落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

あんたがたどこさ ひごさ

2016年06月05日 | 復興支援レポート
ひごどこさ くまもとさ
くまもとどこさ せんばさ
せんばやまには たぬきがおってさ
それをりょうしが てっぽでうってさ
にてさ やいてさ くってさ
それをこのはで ちょいとかぶせ

5月29日(日)〜6月5日(日)の日程で熊本の地震災害支援ボランティアにいってきた。

冒頭のわらべ歌は誰もが子どものころにボールをついて歌ったごくポピュラーな歌だけど、まさか自分が熊本に行くことになるとは今回の地震があるまで想像もしたことがなかった。
地震があってひどい被害が出たにもかかわらず、毎日現状を伝えていたメディアの報道は見る間に減っていく。報道されても具体的な復興計画などは伝わってこない。東北のときも行ってみなければわからないことだらけだった。今回もやっぱり、何はともあれ行ってみようと思った。

お世話になったのは2011年に初めて東北の支援活動に参加したときと同じ団体の拠点。
熊本市内中心部の近くに簡単な宿泊施設があって、ここから毎日割り当てられた活動場所に行く。入浴もトイレも共同だが真新しくて清潔できちんとした施設で、滞在環境としてはこんなに快適でいいのかと懐疑的になってしまうくらい快適。朝は早ければ6時半から、夜は遅ければ深夜2時ぐらいまで活動した。といってもギチギチに忙しかったわけではなく、早く終わったときは合間に市内観光もしたし、最終日は拠点を出て八代市の温泉にも泊りにいった。熊本城も外から見られたし、湧き水が戻りつつあるという水前寺成趣園も訪問した。大好きなラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の旧居は地震の影響で閉館中だったけど、彼が愛したという鼻かけ地蔵に巡りあうこともできた。なんだかんだでけっこう満喫しました。

実働6日間で参加できたのは、避難場所でのカフェ運営・瓦礫撤去・ボランティア受付広告のポスティング・避難所支援・ボランティアセンター運営支援など。
全体にそれほど体力的に過酷ということもなく、いろいろ見て、これまで東北で活動した経験から感じる意見を求められることが多かった。というのも、災害支援の経験者が熊本には意外に多くないかららしい。現に今回直接会ったボランティアで東北でも活動したという人物はほんの数人だった。
まあ実際、熊本は遠い。わかってたけどホントに遠かった。東北だって遠かったけど、その比ではない。東北で活動していたボランティアの多くが東日本在住者だったけど、熊本ではおそらくその比率は2〜3割もいないのではないだろうか。他は九州か西日本ということになるから、自ずと東北での経験を持つ人は少数派になる。
というわけで、熊本くんだりまでいってまさかのデスクワークでのボランティアもやりました。こんなことになるとわかってればPCもってくんだった。

行ってみてわかったことは、とにかく復旧がぜんぜん進んでいないこと。
空港は飛行機の発着そのものは通常に戻ってるけど、建物の半分が閉鎖中。中心街をちょっと見た感じでは都市機能は完全に復旧してるように見えるけど、一歩裏道に入れば半壊して閉鎖された建物が並んでいる。だから地震前と変わらないところと一変したところが、モザイクのように入り組んだ状態になっている。
ライフラインも多くの地域でほぼ復旧してはいるけど、壊れた建物を解体したり瓦礫を処理したり割れた道路を直したりするにも、人もお金も資材もまったく足りていない。
そして被災した人たちは、先行きの見えないまま、なかなか伝わってこない復興計画をひたすらじっと待っている。仮設住宅がいつできて、いつ希望者全員が移れるのか、復興住宅の計画目標もわからない。
なのに罹災証明の申請は始まっていて、到底足りない行政の支援額はもうわかってしまっている。こんなにストレスフルな避難生活なんて想像するだけでしんどすぎる。

その一方で、子どもや女性への人権侵害など、災害時に起こりがちな弱者の人権問題は既に始まりつつあって、この短期間で身近に見聞きもした。はっきりいってその部分は民間の災害復興支援団体の範疇を超えてるから、行政に頑張ってもらうしかないのだが、そこがもうまったく当てにならなくてアタマに来る。
具体的な詳細は避けるが、こういうときにもっと東北での教訓が行かせないものかと残念でならない。
私個人の印象でしかないけど、今回の災害復旧にあたっている行政の姿勢には、どうしても首を傾げざるを得ないことがあまりに多すぎる。災害復旧の主役は住民自身・被災者自身であって行政や支援者はあくまで脇役のはずなのに、なぜか熊本ではそうではないように思えて仕方がなかった。たとえば自治体の食糧支援ひとつとっても、効率や経費節減の方が被災者の現状より重視されている。どういうことやねん。発生からわずか1ヶ月半でこれでは先が思いやられます。
とりあえずムチャクチャもやもやしたまま帰京。次回どうするかは、ちょっと考え中です。
遠いしな・・・。


熊本城。長いこと復元工事をしてきたというのに、こんどの地震で史上最悪の被害に。

復興支援レポート



彼岸の東北

2015年09月27日 | 復興支援レポート
9月18日~24日の7日間で東北旅行に行って来た。
今年はお盆休みもなかったので遅い夏休み。

世間はシルバーウィークでお彼岸。この時期に4年間親しんで来た気仙沼市唐桑町を訪問する事情もあった。
長くお世話になっていると、地元の人とも親しくなる。毎回お世話になっているおうちもあるし、個人的に深い関係に至ることもある。
今年、そうした関係にあった方が相次いで亡くなった。どちらも突然の死だった。なんの心の準備もできず、別れに立ち会うこともできなかった。その痛みはまだ、消化されないまま胸の中にある。

それでも生きている人間はいつまでも同じところに立ち止まってはいられない。その気持ちを正確に表現できる言葉は、どんなに考えても浮かんでこない。仏壇の前で、墓石の前で頭を垂れていても、何を語りかければいいのかまったくわからなかった。遺族と向かいあっても、故人についてひと言も話すことができなかった。
今回の訪問の目的のひとつが、震災直後から多くのボランティアを支えて来た地元の方の死を悼む会だった。
初盆を過ぎて、仲間の呼びかけで30人以上のボランティアや元ボランティアが全国から集まり、彼を偲んでパーティーをした。でもほとんど誰も、申し合わせたように肝心の彼の話をしなかった。ひと言二言触れても、深くその話をしようという人はいなかった。
そんな話ができるようになるには、もっと時間が必要なのかもしれない。少なくとも私はそうだ。いまはまだ語る気にはなれない。

地元に住んで活動を続けている友人が大船渡市に連れて行ってくれて、復興事業の進行の様子を少し見せてもらった。
港湾工事はかなり進んで、何もかもが新品のぴかぴかの港湾施設が眩しかったけど、嵩上げは全然やってなくて、津波で壊れた建物や土台がまだそのまま残っていて、嵩上げや道路の新設が進んでいる気仙沼や、土砂運搬用の巨大ベルトコンベアの撤去も決まった陸前高田、瓦礫をすべて県外処理とした女川・石巻地区と比較するといくらか遅れている印象だった。
その一方で、防潮堤の工事はどこでも着々と進んでいる。今回のような津波は防げないという防潮堤。復興住宅の建設が遅れ、いまも仮設住宅で不自由な生活を続けている人たちもいるのに、本来の生活の基盤よりも先に、これだけの巨大防潮堤を建設しなくてはならない意味がよくわからない。こんなものでいったい何をまもろうというのだろうか。


大船渡漁港。釣り人がいっぱいいた。

パーティーが終わって東京に戻るボランティア仲間が帰りに早朝出発で金華山に寄るというので便乗させてもらい、石巻市雄勝町をまわって途中で大川小学校に行った。
全校児童・教職員総勢121名中85名の犠牲者を出し、児童の遺族が自治体側に責任を追及している小学校。初めて訪問したのは2011年の秋、当時花や供物が溢れていた献花台は片付けられ、敷地の奥に立派な慰霊碑が建てられていた。
この校舎を震災遺構として残すかどうか議論されているが、爆撃でも受けたかのように破壊されつくした校舎は、早くも風雨による劣化が徐々に始まっていた。遺族の間には解体を望む声が強いというが、最近になって生存者の卒業生たちが保存を求める意見を明らかにしている。当然ながら当事者の意思はたいせつだが、問題はこの立地。石巻市中心部からはクルマで1時間余りと辺鄙な場所にあるうえ、近隣に有効な公共交通機関もなく高速のインターからも遠く、遺構として残したあとの運営に大きな課題は残る。ただでさえ被災地でも最悪の被害を被った石巻市が単独で実施できるような事業ではない。保存するとしても、その目的をいかに設定するかが重要な気がする。


壁がなくなった大川小学校の校舎。

鮎川港から小さなフェリーに乗って金華山黄金山神社へ。
金華山は島まるごと神域という神社の島。不勉強ながら知らなかったのだが、ここは3年続けて参詣すると一生お金に困らないそうである。じゃあ来年も再来年もこないとね。
フェリーを降りて徒歩15分くらいで神社には着くのだが、傾斜がきついので無料の送迎車も往復している。島のあちこちには鹿がいて、神社ではエサも売っている。奈良の鹿とは種類が違うのか、小柄(体高60センチ程度)でとてもおとなしい。


エサを持ってない人には近づかない。


黄金山神社。
震源地に近く、震災の影響でいまも復旧していない施設がある。震災直後は被害を受けた参道や石段の修復に多くのボランティアが全国から集まったという。木造の建物はなんともなくて、石造りの階段や鳥居が損傷したというのが興味深い。

参詣後フェリーで鮎川港まで戻り、牡鹿半島をまわって石巻市内でボランティア仲間とお別れ。午後からは地元のタクシーで4年前に活動した市内各地をまわった。
震災後最初に訪問したのは石巻市だが、その後は南三陸町や気仙沼で活動することが多く、石巻市内にくるのはほぼ4年ぶりである。ドライバーがまず連れて行ってくれた日和山からの眺めを見て、当時の記憶が鮮明によみがえる。あのころ、何もかもが無惨に泥だらけで、どっちを向いても視界を埋め尽くしていた瓦礫の山は確かにもうない。道路は綺麗に舗装し直され、新しく建てられた店舗やビルもたくさんある。でも全壊したまま放置された建物も残っているし、歯抜けのように空き地が目立つ商店街には全国チェーンの居酒屋がやたらに進出していた。ドライバーは「寂しいけど、何もないよりは、復興の途中段階としてはしかたない。地元の人にはまだ力がないから」という。
日和山の眼下の海岸地域(よく報道で見かける「がんばろう石巻」の看板がある門脇町)には、一軒だけ津波に流されなかった称法寺がそのままの姿で残っていた。壁はなくなり本堂の中身も鐘楼もすべて失われていたけど、立派な屋根や柱は無傷のままになっていた。このお寺は今後どうなるのだろう。
火災で真っ黒に焼け焦げていた門脇小学校は風雨に洗われて白っぽくなっていたが、解体されないまま保護シートがかけられていた。


4年半後、石巻市日和山公園からの眺望。写っているエリアはもう人が住むことはなく、公園の建設が計画されている。


2011年5月8日に掲載した震災1ヶ月後の似た地点で撮影した画像。道路景開が一段落し、瓦礫撤去の前に行方不明者の捜索が行われていたころ。


上二枚の画像の中心辺りに写っている称法寺。

翌日は電車で仙台まで移動。
実は今回、行きは新幹線で岩手県一関まで行き、そこから在来線で気仙沼に行く予定だったのだが、前日に発生したチリ地震による津波警報と大雨で大船渡線が運休。例の“嵐フィーバー”を避けたら別の「嵐」に阻まれるというジョークのような番狂わせがあったのですが。この日は嵐ライブの最終日。やはり仙台駅はふだんでは信じられないほどの大混雑です。とりあえずその人ごみから逃げて送迎バスで白石温泉へ。
白石は山形・福島との県境に近い内陸の町。ここの温泉施設が山中の蔵王キツネ村に無料で送迎してくれるというので行ってみた。詳しくはこちらのレポートをご参照いただきたいのだが、まあとりあえずいっぱいいます。キツネが。ほかにヤギとかウサギもいるんだけど、キツネの多さは想像以上です。それもギンギツネとか北極ギツネとかいろんな種類がいる。そしてみんな超かわいい。
ただしキツネは人を噛むので、直接触ることはできない。見るだけ。にしても多過ぎておなかいっぱいである。自家用車でしか来れないという立地もあって、休日なのにさほど混んでないのもよかったです。
キツネ村から施設に戻ったあとは日没まで周辺を散策。どこにいっても人っ子ひとりいない。ムチャクチャ静かです。


こんなのがうじゃうじゃいる。

最終日は朝から福島市に移動するつもりで駅まで送ってもらったのだが、着いてみたら列車が遅れていて時間が余っている。
ついでなので荷物を預けて、近年復元された白石城に登ってみる。白石城はあの伊達政宗の側近だった片倉小十郎の居城。平日のせいなのかきれいさっぱり誰もいなくて、天守閣を文字通り独り占めである。その後で城下町の武家屋敷にも寄ってみたがこちらも誰もいなかった。思う存分写真撮り放題。
白石市そのものは城下町らしくこざっぱりとして、趣のある古い建物が多いきれいな町である。あと温麺(うーめんと読む)の店がやたらに多い。近くに温泉もたくさんあるし、もうちょっと観光客がいても良さそうなのに、町を歩いててもビックリするくらいそういう人には会わないし、駅でも観光に力を入れている様子がいっさいない。そういう静けさを求めている人(私です)にはうってつけな土地だなと思いましたです。


白石市内の電話ボックス。

昼前の列車で福島市へ。だいたい30分くらいです。ホントすぐ。
駅から100円バスで県庁近くまで行き、そこから歩いて御倉邸に行く。
日本銀行東北出張所の初代支店長宅ということですが、確かに広いんだけど内部の装飾が何も残ってなくて、建築に興味のある人以外はとくに楽しめるところではないかなという、やや残念なスポット。


とりあえず広い。

ここから寺町(一本の通りにやけにお寺がいっぱいある)を通って駅まで戻り、逆方向の伊達行きのバスで岩谷観音へ行く。
平安時代ごろから地元の人が岩に彫り続けた観音様が山肌にびっしり数百体並んでいるお寺。山の中腹とはいえ、石段もあってさほど高い場所ではない。それでも参詣客が全然いなくて、数百体の観音様をまたしても独り占めである。ひとりぼーっと無数の仏様たちと向きあっていると、雰囲気的になにか別の世界に連れて行かれそうな気分になる。おそらく桜や紅葉のころはもうちょっと人が集まるんじゃないかなと。


いっぱい観音様が彫ってある。写ってるのは10分の1くらいか。

朝からお城に登ったり道を間違えて遠回りしたりしてかなり歩いたので、ここで力尽きて帰京。
前から思ってたことだけど、東北の皆さんはもうちょっと真面目に観光業にとりくんだ方がいいと思う。だってどこもかしこも自家用車がないといけないスポットだらけ。案内用のパンフレットの情報は不十分だし(紙質が悪くてすぐズタズタになる)、バスや電車の便は異常に少ないし(休日は全面運休ってどういうことだ)、駅や主要な観光施設にコインロッカーや休憩所など観光客向けのサービスも少ない。飲食店の方々の愛想も悪すぎる。全部とはいわないけど、だいたいにおいてフレンドリーとはいい難いです。全体に訪問者にとって不便なことが多いのだ。
復興のためには観光で人に来てもらうことも大事なんだし、ハコものをつくることよりお金もかからないんだから、そういうソフト面から見直してみてもいいんじゃないかと思うんだけど。そのための助成ももっと活用されるべきでは。

とかなんとかいいつつ、帰って来たらもう次いつ行けるかカレンダーを眺めている自分がいる。
次こそは平泉に行かないとなあ。


復興支援レポート



春の三陸

2015年05月05日 | 復興支援レポート
4月30日~5月4日の日程で東北に行って来た。
今回の目的は春の東北を満喫することと、これまで行ったことがなかった北三陸まで行ってみること。幸い天候にも恵まれ、連休前半ということもあって本格的な大混雑に巻き込まれることなく(というか東北にそういうことが起こり得るのかという謎もあるけどそれはさておき)、これ以上のんびりできないというくらいのんびりしました。
現地で活動している友人ともゆっくりいろんな話が出来たし、いつもの海鮮じゃないマニアックな地元グルメも食べれたし、ぶらり電車旅行も楽しめたし、いうことありません。
というわけで、需要があるとは思えないけど、三陸地方縦断ひとり旅、レポートしてみます。

今回の出発地点は唐桑から。
始発(7時台)のバスで気仙沼駅まで出たいが、唐桑から駅に出るバスはない(爆)ので、途中の化粧坂で下りて15分くらい歩く。ぐりここで大失敗。実はこの手前の鹿折唐桑というバス停で下車すればそこで大船渡方面のBRTに乗れたのである。
とりあえず気仙沼駅。ここから北上する大船渡線は岩手県の一ノ関駅から宮城県の気仙沼駅を経由して岩手県大船渡市の盛駅までを結ぶJR線。一ノ関~気仙沼間は普通のディーゼル列車だが、津波で被災した気仙沼~盛間はBRT(バス高速輸送システム。気仙沼線と同じ)。朝5時から22時台まで1時間に一本で、唐桑から始発で来て乗れる下りは8時58分が最速です(時刻表)。それに乗る。運賃は終点盛までで840円。
気仙沼から陸前高田に向かうルートは途中まで唐桑にいくのとほぼ同じなので、さっき来た道をそっくり逆戻りする形になるのだが、鹿折唐桑までは以前線路があったところを走るので、ふだん見慣れた町並みとはまたひと味違う、気仙沼市内の下町の雰囲気が味わえる。
唐桑半島は経由せず内陸を通って陸前高田へ。陸前高田はいま大規模な嵩上げ工事の最中で、そのための土砂を運ぶ巨大なベルトコンベアが沿岸に張りめぐらされている。とにかく大きいのでこれは一見の価値はあると思う。期間限定ものですし。
終点の盛駅に着くのが10時20分。ここで三陸鉄道南リアス線に乗り換える。

南リアス線は盛~釜石を結ぶ、36.6kmと短い区間。津波の深刻な被害を受けたが2013年に一部開通、ちょうど1年前の4月に全線復旧した。
単線で1両編成、1日に9~10本しか列車がないのでこの連休中はまあまあの混雑(時刻表)。想像したほどではないが、11時の発車まで駅前でもぶらっとしてこようかなという余裕はない。ぼさっとしてると座れなくなる。運賃は釜石までで1,080円。
しかしさすが私鉄というか、車輛がJRの東北各線と比べものにならないくらい綺麗。手入れが行き届いてます。窓もピカピカだし、乗り心地も最高(そんなの当り前だろうと思うのはおカネの余った電車にしか乗ってない都会に染まった人ですよー)。そして撮影ポイントにさしかかると車内アナウンスで案内してくれて、スピードも緩めてくれる。恋し浜駅なんか停車して「カメラをお持ちのお客様はぜひ思い出の一枚を」なんて勧めてくれる。ホスピタリティである。いいなあ、気持ちいいなあなんて感心してるうちに11時51分に釜石駅着。

この先のJR山田線は津波の被害で運休したままなので、岩手県交通バスの道の駅やまだ行きに乗る。12時26分発。あんまり余裕はないしトイレにも行きたいので、ランチは駅前のシープラザ釜石の中でやきそばを食べて済ませる。500円。
大都会釜石を観光することなく出発。終点の道の駅やまだで待ち時間にわかめソフト(見た目うっすらグリーン。味は普通のバニラ)を食し、岩手県北バス宮古駅前行きに乗り換える。バス代は釜石~道の駅やまだ間が650円、道の駅やまだ~宮古駅前間が830円。宮古に着いたのが14時39分でした(時刻表)。
この区間、乗ってみるとわかるのだが実は地形がムチャクチャ入りくんでいて、直に海岸に面している区間は全体の3分の1程度だと思う。だからJRが山田線を復旧しようとしないのは災害を口実に赤字路線を切り捨てたいという、経営上の事情でしかないなという印象が強くなる。乗ってみただけの印象なので根拠はないけど、なんでBRTででも復旧しないのかが正直よくわからない。あといつも思うんですが岩交のサービス精神の欠如はもうなんともならんもんなんでしょーか。ブッキラボーすぎる。県北バスの方がまだ物腰柔らかですよ。車輛の古さはどっこいですけどね。それとこのルートは揺れが激しいので、乗り物酔いする方はご注意あれ。
大槌町や山田町あたりの津波の爪痕は4年経ったとは思えない惨状でビビリます。はい。

宮古から三陸鉄道北リアス線に乗る。15時5分発。終点久慈までの運賃は1,850円(時刻表)。
こちらは例の大人気NHK連続テレビ小説『あまちゃん』の舞台となった路線だからか、3両編成で1両は連休企画のお座敷列車(予約制)。海女のコスチュームを着た乗務員もいて賑わってますが、想像したほどではない。余裕で座れた。
この路線の魅力は何といっても車窓に広がる太平洋の絶景です。三陸はこまかく入りくんだ入江と岬の連続なので、気仙沼から宮古までは海がみえる区間はさほど多くなく、トンネルも多い。だがここから先はそこまで地形が入りくんでなくて、スカッと海がみえる区間が多い。綺麗だなあ、ああ綺麗だなあ、とホレボレしまくってるだけで時間が過ぎていく。南リアス線と同じく車輛は綺麗で乗り心地抜群、写真も撮り放題。あまちゃんのロケをやった場所もいちいち車内アナウンスで懇切丁寧に教えてくれる。16時46分久慈着。
朝9時前に気仙沼を出て約7時間弱の旅。岩手県沿岸部をほぼ縦断しました。こうして移動してみるとハンパなく広いです。東北のスケール、シャレになりません。

とりあえずこの日は久慈に一泊する。もともと久慈に来ようと明確に予定してたわけではなかったので事前に宿をとってなかったのだが、その日の朝思いつきでググってみたら、久慈の宿の空室情報サイトを発見。連休やしムリやろーと思ってたけど、あっさりフツーのビジネスホテルが予約できました。大丈夫か朝ドラよ。
夕食にもまだ早いので周辺を散策。例の駅前デパートは老朽化が進んで解体の話も出てるぐらいだけど、古いのはこの建物だけじゃない。どの商店も施設も全部が古びて、半分以上がシャッターを下ろしている。営業しているどのお店にもあまちゃんのポスターが貼り出され関連の商品を看板にしているのに、行き来する観光客は全然いない。メインストリートで立派なのはやたらにたくさんある銀行(メガバンクは一軒も見当たらない。全部地方銀行)やパチンコ屋ばっかりで、ほんとうにあまちゃん以外に何もない。
あれだけ大ブームになった番組だけど、2年経ってはっきりブームは一段落ついてしまっているのに、他にアピールすべきものが何も用意できてない(ように見える)。ブームって怖いものなんだなあと勝手に痛感したりもしました。どこの地方都市も朝ドラや大河ドラマで町おこししたいと考えてはいるだろうけど、一過性のブームが定着してちゃんと産業として自立していくのはそう簡単なことじゃない。東北の都市がみんな会津若松=白虎隊強火推しみたくなったらそれはそれで鬱陶しいけどさ。まあ東北の沿岸部自体、交通の便が悪すぎるというハンデはあるし。

翌日は朝9時半発の観光バスツアーに参加。沿岸のつりがね洞を通って例の小袖海岸に行く。
小袖海岸スゴかったです。久慈駅前の閑古鳥が嘘みたいな人だかり。まめぶ汁や海産物を売る屋台(地元のおばあちゃんたちがやってる)が無数に出ていて、海女センターの目の前ではとれたての生ウニも食べられる。ウニはまだ時期じゃないのでぶっちゃけ味は「・・・」な感じでしたが(ウニのシーズンは夏です。夏の三陸の生ウニはマジ美味しいです)、まめぶ汁はやさしい味がしてすごく美味しかった。東京でも食べれる店があったら通いたいくらい。種市高校の海洋開発科(あまちゃんに出てきた潜水科のモデル)の学生も物販のブースを出してました。高校生も観光サービスやってるのが微笑ましい。潜水やってるせいなのか、どの子も超ガタイよかった。
その後は琥珀博物館にいったんだけど、ここは特筆すべきことは何もないです。ぐりは大学で学芸員の資格をとったので、博物館とかこういう展示系施設の運営にけっこーうるさい方だと思う。だからむしろ何もいえなくてすみません。努力のあとは見受けられるのですが。ジュエリーとか恐竜とか好きな人なら楽しいかもしれない。
ほんとうはこのあと久慈の道の駅に行く予定だったが、ぐりは新幹線の時間があったのでリタイアして駅前でおろしてもらう。途中の道が細すぎて(対向車が来るたびにどっちかが待ってどっちかが逆戻りしなくてはならない)予定が遅れ、12時25分に久慈駅着。約3時間のバスツアー、参加費は1,500円。バスツアー、あんまし好きじゃなくて何十年も乗ってなかったけど、いまだにあんまり得意じゃないらしいことを再確認してしまいました。主催の方々はもうちょっと頑張ってほしいですね。とりあえず受付の人は声が小さ過ぎて何をいってるのかまったくわからないのと、無表情過ぎて若干怖い。ガイドの人(バスガイドじゃない。ふつーのおじさん)は前向いて喋っても乗客にはひと言も聞き取れないことを学習してもらいたいですね。ファイトー。

久慈から12時53分発のJR八戸線に乗って八戸に向かう。八戸線の上りは2~3時間に1本程度しかないので(時刻表)、乗り遅れると深刻に取り返しがつかなくなります。ええ。
この八戸線は車輛はボロいし(たぶんぐりが生まれる前から走ってると思う)窓はビックリするぐらい傷だらけだけど、車窓風景はもう絶品です。とくに陸中中野から先は絶景に次ぐ絶景。すぱーっと視界を横切る水平線、真っ青な海と空が思う存分堪能できます。むちゃくちゃ綺麗。あとこのへんまで来ると津波の影響は車窓からはあまり感じない。ただただ綺麗。
太平洋から吹きつけるきりっとつめたい海風を浴びつつ(窓が汚いので風景を見たければ窓を開けてないといけない。つまりこの絶景を観るなら暖かい季節にこの路線に乗るべし)14時43分八戸着。運賃は1,320円でした。
ぐりはこの日じゅうに帰京の予定で新幹線の指定席を予約してあったので八戸観光はしなかったけど(駅周辺を1時間散策したけど、きれいさっぱり何もなかった。史跡とかあるのは本八戸の方らしいです)、次回はもっと余裕を持って来たいなとせつに思いました。もうね、これから宮城ばっかりじゃなくて岩手とか青森も攻めるよ。東北マニアを目指すよ。いまさらですけど。

毎年同じことを書いているようだが、春の東北はとにかく美しい。夏の東北も、秋も冬も美しいが、あらゆる生命が一気に芽吹きだすこの時期の美しさは感動的である。
緑は目が痛くなるほど彩やかに明るく、桜やりんごや木瓜やつつじや馬酔木やチューリップや山吹や芝桜やたんぽぽや菜の花など、さまざまな花がいっせいに咲き乱れ、陽射しはあたたかく、そして風はクールに爽やかである。トンネルを抜けるたび、山道を曲がるたびに、それこそおとぎ話の中に迷いこんだような、現実とは思えないような色あいの風景が目の前に迫ってくるこの季節の東北の旅は格別です。何度来ても、何度見ても心が震える。
そしてまた行きたくなる。次はいつ行こうかな。

復興支援レポート


岩手県久慈市小袖海岸にて。
見よこの透明度。唐桑の海も綺麗だけど、久慈の海もスゴイです。そりゃアキちゃんも「おら、海女になる!」とか叫んじゃいますよ。超気持ち良さそうだったもん。



4年め

2015年03月14日 | 復興支援レポート
今年の3月11日も、東北で過ごした。

この4年、その日はいつも東北にいる。毎年、被災された地域の人たちといっしょにいて、なぜか毎年ちらつく雪を見て、あの日のことを思い出す。
とりたててあの日のことを話したりはもうしない。去年はこうだった、その前はこうだった、などと震災後の3月11日の話はする。2時46分には被災された方々とはちょっと離れたところにいって、黙祷する。その時間が過ぎてから献花台にお花を供えて帰る。そしてごくふつうの夕餉を準備して、リラックスして楽しく食卓を囲む。
ほんとにふつうの1日だ。

今年、静かな被災地で2時46分のサイレンを聞いていて気づいたことがあった。
被災された方々の邪魔はしたくないと思いながら、毎年ここに来てしまう理由に、4度目にしてふと思いあたったのだ。
毎年この日が近づくと、世間では、忘れてはいけない、節目の日だなどと震災や原発事故関連の報道が増える。そして過ぎればまた元通りになる。ふだんは大抵の人は忘れているのに、この時期だけ都合よく思い出したように騒がれる。
それが、いつもいつも堪えられなかった。
東北では震災はまだ終わっていない。ずっと続いている。好むと好まざるに関わらず、それが日常だ。忘れることも逃げることもできない。
いつも東北のことが頭から離れない自分にとって、いつも都合よく震災のことを忘れていられる東北以外の空気との温度差を如実に感じるのが、3月11日なのだ。
思い出したように人があの日を語るのを耳にするにつけ、その距離感がむしろつらくなる。
だから毎年、東北に逃げてしまう。
3月11日もふだんと変わらず平和で静かな東北の田舎にいると、心の底からほっとする。

4年の間、堪え難いつらい悲しい出来事もあった。もちろん楽しいことも、嬉しいこともあった。一生背負っていかなくてはいけないこともある。なんでもないような当たり前のことを、心から大切に思うときもある。そんな時間を東北の方々と、これからもいっしょに過ごしていきたいと思う。
もうもうと土ぼこりをあげて復旧工事のトラックがひっきりなしに行き交う現場を歩いて見て回りながら、4年にしてまだやっと入口にたった長い長い復興の道のゴールを、これからも、ここの人たちの傍で見守っていたいと思った。

なにしろ東北はいつ来ても美しい。空は青く広く、海は息を呑むほどに澄んで、夜の星空はまさに宝石の粉をまいたように光り輝いている。ときどき、あまりの美しさに涙が出る。
でもこの美しさも永遠ではない。これから復旧工事が進んで、本格的に防潮堤建設が始まれば風景も一変するだろう。
だがセンチメンタルだけで復興の長い道程を語れるほど災害は甘くはない。個人的には、地元の方々の感情を無視した復興事業のあり方に疑問を感じることは数限りなくある。だからといって、何をする目的もなくただ声高に批判しても誰も救われはしない。
できることをするだけ、いまは、なるべくならそばにいる、それしかできないけど、そうしたいと思っている。


復旧工事中の港。

復興ボランティアレポート

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被災した翌年にはフカヒレを干してた村芳水産を今年もみにいったけど、周りの工事の土ぼこりがひどいせいか、今年は干してなかったです。


強制寝正月地獄

2015年01月09日 | 復興支援レポート
年末年始に東北に行ってきた。
7月以来だから5ヶ月ぶり。

今回は何か予定があったわけではなく、実家の方に戻る用があって、その後少しの休暇をのんびりさせてもらおうかと思って訪問したのですが。
着いて数日はいつもお世話になっている民宿に泊りながら、地元の忘年会にお邪魔したり、厨房やお掃除をちょこちょこお手伝いしたりお客さんと震災のころの話をしたり、神棚の松飾りや鏡餅をあげたりして過ごした。
大晦日には失礼しようかと思っていたのだが、ご家族で用意する晩ご飯を食べていけばと勧めてくださったのでご厚意に甘えることにしたその夜遅く、いきなり体調を崩してしまった。

深夜から朝まで激しい嘔吐が止まらず、飲んだ水も吐き、水のような下痢までする。
腹痛はもちろん、筋肉痛のような痛みで全身ズキズキする。あとから思い出せば極度の脱水症状で熱も相当出てたんだろうと思う。
東北の大晦日の夜、外は雪が降っていてとても寒かった。トイレの前に座っていられればよかったのだが寒さに耐えきれず、何度も階段を上がったり下りたりしているうちに間に合わなくて粗相をしてしまったこともあったのだが、宿に泊まっている客はぐりひとり、誰の助けも呼べず、自分で床や壁を掃除しながらまた吐く、というかなりといえばかなりな元旦を迎えた。
それからまる2日間ぴくりとも動くこともできず何も食べられずただただ寝たきり、3日になって起き上がれるようになったのをこれ幸いと、スタコラ東京に戻って来た。東京でも毎日寝てばかり、今日になって嘔吐と下痢はどうにか治ってきて、あとは熱が出なくなれば完治である。湯たんぽは手放せないし、食欲がなく固形物がほとんど食べられないので、毎日薄めたホットミルクやらプリンやらリンゴやらスープやら甘酒やら、液体に近い離乳食みたいなものばっかり食べて暮している。お陰様でお餅もお雑煮もお節も食べてないし、初詣にも行っていない。これぞ寝正月である。

休み明けに病院で検査をしたら「ウィルス性胃腸炎」と診断された。おそらく原因はロタウィルスだということだが、これは子どもにとっては非常に危険で死ぬこともある病気ではあっても、ほとんどの人が5歳までにかかっていて大人なら抗体があるからふつうなんともないはずだという。
推測するにぐりはこの抗体ができない体質ではないかと思う。似たようなシチュエーションで似たような症状を起こしたことがこれまで何度かあるからだ。
ロタウィルスはヒトからヒトへの経口感染がよく知られているが、アサリやシジミ、カキなどの二枚貝からも感染することがあるらしい。ぐりはもともと貝類にあたりやすいので極力生では口にしないように、火が通っていても量を摂り過ぎないように注意していたのだが、どこかでうっかり食べ過ぎていたのかもしれない。なにしろこの季節の三陸では三食カキが提供されるのだから。
とはいっても大人なら感染しても何ともないはずのウィルスなのに、子どもと同じ症状でここまで七転八倒しなくてはならないとは情けないものである。

ところでこのロタウィルスは子どもが感染する非常にポピュラーなウィルスで、いまは乳児期に予防接種を受けることが推奨されている(任意接種)。全国の保育園や幼稚園では毎年のように大流行していて、園児とその家族を媒介してたった10~100個のウィルスが口にはいるだけで簡単に感染する。このウィルスを殺す特効薬はまだなく感染しても対症療法しかないため、手当が遅れるととても危険である。
しかし周りで聞いてみるとこのウィルスのことを知っている人はほとんどいなかった。乳児のいるぐり妹はもちろん知っていて子どもがワクチンを受ける前にけっこうナーバスになっていたのでぐりにもたまたま予備知識はあったけど、まさか自分がこんなひどい目にあうとは思っていなかった。
それにしても世界では年間180万人の子どもが死ぬ病気だというのに、子どもを持つ親以外にはあまり知られていないというのはいかがなもんかと思う。ぐりみたいに抗体のない大人はレアといえばレアなんだろうけど。マジきつかったよ・・・。

ロタウイルス感染性胃腸炎とは 国立感染症研究所 感染症疫学センター


宮城県気仙沼市唐桑半島の夕陽。
更地のように見えるのは津波で家屋が流失したところ。道路の拡張工事が始まっていて、ここにも防潮堤ができる予定である。この宝石のような光景もしばらくすれば見られなくなる。
4年前の瓦礫撤去をしていたころから通って勝手に第二の故郷のように思っている身からすればせつない話ではあるが、だからどうすればいいという単純な話でもない。