落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

東北にまた夏が来て

2014年07月22日 | 復興支援レポート
7月18日(金)から21日(月)の日程で、2ヶ月ぶりに宮城県唐桑半島に行ってきた。
また。

もともとは先月、この連休に遊びに行こうかと計画していたのが諸事情あっていったん流れたのだが、1週間ほど前にまったく別の支援活動のボランティア募集をみつけ、参加してみたくなった。
詳しく活動について聞いてみようと問い合わせたところ、ひっかかるところがあり、念のため被災地で活動している知人友人に確認をとってみるとより詳細な事情が判明し「参加しない方が良いのでは」といわれた。
参加は見合わせたけど、世間話に地域の様子を聞いているうちにどうしても行きたくて我慢が出来なくなり、急いで夜行バスをとって行ってしまった。
ダメですね。辛抱が足りなくて。

金曜の夜に東京を出て土曜の昼過ぎに着き、午後から月曜の朝まで前回と同じように民宿の手伝いをして過ごした。具体的にはふとんの上げ下ろしと掃除、お客さんの食事の準備と片づけ、スタッフが食べるまかないの調理など。ひとつひとつはたいした作業ではないがやってもやってもやることは無限にあり、かつ時間の制約もありかなり疲れる。体力勝負です。
勉強になることもたくさんある。今月から前回手伝いに来ていた板前さんが本採用になり、こちらも手伝いながら少し料理を教えてもらった。いつも手伝いに来てくれている近所のお姉さんも料理自慢なので、みていて参考になることも多かった。
土日は雨ばかりで出歩けずひたすら民宿の中で働いていたが、月曜日、お母さんが気を使ってくれて出発前に時間をもらい、板前さんと少しだけ唐桑半島をドライブした。板前さんは忙し過ぎてあまり地域をまわる時間がなかったらしく、ぐりがいつも行き慣れている絶景ポイントをめぐっただけでとても喜んでくれた。
まあそれだけここに絶景ポイントが満載だってことなんだけど。

ぐりが復興支援ボランティアとして初めて唐桑にやって来たのはちょうど3年前の夏である。
あのときもあまりの絶景に呆然としたのをよく覚えているけど、何度来ても唐桑の夏、東北の夏は実に美しい。突き抜けるように青い空、暴力的な生命力が噴出するかのように生い茂る緑、沖縄ガラスのようなブルーに透き通った海、いたるところでユリやヒルガオやヒメジョオンなどの花々が群れになって彩やかに咲き乱れる。何度来ても、この美しさには感動して涙が出そうになる。
こういうところに住めたらどんなに幸せかと何度思ったことか、もう数えきれない。

3年そう思い続けて実行に移せないのには理由がある。
ぐりは東北ではよそ者だ。よそ者だから地域の人はあたたかく歓迎してくれる。ぐりには何の責任もない。ただの客だから。気楽なもんである。でも移住したらよそ者ではないのだから、地域に対する責任が生じる。人間関係が都会とは比べ物にならないくらい濃密な東北で、空気の読めないぐりが暮らしていける自信がない。要は根性がないのだ。
でもあれから3年、民宿の板前さんを含め、被災地に移住して地域にとけ込んで働いている人、本格的に腰を据えて支援活動にとりくんでいる人も既に珍しくなくなった。その勇気は心から尊敬するが、そういう人たちとは別に、地域の方々の感情を無視した自分本位な支援活動をおしつけようとする人たちも未だにいる。
この落差はなんなのだろうか。支援したいという気持ちに間違いはないのに、結果がズレてしまうのはどこに理由があるのだろう。

ぐりが東北に通い続けてもっとも悩むのは、この未曾有の大災害と大事故に対する被災地外の人間がとるべきスタンスに於いて、正解がなかなかみつけられないことだ。
被災地とひとくちにいっても無茶苦茶広いし、地域ごとに部落ごとに被災の度合いも復興の進み具合も、地域の方々の復興に対する感情も連帯感も全部違う。極端な話、通い続けている唐桑では家庭内の個人単位でも差がある。
そういう現実を知れば知るほど、迷いはどんどん深くなる。いつかは東北に住みたいとどんなに強く思っても、真剣に考えれば考えるほど、そんなことができるのか、どんどんわからなくなっていく。
いつか答えは出るのだろうか。


唐桑の海を持ち歩く。
雨のせいもあったけど、やっぱり東北は涼しい。晴れて日差しが強くなっても湿気がない。

復興ボランティアレポート

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東北のぐりとぐら

2014年05月07日 | 復興支援レポート
5月2日(金)~6日(火)の日程で宮城県気仙沼市唐桑半島に行って来た。

3年前、迷って悩んで、震災後初めて東北入りしたのがGWだった(当時の記事)。電気もガスも水道も泊まるべき屋根のある施設もなければ風呂もない、半径30km圏内にコンビニやスーパーやガソリンスタンドも含め営業している店は一軒もない。郵便局も銀行も電車もバスもなかった。寒くて凍えながらテントの中で眠れない夜をしのぎつつ屋外キッチンで毎日千人分の食事をつくり続けた日々の経験は、ぐりの人生観や価値観をまったく別のものに変えてしまった。
以来GWが巡ってくるたびに、あの死に物狂いの石巻のキッチンを思い出す。あって当り前のものなどこの世に何もないことを知り、すべての運命はいつ誰に降りかかっても不思議ではないことを知り、果てしない優しさこそが人の強さであることを知った、東北の日々のことを。

今回のミッションはこの冬の大雪で倒壊した空き家の解体とその廃材の処分、それとは別に大雪で倒壊した倉庫の修復、津波の後に立ち枯れた樹木を伐採したことで流出した斜面の修復。見事に全部土方である。
移動を除いて3日間、がっつり土方のつもりで作業着やら長靴やら革手袋やら揃えて気合いを入れて東北入りしたのですがー。現実には、民宿のお台所のお手伝いでした。
というのも、土方作業の依頼者のひとりが民宿を経営しており。もともと津波の被災者で漁業者でもあるそのお宅ではこれまでにもさんざっぱらお世話になっている。われわれボランティアにとっては半ば身内のような方々でもある。その方に「ぐりちゃんは台所お願い」といわれれば断る理由もない。連休で滞在者も多い。やることはいっぱいある。
そして3日間朝から晩まで、お料理と皿洗い三昧の日々を過ごして終わった。

でもまあ、これはこれで楽しい。もともと料理は嫌いではないし、つくったものを人に食べてもらうのもどちらかといえば好きな方だ。皿洗いはもっと好きだし。
今回はたまたま元寿司職人の板前さんも手伝いに来ていて、献立は彼が決めてぐりはただ手伝うだけだから気楽なものだ。とはいえ学生時代に懐石コースを出す日本料理店でしばらくアルバイトしていたので、お膳の並べ方や料理の盛り方にはうっすら覚えがある。新鮮この上ない最高級の海産物や、見たことも聞いたこともない珍しい食材が、魔法のように美味しい料理に変身するのを傍で見ているのはほんとうに楽しかった。
ここでの滞在ではしょっちゅう初めて食べるものに出くわすのだが、今回の初対面はマグロの卵にタラのお刺身とお寿司、ホタテの卵にダチョウの卵。なんでこんなところにダチョウの卵があるのかはよくわからなかったけど、電動ドリルで殻に穴をあけて中身を取り出し、40枚のホットケーキと大きな出汁巻き卵をつくった。
地域で活動する他のボランティアチームの宴会では大量の居酒屋メニューをつくった。果てしなく鶏肉を揚げ続けながら、3年前の石巻のキッチンを思い出す。ただ食べてくれる人に心から楽しんでもらうために料理をすることの喜びを知った、寒い寒いGWのことを。

あれから3年が経った。
ぐりの生活環境は激変したけど、東北の復興の道程はまだまだ遠い。確かに少しずつ進んではいる。だがその歩みのじれったさには既に多くの人が怒りも苛立ちも感じなくなっている。それが正しいことなのかどうかはぐりにはわからない。
なるようにしかならないと構える以外に正解があるのなら、本気で探したいとは思うのだけれど、当事者でないぐりに何が出来るというのだろうか。
ただ皆さんの言葉を黙って聞いて、皆さんの気持ちを受け入れる以外に、出来ることはあるのだろうか。


唐桑半島、鮪立(しびたち)の入江から早馬山を臨む。

復興ボランティアレポート

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倉庫の中の世界一周

2013年06月03日 | 復興支援レポート
2ヶ月ぶりに宮城県気仙沼市唐桑町に行ってきた。

今回のミッションは仮設住宅にお住まいの方の倉庫の整理。
津波で全壊した依頼者の自宅はその後解体されて残っていないのだが、浸水を免れた二階の家財の一部を回収して倉庫にしまってある。その中身を取り出して、処分するものととっておくものに分けて、簡単に汚れをとって整理し直してまたしまう。

このあたりの方のご多分にもれず、依頼者の方も漁業関係者。
高齢で今はべつのお仕事をされているが現役時代はかなり羽振りが良かったらしく、倉庫の中には外国製のお土産品なんかがたくさん無造作につっこんである。ふつうの人は海外旅行なんていけない時代から世界中を旅して働いてた人たちだから、故郷で待つ家族とどうにかして異国情緒を共有したかったのだろう、漁にいくたびにあれこれ買って帰って見せてたんだと思う。このへんの被災したお家の片付けではよく遭遇する光景です。定番は彫刻・剥製・洋酒。だいたいどの漁師さんちにもあります。そしてだいたいがビックリするくらいデカイ。多い。

こういうお手伝いをしててこまるのが、出てくるものにいちいちビックリするボランティアにやたらその品をくれたがる依頼者が多いこと。
いや、ありがたいのよ。ありがたいけどね。でももらってもこまるし、むしろ決してもらうべきではないのだ。
ぐりが震災復興ボランティアに通い始めて2年の間に身につけた不文律はいくつかあるけど、これもそのひとつ。依頼者から不用意にモノをもらってはいけない。
東北の田舎の方だからというせいもあって、たいていの方はボランティアに免疫がない。だから遠方から手伝いに来てくれる人にどうしてもお礼がしたいという気持ちで気軽になんでもプレゼントしたがるのだが、高齢の方も多く自らプレゼントしたことを忘れてしまう人もいる。あとになって失くした、盗られた、なんて誤解が生じる危険性も否定できないし、自分で「あげる」「もってって」と口にしておいて本心ではあげたくないと思っている可能性だってあるのだ。めぐりめぐって「よそから来たボランティアにいろいろ持っていかれた」なんて悪評に結びつくこともある。実際にそういう話もいやというほど耳にした。

だから、依頼者の方の波瀾万丈な冒険譚をリスペクトするつもりで、出てくる珍品を物欲しそうに褒めまくっていても、決してプレゼントを期待しているのではないのよ、ということを、もっと皆さんにわかってほしいなあと思う。まあ無理だと思いますけど。

今回の作業ではこのほかにもとんでもないものもあれこれ出てきたけど、残念ながらそれについてここで述べることはできない。
つくづく都会生活者と一次産業従事者の住む世界の落差を感じた週末でした。


南三陸町のお寺にて。

5月の福島

2013年05月13日 | 復興支援レポート
11日の月命日に、福島県沿岸での捜索活動に参加してきた。

先月と同じように、海岸を歩いて、砂や津波で崩壊したテトラポットの中に遺骨や遺物がないか捜す。
午前中は南相馬市萱浜から南へ歩いて捜し、昼食をはさんで午後は萱浜で埋もれたテトラポットの隙間を掘って探した。
昼に降り出した雨が激しくなってきたので、14時46分の黙祷の後、解散。

砂浜には大きな漂着物はほとんどなく、一見きれいにみえるが、実際に歩いてみると服や靴などの生活雑貨や漁具や自動車部品や流木など、津波の細かな残骸がいたるところに埋もれている。
津波にさらわれて沈んだモノが波に洗われ、くだけ、朽ちて小さく軽くなって打ち上げられてくるのだろうか。
それをひとつひとつ検分し、砂を掘って、波に寄せられた砂浜の中に埋もれたものがないか捜した。
砂浜は淡褐色のきれいな砂の下数ミリのところからは黒く、津波で海底から巻き上げられた大きな石とヘドロが混じりあって堆積している。石はこぶし大のものから子どもの頭ほどもあるくらいの大きさで、シャベルで砂ごと取り除くのは難しい。なので、手で石を掘り出してはシャベルで砂を掘り、シャベルを置いてまた石をつかみ出すという作業をひたすらやっていた。
ヘドロは打ち上げられて2年経っていてもしっかりとヘドロの臭いがする。すぐに鼻が慣れるので臭くはないが、掘っている手袋が油のような汁でべとべとになる。

といっても広い広い砂浜で、そうそう遺骨が見つかるものではない。文字通り砂中の針を探すような気の遠くなるような作業だ。
でもやらないわけにはいかない。まだ見つかっていない人がいて、帰りを待っている人がいるから。彼らにとって、その日々に終わりはない。

今回はあいにくの天候だったけど、それでも新緑の福島はおとぎ話のように美しい。
空にはヒバリのさえずりが響き、目にも鮮やかな緑の野原にはたんぽぽや菜の花やチューリップ、ナズナやしろつめくさやポピーやカラスノエンドウが一面に咲き乱れ、遅咲きの山桜と萌えはじめた木の芽でパステルカラーに煙る山々を、雨雲が音もなくゆっくりと這い登っていく。
静かで、穏やかで、そして命の輝きに満ちている。たとえ放射能に汚染されていても、美しいものはやはり美しい。
美しいから悲しい風景もある。5月の福島。


南相馬市萱浜にて。

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東風吹かば

2013年04月15日 | 復興支援レポート
福島県浪江町にいってきた。

今回のミッションは海岸地域で行方不明の方やその手がかりを探すこと。
地元で活動する団体に参加させていただき、今月避難区域が再編された浪江町で避難解除準備区域になった請戸地区の海岸を一日歩き回った。
ここは浪江町でも最も津波の被害を受けた場所だそうで、140人の住民が犠牲になり、現在も10人が行方不明のままになっている。

2年間誰も立ち入ることのなかった、津波の被災地。
見渡す限り何もなく、時折パトカーが静かに巡回する以外、視界に動くものはまったくない。
瓦礫は自衛隊がかたづけて無造作にまとめてはあるものの、どこに持っていけるわけもなく、ただそこに積まれて野ざらしになっている。
鉄は赤錆て木材は風雨に白く風化し、海風に吹き寄せられた細かな泥砂が積もった上に茂った草が枯れている。
打ち上げられて見る影もなく破壊された漁船や車が至る所に散らばり、朽ちていくままになっている。
崩れた岩壁やテトラポットの間には漁具や生活用品の残骸がびっしりと挟まり、海の下に沈んだ漁船から漏れたらしい油が、波を淡い黄褐色に泡立てる。

倒れた電柱のまわりにちぎれた電線が絡まり、土台だけになった家々にも植物が繁茂し、庭に植えられていたらしい水仙やスミレやヒヤシンスは主はなくとも色とりどりの花を咲かせている。
聞こえる音はヒバリのさえずりやカエルの鳴き声。激しい海風が雀の群れの声のような音をたてて枯れた葦の茂みをわたるのは初めて知った。
大きな野うさぎが音も立てずに草むらを駆け抜け、献花台の周囲に群れるカラスは沈黙のままこちらを見下ろしている。
世にも美しい海岸線の南の高台には、原発の高い建物が見える。距離にして3キロ足らず、目と鼻の先だ。

たった一日、初めての訪問で何が語れるわけでもない。浪江の人に出会ったわけでもない。
感じたこと、見た情景をそのまま書き留めておくことしかできない。

避難解除準備区域になったとはいえ、ほんとうにここでまた人が暮らせるかどうか、正直なところまったくわからない。
海底に沈んだ瓦礫を引き揚げ、致命的に破壊しつくされた漁港を改修したところで、とれた海産物が市場に受け入れられるのはいったいいつのことだろう。考えただけで気が遠くなる。
それでも、帰りたいと願う人がいる限り、なんとかしたいと思う人の気持ちは決して無駄ではないと思いたい。
また来たい、きっと来ようと、強く思った。


「東風吹かば 匂ひをこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」と詠った菅原道真は1110年前に異郷の地・太宰府で亡くなったけど、請戸の人たちがこの美しい土地に戻れるのはいつの日か。
画像は請戸の民家跡で咲く木瓜の花。

ストリートビューで浪江町の今の風景が見られるので、よかったらどーぞ。
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