落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

法律が、兄を殺した(妹の証言より)

2018年07月25日 | diary
2015年8月24日、一橋大学法科大学院の敷地内で男子学生が転落死する事件が起こった。
その日からぴったり2ヶ月前、彼は恋愛感情をうちあけた同性のクラスメイトから、複数のクラスメイトで構成されるLINEグループに同性愛を暴露されたこと(アウティング)に非常にショックをうけ、以来著しく精神状態を害し、大学側に対応を相談し医療機関での治療も受けていたその矢先のことだった。
彼の死後に両親が一橋大学を相手に提起した損害賠償訴訟の証人尋問を傍聴してきた。

今日の証人尋問に出廷したのは、亡くなった男子学生の担当教授でもあった一橋大学法科大学院教授、ハラスメント相談室室長、保健センター医師、および男子学生の妹と両親。
最初の証人は教授だが、おそらく大学側として最初に男子学生本人から直接ことの次第を聞きとった人物だと思われる。証言で挙げられただけでも10件以上メールのやり取りがあり、男子学生の友人を交えて2度面談も実施したという。教授は男子学生本人に対して「(申し立てたアウティングが事実だとすれば)ひどいことだし、人権をたいせつにするべき法曹のたまごにあるまじき行為。法科大学院として恥ずべきこと」だという見解を伝えている。おそらくこれは教授本人の素直な感覚そのままだろうし、だからこそ男子学生本人の認識をある面で補強した見解でもあったのだろうと思う。研究者はしばしば、自らの影響力の大きさを必ずしも正確に捉え把握しコントロールしていないときがある。あるいは教授はそのつもりではなかったのかもしれないが、男子学生の首尾一貫した認識が教授のこの発言に基づいていた可能性は否定できないのではないだろうか。

一方で、教授はアウティングをした側の相手学生のクラス替えや、出席必須の刑事模擬裁判の授業への対応など、男子学生と相手側の直接的な接触を避けるための具体的な対応を積極的には実施していない。証言からは、あくまでも事態は男子学生と相手側との個人的な出来事としてのみとらえ、ハラスメント相談室など専門機関の対応を待っていた、消極的な姿勢がありありとみてとれた。
他のクラスメイトからはアウティングによってクラスの雰囲気が著しく悪化している事実を聞きとっており、そもそもの加害行為はアウティングをした学生本人の責任であることは把握していたにも関わらず、担当教授としてもっととるべき対応があったはず、己にその責任があったとはつゆとも思わないらしい。
それでも法科大学院教職員には「男子学生と相手側が接触すれば何が起こるかわからないから注意してほしい」と要請した事実は認めている。原告側代理人に「接触すれば何が起こると思っていましたか」と尋ねられ、「わかりません」といやにはっきり回答していたけれど、まあそんなワケないよね。ふつうに。

次の証人は一橋大学ハラスメント相談室室長。
この人の証言は完全に聞くだけ無駄でした。というかこのハラスメント対応制度にそもそも問題があったというのがわかっただけ。だって実際に相談を受けたその人本人じゃないんだもん。守秘義務の関係で室長は相談内容そのものは詳細には把握してないし、きまりとしては本人によりそう、委員会にはきちんと気持ちが伝わるように手助けするということになっているけど、とにかく手続きがビックリするぐらい煩雑なうえに規則で雁字搦め、大概のハラスメントはこういう専門機関に持ちこまれた段階で危機的状況に瀕していて当たり前なのに、いちいちまもらなきゃいけないルールが多すぎるし時間がかかりすぎている。意味ないやろ。
口では「あなたはひとりじゃない、力になる」といって励ますだけで何もしない担当教授から、手続き段階決まりごとでガッチガチのハラスメント相談室にパスされた人権侵害が、いったい何をどうすればするっと平和解決するなどと誰が考えるものだろうか。
ほんとうは実際に相談を受けた専門相談員本人が証言に出てくるべきだったと思うけど、事件後に退職してしまっているらしい。

午後の一人目はハラスメント相談室からの要請で性同一性障害の治療をするメンタルクリニックを紹介した保健センターの医師。このときは男子学生本人に会ったり、詳しい相談内容を聞いたわけではなく、ハラスメント相談室の専門相談員からの照会に応じる形での情報提供にすぎなかったという。理由は医師本人が同窓でよく知っている専門家だから信頼できると思ったからだそうである。
いうまでもないが同性愛は病気ではないし、同性愛と性同一性障害はまったくべつの問題である。そして男子学生がかかえていた問題は性的指向によるものではなく、あくまでもアウティングという人権侵害に端を発していた。その重大性がいかに見落とされ見過ごされていたかがよくわかる。ここでも、男子学生から相談を受けていた専門相談員その人の不在が、この訴訟のブラックボックスになっていると痛感した。

聞いていて胸が痛んだのは、8月24日、まさに事故のその当日、医師が男子学生本人を診察した前後のことを証言したくだりだった。
男子学生はその日、どうしても出席しなくてはならない刑事模擬裁判のために体調不良をおして登校したものの、パニックを起こして倒れ、保健センターの休養室で休んでいた。午後に医師が出勤し、看護師の申し送りを受けて診察、アウティング以降の経緯を聞きとった。服用している薬を確認し、状態が悪かったため出席を思いとどまるように勧めたが本人の意志がかたく、とりあえず午後の授業のために昼食をとるように促し、本人が買物に行っている間に「念のため」ハラスメント相談室に出向いて事情を説明、法科大学院にも電話で状況を伝えている。
保健センターに戻ってきて待合室でパンをひとつ食べた男子学生は、欠席すれば留年しかねない刑事模擬裁判に出るといって14時半ごろ保健センターを後にした。
彼が法科大学院の建物6階のベランダの手摺につかまってぶらさがっているのが救急に通報されたのが15時4分。堪えきれずに転落し、病院で死亡が確認されたのが18時36分だった。
医師は間違いなく、彼が最後に助けを求めた大学側の人間、それもプロの医療者だった。

医師の証言は控えめで冷静沈着ではあったが、医者として、最後に故人から心の重荷をうちあけられた人間として、ほんとうは助けたかった、助けられたかもしれないという悔恨が静かに伝わってきた。
言葉そのものには直接的にそうした表現はない。大学教職員として(一橋に校医はいない)慎重に言葉は選んでいたし、たった一度の診察で何ができたわけでもないかもしれないけど、少なくとも、この証人尋問に出廷した責任意識の重さは感じることができた。

そのあとは妹、母親、父親の証人尋問が続いたけど、正直な話、ちょっとここに詳しく書きたいという気持ちにはなかなかなれないです。ごめんなさい(いつか機会があれば書くかもしれない)。

しかし3人の証言を聞いていると、男子学生がどれほど家族に愛されたいせつにされてきたか、真面目で素直で勉強家だったか、その彼が亡くなり、大学や同級生たちの不誠実さにどれほど家族が深く傷ついたか、激しい怒りが胸に迫ってきた。
3人は口を揃えて、男子学生は「同性愛を苦にして死んだのではない」と力強く証言した。
男子学生はアウティングのあと都合2度帰省をし、その間に所用で家族も上京し、彼が一橋に進学して以来はじめてというほど密にコミュニケーションをとっている。そのとき彼の状態がふつうではないことを家族は危惧し、どうにかしてサポートしなくてはと強く決意していた。25日には母親が上京して保健センターの医師とともに面談することも決まっていた。
にも関わらず、男子学生は死んでしまった。

今日の証人尋問を聞いただけでも、転落事故は自殺などではなく、うつ病の症状が一時的に悪化した突発的な事故だったことがわかる。
男子学生は大学の建物から飛び降りたのではなく転落した事実があり、それは病院に搬送された際、まだ自ら痛みを訴えるだけの意識があったという彼の負傷の状態からも推察できる。
確かに彼は遺書を残していた。だが遺書があるから自殺と断定できるほど、人の死は単純ではない。
遺書を書いた一方で、彼は自ら事態を打開するべくあらゆる対策を講じようとしていた。その危機を、うけとめるべき人が危機感をもってうけとめていなかった。あるいはうけとめながら、自身の責任意識でもって積極的に状況改善のために行動しようとはしていなかった。そしてその経緯を、守秘義務を言い訳に家族にすら開示しなかった。
これを官僚主義・事なかれ主義・隠蔽主義といわずしてなんというのか。
これが、日本に冠たるエリートロースクールなのだ。

個人的な話になるが、一橋大学の正門の前に一時期住んでいたことがある。
といってもこのアウティング事件の現場になった国立キャンパスではなく別のキャンパスだったけど、駅名にも一橋の名が冠され、街の地名にも大学のお膝元であることがわかる表現が使われていて、地域のランドマーク、アイデンティティのひとつとして愛された学舎だった。
そこを離れてもうかなりになるけど、この事件が公になったとき、地域の人がどんなふうに感じているのかが気になった。
おそらく一橋大学は、それも人権をなによりも尊ぶべき法律家を育成する法科大学院でこうした人権侵害を引き起こした汚名を、未来永劫背負い続けることになる。そのことを、あの学園都市の人々はどう思っているのだろうかと。

次回口頭弁論(もしかして結審)は10月31日。都合がつけば傍聴したいと思ってます。


2016年8月9日ハフポスト日本版:一橋大学ロースクールでのアウティング転落事件〜原告代理人弁護士に聞く、問題の全容


関連記事:
2017年5月5日報告会:一橋大学アウティング事件裁判経過の報告と共に考える集い
2018年7月16日報告会:一橋大学アウティング事件 裁判経過報告と共に考える集い ─大学への問いかけ─
子どもの権利条約総合研究所2018年度定例研究会「いじめ等に関する第三者機関の役割と課題」
大川小学校児童津波被害国賠訴訟

踏めない踏み絵

2018年01月22日 | diary
仏女優ドヌーブ氏、性的暴行の被害者に謝罪

過去にセクハラやら痴漢やらストーカーの被害にさんざっぱらあってきた私だけど、Metooには参加はしていない。といって反対なわけでもない。どっちかといえば賛同している。ただ少し距離をおいておきたいだけである。
なぜか。世の中には弱者の被虐体験を聞いて興奮する変態がいっぱいいるからである。まああまり詳しくは書きたくないので割愛しますが。とにかく思い出したくもない体験を言語化して、見ず知らずのど変態のマスターベーションの道具になるのはちょっととりあえず勘弁してもらいたい。

とはいえMetooがたいへん意義深い社会運動だということだけは断言できるだろう。
これまで人間の長い歴史のもと、性虐待は万国共通、被害者の罪とされてきた。いまでも世界にはレイプの被害者が厳しく罰せられる国がいくつもある(イスラム圏に多い)。よしんば罪に問われなくても、家族や親しい者ですら、隙があった、用心がたりなかったなど被害者の責任ばかりをあげつらい、被害について発言でもしようものなら「ふしだら」「はしたない」「非常識」などと後ろ指をさされる。場合によってはそれどころではすまないケースも珍しくない。精神的に追いつめられ、人生そのものを大きく損なう事態に陥ることもある。それがこわくて被害者は口をつぐみ、加害は闇に葬られ、犯罪者は好きなだけ再犯を繰り返せる。そして無反省に被害だけが拡大していく。
被害者を責めるということは、加害者以外の第三者によって被害が無限に再生産され続けることでもある。それも、無自覚に。Metooは、被害者自ら沈黙の蓋を開くことで、その負のスパイラルを食い止めようと始まったのではなかっただろうか。

当初Metooが実現しようとしたのは、決して魔女狩りやリンチ合戦などではなかったはずだとも思う。客観的にみれば、Metooそのものが魔女狩りやリンチ合戦なのではなく、そうした二次的な騒動はあくまで運動の副産物でしかない。かつ副産物そのものにも、やはり意味はあると個人的には思う。いずれにせよ加害者はこれまで告発を免れることで二重三重に被害者を貶め、不当に利益を得てきたことになるのだから。
誤解を恐れずにいえば、誰かの性的魅力について言葉や態度で表現することや、心ときめく相手にデートを申し込む行為自体が罪なのではない。そこにリスペクトがありさえすれば。だが相手がリスペクトを感じることができなかったら、それは簡単に「ロマンチックな/ハートウォーミングなコミュニケーション」ではなく「おぞましい虐待以外の何ものでもない下衆な暴力」と化してしまう。そして世の中には、その区別がつかない人がまあまあいるのだ。残念ながら。

ほんとうにほんとうに残念なことだけれど、すごくきちんとした、ちゃんとした、社会では尊敬に値する立場にいる人物だって、けっこう平気でそういうことをしてしまう。びっくりするくらい、あっさりと。
そしてそのことについて、私たちは今日も口をつぐんでいる。
卑怯なことはわかっている。とてもとてもよくわかっている。そんな自分の不甲斐なさを思えば、いつも涙が止まらなくなるほど悔しい。悲しい。
きっと人間は自分で思うよりずっとずっとずるくて、弱い。ひどいことだとわかっているのに、どうしてもその被害を解決するための一歩がなかなか踏み出せない。

だからこそ、一歩を踏み出した人には、最大のリスペクトをおくりたいと思う。
立派だよ。すごい勇気だよ。ありがとう。
それでいいではないですか。とにかく、とりあえずは。
少なくとも、私は、そう思う。


関連記事:
『Black Box』 伊藤詩織著
『スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪』 ボストン・グローブ紙〈スポットライト〉チーム編
『性犯罪被害にあうということ』 小林美佳著


不在の光影

2017年08月22日 | diary
吉田亮人写真展『The Absence of Two』

宮崎県生まれの写真家は、すぐ近所に住んでいた祖母にとっての初孫だった。
その祖母の家に生まれ育ち、写真家以上のおばあちゃんっ子で、小さいうちから祖父母の部屋で起居した10歳下の従弟・大輝くんは、祖父が亡くなった後、ひとりになった祖母のそばで衰えていく彼女の世話をして暮らした。
まさに一心同体のその姿を、従兄は写真家として記録した。80歳を超えた祖母がいつかこの世からいなくなる、遠くない未来まで続けるつもりだったという。雑誌で発表された作品は連載やシリーズ化も決まっていたが、それは突然、大輝くんの失踪で中断された。


撮影しはじめたころのふたり。


食材の買い出し。


最後に撮影されたふたり。

仲の良い家族として親しく接した写真家がとらえた祖母と従弟の表情はあたたかく愛に満ち、平和そのものであると同時に、画面には写らない、目に見えないしがらみの深さも感じさせる。
なぜなら、そこに写っている世界が明らかな袋小路だからだ。
孫として写真家と従弟を愛し慈しんだ老女と、その愛に埋没した人生を生きる青年との関係の先に待っているのは何か。自然の摂理として、人は誰でもいつか死ぬ。成りゆき通りであれば老女がまずその時を迎えるはずである。そしてふたりの関係は終わる。青年の人生にも、彼女との生活によって積み重なった何某かは残るだろう。だが何もかもを許しうけいれる祖母との関係によって、若者が若者であるがゆえに体験する葛藤は、失われたり損なわれたりすることはなくても、あるべき距離より確実に遠くなる。
画面の中で穏やかに微笑みあうふたりが幸せそうであればあるほど、そのふたりの未来の不透明感がうっすらとこわくなる。不思議な家族写真。

「ばあちゃん、いつもありがとう。元気でいてね」という言葉だけを残して姿を消した大輝くんは、約1年後、山林の中で遺体で発見された。自死だった。
遺書はなく、いつ、どうして彼がそんな最期を選んだのか、誰にもほんとうのことはわからない。

そのまた1年後に、祖母も老衰で亡くなった。

23歳の従弟と祖母を亡くした写真家のもとには、大量の作品が遺された。
ギャラリートークで、写真家を続けるかどうかにすら苦しんだと語った彼に、残酷を承知でひとこと尋ねてみた。

祖母が亡くなるまで続ける予定だったというこの記録のその先を、あなたは大輝くんと話したことはあるのかと。
遠くない未来、孫を残して先に逝くであろう祖母の死のあとの己の人生について、大輝くん本人はどうとらえていたのか、あなたは知っていますかと。

もちろん、ふつうの家族ならそんな話はしないだろう。写真家自身の答えもNOだった。
病気や怪我で死期を互いに覚悟するような状況であるならいざ知らず、ごく一般的な家族なら、日常会話としてそれほど深刻な話はまずしない。する機会もないだろうし、あえて避けることもあるだろう。
だが一般論として、若い世代にとって、どんな仕事をしてどこで暮らしてどんな人と出会ってという自分自身の将来像は、日々の生活を支える大きな原動力ではないだろうか。
その将来に、いま、すぐ隣にいて人生のすべてを捧げている人の姿がありえないことに気づかないふりをして生きていくとしたら、それはどんな感覚なのだろう。

たいせつな存在との別れの連続が、知らぬ間に死生観を変えていく。
どんなに親しくても相手のことはほとんど理解していなかったことに気づく。無情な別離のあとに残るどうしようもない虚無感。
心からたいせつに思いながらも知らなかった・あるいはわかろうとしなかったという事実と、生きている限り一生向かいあい続けなくてはならない。
その暗闇が埋まることは二度とない。
なぜなら相手はもうそこにいないから。かつていたという事実以外、わかることはもう何もない。どんなにわかってあげたくても、わかりたくても手は届かない。話しかけることもできない。声を聞くこともできない。
やがてその暗闇が、生きている間に共有した現実以上の「その人」になっていく。

大輝くんにとっていずれ訪れるとわかっていたその「暗闇」は、どんな姿をしていたのだろうか。

少なくとも写真家は、愛する家族との間のその暗闇を作品として世に送り出した。
彼にとっては、このできごとと作品を乗りこえていくことが、これからの写真家人生の大きな課題になっていくのだろうと思う。
あるいは、このできごとと作品の延長とはまったく別の写真家人生を選ぶのかもしれない。
だがこのできごとと作品が、よくもわるくも、彼を作家として別の世界に連れてきたことだけは間違いないと思う。

作家ウェブサイト
祖母と生き、23歳で死を選んだ孫。二人を撮った写真家は思う

今日は1月19日。

2016年01月19日 | diary
今日は1月19日。

一昨日17日は阪神淡路大震災があった日で、兵庫県出身の私にとって一生忘れられない日だ。
朝、まだ暗いうちに東京の家の電話が鳴ったこと。妹とふたり暮らしで都内の大学に通っていた私たちに、そんな時間にかけてくるのは実家しかないとかけ直したけど、もう繋がらなかったこと。すぐにテレビをつけたら、既にニュースで地震を報じていたけど、まだ映像はなくて、やっと映ったと思ったら倒れた阪神高速の高架や、真っ黒な煙を上げながら燃える商店街の映像が、なんだか現実の出来事には見えなかったこと。報道では電話回線が混乱しているので被災地にかけないでほしいと何度もいっていて、10時を過ぎて家族からかかってくるまでどうしていいかわからなかったこと。家族はみんな無事だから、とにかく卒業できる3月まで地元のことは心配するなといわれたこと。いわれた通り3月に卒業して帰ったら、見慣れた街が瓦礫の山になってしまっていたこと。実家は大丈夫だったけど、青春を過ごした神戸の街が消えて、自分の過去が勝手にどこかに去っていってしまったような気持ちになったこと。そのまま決まっていた都内の就職先に入社して、街の復興のための行動は何もしなかったこと。10年経って地元の友だちに再会したら、神戸の街で壊れた家を建て直す大工さんに頼んで弟子入りして、4年間修行してほんものの大工さんになっていたこと。

それから6年後、今度は自分が大地震にあった。
毎日朝から晩まで報道を見ていて、今度こそ後悔しないように行動したいと思った。募金をして、ボランティアに応募した。宮城県石巻にいったのは4月だった。その惨状を見て、これは一度来たぐらいじゃダメだと、何度も足を運んだ。南三陸、気仙沼、名取、岩手県陸前高田、福島県南相馬市、浪江町、飯舘村。いろいろな人にお世話になって、いろいろな人に助けてもらった。想像もしたことのなかった世界を知り、たくさんのことを教わった。信じられないような経験もした。勇気づけられもした。
ボランティアをしていて「遠くから来てくれてありがとう」と声をかけてくれる人もいたけど、東北への行き帰りに汚れた作業服を着て大荷物を背負って都内を歩いていて、「もしかしてボランティアの方ですか」と東北出身の方に話しかけられたことも何度かあった。「地元の自分がいけないのに、見ず知らずの人がいってくれてありがたい」といわれたこともあった。
どこ出身だろうといける機会に恵まれた人間がいってるだけだと思うし、いける自分はほんとうに幸運なんだと説明したけれど。

とにかくいろいろなめぐり合わせで東北に通うことができて、いろいろな人に支えてもらった。
そしてそのひとりが、ちょうど1年前の今日、死んだ。
だから1月19日は、一生忘れられない日だ。

その人はたくさんのボランティアを支えてくれていた。
地域で活動するボランティアの要のような存在だった。
その人の助けなしには、私たちは何もできなかっただろうと思う。

それなのに、誰もその人を助けることはできなかった。

人間が人間を助けることはできないのだと、当たり前のことを改めて知った日。
それが1月19日だ。

その人にしてもらったこと、してあげたこと、されてアタマに来たこと、やりかえしたこと、なにひとつ後悔はしていない。
後悔しても死んだ人はかえってはこない。
だからせめて、1年に1度、この日だけは、その人のために過ごしたいと思う。
笑顔や、声や、つくってくれたごはんの味や、たばこの匂いを思いだして過ごしたいと思う。