落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

無責任という病

2017年10月12日 | 復興支援レポート
大川小学校児童津波被害国賠訴訟を支援する会



宮城県石巻市立大川小学校で、2011年3月11日、74名の児童が津波の犠牲になった事件で遺族が行政を相手に起こした訴訟の控訴審の証人尋問の傍聴に行ってきた。

今日の証人は震災当時石巻市教育委員会で学校教育課長だった山田元郎氏と、大川小学校より上流の大川中学校の教頭だった登嶋紀行氏。山田氏は行政側として、登嶋氏は学校側として学校の安全をまもる責任を負うポジションにあった人である。

学校教育課長とは、学校教育事務の責任者として幼稚園から高校までをカバーし、各校の経営管理および教職員の指導管理を担当する。具体的には教職員に研修を実施し、各校の教育計画の策定を決済する。この教育計画に危機管理マニュアルも含まれている。
ところが山田氏の証言によれば、教育委員会は防災研修を実施したり危機管理マニュアルを策定するよう指導はするものの、提出された中身まではみていないらしい。各校の校長先生に任せっぱなし。理由は各校で状況が違うから、それこそ各校に指導主事が訪問指導するときまで、危機管理マニュアルを含む教育計画の中身の是非はノーチェック。といっても、震災前に最後に指導主事が大川小学校を訪問したのはいつなのかすら、彼は覚えてもいなかった。

この点については、被告側原告側だけでなく裁判官からも厳しく繰り返し追求されていたが、とにかく各校の校長がリーダーシップを取って策定するように指導しているのだからできていて当たり前だと“思う”の一点張りである。思うて。
まあそこまではこれまでの経緯からある程度は想定内といえなくもなかったのだが、一方で、学校安全の責任者である山田氏が学校保健安全法の該当箇所(第3章26条)も、宮城県教育委員会の災害対策要領もまったく把握していない様子なのには暗澹たる気分になった。それ明らかな職務怠慢でしょうがよ。ビックリするな。

山田氏に対しては、原告側代理人から「(各校に対して)こうしてもらいたいという願望だけ」という苛烈な指摘もあったが、それ以上に裁判官の質問はもっとタフなものだった。
裁判官は「仮定の話として、震災前、保護者から大川小学校には津波が来るから子どもを就学させたくないという申告があったら、あなたはそれを認めたか」と尋ねたのだ。山田氏の答えは「地域の人は津波は来ないといっているし、ハザードマップをみせて、お子さんの安全は教職員が全力で守ります、と伝えるのが基本」だった。
全力で守るといいながら、各校の危機管理マニュアルの中身はみていない。では山田氏のいう“全力”とはどういう意味なのか。存在してさえいればいいマニュアルや教育計画を毎年提出させる趣旨はなんなのかと問われても、大川小学校の通学区域にハザードマップの浸水域が含まれていたことも、大川小学校のマニュアルに保護者への児童引渡しのルールがなかったことにも、回答らしい証言はできなかった。
結果として、大川小学校の防災対策の不備が全児童の7割を喪うという未曾有の大惨事を招いたことは、既に明らかになっている通りである。

この裁判官の追求の間、原告席や傍聴席には、涙を流されているご遺族が何人もおられた。
親が子どもの命を預ける学校の、その安全をまもる責任者の無責任が、こんなふうに面と向かって追求されるのを皆さんはこの6年ずっと待っておられたのだと思う。
誰に何をいわれても責任逃れしかしてこなかった行政に対して、その態度の何がどう間違っているのかが、法的に示された証人尋問だった。

山田氏の後で証言した登嶋氏は、大川中学校に赴任して間もなく、近隣の飯野川中学校のマニュアルを参考に危機管理マニュアルを策定している。飯野川中の担当者である及川教諭が南三陸町から来られていて災害対策に経験のある人だったからだそうである。
登嶋氏のマニュアルによれば、津波のときは校舎3階に避難することが定められている。川のすぐ目の前に建っている大川中学校は大雨や台風などの浸水リスクが高く、周りには避難に適した高台がないからそう書いた、石巻市教育委員会とは避難場所について相談したことも指示されたこともなかったという。地震直後から高台への避難を呼びかけていたはずの防災無線は、校内にあったが当時聞こえていたかどうかは記憶にないし、津波が来る・来ないの判断材料をあらかじめ定めていたかどうかを明言することもできなかった。

ちなみに震災当日、大川中学校は卒業式が行われた後で校内に生徒がいなかったために惨事を免れているが、もし登嶋氏の証言通りの認識であったなら、タイミングが悪ければここでも同じことが起きた可能性はじゅうぶんに考えられる。だが実際には登嶋氏の意識はそこまで低かったわけではないかもしれない。現役の校長(仙台市内の中学校)として教育委員会に忖度したのかやたらに「浸水対策はあくまで大雨や台風の洪水を想定したもの(=津波は想定外)」としつこくいい続けるのがあまりにも不自然だったからだ。
とはいえ、過去に教育委員会が実施した危機管理研修や会議の内容をほとんど記憶していなかったり、マニュアルはつくっていても職員室に掲出しただけで子どもたちに周知したり避難訓練を実施していなかった点は、やはり学校安全の責任者としての職責を全うしているとはいえないだろう。それもこれも「紙はみんな津波で流されたから(内容を覚えていられるわけがない)」と言い放った口調は、周りに座っているご遺族のお気持ちを思うととても平常心で聞いていられるものではなかった。

傍聴席でみている限り、今回の証人尋問も完全に原告側のワンサイドゲームで、被告側に争う意欲が欠片もみうけられなかったのがとても気になった。
原告側としては、学校行政のどこにどんな不備があったのかがかなり明確になったことで一定の満足感のようなものは感じておられるようだったけれど、今日は時間がなくてできなかった質問もあったみたいだし、来月の公判でも証人尋問は続く。
裁判所はどうにか年内に結審して年度内に判決を出したい意向のようなのだが、この状況がどう転ぶのか、まだちょっと私にはよくわからないです。
いちばん印象に残ったのは、学校行政側の組織的過失を追求する今回の公判の流れを無視する形で原告側代理人が「原告の要望だから」とあえて尋ねた事後対応についての問答。震災直後1ヶ月も市教委として遺体捜索に協力しなかったのはなぜなのか、生存者の聞き取りメモの廃棄をなぜ承認したのか、上司として承認していないのなら廃棄は部下の勝手な判断なのかと畳みかけられて、山田氏は傍目にわかるほど狼狽していた。根は真面目で、嘘のつけない人なのだろう。「答えられない」とただ力なく繰り返すばかりだった。

しかし無責任もここまで堂々とされてしまうともう何がなんだか、自分がとんでもないパラレルワールドにはまってしまったような心地になる。これが日本の学校行政、学校安全の現実かと思うとほんとうに恐ろしい。
学校に通うお子さんがおられる方は、いますぐ学校にちゃんとそこのところ確認したほうがいいです。いざというとき、ほんとに大変なことになると思うから。


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『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』 池上正樹/加藤順子著


仙台駅ビルのハロウィンのディスプレイ。

復興支援レポート



名もなき壁

2017年09月12日 | 復興支援レポート
小さな命の意味を考える会



東日本大震災の津波で74名の児童と10名の教職員が犠牲になった石巻市立大川小学校の事故を考える「小さな命の意味を考える会」の座談会(3回目の勉強会)に行ってきた。
最初の回は事故と事後対応の概要について、2回目は事故後2年経って行われた検証委員会についてのプレゼンと質疑応答があって、3回目は周辺全体の事情も含めて参加者全員が質問を書いて、それらに主にご遺族が回答した。

例によってかなり繊細な話になりがちなので詳細はここでは控えたいが、こうして皆さんのお話を聞く機会を何度か繰り返すことによって痛感することがある。
それは、この事故があまりにも特異であるがために、誰にもどう向きあうべきかという正解がない。それぞれの認識の一種の“エアポケット”のために、あらゆる人と人との間に目に見えない溝のような壁のようなものが無意識に出来上がってしまっているということである。

まず地域の人とご遺族の間にもすでにそれはある。震災で身内や親しい人を亡くされたり、家や財産や仕事を失った被災者は大川小学校のご遺族だけではない。だとしても「同じ被災者同士」という共感がどこにでも簡単に生まれるわけではない。
54家族いるご遺族にしても、全員がまるっきり同じ方向、同じ姿勢で事故に向きあえるわけではない。語り部活動に参加される方もいればされない方もいるし、訴訟に参加されるご家族もあればされないご家族もある。それぞれに事情もある。
被災地の外からくる人間は、この事故に第三者としてどう関わっていけるものなのかをどうしてもはかりかねてしまう。どんなに意識するまいとつとめても、無関係な人間がこれほどの大事故に関わることへの無駄な“斟酌”“忖度”に、つい立ち止まってしまいがちになる。

今回とくに参加者が繰り返し口にしたのは、そこに影響するメディアの姿勢だった。
どういうわけか今回は2回目にはほとんどいなかったメディアが何社か出席していたせいかもしれないが、やたら中立を装わんがためにご遺族や地元の方々それぞれの異なる事情や背景をいちいち対立構造としてとりあげたがる傾向に、幾人もが苦言を呈していた。たとえば訴訟や大川小学校の校舎を遺構として残すことや語り部活動に対して、あたかも現実に「賛成派と反対派がいる」かのように世論が誤解して戸惑ってしまうのは、安易に客観的立場に拘泥する報道の責任なのではないかと。
それらの指摘に抗弁するメディアは誰もいなかった。
私個人は、そこで毅然と自分の意見がいえるメディアがひとりくらいいたっていいと思ったのだが、残念ながら、この問題にジャーナリストとして根性いれてとりくんでますよという矜持を正面きって示せる人は、今回はたまさかいなかったのかもしれない。

この発言中に、6年前、被災地でのボランティアに参加するかどうか悩んで、何度も参加した説明会で耳にしたあるフレーズを思い出していた。
現地の様子を報告してくれた人の言葉だった。

「被災地」という地名はどこにもない。
「被災者」という名前の人もいない。
状況もご事情もお気持ちも、ぜんぶそれぞれです。
そして復興の主役は、被災された地域、被災された方々ご自身です。

当たり前のその言葉は、いまも私の根幹にある。
だがおそらくは、こうした認識は人が望むほど一般的には浸透してはいない。
その責任の一端は、6年間ずっと関わり続けてきた、私のような人間にあるのかもしれないと、思った。


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9月10日の夜、石巻市内で行われたイベント。著名なアーティストがこの日のためにつくった曲を生演奏して、みんなで踊った。
6年前の震災直後の街の惨状を思い出して、胸がいっぱいになった。たくさんの人が、この美しい土地の復興を心から願って心血を注いできたこの6年。
でもまだ、この輪に加われない人もいる。長い長い道のりはいまも続いている。

復興支援レポート



しかたなくなんかない

2017年07月20日 | 復興支援レポート
第2回 小さな命の意味を考える勉強会



2011年3月11日午後2時46分、その小さな小学校では、一日の授業が済んで「終わりの会」も終えて、子どもたちは帰りの挨拶をしようとしていた。
春とはいえ小雪のちらつくような寒い午後を襲ったマグニチュード9の大地震。教職員と子どもたちは全員、すぐに校庭に避難、点呼を始めた。
何度も繰り返す余震の合間に、近隣に住む何組かの保護者が子どもたちを迎えにきていた。広い校区のほうぼうから通学する子どもたちを乗せるスクールバスも待機していた。テレビでもラジオでも津波警報が報じられ、防災無線も市の広報車も、高台への避難を呼びかけていた。
学校に迎えにいけなかった親たちは誰もが、子どもたちは裏山に避難したものと思っていた。まさか校庭にじっとしているとは、思ってもみなかったという。

その裏山は体育館のすぐそばにあって、子どもたちは毎年3月に椎茸栽培の体験学習をここでうけていた。小さな子どもでもお年寄りでも簡単に上れる緩い斜面。実際、何人かの子どもたちは山に逃げようと教職員に訴えている。それを彼らが却下した理由はわかっていない。
結果的に、50分という時間がこの校庭で無為に過ぎていった。
そこに巨大な津波が押し寄せた。最期の1分間に避難できた距離はわずか150メートル、しかも津波がくる川の方に逃げている。
なぜ、すぐ背後の山ではなくわざわざ水が来る方へ逃げたのか。たった1分でも、山側に逃げていたら。
避難しないのならなぜ、子どもたちをバスに乗せて下校させなかったのか。全員クルマで通勤していた教職員の自家用車も使えたはずである。
そのとき、この小さな美しい学校は明らかに機能不全に陥っていたのだ。

どうしてなのか。そこで何があったのか。
子どもを喪った親として事実を知りたいという遺族に対して、学校側は当初なんの説明も用意してはいなかった。
情報共有を求める声に圧されて初めての説明会が開かれたのは4月9日。以後、翌年10月28日までに計7回の説明会が行われたが、市教育委員会の説明は矛盾ばかりで、やがてそれは遺族との深い対立構造にまで発展していった。状況を打開しようと、遺族の代表が説明会ではなく話しあいを交渉していた矢先、学校も遺族も排除した第三者検証委員会の設置が突然決まった。
市の予算で文科省が仕切る検証委だから、行政の責任を明確に追及するような検証はそもそもできるわけがない。一般論として。
だが遺族はそうは思わなかった。委員会が「責任の所在を明らかにする」といってくれたから。「なぜ意志決定が遅れたのか」「なぜ間違った避難ルートをとったのか」、いちばんしりたいことを専門家が専門的に検証してくれるものと信じた。
そしてその願いは頭から見事に打ち砕かれることになった。

広範囲に甚大な被害を出した未曾有の大災害の下で、遺族は学校や行政に裏切られただけでなく、同じ被災者ばかりが暮らす地域社会のなかでさえ孤立している。
メディアは「不可抗力のなかでベストを尽くした学校」と「いつまでも感情的な遺族」という構図ばかりを強調し、本来追求すべき市教委の不正や捏造、隠蔽についてはまともに触れもせず、あまつさえ誤解を助長するような報道までした。お陰で世論はあっという間に「しょうがなかった」一色でまとまってしまった。千年に一度の大災害だから。亡くなったのは子どもたちだけじゃない。先生もみんな死んでしまったから。不可抗力。
それでも諦めずにはたらきかけ続けた遺族をことごとく無視する形で委員会は進められ、1年後の2014年2月、最終報告が提出されて検証は終わった。
最後まで、失われた子どもたちの命は議論の外に置き去りにされたままだった。

個人的には、検証委の誰も、初めから遺族を傷つけるような意図はなかったのではと思う。さすがに某かの志はあったはずで、なんの志もなく火中の栗を拾うような委員会を承諾する人がいるだろうか。少なくとも、引き受けたからには真実を知りたい、明らかにしたいと思うのが自然な気がする。それを、環境が許さなかったのではないだろうか。
「思うように検証ができなかった」という声を漏らした委員もいたという。ではなぜ遺族や委員が望む検証ができなかったのか、検証できない委員会が組織されたのか、そこにどこからどんな力がはたらいたのか、それをも明らかにすべきではないかと思う。
「なぜ意志決定が遅れたのか」「なぜ間違った避難ルートをとったのか」「なぜ検証ができなかったのか」。
これは不幸な偶然が重なった挙げ句の悲劇の物語などではない。学校防災と学校行政の問題なのだ。

児童遺族のうち19家族が市と県を相手取って損害賠償訴訟を起こしている。最後まで迷いに迷って、時効ギリギリでの提訴だった。昨年9月に一審判決で原告側が勝訴したが、行政側は直後に控訴した。
7月19日に行われた控訴審と原告側の記者会見を傍聴したが、行政側はとにかく責任逃れ以外の何もしていないようにみえる。ここで詳細については触れないが、状況的にはいまのところ完全に原告側のワンサイドゲームである。裁判所も和解の和の字にすら触れてはいない一方で、争点は一審の「予見可能性(津波の襲来を予見できたにも関わらず、適切な避難行動をしなかった教員の過失)」から、「組織的過失(地震発生より前の平時の学校の防災体制の不備)」に移っている。
原告側は、今回の震災で津波が遡上した北上川沿いの他の小中学校および保育園の防災マニュアルや当日の避難行動を調べて証拠として提出したが、驚くなかれ河口から15キロも川上で標高46メートルの河北中学にさえ、地震や津波を想定したマニュアルがあった。河口から3.8キロで標高4メートルに満たない大川小学校になかったのは決して「不可抗力」などではない。大川小学校の教職員で唯一生き残ったA教諭の前任校の相川小学校では、当のA教諭が作成したマニュアルに従って避難し、事なきを得ている。
当たり前の話なのだ。学校は子どもの命をまもる場所なのだから。

その当たり前のことができなかった責任から目を逸らしている限り、どんな再発防止策も絵に描いた餅になってしまう。
亡くなった子どもたちの命の重さをてのひらに載せ、背中に背負って初めて、この災害だらけの国の子どもの命を、人権をまもる未来の礎は築かれていくはずである。
感情論でもなく思考停止でもない、持続可能な防災を、このできごとを起点にして始めるべきなのだ。

勉強会や裁判などを通じて何組かのご遺族とお話させていただく機会があったが、皆さんの精神力には驚くばかりで、畏敬の念さえ感じる。
6年以上にわたって学校や行政によって延々と心をえぐられ気持ちを逆撫でされ続けながら、それでも折れずに気丈に立ち向かい続けている。凄いと思う。
その強さを単純に親心や愛などと一般化していいものだとは思わないし、彼らが求めているものは、子どもをもつ親だけでなく、むしろ人の生きる権利を追求する者なら誰もが共感できるものだと思う。
ひとりでも多くの人に、その意味をわかちあえたらと、せつに願っている。


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大川小学校跡地。
案内板手前の2本の杭は、津波襲来直前に教職員と児童がすりぬけたフェンスの隙間を示している。ここを88人が一列になって避難したという。


復興支援レポート



ほんとの復興のはじめの一歩

2017年05月28日 | 復興支援レポート
第1回 小さな命の意味を考える勉強会
大川伝承の会第5回語り部ガイド



そこを訪れるたびに思い出す風景がある。
堤防が切れて、自衛隊が整備した川面すれすれの砂利の道路。地盤沈下して辺り一面海水に浸りヘドロに埋もれた田んぼと、瓦礫のなかにぽつんと建った校舎。
2011年4月末ごろの、大川小学校だ(3月末の様子。1ヶ月後もほとんどこのままの状態だった)。
見渡す限り黄土色一色、動くものは何もなく、音もなかった。
それはSF映画のなかの世紀末か、異星の風景のようだった。

津波に襲われる前、学校の周りには住宅街があった。郵便局があって、病院があって、公民館があって、お寺があった。
そこには代々暮してきた人たちの生活があったのだ。
それを、津波は一瞬にしてすべて奪い去った。
ひとつ残らず、跡形もなく。

現在、この釜谷地区に人は住んでいない。その先の海沿いの長面にも、川上側の間垣にも、ほとんど住民は戻らなかった。
だが漁業は続いているし、あのとき津波をかぶってしまった田んぼにもちゃんと稲が植えられて、閉校になった大川中学校の跡地には太陽光発電所と水耕栽培のハウスができている。
もとには戻らなくても、前に進んではいるのだ。

6年目にして1回目の今回の勉強会には、定員30人に50人以上の申込があったという。メディアも一通りメジャーもローカルも顔を揃えていた。
正直そこまでとは思わず会場に入って驚きました。だって石巻市内ったって中心部からはクルマで30分離れた場所で、終バスだって6時台という不便な会場までわざわざいくなんて、自分でもちょっとどうかと思ったもん。
とはいえ地元で地域の方々やご遺族の方々も大勢顔を揃えた中での会合だから、第1回で概要と軽い質疑応答だけとはいえ、話は自然に熱くなる。情報そのものとしてはメインスピーカーも同じ3月の講演会や各資料でこれまでに把握していた以上の要素はそれほどなかったけれど(あってもここに具体的に書くわけにはいかない)、やはり環境も違い、スピーカーも違えば、当事者の抱いている感情が抑圧された中からも非常にストレートに伝わってくる。
よく東北の人は我慢強いというけれど、それは厳しく自己を律しているからであって、抑えた感情の熱さ深さは他人事として見過ごせるものではない。

子どもを亡くした親として、真実が知りたい。
どうして先生たちは子どもたちを連れて山に登ってくれなかったのだろう。
どうして50分も校庭にじっとしていたのだろう。
実際、近隣の他校はみんな山に登って助かったのに、どうして大川小学校だけこんなことになってしまったんだろう。
そこで何が起きていたのか、少なくとも5人の生存者は事実を知っている。何が間違っていたのかはわかっている。それを認めてほしい。
たったそれだけの当たり前の気持ちを、学校も行政もうけとめてはくれなかった。あまつさえ無視したり、騙したり、誤摩化したりした。
それがどれほど悔しく、悲しく、情けないことか、残念ながらわたしには想像がつかない。想像できるとはとてもいえない。

その根底にあるのは、大川小学校だけでない、日本全国どこででも起きている学校での事故や事件ととてもよく似た構図である。
慣例に異様にこだわる官僚主義。事なかれ主義。危機管理意識の致命的な甘さ。そして隠蔽体質(例:一橋大学法科大学院アウティング事件裁判)。
誰も過ちを認めず、責任も決してとらない。仕方がなかった、想定外だったというその一点張りで何もかもチャラにしようとする。

だが、この期に及んでこの大惨事でそれを許すわけにはいかないのだ。
ゆるしてしまったら、いつか必ず同じことがまた起きてしまう。
敏郎先生は津波直後の大川小学校の情景を指して、「これはこの世の終わりじゃない。始まりなんです。ここから始めなきゃいけないんです」とおっしゃった。
二度とこんなことを起こさない未来を、この大川小学校から始めなくてはならないのだ。
そのことを、少なくともここに来た人すべてに、少しでも実感してもらいたいとわたし自身も、強く思いました。

ところでケータイのメールや履歴って、本体から消したら二度と戻んないもんなのかね?
ログってどっかにないのかな?
しかし消したってことは絶対「消さなきゃいけない理由」が何かあったってことだよね?確実にさ。やましくなきゃ消す必要ないもんね。
最近ホントにこんな話、多いね。はあ。


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大川小学校の高学年の校舎。1階が家庭科や図工や理科の特別教室で、2階が一般の教室だった。
最近になってこの建物を設計した建築家が現地を訪問し、被害状況から津波がどれだけの力で学校を押しつぶしたのか計算してくれたそうだ。


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6年目

2017年03月18日 | 復興支援レポート
今年も3月11日を東北で過ごした。

2012年のその日をたまたま当地で過ごす機会があって、それから毎年、この日はここに来ている。
今年で5回目。もう習慣のようなものだ。正直、その日に別の場所にいる自分がうまく想像できない。

6年前、私は東京にいて地震を体験した。直後に報道で東北地方の被害を目にして、都内でも続く余震に怯えながら、できることが何かないか探し始めたあのときから、その災害はずっと私の隣にある。
あの災害と、その後の体験は、私をずいぶん遠くまで連れてきてしまった。その道はもう二度と引き返せないところまで来た。
だからたぶん、私の中であの災害が“整理”されて“過去”のものになることは、きっとない。
あるとしても、ずいぶん先の話だろうと思う。いまはまだ、うまく想像できないくらい。

それでも世の中はどんどん先に進んでいく。
あれだけの大災害も、無数の悲劇も不条理も、なかったことにしてしまいたいかのような空気。
誰もが被災した地域とそこで苦しんでいる人たちのことを思い、できることがないか考えたあのころのことはどんどん置き去りになっていく。
それはそれでいいのかもしれない。世の中は前に進むものだから。いつまでも同じところには立ち止まってはいられないから。
でもほんとうは、人が思うほど物事は何もかもがそう都合良くは進まない。“復興”という言葉に追いつめられ、苦しめられている人だってたくさんいる。なのに、彼らのことは誰も見向きもしない。
その一方で、3月11日が近づけば、メディアは思い出したようにあの日の話題をひっぱりだして、神妙な顔でわかったような話をし始める。
それがまるで年中行事のように繰り返されるのがちょっと聞いてられなくて、毎年その日は東北にいるのかもしれない。

決して忘れられない記憶で埋まった6年間。

すべてが黄土色の泥と瓦礫に覆われ、どこが道なのか家なのかわからなくなった町の風景。
ヘドロに埋もれ、粉々に壊れ、もとが何だったのか判別がつかない無数の瓦礫の欠片。
何日も燃え続け、いちめん完全に焼け落ちた町の夜の深い暗闇。
乾燥したヘドロの粉塵が風に舞い、空気に満ちる独特のにおい。
見渡す限り一軒も家がなくなり、家や商店の土台と複雑な形にねじ曲げられたガードレールだけが続く町のメインストリート。
海がみえない場所にぽつんと打ち上げられた漁船。
ぐしゃぐしゃに変形した膨大な数のクルマがうずたかく積み上げられた山。
献花台に並んだ花とお供え物と線香の匂い。
海底に沈んだクルマや漁船から漏れる燃料で薄黄色く濁った波。
気丈に明るく元気に振る舞い続けた地元の方が初めて見せた涙。
1年目のその時間、サイレンを聴きながら、海岸で魚の身を切って海鳥にあげていた人。
倒壊した自宅をかたづけたくても、線量が高くて近づけないと話してくれた人。
津波に破壊された家の綺麗なカーテンをはためかせていた5月の風。
無人の街を我が物顔で飛び回っていたカラスの大群とやかましいほどのカエルの大合唱。
言葉もなくて、ただ息をのむしかなくて、涙も出ないほど悲しいという感情を、生まれて初めて知った。

そこで出会ったいろんな人たちとの出会い。別れ。
うれしかったこと、楽しかったこと、悲しかったこと、悔しかったこと。
一生の思い出もあれば、一生後悔し続けるような出来事もあった。
全部がいまの私に確実につながっている。
なにがわからなくても、それだけははっきりいえる。

だからずっとこの先も、6年前のあの日を出発点に、生きていくのだと思う。
それ以外の道は、たぶんない。

 
気仙沼市と大島を結ぶ鶴亀大橋の工事に使用されるクレーン船。30メートル?40メートル?とにかく大きい。気仙沼港にて。

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