落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

おひとり様の履歴書

2021年10月15日 | diary
2ヶ月ぐらい前の記事で「ある人に『心の中に抱えているものを、一度外に出してみよう。どんな形でもいいから、それがあなたに必要だから』といわれた」と書いた。
それでここ何回か長めの記事を誰に読ませるでもなく書いているが、今日は、個人的にいちばん他人に触れられたくないことを書こうと思う。
誰も読んでないと思うから。

セクシュアリティの話だ。

私が生まれて初めて「性」というものを意識したのは小学校1年生のときだ。
ひとりで歩いていた学校の帰り道に、痴漢に遭ったのだ。
具体的に何をどうされたかという詳細にはここでは触れない。ついでに申し添えると、この後に続く類似の性被害体験についても詳細を書くつもりはない。なぜなら、世の中には他人の性被害をズリネタにする変態がごまんといるからだ。
私は人間であって「コンテンツ」ではない。

驚き恐怖に怯えた私は一目散に走って逃げて、帰り着いた自宅にいた母に、ついさっき起こったことを訴えた。泣いていたかもしれないが記憶は定かではない。
すると母はこういって私を叱りつけた。
「あんたに隙があるからそんな目に遭うんだ」と。
私はこう思った。
「あ、この人は私の味方ではないのだ」と。

田舎の6歳の子どもに「隙」も何もあったものではない。

私が生まれ育った町は大企業の工場が多く(過去記事)、当時は、うちを含め他所から引っ越してきた移住者が住む建売の新興住宅地と開発中の造成地と、古くからの町屋や農家の集落や農地とがモザイクのように入り混じり、大きな川が流れ山や森や広大な運動公園もあって海にも面した、一見すると長閑な町だった。
一方で、物理的にも心理的にも死角が多い町だった。
大方の人がすぐ近所に住んでいる人のことをよく知らない。その辺に知らない人がいても誰もなんとも思わない。
共働きの家庭が多く、一人歩きの子どもが珍しくない。学童保育などという制度はまだなかった時代だ。
その環境ゆえか小中高生を狙った痴漢が頻繁に出没していて、何かあるたびに学校やPTAや自治会がポスターや防災無線を使って地域に注意喚起をし、警察や消防団が交替でパトロールもしていた。すなわち痴漢騒ぎは、ヤンキーの万引きや暴走族の迷惑走行と同じような、半ば日常的な出来事と認識されていた。

第三者にとっては「半ば日常的な出来事」であっても、恐ろしく、恥ずかしく、屈辱的な体験をした被害者にとって、そんなものが「日常」だなんてたまったものではない。

私はその後も何度も痴漢の被害に遭い続けたが、母の「あんたに隙があるからそんな目に遭うんだ」という言葉をそのまま鵜呑みにして「全部自分のせいだ」と考え、ほとんど誰にも被害を訴えることなく生きてきた。
いつどこでどんなことがあったか、私はすべて記憶している。忘れようと思っても忘れられないからだ。

アルバイトを始め、社会人になって仕事を始めたら、セクハラにも遭うようになった。
通勤では痴漢、職場ではセクハラ、転職しても異動しても取引先でもセクハラ、出張に行っても、ボランティアに行ってもセクハラ。
私が性被害に遭わずに済む場所なんかこの地上のどこにもない気がした。

そんなバカなとあなたはいうかもしれない。でもこれは事実だ。
たとえば世間的には、痴漢に遭いやすい人は大人しくて抵抗しなさそうな人が選ばれているというイメージが流布している。
私はある朝、混雑した通勤電車で、濃いサングラスをかけ黒の映画Tシャツの上にライダースジャケットを羽織り、迷彩柄のカーゴパンツにレースアップのワークブーツを履いていて痴漢に遭った。それも相当ヘビーなやつだった。以降、私は二度と同じ時間帯の同じ車輌には乗らなくなった。
たとえば大抵の人は、電車の痴漢といえば朝のラッシュ時に発生するものだと考えている。
私はある夜(確か20時前後)、外出先から自社に戻る電車の座席に座っていて、隣に座った乗客にガッチリ身体を触られた。ローカルな路線で車内はガラガラに空いていた。ちなみにこの日の私の服装は黒のジャケットにインナーは濃いグリーンのカシュクール、黒のワイドパンツにパイソン柄で高さ10センチのピンヒールを履いていた。

そこまで痴漢に遭うのは私に何か非があるに違いないと考える人もいるだろう。
だが前述の通り、被害時の私の服装は過度に露出が多かったわけでもないし、人気のないところで無防備な姿態を晒していたわけでもない。
若いころ、大手の取引先との初顔合わせの日に、相応に自分の見え方を意識した装いで出向いたことなら何度かある。そうすればもちろん相手は私の顔やら身体をじろじろ見る。それはそれでこちらの戦略(経験が浅いからと見下されないために外見で圧をかけておく)なので構わない。だがそういう日に、明確にセクハラと判断できる行為をされたり、痴漢に遭ったりしたことはただの一度もない。

ストーカーの被害にも遭ったことがある。
相手は私のまったく知らない人物だったが、相手は私のことを知っていていきなり自宅に押しかけてきたり連日電話をかけてきたりした。最終的にはそれ以上の事態に発展し、このときばかりはさすがに警察のお世話にならざるを得なかった。解決に至るまでは数ヶ月を要した。
知らない人、一度しか会ったことがない人にやたらに付き纏われるといったことは、私にとってはよくあることだった。一大事に至るか否かという程度の問題である。

こんな人生を送ってきた人間がどうなるかというと、当然の帰結として、男性を信用することができなくなる。

私は自分で、そのことに気づくことができなかった。
というのも、私はその辺の他の少女と同じように、同級生の男の子を好きになって手紙を書いたり、バレンタインにチョコレートを贈ったり、いっしょに海に行ったり、年賀状をやりとりしたり、セーターを編んであげたりというごく健全な恋愛を(たまに)しながら10代までを過ごしてきたからだ。

私の男性不信を教えてくれたのは、20代のころに交際していた男の子だった。
都内に住む私と彼の郊外の自宅は電車で1時間以上かかるほど離れていたが、毎回彼は都心まで出てきてくれていっしょに遊びに行ったり、部屋に来てくれたりしていた。
当時の私の仕事は常にスケジュールが過密で毎晩遅くまでの残業だけでなく休日出勤も多く、会う日の都合は彼が私に合わせてくれていた。それがいつも、少し心苦しかった。

先述のストーカー騒ぎが起きたとき、私は自宅を出て近隣の同僚や友人の家を泊まり歩いたり、勤務先の仮眠室に泊まったりしてなるべく自宅に近寄らないようにしていた。警察からそう指示があったからである。
警察はまずこういった。「信頼してしばらくいっしょに過ごしてくれる親族やお友だちはいますか」と。
私は「いません」と即答した。警察は「であれば、当面の間はご自宅にはなるべく帰らないようにできますか。他に泊まれるところはありますか」といったのだ。
まだ携帯電話を持っていなかった私は、彼氏に「当分は家に帰れないから電話はできない」旨を伝えた。ことの成り行きとしてストーカーの件も説明しないわけにはいかなかった。
すると彼は「落ち着くまで俺がそっちに泊まろうか」と提案してくれたのだが、私は言下に断った。あなたにも仕事があるし、うちはあなたの家から遠過ぎる。そんな迷惑はかけられないからと。

ストーカー騒ぎがなんとか収束して、彼と毎晩のように電話をかけあい、ときどきいっしょに出かける生活は戻ったが、ほどなくして私たちはうまくいかなくなった。
どうしてそうなったのかはまったく覚えていないのだが(こういうところが私の人間性の歪なところだと思う)、些細なことで言い争いになったとき、彼は「あのストーカーのとき、あなたは俺を頼ってくれなかった。俺を信じてくれなかった。寂しかった。傷ついた」と告白してくれた。
穏やかな性格であまり感情を表に出さない人だったから、そういうことを口に出すのも勇気が要っただろうと思う。私は素直に「申し訳なかった。傷つけるつもりはなかった」と謝ったが、関係が元に戻ることはなかった。

このとき私は、「ああ、私は男の人を信じることができない人間なのだ」という事実を、いやというほど痛感せざるを得なかった。

私と彼は10代のころからの仲の良い友人で、男女交際に至るまでは友だちとして長い間親しくしていて互いのことをよく知っていたし、何より私は彼のことが大好きだったからだ。
好きで好きで、傍にいられるならいま死んでもいい、と思うぐらい好きだった。
その彼にすら、私は心を許すことができなかった。
いつでも私を尊重し、大事に思い、優しくしてくれた彼の心を傷つけてしまったことを、私はいまでも深く悔いている。

私がそんな風に傷つけた男性は、彼ひとりではないはずだ。

それ以降にも男の人と交際したことはあったが、私と相手の間には常に、透明な見えない壁があった。それはもう私自身の手ではどうしようもないことだった。男性と接近すると勝手に身体が、心が、いつなんどきでもすぐに逃げ出せるように身構えてしまう。
そんな女とつきあいたい人なんかいない。
やがて私は恋愛感情そのものを忘れた。
きっと私は、人を愛することができない人間なのだろう。
それはそれでいい。
仕方ない。

そうなってみると、恋愛対象として私の琴線に触れた人の傾向がよく見えてくるようになった。
それは、私が小学生で初めてボーイフレンドをもったときから一貫して何十年もまったく変化していなかった。自分でもおもしろいくらいで、気づいたときは思わず大笑いしてしまった。
好きになる男の子〜男性は色白か痩せ型かその両方で、顔つきはお地蔵さんとか仏像っぽい中性的な感じ、性格はどちらかというと穏やかで老成していて、頭が良くてちょっと変わり者、というのが全員に当てはまっていた。逆にいえば、やんちゃな子、男臭い人、ワイルドな人は生理的に受けつけない。学生時代にバイト先でボディビルダーにセクハラされてからはとくに筋肉嫌いになり、歩いていて行くてにマッチョな人が近づいてきたら速攻で逃げ出すぐらいのトラウマになった。

その傾向は恋愛対象でなくても普段接する周囲の人にも共通していて、大部分の男性の前では自然に萎縮して緊張してしまう(社会人のマナーとして態度には極力出さないが私をよく知る人には露骨にバレてるらしい)のに、なんとなく中性っぽくて男性性をあまり感じさせない相手であれば、リラックスしてコミュニケーションがとれる。見知らぬ相手になるとこの反応はさらに顕著になり、場合によっては脂汗をかいたり胃が痛くなったりする。要は、私が「普通に」接することのできる男性はかなり限定的ということになる。
映画や音楽やアートの世界でも同じで、私の関心を惹く男性は全員、必要以上に男性性を主張しない、大人なのか子どもなのか、性差の境界がどこか曖昧な人ばかりで、おそらくそれはこの先も変わることはないと思う。

この文章で何がいいたいかをまとめるとするなら、昨今やけに話題になりがちな、いわゆるLGBTQなどというカテゴリー分けは大した問題じゃなくて、人間100人いれば100通りのセクシュアリティがあると考えてもいいのではないか、ということだ。
ストレートでもレズビアンでもバイセクシュアルでもトランスジェンダーでもない私自身の性的指向は、明らかに「普通」とはいえない。
じゃあ「普通」ってなんのことだろう。「普通」の人なんかどこにもいないのではないだろうか。
生理学的な話はここでは関係ない。
人間が社会性動物である限り、私たちの性行動や性反応は本能だけでなく社会的な環境の影響を避けることができない。たとえば2年前のウェブ記事では「バブル崩壊後、『失われた20年』に当たる1992年から2015年の間に、18~39歳で性交渉の経験がない日本女性(処女)が21.7%から24.6%に、日本男性(童貞)は20%から25.8%に増加」したと報じている(出典)。この記事によれば、日本社会の貧困化・格差の拡大に伴って、日本人の性行動も「貧しく」なっているということになる。
大事なのは、この先の時代、「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」といったステレオタイプを捨てて、純粋に人と人として一人ひとり誠実に向き合うことが当たり前になれば、この世の中はもっと楽しく平和に安全になるはずで、いつかそういう共通認識が私たちの社会にちゃんと浸透する日が来たら、私ももしかしたらまた誰かを愛することができるかもしれない。

やっぱり、ひとりは寂しい。
ひとりでも、なんとか生きていくことはできるけれど。

ドーリス人の国の宝物

2021年10月14日 | diary

最近、ヒマさえあればYouTubeばかり見ている。
ほんとうは読みたい本や観たい映画もたくさんあるのだが、現状、ある事情でそれがなかなか難しい。YouTubeなら観ていて飽きればすぐに他のコンテンツに飛べるしやめたければその場でオフにできるから便利だ。
ジャンルは何でもありでいつだかASMRばっかり観てたときがあったけど、いまは動物かものづくり系、もしくはVlogか音楽系。毒にも薬にもならないやつだ。

少し前に「10年ぶりにCDを買った話」という記事でYouTubeで出会った小林私というシンガーソングライターの話題に触れたが、彼はこの春に多摩美術大学を卒業している。生配信動画でもちょくちょくそのことに言及しているし、連載しているコラムでも2回にわたって書いている。
たぶん、小林私の音楽や彼の音楽との向き合い方や価値観に、世代がまったく違う私が妙に共感するのは、私も美大出身だからかと思う。それよりも前に、妹に勧められて「かくかくしかじか」(東村アキコ著)を読んだときにもなんとなく、「やっぱりそうだよな」と思った。
「かくかくしかじか」は著者が美大受験の画塾に通い始めてから漫画家になるまでを描いたコミックエッセイなのだが、アキコは受験が無事に終わって進学し卒業し漫画家になってからも、折に触れては画塾の先生を思い出し、いまの自分がしていることに後ろめたさのようなものを感じている。
その感覚に、ものすごく共感した。読んでいて懐かしくなった。全体のトーンはギャグ漫画に近いのに、ときどき、涙がでるくらいせつなかった。

というわけで今回は美術と私の話です。

私は4歳のとき、隣町のお絵描き教室に通っていた。週に1回、一人で描いたりグループで描いたり、やることは毎回違ったが、よく覚えているのは、私が生徒の中で最年少だったことだ。他の子はみんな小学生以上だった。
なぜなら、他の生徒が課題を与えられて机に向かっている間、私だけ「好きな絵を描いていいよ」と画材だけ渡されて自由に絵を描かせてもらっていたからだ。おそらく、その教室の対象年齢は小学生以上だったのだろう。
通っていた期間は長くはなかった。母の日に他の生徒が母の絵を描いて、授業終わりの時間に迎えにきた母親たちにプレゼントしていたのに、「母の絵を描く」という課題をもらっていなかった(知らなかった)私が自由に描いたおとぎ話の絵を目にした母が激怒してやめさせられたのだ。
そのとき「ああ私はこの人とはずっとわかりあえないだろうな」と思ったのを強烈に記憶している。私は、そういう嫌な子どもだった。

お絵描き教室はやめたものの、母は私の絵に執拗に干渉し続けた。自身が絵が好きでその道に進みたかったという叶わなかった夢を娘に託すという、よくある話である(両親の実家は極貧だった。いつだか過去記事に書いた気がするので今回は割愛)。
学校の課題で描く絵やポスターなど、自宅で描くものに彼女が口を出さないことはまずなかった。だが私も決して従順な子どもではなかったから、母が望むような絵を描くことをわざと避けたり、描いている絵を隠したり、極端に変わった画風で描いたりもした。そのたびに収拾のつかない修羅場になる。描いたばかりの絵を衆人監視の中でズタズタに破り捨てられたり、受賞作品の展示会場で「銅賞なんか獲って恥ずかしくないのか。なんで金賞じゃないの。よくもしゃあしゃあと生きていられるものだ」などと叱り飛ばされたのは一度や二度ではない。それをわかっていながら反発せずにいられなかった。
いま思えば母本人だってそんなことやってたら相当疲れるに違いないのに、休みとあらば小学生の私を美術展巡りに連れまわし、写生会やコンクールがあれば参加させていた。我が親ながら並大抵の根性ではない。

だから、高校進学の際に美術科のある高校や高専を受験するよう親に勧められたときは死ぬ気で抵抗した。そんなところに行ったらそれこそ一日24時間、一年365日干渉されるに決まっている。自分のメンタルがもつわけがないことくらい子どもにでもわかっていた。
考えた私は、通学区域内で進学率最上位にあたるいわゆる名門校に進学するという名目で、美術科方面を回避した。もちろん必死で猛勉強した。睡眠時間は一日3〜4時間、学校から帰宅して一旦寝て8時か9時ごろ起きて入浴、それから朝までラジオを聴きながらリビングで勉強していた。自室には本や漫画が目につくところにあって集中できないからだ。おかげで担任には「合格ラインぎりぎり」といわれ模試でも良くてB判定だった第一志望に合格することができた。
そのせいか入学直後の実力テストで学年3位をとり、自分も含め両親もものすごくびっくりした(後から聞いたが内申書の評価と差がありすぎて職員室中教師全員が驚いたという)。その後は授業中寝てばかりいたので推して知るべしである。

進学校なので2年になるとさっそく進路の話になる。
私は本が好き(こないだの記事にも書いた)で物書きになりたかったので文学部志望だったのだが、母はやはり美術系に進ませようとあれこれ干渉してきた。そこへ降って湧いたのが、従兄の就職失敗の話だった。
ちょうどそのころ、大卒の2人の従兄が就職差別の憂き目にあっていた。大学は別だが同学年でどちらも日本全国誰でも知っている有名大、2人とも品行方正な優等生で見た目もなかなか、就職活動も順調だった。内定したのもどちらも一部上場の著名な大企業である。そこまではめでたかった。だが蓋を開けたら、彼らは入社直後に揃って子会社に出向になった。しかも新人研修の前に。私の知る限りで、彼らはその後一度も本社配属にはなっていない。
理由はわからない。だが彼らが在日コリアンだという出自が、その人事にまったく関係なかったとは誰にもいえないと思う。いつの間にやらコンプライアンスがやたら厳しくなったいまなら違うかもしれないが、昭和末期の話だ。あり得なくはない。

そこで私は考えた。
ちょうどバブル期真っ只中、日本中が異常な好景気に浮かれていたそのとき、私も自営業の両親も「これはおかしい。こんなのいつまでも続くわけない」という危機感をもっていた。私が大学を出て就職するころには、このロクでもないお祭り騒ぎは終わっている可能性が高い。
高校生活できるだけ目一杯遊び倒したおかげで、国立を狙えるほどの学力がなかった私が私立の文学部に進学したとして、就職するころに景気が悪化していたらどうなるか。人口が最も多く受験も就職も熾烈な競争率を争う世代にいながら、向上心も競争心もない上に在日コリアンというハンデをもつ私が、掃いて捨てるほどいる私学文系の同級生たちに就職で勝てる見込みはほとんどないに等しい。
ということは、社会に出る以前に同級生とは違うキャリアを獲得していなければ、大卒にも関わらず経済的に自立した社会生活が不可能になるリスクがある、ということだ。

いちばん手っ取り早いのはずっと親が勧めていた美術の道だった。資金なら喜んで出してもらえる。遠方の美大に入って実家を離れれば、親の干渉からも解放される。
文学を学びたいという夢をすっぱり諦めるには少々時間はかかったが、最終的には有名美大を出て就職差別なんかない分野で成功すると目標を定め、高2の終わりから隣町の画塾に通い始めた。
先述の「かくかくしかじか」でも描かれているが、最初の課題は石膏の幾何形態の鉛筆デッサンである。暗幕をぴったり閉じて天井の照明で煌々と照らされた真っ白けの直方体とか円錐を、延々と長時間かけて描かされる。できたと思って講師に見せるとあれこれと誤りを指摘され、やり直させられる。確か最初のデッサンには31時間かかった。画塾の授業は土曜と水曜が3時間、日曜日が6時間だから、半月以上1枚のケント紙に向かいあっていたことになる。
それが終わったら、今度は円柱と立方体、そのあとは球体と四角錐。そんな具合でくる日もくる日も白い物体を2ヶ月ほど描き続けた。その後は、ティッシュの箱と缶ジュース。次がソフトボールと煉瓦。色やら柄はついたけど、幾何形態には違いない。

そんなの描いてて楽しいか?と誰もが疑問に思うだろう。
もちろん楽しくはない。1ミリも。講師だって厳しい。座っている椅子の脚を思いきり蹴飛ばされ、大声で「なぜ指導した通りに描かないのか」「モチーフを全然見てない」「やる気がないなら帰れ」と怒鳴りまくられ、講評(課題日程が終わって、壁一面に各々の絵を並べて点数をつけられる。要は公開処刑である)だってボロクソだった。一番の子はかろうじて褒められる。二番以下は全員酷評だった。あまりの罵詈雑言に泣く子もいる。泣いたって「泣いて志望校に合格するなら好きなだけ泣け」といわれる。
それでも慣れというのは恐ろしいもので、そこまでのスパルタ指導を受け続ければ、嫌でも己れの置かれた状況に客観的にならざるを得ない。これだけやっても美大に合格できるかどうかわからない。昨今のように受けさえすればどこかの大学に入れるという時代ではない。生き馬の目を抜く激戦の受験戦争を勝ち抜くには、生半可な態度ではその入り口にすら臨めないのだ。現に途中で脱落する子もいた。

体育会系の鬼指導の賜物か私はめでたく地方の美大に合格したが、そこは本来進学したかった大学ではなかった。有り体にいえば、私が行きたかったのは、あくまで「就職に有利なブランド力のある美大」だった。だがその「ブランド」大学は通っていた画塾の指導方針にあわないといった理由で受験できなかった。講師には「どこの大学に行くかは問題ではない。そこで何をするかが重要だ」と説得されたが、結局私はその地方美大を蹴り(この前後の事情はややこしいので省略する)、1年で志望校に合格することを必須条件に片道2時間かかる都市部の大手美術予備校に転校した。合格実績でいえば田舎の画塾とはまったく比較にならない。
となると当然指導方法がガラッと変わる。それまでは鉛筆デッサンと水彩画と色面構成を中心に描いていたのが、木炭デッサンと油彩画になった。ゼロからのスタートである。木炭デッサンはさほど苦労することなく描けるようになったが、問題は油彩画である。見た通りに描いてもまったく評価してもらえない。「何を描きたい」「どう表現したい」という個性がなければ、入試の採点時に試験官の目を引くことができず振るい落とされてしまう。当時のいわゆる「ブランド」美大の受験倍率はだいたい10〜40倍以上。上手いのは当たり前、かつ目立ってナンボである。
講師は先輩が何をどう表現しようとしているのか観察しなさい、参考作品や歴史上の巨匠の画風を研究しなさいと教えてくれたので、しばらく私はモチーフから一番遠い後ろの席から、多浪の中でも講師の評価が高い学生の描き方を一人ずつ眺めて技法を真似したり、資料室の画集を端から借りては舐めるように見て、盗める要素がないか探し回った。

その美術予備校には現役生のクラスもあった。つまり私と同じクラスの一浪学生は全員、高校生のころから同じ指導を受けていた。とすれば彼らと同じように描いていても追いつくことはできない。
私は朝5時に家を出て始発に乗って登校し、予備校が開館する7時に石膏室(デッサン用の全身サイズの石膏像が展示してある)に入ってクラスが始まる9時までそこでデッサンを描き、夕方5時にクラスが終わればまた石膏室に戻って閉館の8時まで描くという自主練をした。道頓堀の笹部という画材屋(安い)まで買い出しに行く日と遠距離恋愛中だった彼氏と会う日以外は毎日ずっと、自主練を続けた。帰りの駅や電車内では他の乗客を観察してクロッキー(速写画)を描いた。1年でクロッキー帳を20冊以上消費したと思う。

予備校の講師もやはり厳格だった。東京芸大出身だから(その予備校の講師は全員東京芸大卒の画家)学生に求める作品のクオリティが滅茶苦茶高い。妥協はいっさい許されない。「お前いまこんなの描いてて芸大に受かるわけないだろう」というのが定番のセリフだった。そこの学生は全員東京芸大を受験することが決められていた。分相応な志望校を目指している程度では、他の美大であれ本番までに合格できる実力が身につかないからだ。予備校の課題といえど、本気でプロの画家として認められるだけの絵を描くことが要求された。授業をサボる学生は二度と講師から声をかけられなくなる。手を抜いたことがわかれば(当然わかる)講評すらしてもらえなかった。
斯くして私のスパルタ受験延長戦は現役時代よりもさらに過酷になった。

それでも、2年余りの画塾・予備校時代は、私の一生にとって貴重な時期になった。
あれからもう長い月日が経ったけれど、あのとき私は、絵の勉強だけではなく、その後の人生を豊かにする価値観を、世界観を広げる経験を数えきれないくらいしたし、そのひとつひとつが、いまでも私という人間を支えている。
人が生きているということ、命が脈打っていること、それそのものが美しいこと。人と違う個性があることがどれほど幸運かということ。
生活の中で目にするもの、手にするものの形のすべてに意味があって、デザイナーがいて、設計者がいて、利便性や機能性が計算されていること、観察すればするほどどんなものにも「楽しさ」と「物語」を発見できること、そんな蘊蓄は脇に置いておいても、この世界に溢れるすべてのものに「美しさ」「尊さ」があること、どんな日にもその日にしかない巡りあいがあること、見逃してしまったら二度と出会えないこと。
受験期という厳しい状況下にいても、16〜20歳という人格形成にとってたいせつな時期を、少しでも豊かに、意義あるものにしてほしいと、先生たちは願ってくれていたのだろうと思う。

1年の浪人を経て、私は無事「ブランド」美大のひとつにどうにか合格し、家を離れることができた。正直いってまぐれだったといまだに思っている。だがそれはそれとして、自分自身ではベストを尽くせたと思う。
問題は入学した後だった。
入学したのは油絵科だったのだが、授業内容が予備校とほぼ同じだったのだ。校風として他校よりアカデミックだということは知っていたが、それでも画塾や予備校でさんざんやり尽くした石膏デッサンや裸婦像をまたやたらに時間をかけて描かされるのが無駄のような気がしてしょうがなかった。
おまけに、私は自分が絵を描くのが好きではないことに入学直後に気づいてしまった。課題やテストや誰かの依頼など、何か対外的な目的があればいくらでも描けるのに、「自分で描きたいものを描いて」といわれると頭が真っ白になってしまう。描きたいものなんか何もないからだ。

一時はせっかく苦労して入った大学を辞めることまで真剣に考えたが、親しかった先輩の助言もあって、入学できたのなら大学でできることを全部やり尽くそうと考え直し、まず写真を勉強し始めた。バイト代を貯めて一眼レフを買い、モノクロ写真(この辺りのことは前回書いた)を撮って自分で現像し、手づくりの印画紙にプリントする作品をつくるようになった。3年で専門課程に分かれるときには版画専攻を選択した。その大学の版画専攻の規模が当時世界レベルで、海外からも版画関係者が頻々と視察にくることを知ったからだ。同じ学費や設備費を払うのならより費用対効果の高いクラスに進んだ方が得だと思った。実をいえば版画にはまったく興味はなかった。我ながらつくづく腹黒すぎると思う。
版画クラスは予備校並みのスパルタコースだったが、その傍ら紙漉もやり始めた。版画は版画紙(いっぱい種類がある。そして高価である)をたくさん消費する。いうまでもないが紙によって刷り上がりの質感や発色が異なってくる。その紙を、買うのではなく自分でつくって「紙からオリジナル」の版画を刷ろうと思ったからだ。

一口に写真やら紙漉やらいっても、実際やるのは楽ではない。費用も手間も半端ではない。2年生からは年に1回、自分で個展まで始めた。
私は大学4年間で20種類以上のアルバイトをし(何軒か掛け持ちして目標額に達したら辞めて、お金が足りなくなるとまた掛け持ちした)、朝は5時から働くか、シフトに入ってない日は同じ時間に登校して寝ている守衛さんを起こして工房の鍵を借り、夜は工房が閉まる8時まで制作していた(有機溶剤=危険物を使用するので夜間は工房は使用できない)。
周囲からすれば何をそんなに必死に頑張らなきゃいけないのか、奇妙に見えただろうということは自覚している。
でも私には、誰にも理解されないハンデがあった。在日コリアンだとしても、就職で、明らかに他の学生の誰よりも幅広い経験を積んでいると認めてもらえるだけのことを、4年の間に実現しなくてはならないと思っていたのだ。

結果からいえば、私は4年の初めには内定をとり、第一志望の企業に入社することができた。
バブル景気は私が大学に入った年に崩壊して、有効求人倍率が数十年ぶりに1を割り、3年時にはすでに就職氷河期が始まっていた。高校生のころに危惧していた通りのシナリオである。景気が良くても悪くても美大のファインアート系は就職に有利でないことは周知の事実だったが、終わってみれば就職活動にはさほど苦労しなかった気がする。

社会人になってからも、いろいろなことがあった。素敵な経験もたくさんしたし、悔しかったこと、理不尽なことも数えきれないくらいあった。
ひとつだけいえるのは、田舎の高校生だったころには一欠片も想像もしなかったくらい、私の世界観は大きく広がり、人生は豊かになった。いままでいくつもの分かれ道があって、毎回重大な選択を迫られてきたけど、振り返ってみて後悔するような選択は一度もしていない。
そういう生き方ができたのは、あのころ、プロの芸術家に全身全霊で精一杯指導してもらえた受験期の体験があったからだと思う。
生きるということは、他の誰でもない自分自身との戦いで、何が良くて何が間違っているか決めるのも自分で、結果がどうあれ自分で納得できる成果を得るためには誰にも負けない努力が必要不可欠なことを、先生たちは身を以て教えてくれていた。彼らに対して恥ずかしくない生き方を、常に意識していた気がする。

そのことには、大学に入ってからいままでずっと感謝しているし、これからもずっと感謝し続けると思う。
そして、何かに感謝できるということはとても幸せだということも、彼らに教わったことのひとつだと思っている。

美大を卒業する直前、クラスメイトといっしょにギリシャとイタリアに行った。初めての海外旅行だった。
受験生時代から何度も何度もモチーフとして数百時間見つめ続けてきた古代ギリシャ・ローマ時代・ルネサンス期の美術に直接感謝しに行きたかったからだ。
3週間毎日毎日ひたすら遺跡と美術館と教会を廻り、一夜漬けで覚えたギリシャ語とイタリア語で地元の人々と交流したあの旅の間、画塾や予備校や美大でお世話になった先生や同級生たちと過ごした濃密な時間が、少しずつ遠くなり、じわじわと扉が閉じていくのを感じていた。
もう二度と戻れない。
だからこそあの時間は、かけがえのない、一生の宝物なのだ。


10年ぶりにCDを買った話

2021年08月21日 | diary
人間誰しももっているコンプレックス。もちろん私にもある。いっぱいある。
そのうちでも、これはほんとにどうしようもないな、というのが音楽センスです。あ、音痴とかそういうことではない。

どれぐらいセンスがないかというと、5歳ぐらいからピアノを習ってて普通にバイエルとかソナチネとかやってたんだけど、練習も一応いわれた通りやってたにも関わらず、さっぱり上達しなかった。だいたい「うまくなりたい」というモチベーション自体が低すぎた。
これはピアノだけじゃなくて他の習い事もそうで、水泳なんかわかりやすくタイムという数字が出る。親もコーチも数字が出ないことにはレッスンの成果にならないから当然イライラする。怒る。私自身はそもそもピアノも水泳も算盤も習字も塾もお絵描き教室も、自らやりたいといって始めたわけではないから「なんで怒られるんだろう」としか思ってなかった。要は「競争心」「向上心」という感覚が著しく欠けてたわけです。いまもないけど。
ピアノなんかその最たるもので、同年代の他の子が発表会でどんどんハイレベルな曲に挑戦していて全然そこに追いつけてないのに、自分を誰かと比べて「わたしももっと上手にならなくちゃ」なんてことはまるっきり考えてなかった。純然たる月謝の無駄ですね。ごめんなさい。

ピアノは中学に入って誰になんの相談もなくバスケットボール部に入部したという理由で辞めさせられた。親もピアノの先生も中学教師も全員、私が水泳部に入るもんだと勝手に思いこんでたらしく無茶苦茶ビックリされて、バスケは手を怪我するからそういう子はもう指導できないと即クビになりました(卒業して数年後、水泳部の顧問は部員への性虐待で逮捕された。着任当初から「アイツ怪しい」という噂は校内中に満ち満ちてたから、このときほど己の直感に感謝したことはない。ちなみに2学年下の妹は水泳部部長だったけど小学校時代から喧嘩が強くて有名で、顧問にとっては「対象外」だったらしい)。
バスケは1年の終わりに成長痛がしんどすぎてリタイアした。新入部員の中でいちばん背が低かったので、朝晩牛乳1リットル飲んで自主トレしまくって、制服のポッケに煮干しを詰めた缶を入れてしょっちゅうもりもり食べてたら1年で9センチくらい伸びた。成長痛、結構痛いです。これぞまさに本末転倒というやつです。代わりに走るのは飛躍的に速くなって、短距離も長距離も陸上部の子とだいたい同じぐらいのタイムで走れるようになりました。

高校生のころ世間はバンドブーム真っ盛りで、私も気づいたら軽音部に入部して女の子ばっかり同級生5人のバンドを組んでました。担当はベース。
当時人気だったガールズバンドをコピーしたり先輩のライブを手伝ったり活動そのものは楽しかったけど、入部して1年経たないうちに先輩が部室で喫煙したのがバレて(普通バレるよね)部そのものが無期限活動停止になってしまった。校内で練習はもうできない。後から思えば、学校側は軽音部のように学校の実績につながりにくい部はどうかして潰してしまいたかったんだろうなんて魂胆が簡単にわかる。
それから、バイトも禁止の田舎の高校生同士なけなしのお小遣いをはたいてスタジオを借りて練習してバンドは続けてたけど、メンバーの誰かが「同じ学費払ってるのにうちらだけ部活できないのはおかしい(部活動には学校から予算が出る)」といって部員ゼロだった家庭科部を乗っ取り、放課後はお菓子をつくったりウエディングドレスを仕立てたり、冬は図書館のストーブにあたりつつ(顧問が図書館司書だった)編み物したりするようになった。バンド活動はどこいったんだ。
そのうち受験に本気でとりくみ始める時期が迫ってきて、バンドは自然消滅していた。お年玉貯金で買ったベースやアンプは大学でバンド活動を始めた彼氏にあげた。

私の人生の「音楽経験」はたったそれだけだ。
大学でとってた音楽の授業はすごくおもしろくて、バロック音楽や民族音楽、宗教音楽、現代音楽の良さを教わって、音楽はやるより聴く方が楽しいことに気づいた(遅い)。美術大学なのに音楽系のサークルが数えきれないぐらいあって、彼らの演奏を聴くのも大好きだった。ただ、世の中の音楽の流行には疎くて、何が流行ってて何が新しいとかそういうアンテナは残念ながらまったく機能しなかった。アンテナなんか初めからなかったのかもしれない(なかったんだろう)。映画オタクになってからはサントラCDばっかりやたら買った。
4年生で就職が内定したTV番組制作会社でバイトしてて、撮影・編集した映像に音楽担当のスタッフが既存の音楽をホイホイとハメてくのが、はたで見てて魔法みたいだと思ったもんです。

卒業後は映像制作の仕事を長くやってたので、PV制作は何本も参加した。アーティスト名は挙げないけど世の中の人ならだいたい知ってるアーティストが多かった。中には制作後にライブに招んでくれたアーティストさんもいたし、逆にこっちからライブにお邪魔したアーティストさんもいた。安室奈美恵さんなんか何回か撮影にいって完全にハマってしまい(初めてライブに行ったときの感想)、引退公演まで友だちみんなで参戦した。
過去記事にも書いたけど、伝手でマイケル・ジャクソンの最後のツアーをとんでもない神席で観たことを友だちに話したら「じゃあ大物が来日したらとりあえず観にいってみよう。いついなくなって観れなくなるかわかんないから」ということになり、ビヨンセとかレディ・ガガの来日公演もいった。安室奈美恵のときと同じメンバーで。結果「ビヨンセよりガガさんより安室ちゃんが最高」という結論で一同一致したのには爆笑した。でもマジで安室ちゃんは神です。
ビヨンセのライブでは、友だちのひとりが本番中に「あたしがつくって別作品に納品した映像が勝手に使われてる」ということに気づいてしまい(映像制作者はそういうのすぐわかるからね)超微妙な空気になったのを覚えてます。世界のビヨンセの公演で無断使用ですか・・・。

そんな感じで、ごくたまにクラシックコンサートに行くか、仕事つながりの知人数名のライブに行く以外、仕事のBGMに映画音楽・民族音楽・宗教音楽・現代音楽を聴いて暮らした音楽生活を変えたのがYouTubeだった。
ここ10年はこのツールを使って有象無象玉石混交、あらゆるアーティストのコンテンツが世界中から発信されまくるようになって、それまでの音楽産業のあり方が完全に変わってしまった。何しろアーティストは誰に頼らなくても己のやりたいことを直でオーディエンスに届けられる。しかもお互いタダで。そこから新しいスターが生まれていく。インターネットってすごいよね。25年前、1ページ44キロバイト以下でウェブページつくらされてた時代があった(当時のインターネットには電話回線しかなかったからである)ことすらもう信じられない。

YouTubeは動物系や物づくり系を中心になんでも観るけど、無名のアーティストのカバー動画や民族音楽系もよく観る。そういうのを観てると画面の右側にオススメ動画のサムネイルが出てくる。同じようなジャンルの動画だったり、サムネイルが気になったりしたらそれを選んでまた聴く。
いまのところいちばん再生しまくってるのはこちら。100回は観た。スゴいから。


自分で作曲してひとりで全部演奏して踊ってる。チャンネルをみる限り相当自由な人だけど、Twitterによれば十代でポーランド国立交響楽団のピアニストになってたりなかなかな経歴の持ち主で、小さいころから凄まじい努力をされてきたらしいです。まあそうだろうね。どの楽器でも踊りでもなんでも自分の好きにできる自由って、相応の対価(オカネのことではない)が必要だもんね。

脈絡もなくいろんな動画をみていて、小林私というアーティストの動画にふと出会ったのは今年に入ってからだと思う。
もうどの曲だったかは忘れてしまったがサムネイルの画像が坂井和泉(ZARD)に似ていて「カワイイな」と思って何気なしにクリックしたら・・・たぶん、同じような驚愕を感じたリスナーは結構いると思う。

これは1年前の曲のPV。おわかりいただけただろうか。


えーと、控えめにいって最高なんですけど。いろんな意味で。いやとくに声が。
度肝、抜かれました。

彼はいまはインディーズレーベルに所属してて↑の動画はその公式チャンネルで配信してるけど、それとは別に何年か前から個人チャンネルで活動を始めてて登録者数はいま13万人以上。1年くらい前は3,000人だったみたいですけど、この短期間で何をどうしたらそんなことになるんだろう。


↑の曲なんかはちょっと昔懐かしいメロディーラインの歌謡曲だけど、↓みたいなのもつくっている。もろにボカロの影響を受けてるなという作品もあるしバリバリのロックもあるし、守備範囲はかなり広いみたいです。


うーんこれも最高です。えもいわれぬセクシーボイス。声音そのものも凄い好みなんですが、とくに“ら行”の発声が色っぽい。
なんだけどオリジナルよりカバーの方が再生されてたりします。↓なんか200万回再生超え。


↓は個人的にいちばん好きな2曲が続けて聴けるライブ動画。2年前の時点でこの完成度。なのにチャンネル登録者は1,000人いってなかった。


というわけで最近は音楽系の動画はほぼ小林私しか再生してません。
彼の動画を観て(聴いて)るとときどき不安になる。
どうかすると、ある日突然ふいっといなくなってしまうような気もするし、逆にいきなり超メジャーアーティストになってスタイルがガラッと変わってしまうようなこともあり得る気もする。


なんでかというと、2年前にはこんなツイートをしておきながら、レーベルに所属したあたりから投稿する自撮りが悉く変顔に変わっているからである。
念のために書いときますが、ここ笑うところではありません。わりとまじめな話です。
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小林私 watashi kobayashi(@iambeautifulface)がシェアした投稿


↑は1年前で更新が止まったインスタの最後の投稿。アカウント名が最高におかしい。本人アカウントです(現在更新されてるのはストーリーだけのようです。最近のちゃんとプロが撮ってるらしいアカウントはこちら)。
これは勝手に思ってることだけど、彼は自分の才能や容貌には相当自信があるんだと思う。
それだけに「外見だけで消費されたくない。自分の好きな音楽だけやりたい」というこだわりを強烈に感じる。自分のチャンネルでしょっちゅうやってる生配信の自室は無茶苦茶汚いし(本人曰く「ものが多いだけ」)服装はもっそいラフだし、喋りながら耳をほじって耳カスをそのへんに飛ばしまくり、フツーにゲップはするし、発言だってどこまでほんとうなのかわからないぐらい低俗だったり無軌道だったりやりたい放題かと思えば、ちょいちょいしっかり常識的なこともいう。美大出身らしいシビアな美学も相応にもってるらしい。その辺にはいくら時代が変わっても美大の普遍性を感じて懐かしくなったりもする。中身はわりと堅気な人なんではないかとも思う。
だからYouTubeの画面越しに彼の音楽だけを心から愛してくれる聴衆が実在することを信じられるんだろうけど、聞けば聞くほど、彼がほんとうは何をめざしていて、どこに行こうとしているのかわからなくなる。ミステリアス。

↓はミステリアス通り越して「そういやこんな感じの子、中学にいたな」的にいたたまれないインタビュー動画。ちょっとみてられないぐらいサブいけど絶妙に笑える。しかし平然とこんだけスベり倒せるってもしや鉄のメンタルなのか。


かと思えばこんなこともしている。

三菱地所のウェブサイトのコメントなんか完全に別人としか思えない。

というわけで「いつ観れなくなるかわかんないから観にいこう」とライブに行ってみた。ひとりで。流石にこのご時世にインディーズのライブに他人を誘うほど神経太くないから。
会場は入場者全員にちゃんと手指消毒と検温、マスク着用とCOCOAのインストールが義務づけられてて声援は禁止、場内もテープで区切ってそれなりのソーシャルディスタンスが保たれるようになってました。

ライブのタイトルは「一つの例を挙げるなら、貝の剥き身の展示かな」。聞いたときは正直なんのこっちゃと思ったけど、始まったら「なるほど」と納得してしまった。
足元は裸足。服装はいつもの生配信で着てる普段着。オシャレのことをどうこういえた義理ではないことは百も承知でいわせてもらいますけど、ダサいです。髪は伸ばしっぱなしのロングヘアを無造作にまとめただけ(後からヘアメイクさんがいたと聞いて腰を抜かした。本番中にしょっちゅうタオルで顔面全体ゴシゴシ拭きまくってたけど・・・もしかして嘘?)。演出は照明だけで映像なんかはない。舞台装飾もいっさいない。
それでいつものアコースティックギター一本で、2曲歌ってはごくカジュアルに喋り、また2曲歌って喋る。内容は覚えてられないぐらい他愛もない話ばかりで、やっぱりどこまで本気でどこからがジョークなのかとらえどころがない。一度は演奏中に歌詞を忘れてスマホで確認したのに、結局また途中で忘れてやめたりする。
観客を煽るようなことはまったくせず逆に「手拍子しないで」「手をふりあげたりしなくていい」「オレのライブのお客さん、やることなくてヒマじゃないですか」などという。自由過ぎる。
つまり飾りがない。ここでは小林私が届けたい音楽だけを文字通り「剥き身」で受けとってほしい。ってことなんだろうと思う。

でもその剥き身の中にはきっと、音楽に対する強い情熱があつあつに燃えているのもちゃんと感じられました。
すごくいいライブだった。
楽しかった。

実をいうと、健康上の理由で、いまの私は大音響や過度な人混みや喧騒が原因で体調が極端に悪くなることがある(のでそういう状況を極力避けて暮らしている)。
ふつうライブといえば大音響と過度な人混みと喧騒そのものなのに、コロナ禍での小林私のライブには、そういうものがいっさいなかった。
ほんとに「剥き身」の音楽だけを、淡々と心ゆくまで楽しむことができた。大満足。ありがたい。
かつさすが22歳、真っ白な陶器のような肌と元気な髪が照明でつやつやキラキラしてて、綺麗な手やすらっと長い手脚の動きがしなやかに優雅で、たいへん眼福でした。飾りなんか初めから何にもいらない。

殻も飾りも何もなくても、小林私は見逃してはいけないアーティストだと思う。
コロナ禍であらゆる経済活動が停滞するなかで「就職しようと思ってた」にもかかわらずインディーズレーベルからデビューしてアルバムを出し、イベントというイベントが自粛を強いられている間に何本もワンマンライブまでして、しかもチケットはきっちり売りきっている。
度胸というのすら全然追いつかないぐらいの勢いというか圧が凄い。

この先、彼がどんな表現者になっていくかなんてわからない。
でもいつか誰かに、「小林私のライブ、いったよ。最高だったよ」とドヤ顔でいえる日が来るのが、ちょっと楽しみだったりします。
機会があれば、絶対また行きたい。


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心の中の荷物

2021年08月13日 | diary
少し前のある朝、数年前に亡くなった友人の夢を見て、自分の泣き声で目が覚めた。

「友人」という呼び方はもしかしたら適当ではないかもしれない。
彼女はいつも私を信頼し、どんなときも優しく寄り添い、たまには厳しく叱咤激励してくれたり、くだらないようなどうでもいいような話で笑いあったり、おそらくは、親しい友だちのひとりとして、私に心を許してくれていたのだと思う。
なのに私は、彼女に一度たりとも心を許すことができなかった。

彼女は何も悪くない。私が全部悪いのだと思う。

彼女と出会ったのは、ちょうど10年前のことだ。
当時、何の経験もないNGOの仕事を探していて、パートタイマーで採用になった某NGO関連会社の先輩として私を指導してくれたのが彼女だった。
彼女はそのときすでに退職が決まっていて、その交代要員として採用されたのが私だった。
震災を挟んで数ヶ月間、彼女の指導を受け、引き継ぎを済ませ、彼女は予定通り会社を去っていった。

退職後も彼女はいろいろとまめに連絡をくれて、仕事の相談にのってくれたり、食事をしたり、映画を観たり、買物にでかけたりもした。
彼女の完璧な指導が功を奏したのか仕事は順調で、トントン拍子に成果が出るようになった。もちろん会社は評価してくれたし、彼女はそれを我がことのように喜んでくれた。
彼女自身は仕事を辞めた後、通信教育で勉強をしたりお稽古事をしたり、無職生活をのんびりと過ごしているようだった。

数ヶ月経って、彼女はとある別の団体の職員に誘われて正職員になった。そしてその直後に、私に連絡してきて「うちでいっしょに働こう」と誘ってくれた。
誘ってくれたことはもちろん嬉しかったけれど、私はそのときとりくんでいた分野でキャリアアップをめざしていて、相応に長期的なプランを意識していた。だから始めて間もない仕事を1年も経たないうちに放り出すわけにはいかなかった。申し訳ないけど、彼女のお誘いは丁重にお断りした。

ところが彼女は諦めなかった。
何度も何度も、私の仕事が終わるのが遅かったために、日によっては深夜ともいえる時間でも構わず連絡してきて、「絶対あなたのためになるから」と移籍を迫った。
いくら何をいわれても私の意志は堅かったので、そのたびに私は言を弄してのらりくらりと断り続けた。たとえば「いまの働き方をずっと続けるつもりはない」「職場を移ってもキャリアアップにならないのでは意味がない」「いまとりくんでいる分野をもっとしっかり追求したい」などなど。

それを聞いた彼女は、「後悔はさせない」「必ずキャリアアップになる」「なんなら将来のための踏み台にでも使えばいい」とまでいって正職員のポストを用意してきた。何の気なしに「給料がなぁ」といったら、当時私が受けとっていたアルバイト代の5割増以上の給与まで上長にとりつけてきた。
そのころ毎月のように通っていた震災復興ボランティアの活動さえ、入職後も続けていいと約束してくれた。
ここまできたら、人として、もう断れないなと思った。元の職場を離れるにあたってはそれなりに揉めたが、最終的には労基法に準じて円満に退職し、再び彼女の同僚として働くことになった。
最初に誘われてから半年以上経っていた。

彼女は自分で私を引っ張ってきたという責任意識もあってか、直属の上司でもないのにいつも私の仕事ぶりを気にしてくれて、退勤後はそれこそ毎晩のように夕食をいっしょに食べて帰った。
食べながら仕事の愚痴をいいあったり、恋バナもした気がする。
そんなときの彼女はとてもオープンで、びっくりするぐらい素直で、ある意味、非常に人間らしい人でもあった。
そういう彼女を私は嫌いではなかった。それでいて、この先も彼女を好きになることはないだろうということは確信していた。

なぜなら、彼女には驚くような二面性があったからだ。

二面性どころか、人間なら誰でも多面的であって当たり前だと思う。多面的であっても全然構わないと思う。
ただ彼女は、理想の自分自身を演出することに異常に長けていて、その技が完璧過ぎた。
職場での彼女は誰に対しても大らかで穏やかでスマートでポジティブで、それでいてどんなに厳しい努力も怠らなかった。ITにはやや疎かったが仕事ぶりは優秀で、発言は常にど真ん中のど正論、あくまで物腰柔らかだがしたたかにはっきりものをいう方だったが、それだけに議論にはいっさい無駄がなかった。
身なりは趣味がよく、質の良いものを手入れして長く大事に着ていて、それがまたよく似合っていた。綺麗な人でほとんど化粧はせず、定期的に身体を鍛えているせいか常に明るく溌剌として元気で、フルタイムで働きながら学位を取るべく通信で勉強を続け、論文を執筆し、いくつか習い事までしていた。いま思えば、よく私と遊ぶ時間なんかあったなと思う。
要は、職場で知られていた彼女は、完全無欠の素敵なパーフェクトヒューマンだった。

一方で、私とふたりでいるときの彼女は、全然パーフェクトヒューマンではなかった。
私も他人のことは言えた義理ではないが、彼女の口の悪さは筋金入りだった。誰だって他人の悪口をいいたいときぐらいある。それでも、職場で完全無欠の素敵なパーフェクトヒューマンを演じている彼女のネガティブな悪口雑言を聞いていると、つい「きっと私のことも陰ではいろいろいってるんだろうな」と思わず背中が寒くなるような気分がした。

口が悪いだけではない。
彼女は、普通、それは他人に話してはいけないことではないのか?という体験談もしばしばした。有り体にいえば違法行為に類することだ。それも、おそらく私だけに。
彼女がいなくなってもう何年も経つけれど、私は彼女の打ち明け話のすべてを、このまま墓まで持っていくしかないと思っている。死ぬまで、口が裂けても誰にもいえない話ばかりだった。
いまでも、彼女がなぜあんな話を私にしていたのか、理由はまったくわからない。私を信用してくれていたのかもしれないけど、彼女のいくつもの打ち明け話は、赤の他人の私が背負うにはあまりにも重過ぎた。

そんな彼女の二面性に、いつしか私はほとほと疲れ果てていた。距離を置きたいと真剣に思ったこともあるし、実際に距離を置いたこともある。
それなのに、気づけば関係性は自然と元に戻っていた。戻るように彼女が努力してくれていたのだろうと思う。
私たちは同じ職場の先輩後輩として、仲良くいっしょに働いて、夜はいっしょに食事をして、休みの日にはときどき待ち合わせてどこかに出かけたりした。
彼女は将来パートナーと海外に移住する計画をたてていて、移住先で起業するつもりでいた。学位や習い事は全部そのためだった。あなたもいっしょにきてビジネスしようよ、大丈夫、絶対うまくいくからと、彼女は笑って話していた。
私は顔では笑いながら、心の中では「とんでもない」と思っていた。そんなことしたら本気で逃げ場がなくなる。

そんなふうにして何年か経った。
やがて移住の話が具体化して、彼女は準備のために退職することになった。
退職が決まったとき、心の底から力一杯安堵したことを、いまでもはっきり憶えている。
自分でも人でなしだと思う。これだけお世話になっておきながら何の恩返しをするでもなく、ただ離れられると知って胸の内では小躍りする人間なんか最低だ。
ほんとうに申し訳ないとは思うが、私は彼女との関係にとことんうんざりしていた。逃げ出したくてたまらなかった。彼女の方からいなくなってくれるなんて、これほどありがたいことはない。書いていて自分の腹黒さに気持ち悪くなるけど、そのときは正直にそう思った。

退職後も、例によって彼女はまめに連絡をくれて、食事したり映画を観たりしたことが何度かあったけれど、彼女の方でも流石に私の心情に思い当たるところがあったのか、そのうち連絡は途絶え、疎遠になっていった。

そして1年経って、彼女は亡くなった。
突然の病死だった。

遺族の希望で私は葬儀に参列したが、それは葬儀と呼ぶにはあまりにも寂しいものだった。
参列したのは、生前ほとんどつきあいがないといっていた数人の親族(あとで20年以上あっていなかったと聞かされた)と、パートナーと、私と、退職前の直属の部下で、全部合わせても両手で数えられるほどの少人数で、場所も葬儀場ではなく火葬場だった。
パートナーはひどく冷静で、彼女が最期まで人生に満足して、幸せなまま、苦しむこともなく世を去ったことは幸運だと、にこやかに話してくれた。

時間になって、炉の前で彼女と最後のお別れをした。
いつもの普段着を着て棺の中に横たわった彼女は、ほんの少し顔色は悪かったけれど、ただ目を瞑って軽く唇を開いて、ぐっすり眠っているだけのように見えた。みんなで棺に花を詰めたが、参列者が少なくて、詰めても詰めても花がなくならなかった。
親族のひとりが「せっかく20年ぶりに会えたのに。生きている間に会いたかった」と泣いていた。

お別れの時間が終わり、彼女の棺は静かに炉の中に運ばれていった。
炉の扉が閉じられ、お坊さんがお経をあげている間、参列者一同は頭を垂れて手を合わせて拝んでいたが、私の目の前に立っていたパートナーの丸まった背中が激しく震え、両足を交互に細かく踏み換えながら、必死に嗚咽を堪えているのがわかった。
私はその背中を、手のひらでゆっくりゆっくり、長い間、撫でていた。
ただただ、撫でさする以外、何もできなかった。

彼女が焼かれている間、火葬場の喫茶室で参列者みんなでお茶を飲んだ。
近年の彼女を知らない親族は生前の彼女がどう過ごしていたかを知りたがり、パートナーは彼女が常に誇りにしていた私たちとの仕事のことを知りたがった。
問われるままにあれこれと答えているうちにあっという間に時間が過ぎ、みんなで彼女のお骨を拾った。
参列者が少な過ぎて、真っ白になったお骨は拾っても拾ってもなかなか骨壺いっぱいにならなかった。
私は、たくさんいたはずの彼女の友人が誰ひとり葬儀に招ばれなかったことで、やはり、彼女はほんとうの自分の姿を誰にも見せたくなかったのではないかと思った。
火葬場の外の立派な桜の並木が満開で、風に吹かれた花びらがひらひらと大量に舞っていた。

その夜、私はやめていたお酒を飲むために数年ぶりにバーに入り、ひとりでワインを2本空けた。
飲んでも飲んでも酔いが回らず、葬儀では一滴も出なかった涙ばかり流れた。

葬儀の後、彼女のパートナーが何度か連絡をくれて、お茶を飲んだり食事をしたりした。
彼がいうには、彼女は生前、私のことを頻りに心配してくれていたらしい。彼の中でも、私は彼女の友人ということになっていた。彼は彼女のスマホを開いて、亡くなったその晩に、彼女が自室のベッドで自撮りした写真を見せてくれた。自撮りが好きだった彼女の柔和な表情は確かに、満ち足りて幸せそうに見えた。
それから私は彼のメールにろくに返信しなくなり、まもなく、彼は予定通り日本を離れた。
彼女と私との関係は、そうして消えた。

もう地上には存在しない彼女のことを、私はいつも忘れたかった。
完全に忘れてしまいたかった。
でもどんなにそう願っても、彼女が私の心の中に残していった歪で仄暗く気味の悪い「何か」はどこにもいってくれなかった。
わかりやすくいえば、トラウマのようなものだ。
ときどき彼女は心の中から勝手に這い出てきて、私がずっとずっと彼女を騙していたことを思い出させた。
二度と取り返しのつかないことを、私はした。
好きでもない、信頼もしていない彼女の前で、何年も、まるで友人であるかのようなふりを続けていた。
私に、それ以外に何ができただろう。
職場の同僚である以上、穏当な人間関係を維持するのは社会人としての常識だ。
それでもどこかに「私はあなたの友人じゃない」と告白するチャンスはきっとあったはずなのに、鈍臭い私はそれをいつも見逃してしまっていた。

そしてその機会は永遠に失われた。

最近、ある人に「心の中に抱えているものを、一度外に出してみよう。どんな形でもいいから、それがあなたに必要だから」といわれた。
私の心の中に抱えているものは、彼女のことだけではない。
ただ、いま外に出せるとしたら、彼女のことぐらいしか思いつかなかった。

外に出したところで、何も変わらないだろうと思う。

あの朝、夢に出てきた彼女は、眉を下げて困ったような顔で笑いながら、「もういいよ」といっていた。
何が「もういい」のかはわからないけれど。

永久に残存する瑕の話

2019年02月23日 | diary
かれこれ5ヶ月以上更新を怠ってましたが、昨日「権利侵害申し立てに関するご連絡」というメールがGMOメディア(このブログの運営会社)から届いて、つらつら考えることがあったのでリハビリがてら書いてみようと思います。

と言ってもメールの内容は転載禁止なので、要点を改めて書きおこす。

GMOの用件は、約9年前に投稿した記事で紹介している裁判傍聴記録の中の元被告の個人名の記述が、すでに刑期を終えた元被告の社会生活の平穏を害し更生を妨げられない権利を侵害すると元被告の代理人から申し立てがあったため、該当部分を削除すべし、というものだった。
通報が続けば利用を停止しますよ、との(大袈裟にいえば)脅しつきで。

代理人の申し立ての意味はとてもよくわかるし、私個人としてもわざわざ故意にどなたかの人権を侵害したいとは思わないので、ご要望通り元被告の個人名は削除し、ついでに共犯者の個人名も消しました。

そこまでは別にいいんだけど。

この当時はなぜこの裁判を傍聴し記録を公開したかの事情には触れられなかったけど、もう時効なので書いちゃうと、私はこの事件の刑事告発にほんのちょっと関わっていた。というかカスっていた。
事件の経緯は該当記事に詳しいけど、簡単にいえば児童買春事件で、元被告と共犯者が十代前半の少年を繰り返し買春しそのとき映像も撮ってDVDに焼いて販売していた。
当たり前の話だけど、小児性愛者全員が子どもに実際の性行為を求めるわけではない。子どもを性の対象としながら厳しく己を律する善意ある当事者のひとりが、市場に出回っている児童ポルノを「なんとかこの子たちを助けてほしい」と某国際組織に持ちこんだ。そこに私が所属していた。

某国際組織では持ちこまれた児童ポルノを慎重に分析し、しかるべき捜査機関との連携ののち、そのうちの1点を撮って販売した容疑者が特定・逮捕され、起訴された。それがこの裁判になった。
きっかけになったDVDがこの事件の証拠となったので、それに何が映っていたのかもなんとなくではあるが具体的に把握して裁判を傍聴した。私の文章が被告に対して厳しく読めるとしたらそのせいだろうと思う。

あれから9年、元被告は実刑判決を受けて服役後すでに出所し、事件とは無関係に暮らしているので再犯の危険性は低い、と代理人は書いている。
そんなことはわからない。
実際に元被告の名前で検索してみれば、うちのブログ以外にも当時の新聞記事のアーカイブはごろごろヒットするし(共犯者の当時の職業のせいである)、ご本人と思しきSNSアカウントもあっさりみつかる。そこには隠し撮りと思われる児童の画像が数点アップされていた(いうまでもないが出所後の投稿)。代理人の申し立て文には、ブログの記事に書かなかった私の傍聴記録の細部とは食い違っている部分もあり、代理人が事実を申し立てているかどうかが不明確でもある。

意地悪くいえば、1日数件しか訪問者のいないうちのブログの個人名部分をどうこうしたぐらいでは、ご本人の社会生活がスカッと平穏になったり、更生が圧倒的にスムーズになったりはしないかもしれない。
でも私は捜査関係者でもなければ子どもの人権の専門家でもないから、勝手な正義感をふりかざしてそのことについてとくに意見なんかいいたくはない。

私が気になるのは、この事件の被害者になった子の「社会生活の平穏」は、いま、いったい誰がどうやってまもってあげているのだろうということだ。

事件で彼がされた行為は映像に記録され、記録媒体が児童ポルノ市場に流出したことはすでに書いた。
一旦市場に出た映像、それも一般の流通ルートではなく個人間取引の裏ルートに出ていった映像はまず半永久的に回収不可能となることは誰にでも想像がつく。
いまはもう成人だから十代前半の映像とは同一人物にはみえなくなっているかもしれないけれど、それでも、その映像が決して消えてなくなることなく何十年も裏ルートに流れ続けるという事実は変わりはしない。事件当時、例の某国際組織に持ちこまれた映像の中には、明らかに数十年前に撮影されたものと判断される映像も混じっていたのだ。その児童ポルノ環境が、9年経って劇的に改善されたとは到底思えない。とりわけ、日本では。

私自身は裁判を傍聴しただけだから、その子には実際に会ったことはない。どんな子かは全然知らない。
事件のことを、彼自身がどう思っていたのかもわからない。
だけどどうしても、元被告の「権利」が主張されるその反対側で、その子の「権利」はどうなったんだろうと、深く考えざるをえない。
変に憶測で同情的になったりしたくはない。だけど、元被告が刑期を終えて更生し、事件が世の中から忘れ去られたとしても、そのことと、被害者が被害の経験を克服することはまったく別の話だし、そこに必要な手助けが当事者にちゃんと届くような世の中だとは、私には思えない。手助けがあれば克服できるものなのかも、わからない。
だから、性犯罪を簡単に「なかったこと」「済んだこと」扱いしようとすることに、うまく納得することができない。
とても残念だとは思うのだけれど。


関連レビュー:
『スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪』 ボストン・グローブ紙〈スポットライト〉チーム編 有澤真庭訳
『スポットライト 世紀のスクープ』
『欲望のゆくえ 子どもを性の対象とする人たち』 香月真理子著
『児童性愛者―ペドファイル』 ヤコブ・ビリング著
『子どもと性被害』 吉田タカコ著
『ミスティック・リバー』 デニス・ルヘイン著
『家のない少女たち』 鈴木大介著
『ハートシェイプト・ボックス』 ジョー・ヒル著
『永遠の仔』 天童荒太著
『エディンバラ 埋められた魂』 アレグザンダー・チー著
『薔薇よ永遠に―薔薇族編集長35年の闘い』 伊藤文學著
『子どものねだん―バンコク児童売春地獄の四年間』 マリー=フランス・ボッツ著
『アジアの子ども買春と日本』 アジアの児童買春阻止を訴える会(カスパル)編
『13歳の夏に僕は生まれた』
『闇の子供たち』


最近の仕事机。
1ヶ月ぐらいかけてがっちり断捨離したら、逆にモノがなくなりすぎてやや不便に。