理研の笹井芳樹氏は、なぜ自死を選んだか
毎日毎日焼けつくような暑さが続くこの季節、仕事が終わって帰宅して、バルコニーで生ぬるい夜風に吹かれながら音楽を聴きつつ夜景を眺めるのが、ささやかなリラックスの時間になっている。
今夜、つるんと晴れた夜空をゆっくり横切っていく飛行機の小さな灯りを静かに見送りながら、亡くなった笹井氏のご家族や、残された小保方氏やその他の同僚たちはどんな夜を過ごしているだろうかと、ふと思った。
少なくとも、空を見上げて平和を感じるような余裕などないだろうなと思った。
ぐりは科学にはとんと疎い人間だし、1月に記者発表があったときも「なんだかすごい研究みたいだな」とぼんやり思ったことしか記憶にない。研究グループのリーダーとして注目を集めた小保方氏が、若くて美しい女性でどうのこうのという騒動もあとになって知った。2月になって不正疑惑が持ち上がり、メディアがSTAP一色になってしまったときは残念だったけど、それはこの報道のせいで本来国民全体で議論すべき集団的自衛権の問題がきれいに忘れ去られてしまったからだ。
世間では猫も杓子も突然科学評論家(そんな職業があるのかは知らないけど)になったかのように、どこがあやしいだのおかしいだの訳知り顔になってアラ探しに盛り上がり、果ては小保方氏の人格や過去の経歴までつつきまわし始めた。
ぐりは何が何だかわからなかった。論文に不正があったこと、発表の過程に間違いがあったことは疑いようがない。あれだけ多くの専門家が再現実験をして成功できなかったのだから、研究そのものにどんな正しさがあろうと、まだ世に出すべき段階ではなかったことだけはさすがのぐりにもわかる。
だがそのことで、研究者個人を魔女狩り裁判よろしく寄ってたかって攻撃することになんの意味があるのか。それよりも、発表されるべきでない論文が発表されてしまった構造的な不正をこそ糾すべきではないのかと思った。
こんなことをいまになってガタガタいうのはフェアじゃないかもしれない。
笹井氏がこんなことにならなければ、いう機会は決してなかっただろうと思う。いえるほどの何を知っていたわけでもなかったから。ぐりがどれだけ身の程知らずでも、少なくともその程度の自覚はある。
自分たちは安全な場所にいて、彼らを嘘つきだと誹謗し、日本の信頼を傷つけたなどと怒りをぶつけるのはさぞ気持ちがよかっただろう。逃げも隠れもできない無抵抗な存在をただいたぶるのは心地いいものだ。醜悪で何の生産性もない暴力。誰も得しないし、どこにも行けない。なのにどうして人は、そんな暴力の魅惑から逃れられないのだろう。
笹井氏がこんなことになって、日本の再生医療ははっきりと後退することになるだろう。ノーベル賞に近いともいわれた優秀な研究者を失って、サンドバッグ代わりに彼らを袋叩きにした人々はいま、何を感じているだろう。たぶん、何も感じてはいないだろう。寂しいことだがそれが世の中だ。
だが、彼らのあとに続く若い研究者たちには、こんなことに萎縮しないで、是が非でもSTAP細胞を完成させ、より高度な再生科学の発展を目指してもらいたいと、心から願っている。
それこそが、亡くなられた笹井氏の無念を晴らす唯一の道ではないかと思う。
遺書を書いたとき、階段の手すりに紐をかけたとき、笹井氏は何を考えていただろう。
どんな気持ちでいただろう。
海の向こうでは恐ろしい感染症が流行し、卑劣な軍事攻撃によって罪もない市民が生命の危機に瀕している。彼らに選択の余地はない。ただなすがままに死んでいくだけだ。
きっとそんなことは思いもよらなかったんだろうな。もっと生きて、もっとたくさんの人たちを救えたかもしれないのに。
そんな可能性をもった人をこんなふうに死なせる社会って、なんかものすごく恥ずかしいと思うんですけど。
我が家から見える朝焼け。遠くに細く飛び出して見えるのはスカイツリー。
毎日毎日焼けつくような暑さが続くこの季節、仕事が終わって帰宅して、バルコニーで生ぬるい夜風に吹かれながら音楽を聴きつつ夜景を眺めるのが、ささやかなリラックスの時間になっている。
今夜、つるんと晴れた夜空をゆっくり横切っていく飛行機の小さな灯りを静かに見送りながら、亡くなった笹井氏のご家族や、残された小保方氏やその他の同僚たちはどんな夜を過ごしているだろうかと、ふと思った。
少なくとも、空を見上げて平和を感じるような余裕などないだろうなと思った。
ぐりは科学にはとんと疎い人間だし、1月に記者発表があったときも「なんだかすごい研究みたいだな」とぼんやり思ったことしか記憶にない。研究グループのリーダーとして注目を集めた小保方氏が、若くて美しい女性でどうのこうのという騒動もあとになって知った。2月になって不正疑惑が持ち上がり、メディアがSTAP一色になってしまったときは残念だったけど、それはこの報道のせいで本来国民全体で議論すべき集団的自衛権の問題がきれいに忘れ去られてしまったからだ。
世間では猫も杓子も突然科学評論家(そんな職業があるのかは知らないけど)になったかのように、どこがあやしいだのおかしいだの訳知り顔になってアラ探しに盛り上がり、果ては小保方氏の人格や過去の経歴までつつきまわし始めた。
ぐりは何が何だかわからなかった。論文に不正があったこと、発表の過程に間違いがあったことは疑いようがない。あれだけ多くの専門家が再現実験をして成功できなかったのだから、研究そのものにどんな正しさがあろうと、まだ世に出すべき段階ではなかったことだけはさすがのぐりにもわかる。
だがそのことで、研究者個人を魔女狩り裁判よろしく寄ってたかって攻撃することになんの意味があるのか。それよりも、発表されるべきでない論文が発表されてしまった構造的な不正をこそ糾すべきではないのかと思った。
こんなことをいまになってガタガタいうのはフェアじゃないかもしれない。
笹井氏がこんなことにならなければ、いう機会は決してなかっただろうと思う。いえるほどの何を知っていたわけでもなかったから。ぐりがどれだけ身の程知らずでも、少なくともその程度の自覚はある。
自分たちは安全な場所にいて、彼らを嘘つきだと誹謗し、日本の信頼を傷つけたなどと怒りをぶつけるのはさぞ気持ちがよかっただろう。逃げも隠れもできない無抵抗な存在をただいたぶるのは心地いいものだ。醜悪で何の生産性もない暴力。誰も得しないし、どこにも行けない。なのにどうして人は、そんな暴力の魅惑から逃れられないのだろう。
笹井氏がこんなことになって、日本の再生医療ははっきりと後退することになるだろう。ノーベル賞に近いともいわれた優秀な研究者を失って、サンドバッグ代わりに彼らを袋叩きにした人々はいま、何を感じているだろう。たぶん、何も感じてはいないだろう。寂しいことだがそれが世の中だ。
だが、彼らのあとに続く若い研究者たちには、こんなことに萎縮しないで、是が非でもSTAP細胞を完成させ、より高度な再生科学の発展を目指してもらいたいと、心から願っている。
それこそが、亡くなられた笹井氏の無念を晴らす唯一の道ではないかと思う。
遺書を書いたとき、階段の手すりに紐をかけたとき、笹井氏は何を考えていただろう。
どんな気持ちでいただろう。
海の向こうでは恐ろしい感染症が流行し、卑劣な軍事攻撃によって罪もない市民が生命の危機に瀕している。彼らに選択の余地はない。ただなすがままに死んでいくだけだ。
きっとそんなことは思いもよらなかったんだろうな。もっと生きて、もっとたくさんの人たちを救えたかもしれないのに。
そんな可能性をもった人をこんなふうに死なせる社会って、なんかものすごく恥ずかしいと思うんですけど。
我が家から見える朝焼け。遠くに細く飛び出して見えるのはスカイツリー。
鈴木章浩都議がセクハラやじ認める 「早く結婚したほうがいい」
ぐりは男尊女卑思想の根強い朝鮮人家庭に生まれた。
だから女性差別というものは生まれた時から、物心つく前から常に我がこととして身近な問題だった。両親はそんな環境の中でもどちらかといえばラディカルな方ではあったが、親族間での女性差別はとにかく激しかった。具体的にどんなことが起こっていたかはもう思い出したくもない。
親族間だけではない。小学校に通うころからはしょっちゅう痴漢に悩まされた(過去記事)。恥ずかしく恐ろしい思いをしても共感してくれる人間などいなかった。「隙があるから」「不用心だから」の一言で片づけられるか、なぜかこっぴどく叱られてよけい恥ずかしく恐ろしい思いをするかのどちらかだった。どれだけ考えても痴漢に遭った被害者である自分がなぜあれほど叱られたのか、未だにまったく意味が分からない。知らない人についていかない、ひとりで人気のないところへ出歩かないなど最低限の自衛はできても、7つや8つの田舎の子どもに隙もなにもあったものではない。
痴漢には30代後半まで不快な思いをさせられたが、10代後半でアルバイトをするようになると今度はセクハラにも遭いはじめた。飲食店で客や同僚から気分の悪い言葉をかけられたり体に触れられるだけではない。マスコミ業界に入ってしまえばそこはもうセクハラ天国だった。前にも何度か書いたので細かいことはもう繰り返したくない。他にストーカー被害にも遭ったことがある(過去記事)。
その後ボランティア活動を始め、女性と子どもの人権保護のためのNGOでインターンも経験した。そこでひしひしと感じたのは、女性を直接差別し虐待する当事者よりもなによりも、その問題を無視し、ないものとしたがる傍観者こそが、問題を深刻化させ助長するもっとも大きな要因になっていることだった。
家庭や学校に居場所がない、極端な貧困状態で頼る者がいない、あるいは詐欺や脅迫や誘拐の被害に遭っているなどの理由で性産業に従事せざるを得ない女性や子どもを理由もなく差別こそすれ、彼・彼女たちの事情を顧みて本来の問題解決を願ってくれる人間などこの世の中にはいない。そんな存在に対する暴力や搾取を許容しているのは、そういう社会そのものだ。
今回の都議会で問題の野次を発言したのは鈴木議員だけではないというが、問題は発言者が誰かということではない。野次が飛んだその瞬間、議場は笑いに包まれ、都知事や登壇者である塩村議員本人ですら笑っていたという。ぐりはそれが許せない。誰もが断じて笑うべきではなかった。すぐさま、そこでその発言を議題として取り上げるべきだった。女性問題に対し誰もが敏感に反応できない議会に女性問題を解決などできるわけがない。たったそれだけのことを都議会で誰ひとり理解していない。そのことをこそ、有権者は決して許すべきではないのだ。
鈴木議員は謝罪会見で「早く結婚してほしい思いでいってしまった」と述べたが、その見識が既に大きく間違っていることを、どの出席者も一言も指摘しなかったことには心から落胆した。
世の中の人間が早く結婚しさえすれば晩婚化や少子化が解決するとでも考えているような幼稚な人間が施政者であってはならないのだ。どうして、都議会を取材する人間たちがそのことを追求しないのか。何のための会見なのか。
晩婚化や初産年齢の上昇は女性差別問題があるからこそ進行するし、その結果である少子化には、不妊医療の難しさや子育て世代の経済状態の悪化や行政支援の貧しさも関わっている。
ぐりは結婚も出産も一度もしていない40代の独身女だが、周囲で子育てをしている人々の声を少し聞くだけで、行政がいかに子育てに無関心か、すぐにでもできるはずのことを何ひとつやろうとしていないことに激しい怒りを感じる。結婚や出産は個人の生き方の問題だから、したくない人間に強制することはできない。ぐりだって強制されてもやりたくない。でも、結婚を望み子どもをほしがっていてもかなわない人、子育てに苦心惨憺している人たちをまず支えることすらできずに、ただ「結婚しろ」「子どもを産め」というのはただのファシズムではないのか。
それがわからない人間には、市民の代表となる資格など認めてはいけないのだ。
世間ではこの問題が海外でも報道されたことを恥ずかしいなどという言葉も聞かれるけど、日本の女性差別はもうとっくに世界に知れ渡っている。
昨年、世界経済フォーラムが発表した男女平等指数ランキングで日本は136ヶ国中105位。せんだってイスラム過激派組織に女生徒200名余りが拉致される事件が起きたナイジェリアの上、政府による苛酷な人権侵害が国際的な批判を浴びているカンボジアの下である。ちなみに日本でもよく人権問題が報道される中国は69位、衝撃的な誘拐婚が問題視されているキルギスは63位、寡婦が夫を火葬する火に飛び込んで自殺するサティという習慣が残っているインドは101位。
世界中の人が既に日本の男女差別をよく知っている。いまさらそれを恥じてもどうしようもない。問題は、これからどうするか、どんな社会を目指すべきかという主体性の問題ではないか。
どうかこれを機会に、もっと多くの人にこのことをちゃんと考えてもらいたいと思う。犯人探しはこの際どうでもいいから、この野次の本質を、ちゃんととらえてほしいと思う。
ぐりは男尊女卑思想の根強い朝鮮人家庭に生まれた。
だから女性差別というものは生まれた時から、物心つく前から常に我がこととして身近な問題だった。両親はそんな環境の中でもどちらかといえばラディカルな方ではあったが、親族間での女性差別はとにかく激しかった。具体的にどんなことが起こっていたかはもう思い出したくもない。
親族間だけではない。小学校に通うころからはしょっちゅう痴漢に悩まされた(過去記事)。恥ずかしく恐ろしい思いをしても共感してくれる人間などいなかった。「隙があるから」「不用心だから」の一言で片づけられるか、なぜかこっぴどく叱られてよけい恥ずかしく恐ろしい思いをするかのどちらかだった。どれだけ考えても痴漢に遭った被害者である自分がなぜあれほど叱られたのか、未だにまったく意味が分からない。知らない人についていかない、ひとりで人気のないところへ出歩かないなど最低限の自衛はできても、7つや8つの田舎の子どもに隙もなにもあったものではない。
痴漢には30代後半まで不快な思いをさせられたが、10代後半でアルバイトをするようになると今度はセクハラにも遭いはじめた。飲食店で客や同僚から気分の悪い言葉をかけられたり体に触れられるだけではない。マスコミ業界に入ってしまえばそこはもうセクハラ天国だった。前にも何度か書いたので細かいことはもう繰り返したくない。他にストーカー被害にも遭ったことがある(過去記事)。
その後ボランティア活動を始め、女性と子どもの人権保護のためのNGOでインターンも経験した。そこでひしひしと感じたのは、女性を直接差別し虐待する当事者よりもなによりも、その問題を無視し、ないものとしたがる傍観者こそが、問題を深刻化させ助長するもっとも大きな要因になっていることだった。
家庭や学校に居場所がない、極端な貧困状態で頼る者がいない、あるいは詐欺や脅迫や誘拐の被害に遭っているなどの理由で性産業に従事せざるを得ない女性や子どもを理由もなく差別こそすれ、彼・彼女たちの事情を顧みて本来の問題解決を願ってくれる人間などこの世の中にはいない。そんな存在に対する暴力や搾取を許容しているのは、そういう社会そのものだ。
今回の都議会で問題の野次を発言したのは鈴木議員だけではないというが、問題は発言者が誰かということではない。野次が飛んだその瞬間、議場は笑いに包まれ、都知事や登壇者である塩村議員本人ですら笑っていたという。ぐりはそれが許せない。誰もが断じて笑うべきではなかった。すぐさま、そこでその発言を議題として取り上げるべきだった。女性問題に対し誰もが敏感に反応できない議会に女性問題を解決などできるわけがない。たったそれだけのことを都議会で誰ひとり理解していない。そのことをこそ、有権者は決して許すべきではないのだ。
鈴木議員は謝罪会見で「早く結婚してほしい思いでいってしまった」と述べたが、その見識が既に大きく間違っていることを、どの出席者も一言も指摘しなかったことには心から落胆した。
世の中の人間が早く結婚しさえすれば晩婚化や少子化が解決するとでも考えているような幼稚な人間が施政者であってはならないのだ。どうして、都議会を取材する人間たちがそのことを追求しないのか。何のための会見なのか。
晩婚化や初産年齢の上昇は女性差別問題があるからこそ進行するし、その結果である少子化には、不妊医療の難しさや子育て世代の経済状態の悪化や行政支援の貧しさも関わっている。
ぐりは結婚も出産も一度もしていない40代の独身女だが、周囲で子育てをしている人々の声を少し聞くだけで、行政がいかに子育てに無関心か、すぐにでもできるはずのことを何ひとつやろうとしていないことに激しい怒りを感じる。結婚や出産は個人の生き方の問題だから、したくない人間に強制することはできない。ぐりだって強制されてもやりたくない。でも、結婚を望み子どもをほしがっていてもかなわない人、子育てに苦心惨憺している人たちをまず支えることすらできずに、ただ「結婚しろ」「子どもを産め」というのはただのファシズムではないのか。
それがわからない人間には、市民の代表となる資格など認めてはいけないのだ。
世間ではこの問題が海外でも報道されたことを恥ずかしいなどという言葉も聞かれるけど、日本の女性差別はもうとっくに世界に知れ渡っている。
昨年、世界経済フォーラムが発表した男女平等指数ランキングで日本は136ヶ国中105位。せんだってイスラム過激派組織に女生徒200名余りが拉致される事件が起きたナイジェリアの上、政府による苛酷な人権侵害が国際的な批判を浴びているカンボジアの下である。ちなみに日本でもよく人権問題が報道される中国は69位、衝撃的な誘拐婚が問題視されているキルギスは63位、寡婦が夫を火葬する火に飛び込んで自殺するサティという習慣が残っているインドは101位。
世界中の人が既に日本の男女差別をよく知っている。いまさらそれを恥じてもどうしようもない。問題は、これからどうするか、どんな社会を目指すべきかという主体性の問題ではないか。
どうかこれを機会に、もっと多くの人にこのことをちゃんと考えてもらいたいと思う。犯人探しはこの際どうでもいいから、この野次の本質を、ちゃんととらえてほしいと思う。