クリストファー W.A.スピルマン著『シュピルマンの時計』
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映画『戦場のピアニスト』の主人公であり原作者であるポーランドの国民的音楽家ウワディスワフ・シュピルマンの長男クリストファー氏による回想録。
クリストファー氏の奥様は日本人。氏も現在は日本に住んで日本の大学で教鞭を執っておられます。なので本書は日本語で書かれている。翻訳ではないのです。こういうのって珍しいんじゃないですかね。世界的著名人の親族が日本語でその著名人について書いた本を日本で出す。世界って広いようで狭いです。
ぐりは映画の公開時にこのクリス氏が表紙写真に使われている遺品の時計を持ってあるTV番組に出ていたのをたまたま見ています。
映画にも時計にまつわる印象深いシーンがあり、この本にもシュピルマン氏が時計に非常なこだわりと云うか執着心のような感情をもっていたことが書かれています。時計だけでなく、衣類やせっけんや缶詰やジャムなど些細な日用品が「なくなる」ことを極度に怖れて使いきれないほど買いためてはダメにしてしまっていたこと、家族全員を失った心の痛みから我が子の安全に異常に神経質になり、しょっちゅう悪夢にうなされていたことなど、戦後になってもなかなか心の平安を取り戻せなかった父の姿が克明に描かれています。
映画でも、生残れてよかったと云う大団円はなく「生残ってしまって死んだ同胞や家族に申し訳ない」と云うなんともやりきれない感情が表現されていたけど、シュピルマン氏の戦後の人生はまさにこの悲しみとの戦いの連続でした。氏は2000年に88歳で亡くなっていますが、晩年引退されてからはよく「私は家族と一緒に、あのとき死ぬべきだったんだ」と云っていたそうです。
半世紀以上の時を経てなお癒されないほどの深い傷で人間を苦しめ続ける、それこそが戦争の罪の深さを物語っています。
シュピルマン氏が戦後まもなく出版した『ある都市の死』(映画の原作。『ピアニスト』『戦場のピアニスト』は再版時の改題)はベストセラーになり、戦前から有名だったピアニスト・音楽家としての活動でも大成功されました。20歳も年下の医学生と結婚し3人のお子さんにも恵まれた。共産圏でも比較的自由なポーランドで経済的には裕福な生活をし、海外に住む子どもたちとは演奏旅行のたびに会うことも出来た。大きな病気もせず、健康なまま老衰で亡くなった。
たくさんの勇気あるポーランド人に助けられて生残った貴重な人生を、味わった不幸のいくぶんかは報われるだけは幸せに過ごされたのではないかと思いたい。それが人情です。
でも実際には、年をとればとるほど鮮明になっていく戦争の記憶に苦しめられ、精神的にも不安定になっていったそうです。それは『ある都市の死』の再版や『戦場のピアニスト』映画化の企画によってより強く喚びさまされた記憶だったかもしれない。それほど苦しんでおられたのに、再版や映画化を拒まなかった氏に、ぐりは一読者として、一観客として感謝しなくてはならないだろう。二度と思い出したくないからと云う当然の理由でそれらを封印されてしまっていたら、あの傑作が世に出ることはなかったのだから。
クリス氏は父上を、音楽家として偉大な人であり父として誇りに思うが、人間としては全く普通の人だった、と述懐していますが、この選択だけで、ぐりは、大変勇気ある人、大きな人なのではないかと思うのです。人は自分が見たくないもの、触れたくないものをなかったことにしてしまうことで自分を守る生き物です。その選択を責める権利は誰にもない。にも関わらず、シュピルマン氏はそうして自己を守ることよりも、次の世代に語り継ぐべき使命の方を選択された。なかなか出来ないことではないかと、ぐりは思います。
ところで作中に意外なことが書かれていて驚きました。
なんと『戦場のピアニスト』のロマン・ポランスキー監督と、プロダクションデザインのアラン・スタルスキー(『シンドラーのリスト』も担当)とシュピルマン氏はもともと直接面識があったそうです。
こう書かれちゃうとやっぱり伝記映画は本人を直に知ってる人が撮るのがいちばんなのかな・・・とか改めて思っちゃいますね。
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映画『戦場のピアニスト』の主人公であり原作者であるポーランドの国民的音楽家ウワディスワフ・シュピルマンの長男クリストファー氏による回想録。
クリストファー氏の奥様は日本人。氏も現在は日本に住んで日本の大学で教鞭を執っておられます。なので本書は日本語で書かれている。翻訳ではないのです。こういうのって珍しいんじゃないですかね。世界的著名人の親族が日本語でその著名人について書いた本を日本で出す。世界って広いようで狭いです。
ぐりは映画の公開時にこのクリス氏が表紙写真に使われている遺品の時計を持ってあるTV番組に出ていたのをたまたま見ています。
映画にも時計にまつわる印象深いシーンがあり、この本にもシュピルマン氏が時計に非常なこだわりと云うか執着心のような感情をもっていたことが書かれています。時計だけでなく、衣類やせっけんや缶詰やジャムなど些細な日用品が「なくなる」ことを極度に怖れて使いきれないほど買いためてはダメにしてしまっていたこと、家族全員を失った心の痛みから我が子の安全に異常に神経質になり、しょっちゅう悪夢にうなされていたことなど、戦後になってもなかなか心の平安を取り戻せなかった父の姿が克明に描かれています。
映画でも、生残れてよかったと云う大団円はなく「生残ってしまって死んだ同胞や家族に申し訳ない」と云うなんともやりきれない感情が表現されていたけど、シュピルマン氏の戦後の人生はまさにこの悲しみとの戦いの連続でした。氏は2000年に88歳で亡くなっていますが、晩年引退されてからはよく「私は家族と一緒に、あのとき死ぬべきだったんだ」と云っていたそうです。
半世紀以上の時を経てなお癒されないほどの深い傷で人間を苦しめ続ける、それこそが戦争の罪の深さを物語っています。
シュピルマン氏が戦後まもなく出版した『ある都市の死』(映画の原作。『ピアニスト』『戦場のピアニスト』は再版時の改題)はベストセラーになり、戦前から有名だったピアニスト・音楽家としての活動でも大成功されました。20歳も年下の医学生と結婚し3人のお子さんにも恵まれた。共産圏でも比較的自由なポーランドで経済的には裕福な生活をし、海外に住む子どもたちとは演奏旅行のたびに会うことも出来た。大きな病気もせず、健康なまま老衰で亡くなった。
たくさんの勇気あるポーランド人に助けられて生残った貴重な人生を、味わった不幸のいくぶんかは報われるだけは幸せに過ごされたのではないかと思いたい。それが人情です。
でも実際には、年をとればとるほど鮮明になっていく戦争の記憶に苦しめられ、精神的にも不安定になっていったそうです。それは『ある都市の死』の再版や『戦場のピアニスト』映画化の企画によってより強く喚びさまされた記憶だったかもしれない。それほど苦しんでおられたのに、再版や映画化を拒まなかった氏に、ぐりは一読者として、一観客として感謝しなくてはならないだろう。二度と思い出したくないからと云う当然の理由でそれらを封印されてしまっていたら、あの傑作が世に出ることはなかったのだから。
クリス氏は父上を、音楽家として偉大な人であり父として誇りに思うが、人間としては全く普通の人だった、と述懐していますが、この選択だけで、ぐりは、大変勇気ある人、大きな人なのではないかと思うのです。人は自分が見たくないもの、触れたくないものをなかったことにしてしまうことで自分を守る生き物です。その選択を責める権利は誰にもない。にも関わらず、シュピルマン氏はそうして自己を守ることよりも、次の世代に語り継ぐべき使命の方を選択された。なかなか出来ないことではないかと、ぐりは思います。
ところで作中に意外なことが書かれていて驚きました。
なんと『戦場のピアニスト』のロマン・ポランスキー監督と、プロダクションデザインのアラン・スタルスキー(『シンドラーのリスト』も担当)とシュピルマン氏はもともと直接面識があったそうです。
こう書かれちゃうとやっぱり伝記映画は本人を直に知ってる人が撮るのがいちばんなのかな・・・とか改めて思っちゃいますね。