落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

令和の踏み絵

2023年07月21日 | TV

BBCドキュメンタリー「J-POPの捕食者:秘められたスキャンダル」【日本語字幕つき】

予告編

 

ジャニーズ問題を調査する国連ビジネスと人権の作業部会とは

先だって某夫人がジャン・コクトーとジャン・マレーを引き合いに出して、ジャニー喜多川氏の児童虐待問題を告発する被害者たちを批判していたが、そもそも彼女は何をいいたかったのだろうと思う。
単に、ジャニー氏と生前親しくしていたことを非難されたくなかったのだろうか。ただ己れの教養深さを誇示することでジャニーズ事務所を擁護して、(これまでも享受してきたであろう)おいしい汁を啜り続けたかったのだろうか。それはいったい、どれほどうまいのだろう。

某夫人が言及するまでもなく、エンターテインメント業界と性暴力は、その歴史が始まったときから切っても切れない関係にあった。
世界中どの地域でも、歌や踊りは神への祈りの手段として生まれた。人間がその生活の豊かさや安全を神に祈るために、エンターテインメントは生まれたのだ。
やがてその祈りを専門とする担い手が現れ、その担い手を援助する者が現れた。なぜならまだ人間社会には貨幣経済が生まれてもいなかった。祈りを専門とする者は衣食住を賄うために、支援者との間に個人的な関係を結ぶ必要があった。

歌も踊りも絵画も彫刻も、あらゆるアートとエンターテインメントが、ときの権力者や富豪の庇護のもとに隆盛し、その歴史を紡いできた。
ルネサンスの実現はメディチ家とカトリック教会の絶大な経済力なくしてはあり得なかった。日本では、平安〜鎌倉時代に男装して踊る白拍子から貴族や武将の愛妾となった女性が何人もいた。能を完成させた世阿弥には室町幕府第三代将軍・足利義満がいた。歌舞伎が庶民の娯楽になった時代には、見習いの少年たちが春を売る陰間茶屋というビジネスさえあった。

個別のアーティストと支援者との間に性的な関係があったかなかったかという事実はどうあれ、長い間、社会はそれを許容してきた。
つまり、「それはそういうものであって、あくまで当事者間の問題なんだから、他人がどうこういうものではない」というコンセンサスがあった、ということになる。
ここで問題になるのは、もしアーティストと支援者の間に性的な関係があったとしても、それは決して「フェア」とはいえなかったのではないか?という疑惑である。最初から「性的な関係」というのではなく、「性暴力」と表現したのはそのためだ。

元来、性行為は非常にパーソナルな行為だ。
それを、援助の対価として提供するのは、あくまでも表現者側の主体的な意志であることが前提になる。というかそういうことになっている。社会的に。でないと「フェアな取引」として成立しないから。
でも現実はそうではない。
ずっとずっとそうだったのだ。
幾万の表現者が、涙をのんで、唇を噛んで、暴力に耐えてきた。
それを、社会は黙認してきた。
自分とは関係のないことだから、と。

ましていまは21世紀、令和の時代だ。
昔がどうだったか、歴史がどうだったかなんてどうでもいい。
児童との性行為は紛う方なき立派な犯罪行為である。何人たりとも目を瞑ってなかったことにするなんて許されるものではない。
これが、グローバルスタンダードなのだ。某夫人が何をどう言い繕ったところで意味はない。

国連すら動かすほどのこの大問題に、メディアだけでなくオーディエンスさえ積極的に関わろうとしないのは、自分たちが、某夫人がすすってきたのと同じ「おいしい汁」を、これまで思う存分啜り倒してきたことを自覚しているからということは間違いがない。
それは8年前、伊藤詩織さんが当時TBSテレビのワシントン支局長だった山口敬之氏に性暴力を受けたことを告発したときに、誰もが思い知ったはずだ。彼女の訴えを、どこのメディアもまともに取り上げようとはしなかった。なぜなら、伊藤さんが訴えたような性暴力は、どこのメディアにも大なり小なり存在していたからだ。「痛くない腹を探られたくない」のではなく、「痛い腹を探られてとんでもない事実が引き摺り出されてきたらたまったものではない」から、黙っていたのだ。

私は何も聖人ぶってメディアの不正や汚らわしい性暴力を糾弾したいわけではない。
学生時代からメディアの分野で働いてきた私にとって、むしろ性暴力はいつもすぐ目の前にある、身近なリスクだった。身近過ぎて、感覚が麻痺してくるぐらい。
性的なジョークも同意のない性的接触も不愉快以外の何物でもない。そのひとつひとつはいつまで経っても記憶の中から去ってはくれないし、何年経とうと思い出せば吐き気がする。
それでも、私はいまもってなお、自分が受けた被害も、周囲の人間がしていた加害行為も、口に出して糾弾することができない。
ただ、怖くて、じっと口を噤んだままでいるしかない。

何が怖いかって、世の中が怖いのだ。

何年も前にたかが体を触られた程度のことを、性的なジョークで侮辱されたレベルのことを根にもって、やれ傷ついただの人権侵害だの騒ぐなんて頭おかしいでしょ?馬鹿なの?非常識じゃん。ふしだらなだけでしょ。何で「いやだ」って抵抗しなかったの。抗議しなかったの。どうせあんたから誘ったんでしょ。無用心だっただけじゃん。そんなの後から何いったって無駄じゃん。

これが世の中だ。
これが、怖いのだ。

性暴力に傷ついた心に塩を塗られるぐらいなら、ただ黙って我慢している方が何百倍も何千倍も楽なのだ。自分で記憶に蓋をして、なかったことにしてしまった方が楽なのだ。

でもだからといって、性暴力の被害にあった人(あったであろう人)を勝手にひとまとめにして「かわいそうな人」という偏見を押しつけるのも違うと思う。
いま大事なのは、そういう事実があったことを認めて、受けとめて、そしてそういうことが二度とない社会を築いていくことで、子どもたちや未来の世代を守ろうという気運をつくることではないだろうか。
ジャニー喜多川氏という故人ひとりの過去の性犯罪として葬り去ってしまうことは、もうできない。
なぜなら、子どもたちを性的に搾取していたのは彼一人ではないからだ。ジャニー氏が搾取した子どもたちが提供するエンターテインメントは、日本社会の隅々にまで漏れなくいきわたっている。そこに生きる人間は誰ひとり、この問題とは無関係とはいえないのではないだろうか。誰もが大なり小なり、その搾取の「おいしい汁」に手を染めていないとはいえないのではないだろうか。

子どもを搾取しない。
社会的地位やお金を利用して、他人を性的に蹂躙することは許されない。
性行為は、両者の平等な合意の上でしかおこなわれない。
性行為のときは、相手を最大限に尊重する。

そんなことが当たり前な未来を、子どもたちに用意してあげるために、このドキュメンタリーは観るべきものだと思う。

作中に「ことを荒立てないのはこの国では大切なことです。この国の企業文化の大きな部分を占めていますし、いかに摩擦を避けるかがこの国の仕組みの基本にあります」という部分がある。「何か問題が起きたとしても、人によっては礼儀を大事にするあまり、警鐘を鳴らせないのではないか」とも言及されている。
元ジャニーズのひとりは「親は『ジャニーさんにお尻くらい提供しなさい』みたいな」「それを受け入れたのはこの日本なんですよ。(ジャニーズ事務所を)トップ企業にのしあげたのってのは日本なんですよ」とも発言している。

このままで、いいのだろうか。

よくはないだろう。決して。

現時点はどうあれ、そうした搾取と人権侵害を許容し続ける社会に、未来はないと思う。
もうそういうことは、やめてもいいはずだと思う。
人間なら、もうやめよう、やめたいよ、という意思表示ができてもいいはずだと思う。

このドキュメンタリーで示されている事実はどれも、日本ではさして新しい情報ではない。
元所属タレントの暴露本は何十年も前から何冊も刊行されているし、裁判もあった。
それでも、画面に登場するいく人かの当事者たちの言葉には打ちのめされたし、ほんとうに悲しくなった。

このままで、いいはずはないと思う。
じゃあどうすればいいのか、考え始めるその一歩が、このドキュメンタリーになるのかもしれない。

本編:BBCドキュメンタリー「J-POPの捕食者:秘められたスキャンダル」【日本語字幕つき】

追記:調査報告書の発表を受けて新たに記事書きました。こちら。

関連記事
児童ポルノ・買春事件裁判傍聴記
『児童性愛者―ペドファイル』 ヤコブ・ビリング著
『スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪』 ボストン・グローブ紙〈スポットライト〉チーム編
『Black Box』 伊藤詩織著


悲しかったこと

2023年07月09日 | diary

今年は1923年9月1日に起きた関東大震災からちょうど100年にあたる。

この未曾有の災害で10万人以上が犠牲になり、また、直後に広まった流言蜚語が原因となって殺害された朝鮮人は6,000人以上にも上る。この他、中国人や沖縄出身者など朝鮮人に間違えられて暴行を受け命を落とした人、社会主義者狩りによって殺された人々もいる。
今年9月1日には、現在の千葉県野田市で発生した福田村事件を題材にした劇映画が公開される。

このブログで何度か書いている通り、私は在日コリアン3世だ。
祖父母が渡日したのは関東大震災から数年後の1920年代後半〜1930年代と聞いているから、私自身と一連の虐殺事件には直接的な関わりはない。
でも、2011年の東日本大震災をきっかけに各地で災害復興支援ボランティアとして活動したとき、被災地で100年前とほとんど同じデマを何度も耳にした経験は、トラウマのような傷となって、心の底にこびりついて離れなくなった。

足掛け8年ほどになった活動で出会った人々の多くは、余所者のボランティアを快く迎え、心を開いて信頼してくれた。何も知らない私に漁業を教え、農業を教え、自然とともに暮らす生き様の輝きを見せてくれた。皆さんが私にしてくださったことには感謝しているし、信じられないほど素晴らしい出来事に遭遇した幸運の数々は、間違いなく一生の宝物だと思っている。

だけど、大災害の混乱の中で起きた犯罪やそれらしき現象をすべて朝鮮人や韓国人や中国人の仕業だと決めつけたり、自らきちんと確かめたわけでもない伝聞を無責任にふれまわる行為にはショックを受けたし、とても悲しかった。
不自由な被災生活で精神的に不安定になっていて、どこかの誰かを悪人に仕立てたくなる気分になってしまう、正常な判断力が働かないといった心理は理解したいと思う。とはいえ、そういう言葉を聞いた瞬間に背筋を走る、冷たく乾いたなんともいえない感触の恐ろしさと、反射的に「もう誰も信じられない」という孤独感に突き落とされる絶望感は、私自身の手ではどうしようもない胸の奥底にずっしりと座り込んでしまった。

その一方で、過ちを二度と繰り返すまいと遺骨を探して供養したり、記録を集めて研究を続けている人々もいる。
『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(加藤直樹著)はとてもよくまとまっていて読みやすい本だったし、加藤さんご自身が催したフィールドワークには非常に感銘を受けた。別の方々が定期的に実施している横浜でのフィールドワークにも参加して、この事件に心を寄せてくれる人たちに出会えたことが純粋に嬉しかった。もうこういうことは絶対繰り返してはいけないと心に決めて、一生懸命とりくんでいる人たちがいるという事実が、嬉しかった。

今年は100年後にあたることもあってか各地でいろいろな行事が催されていて、先日、某所で行われた大規模なフィールドワークに参加してきた。
某所とぼかすのは、私がいまからこのフィールドワークをくさすからである。ぼかしてもわかる人にはわかると思うけど。

私はずっと、この地域のフィールドワークに参加したかった。都市部と違って現場と現場の間の距離が開いているエリアを一人で足でまわるのは難しいし、土地勘もなかった。なのでこの機会に参加できてラッキーだったのかもしれないけど、結果としては、とても残念な気持ちになってしまった。

このフィールドワークでは、殺された朝鮮人を弔った慰霊の場を中心にまわったのだが、どういうわけか、スピーカーは、その場その場で起きた虐殺事件の経緯の詳細にはほとんど触れず、遺体を埋めた場所で続いてきた慰霊祭や、朝鮮人の遺骨を掘り起こして慰霊碑を建てたいきさつや、そのために続けてきた調査活動など、被害の実相よりもその後の「私たち日本人が努めてきた成果」ばかり熱心に微に入り細にわたって説明を繰り返した。

いや、いいですよ。
それはそれで立派な活動です。
素晴らしいことです。

でもね。
「軍の指示には逆らえなかった」「朝鮮人を殺すよう指示された人たちも被害者」って、それはちょっと聞き捨てならなかった。

主催に在日コリアン系の組織が関わっているから、何を話してもわかってくれると思ったのかもしれない。
参加者に事件の被害者の関係者がいるかもしれないなんてことは、想定しなくてもいいと思ったのかもしれない。
ホントにそういう人がいたかどうかは知りませんが。

確かに私は、かつて日本人が朝鮮人にしてしまったことを忘れまいと、二度と繰り返すまいと真摯に活動している人たちのことを心から尊敬している。事件当時だってデマを信じることなく、朝鮮人をかばった人、匿った人がいたことの方が、殺害に加わった人たちよりももっと注目されてほしいとも思っている。
そのことを話したら、加藤直樹さんは「だからって日本人が犯した罪は相殺されない」といっていたけれど。

けど、今回のフィールドワークではどうしても、スピーカーや参加者の「他人事感」が異常に鼻についてしまった。

朝鮮人を殺したのは私じゃない。大昔の無知蒙昧な人たちや、横暴な帝国陸軍がやってしまったことと私たちは関係ない。
私たちはこんなに一生懸命、どこに朝鮮人が埋められたのか調べて、掘りあてて、立派な慰霊碑を建てた、慰霊祭も続けてきた。

・・・・・・で?
だから?
それで?

私は、皆さんがどんなに高邁な志をもってして活動していても、そこに当事者意識がなければなんの意味もないと思う。
災害が起きたとき、社会が混乱しているとき、人間がどれほど無知で愚かでどんなに非道なことも顧みない、恐ろしい生きものに変わってしまうのか、誰もがその当事者になり得るというリスクを我がこととしてしっかりと捉えていなければ、必死の調査活動も慰霊祭もなんの役にも立たない、ただの「悲惨で残虐な歴史エンターテインメント」で終わってしまう。

ひどいことがあったね、残酷だね、悲しいことだね。
事実を知って、忘れないように、次の世代に語り継ごうとしてる私たちって素敵。
それでは単なる「不幸ポルノ」の消費となんら変わりないのではないだろうか。

フィールドワークの途中で気分が悪くなった。吐き気がした。
途中で帰った人が他にもいたから、もしかすると、同じように感じた人がいたのかもしれない。

手間暇かけて準備したであろうせっかくのイベントが、なぜこんなことになってしまったのか、私は知らないし、正直にいって全然知りたくもない。
もっとはっきりいえば、今回参加したことはもう忘れてしまいたい。
ただただ寂しくなった。

歴史に学ぶことの目的は、過去の人々が犯した誤りと同じ轍を踏まないということではないのだろうか。
それは、「自分も同じ轍を踏むかもしれない」という当事者意識なくして達成できるものなのだろうか。

私にはわからない。
わかる人がいたら、教えてほしい。
わりと真面目に。

 

関連記事:
『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』 加藤直樹著
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アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所訪問記
復興支援活動レポート


小学校の羅生門

2023年06月18日 | movie

『怪物』

夫を亡くし、一人で長男・湊(黒川想矢)を育てている早織(安藤サクラ)。
5年生になって身長が伸びてきた湊が、突然自分で髪を切ったり、スニーカーを片方だけ失くしたり、学校で擦り傷を負ったりしたことから、担任の保利(永山瑛太)から体罰やいじめを受けているのではないかと、学校に確認をとろうとする。だが学校で顔をあわせた校長(田中裕子)も保利も他の教諭も、早織の追求にはまともに答えることなく、はぐらかすばかりで…。
人気脚本家・坂元裕二のオリジナルを是枝裕和が演出。第76回カンヌ国際映画祭で脚本賞とクィア・パルム賞を受賞。

ネタバレかどうかはさておいて、これからこの映画を観ようかなと思ってる人は、このレビューは読まないほうがいいと思います。ただ、誰がどこから観ても損はない作品です。そこは保証します。何しろ坂元裕二で是枝裕和だから。間違いない。

物語はシングルマザーの早織の視点から始まる。
仕事に子育てに家事に追われる早織はみるからに忙しそうで、それでも息子のことをとても気にかけている。といって、過保護というのとも違う。息子のよき理解者でありたい、わが子に心身ともに幸せでいてほしい。優しく、素直で、同時に毅然として、気持ちのいいお母さんだと感じる。
ところが、学校側からはそうは見られてはいない。何しろ学校側からすれば保護者は「クライアント=お客様」であって、対等ではないからだ。
じゃあどう見えているのか。

ごく簡単にいえば、この映画は小学校という閉じられた社会を舞台にした「羅生門」の話だ。
児童と保護者と教師と校長という名の官僚は、子どもを安全に健康に育んでいく協力者という意味で同じ立場にいるチームメイトだ。それなのに、彼らの間のパワーバランスはどこかいびつに歪んで、真ん中にいるはずの児童の存在そのものがいつの間にか問題の外に弾き出されてしまう。それぞれに捉えている事実の様相すら完全に食い違っていく。このえもいわれず奇妙な人間関係の構造描写が、もうめちゃくちゃにリアルだった。生々しかった。

本来、人は、どんなときであっても、お互いに対等にきちんと向き合って、相手の言葉に真摯に耳を傾けあえば、どうにかこうにか幾らかは理解しあえるはずだと思う。
そんなの綺麗事だ。無理なものは無理だろう、という人もいると思う。それはそれで構わない。そういう捉え方があっても構わない。
けど、じゃあなぜ人間には耳があって、頭があって、言葉があるというのだろう。
わかりたい、わかりあいたいという意思があって、互いに尊重しあうことができるなら、両者の間の壁をいくらか崩すとか、壁越しに体温を感じるとか、そのくらい近づくための能力ぐらいは手にしていると思ってもいいんじゃないだろうか。

だが、この映画の登場人物は誰ひとり、それができていないのだ。

早織は思春期にさしかかった息子のそばに寄り添っているつもりで、彼のほんとうの心の内には触れることができないでいる。小学校5年生という微妙な年ごろだから仕方がないといえば仕方がない。
保利はクラスの揉め事をあくまで穏便に収めることが、物分かりの良い教師として児童に信頼される姿勢だと思いこみ、教え子たちの間で実際に何が起きているのかは知ろうとしないし、知る必要性すら感じてもいない。
湊はいじめられっ子の依里(柊木陽太)に特別な感情を抱きながらも、学校の中では依里と言葉を交わすことすら躊躇する。仲良くしているのがバレたら、自分もいじめられるかもしれないからだ。

そこには、本質というものがない。まったくない。きれいさっぱり、抜け落ちている。

けど、彼らはどこも何も特別ではない。
だいたいみんなこんなもんじゃないの?そうじゃない?
私も、あなたも、彼らの立場にたったとき、これ以上の何ができる?
ほら、これが普通じゃない?
みんな、本質とやらに触れるのを、無意識に怖がり過ぎてないですか?

ただ、「普通」でいたいから。

湊も依里も、自分は「普通」ではないと気づいてしまっている。
「普通」じゃない自分が、これからどうなるのか、どこに向かっているのかが、わからない。

ほんとは、「『普通』なんかじゃなくてもいいから、そのままのあなたのままで、幸せになろう。なれるよ」というたった一言があればいいだけなんだけど。
どうしてそれが、出てこないんだろうね。
それが、親とか、教師とか、そういう役回りの“業”なのだろうか。
だとしたら、あんまり悲しくないですか。
寂しくないですか。
しんどくないですか。

 

 


殺してもいいとき

2023年01月20日 | book

『虐殺のスイッチ 一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか』 森 達也著

読んでてずっと、脳内に繰り返し再生されてた映像がある。
『蟻の兵隊』というドキュメンタリー映画で、日中戦争で大陸に派遣された旧日本軍兵士の奥村和一氏が、自らも上官の命令で中国の民間人を殺害した体験を語るくだりがある。奥村氏はかつての戦友を訪ね、自分も戦友もそうした罪を犯したことを話そうとする。彼は中国共産党軍の捕虜となった矯正教育の過程で、その罪を告白して文章に書いたものを中国まで探しにいって見つけた。その文章に戦友がどんな体験を書いたか奥村氏が問い直すと、彼は事実をまったく覚えていないという。
奥村氏が60年以上の間、良心の呵責に苛まれ続けたのと同じように残虐な行為を、戦友は完全に記憶の中から消し去っていた。画面に映っていた彼の表情からは、自分で文章にして中国共産党軍に提出したことが、ほんとうにその脳裏に微塵も残っていないことがありありと見てとれた。

撮影当時80歳代だから、年齢的に仕方がないことなのかもしれない。だが誰もがその戦友のように、戦闘行為や軍の戦争犯罪に加担させられた過去を綺麗に忘れられるわけではない。だからこそ戦争のたびに多くの兵士が、肉体のみならず精神をも蝕まれ、苦しみ、人によっては命を落としたり、生きていても健全な社会生活が送れなくなってしまうという悲劇が世界中で起きているのだろう。
とはいえ、その戦友のように、戦時中の体験から自分を切り離して生きていけるのも、ある意味では人間の強さなのかもしれない。

本書では、関東大震災直後の朝鮮人虐殺やホロコースト、クメール・ルージュの大量虐殺やルワンダでのツチ族虐殺、地下鉄サリン事件など過去に起きた大量殺人事件を例に挙げ、ごく普通の善良な市民が残虐行為に及ぶメカニズムをごくパーソナルな視点で解き明かしている。
ノンフィクションなので過去のデータや学術的なエビデンスも引用してあるが、そういった資料的な話はむしろ大雑把な背景情報として、著者自身が何をどう読みとりどこへ考えつくのかというラインに重きを置いてある本だ。
なので扱っている題材はウルトラスーパーヘビー級なのに、読み物としてはすごく読みやすい。これだったら中学生が読んでも問題ないと思う。いやほんとに。

ホロコーストの最高責任者のひとりとして、戦後イスラエル政府の裁判で死刑を宣告されたアドルフ・アイヒマンも登場する。
世界的な注目を集めた彼の裁判で、オーディエンスは歴史的大量殺人の主犯のあまりの凡庸さに言葉を失う。何を訊かれても「命令されたから」と繰り返すばかりの気弱そうな男。その裁判を経て、アメリカの心理学者スタンレー・ミルグラムは「人は命令されれば残虐行為ができるのか」を検証する実験をして、仮説を見事に証明してしまう。この実験は(ハンナ・アーレントと同じように)世間から猛烈な批判を買ったが、ミルグラムは最後まで自説を曲げようとしなかった。

アーレントやミルグラムが証明したように、おそらく人は、ある条件が揃いさえすれば、大量虐殺に加担してしまう生き物なのだろうと私も思う。
それゆえに、長い歴史の中で人は戦争を延々と繰り返し続けている。人を殺さなくても問題を解決する方法はあるのに、「殺してもいい」というコンセンサスが生まれてしまったら人はあっさりと己の意志を手放し、無自覚な殺人マシーンと化してしまう。人間はそれだけ弱く、愚かなのだ。そしてことが終われば、都合の悪いことに蓋をしたり、物置のようなところに隠したりしまいこんだりして目を瞑り、他人事にしてしまう。

それはそういうものだと片付けることを、私は受け入れることはできない。
せめて、自分がそんな不完全な存在なのだという自覚をもって、誰が何をいっていても、自分自身の頭で、心で、とるべき道を決められる人でいたい。
人の知性は、そのためにこそ与えられたものだと信じているから。
できることなら、人間はわずかなりでも歴史に学び、進歩できるはずだと思いたいから。

 

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ルワンダ関連
『ジェノサイドの丘 ルワンダ虐殺の隠された真実』 フィリップ・ゴーレイヴィッチ著
『ルワンダの涙』
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ホロコースト関連
アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所訪問記
『ペルシャン・レッスン 戦場の教室』
『手紙は憶えている』
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『敵こそ、我が友 戦犯クラウス・バルビーの3つの人生』

『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』

南京事件関連
南京大虐殺78カ年 2015年東京証言集会
『南京の真実』 ジョン・ラーベ著
『南京事件の日々―ミニー・ヴォートリンの日記』 ミニー・ヴォートリン著 
『ザ・レイプ・オブ・南京─第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』 アイリス・チャン著
『「ザ・レイプ・オブ・南京」を読む』 巫召鴻著
『「南京事件」を調査せよ』 清水潔著
『ラーベの日記』
『南京!南京!』

関東大震災直後の朝鮮人虐殺関連
『関東大震災』 吉村昭著
『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』 加藤直樹著
加藤直樹さんと一緒に、埼玉から関東大震災・朝鮮人虐殺を考える(フィールドワーク)
関東大震災時の朝鮮人虐殺地のフィールドワーク

アルメニア人虐殺関連
『アルメニアの少女』 デーヴィッド・ケルディアン著
『アララトの聖母』
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森達也氏関連
『FAKE』
『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う。』 森達也著
『放送禁止歌』 森達也著
『ご臨終メディア ─質問しないマスコミと一人で考えない日本人』 森達也/森巣博著
『言論統制列島 誰もいわなかった右翼と左翼』 森達也/鈴木邦男/斎藤貴男著

『さよなら、サイレントネイビー 地下鉄に乗った同級生』 伊東乾著


あなたは誰

2022年12月14日 | movie

『ペルシャン・レッスン 戦場の教室』

1942年、フランスでナチに捕まったユダヤ人の青年(ナウエル・ペレーズ・ビスカヤート)は護送車の中で偶然隣に座った青年からねだられて、ポケットのサンドイッチをペルシャ語の本と交換する。直後に同乗していたユダヤ人は森の中で全員引きずり下ろされ次々に銃殺されるが、青年は持っていた本を証拠に「ユダヤ人じゃない。ペルシャ人だ」と嘘をついて、生きて収容所に連れて行かれる。収容所のコッホ大尉(ラース・アイディンガー)がペルシャ語を教えてくれるペルシャ人を探していたからだった。青年は毎日大尉に架空のペルシャ語を教え続けることで生き残ろうと試みるが…。

あなたは、いつ何をもってして自分がどこの誰で何という国の人だ、ということを知りましたか。そのときのことを覚えていますか。
私はめちゃくちゃ強烈に覚えている。
あれは小学校3年生の冬の朝で、母に台所のストーブの前に呼ばれてこういわれたのだ。
「あのな、あんたは日本人やなくて、朝鮮ゆう国の人なんや。そのことで、これからつらいことがいろいろあると思う。でもお父さんもお母さんも、おじいさんやおばあさんに生んで育ててもろうた義理がある。そやからあんたも堪えてちょうだい」

その一言一句、母の強張った表情、わずかに震えていた声音や、着ていたウールの服の肌触り、冷えた朝の空気、ストーブの上のやかんや時計がたてる音や台所の風景を、いまもくっきりと思い出すことができる。

いわれて私は素直に「そうか。それなら仕方がない」と事実をうけとめた。
以来、在日コリアンであることを理由になんやかんやと面倒なことやしんどいことを数限りなく経験してきたが、在日コリアンであること自体を恥じたことも、恨んだことも一度もない。なぜなら私が在日であることも、両親が在日に生まれたことも、誰にもどうしようもないことだからだ。在日だからこそ知ることや感じることもある。それは在日でなければわからないことでもある。ある意味ではちょびっと恵まれていると捉えることもできる。

主人公はユダヤ人でありながら出自を偽り、ペルシャ人になりすますことで生き延びようとするが、言い方を変えれば、彼がどこ出身の誰で何を信仰してるかなんて、実のところほとんど深い意味はないということにもなる。
演じたナウエルさんは黒髪でうっすらユダヤ人っぽい外見ではあるが、実際にはアルゼンチン出身である。逆にユダヤ人でも明るい髪色の人もいるし、一見してフランス人やロシア系に見える人もいる。敬虔なユダヤ教信者でユダヤ人独特の黒い帽子をかぶって黒い長いジャケットを着てもみ上げを伸ばしてる人もいるし、シナゴーグなんか生まれてこの方いっぺんもいったこともなければ見たこともないなんて人もいると思う。
つまりユダヤ人のユダヤ人たる定義なんてそこまで大した根拠なんかないということもできるし、他の人種や民族にも同じようなことがいえるのではないだろうか。例えば、民族学とか遺伝学といった学問上の日本人の定義も、視点によって全然違ったりするんじゃないかと思う。

この映画では「父がベルギー人で母がペルシャ人(逆だったかも)」「ペルシャ語は家で話してただけで読み書きはできない」とかなんとかいう口から出任せの言い訳が主人公をペルシャ人であると定義づける。なんでそんな無茶ができたかってやっぱ本物のペルシャ人に誰も会ったことがないからだよね。答え合わせのしようがない。
といってもじゃあ大尉のペルシャ語の先生として安泰…なんてわけもなく、ちょいちょいピンチは訪れる。でたらめのペルシャ語を教えるわけだから大尉が覚えるのと同じだけ、先回りして架空のペルシャ語の単語をつくって覚えなきゃいけない。いきなり大量の単語を教えろと強要されたり、同音異義語のつもりで口にした一言で大尉が逆上しちゃうこともある。そのたびに観てるこっちは超ハラハラドキドキします。このスリルがなんともいえない。

なんともいえないのは主人公も同じで、収容所では同朋たちがきつい肉体労働でこき使われた挙句に銃殺されたり、まとめて絶滅収容所に送られたりして死んでいくのに、自分ひとりが生き残らなくてはならない。誰にも心を開くことができないから常に孤独。架空のペルシャ語のレッスンは緊張感MAXで、いくら命がかかっているといっても精神的にそう長く耐えられるものではない。いつどうなってもおかしくないというギリギリの状況が延々続く。
めちゃくちゃおもしろい。

けどそこはやはりホロコースト映画なので、最後の最後、涙なしには到底観られないシーンで終わる。
ほんとに切なくて、苦しくて、ホロコーストがどれだけ非人間的だったか、人をユダヤ人とアイデンティファイすることでその人間性をどれだけ否定したかという罪深さが、しんしんと心に響いてくる。

この物語が悲しければ悲しいほど、レイシズムがいかに滑稽で無意味なことかという真理の深みを感じる。
誰がどこの誰だって別になんだっていいじゃないですか。
お互い譲りあって、ほんのちょっとうまく助けあったり、バランスを取りあったりして暮らしてけばいいだけなのに。
なんでそれがこんなに難しいのかがわからない。わからないことが、また悲しい。

 

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