画面を行ったり来たりするだけで、すらりとしなやかな神プロポーションに釘づけになってしまう。この映画のテーマの半分はマギーのボディラインへのフェチズムなんではないかと思う。間違いない。
とにかくマギーが綺麗。そしてトニーがセクシー。ふたりとも大好きな役者さんです。しばらく観てなかったけど、やっぱサイコーですわ。ええわあ。

画面上の視界がとことん遮られまくってるせいもあって、登場人物の一部はなかなか顔が映らない。そんなギミックも、やっぱお洒落です。


『若き仕立屋の恋 Long version』

1960年代の香港(再び)。
高級娼婦とテーラーの見習いという関係で出会ったホア(コン・リー/鞏俐)とシャオチェン(チャン・チェン/張震)。初対面の際に起きたある出来事から、シャオチェンはホアの虜に、ホアはシャオチェンの得意先となり、年を経て、別れと再会を繰り返していく。
もともとは『愛の神、エロス』というオムニバス映画の王家衛パート『エロスの純愛〜若き仕立屋の恋』のロングバージョンだけど、スティーヴン・ソダーバーグとミケランジェロ・アントニオーニのパートは完全に忘れてまーす…。

これは原題が『愛神 手』で英題が『The Hand』なので、ばっちりがっつり手フェチの映画です。といっても手フェチの話ではない。
ホアは高級アパートで暮らしつつ、パトロンに与えられた金銭でファッショナブルなチャイナドレスを次から次へと仕立てさせる。シャオチェンはホアの身体を採寸し、丹精こめて一針一針、華麗な衣裳を縫い上げていく。
ホアの手は男性を悦ばせるための、シャオチェンの手は愛と情熱をドレスに形づくるためのツールで、この映画の中では、二人が向いあう「顔」のような役割を果たしている。

鞏俐の手がまるで白魚のように美しい。シャオチェンは彼女の手と、採寸で触れた彼女の肉体とその香りの記憶に縛られている。でも縛られているシャオチェンは寂しそうなようでなんだか満たされて、幸せそうにも見える。きっと彼にとって、記憶の中に大事にしまった彼女のパーツこそが、誰にも奪えず触れさえもできない、彼だけの宝物だったのではないだろうか。
シャオチェンはどこかで、初めから、自分がホアのそばにいてもいっしょに幸せにはなれないことを知っていたようにも思える。それでも彼は彼女を心底愛した。女神のように崇めた。独りよがりといえばそれまでだが、そんな愛の形もあってもいい。悲しい愛だといって憐むのは何か違う。孤独なようで、切ないようで、そこまで人を愛することができたシャオチェンは、彼女の記憶をよすがにあたたかい人生を過ごせたのかもしれない。

張震もすごい大好きな役者さんですがこの人はホントに全然変わらないね。梁朝偉もそうなんだけど、なんとなく少年っぽくて、大人の色気もあって、雰囲気満点で、ミステリアス。
この映画にも美麗で豪華なチャイナドレスがしこたま登場します。ホアの生業柄、どのドレスもラインストーンやビーズや刺繍やシアー素材がふんだんに使われたセクシーなデザインばかり。そもそもがチャイナドレスのテンプレート自体がボディコンシャスなんだけど。
チャイナドレス=旗袍はもともとは清朝の満州族が用いた騎馬用の装束で、袖幅がゆったりしてシルエットもストンと直線的な長い丈の上衣の下にパンツ的なものをあわせてたのが、西欧化に伴ってだんだんタイトに露出度も高くなっていって、1960年代以降は流行らなくなっていったという。
ということは、『花様年華』や『若き仕立屋の恋』の裏テーマは、チャイナドレスブームの最後のピークをスクリーンに映しとることだったのかもしれない。

ホアとシャオチェンの手と手が触れるシーンがほんの少しだけある。
苦しい哀しいシーンなのに、手のひらと肌のぬくもりや感触がじんわりと伝わってきて、この、人と人とが共有する触覚の間に流れるものこそが、至上の愛だということに気づかされる場面。
そんなシンプルな愛の真髄が、心の深いところにしんしんと伝わる作品でした。