落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

人間失格

2010年02月08日 | book
『子どもと性被害』 吉田タカコ著

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『ミスティック・リバー』に続きまして。子どもの性的虐待についてのレビューです。
子どもの性的虐待、と聞いて皆さんどんなイメージがありますかね?たとえば、被害者ってどんな人でしょう?加害者ってどんな人でしょう?
小さいころ、「知らない人についていかない」「暗くなる前にうちに帰りなさい」と教わった人は多いと思う。でもそれと同時に「おとなのいうことは聞きなさい」と教えられた人、「ちんちん」「おしり」「おまんこ」など性器を表わす言葉を人前で口にしないよう教えられた人も多いだろうし、これらは子どもに対するしつけとして、どこでも誰にでも常識的なルールととらえられているのではないだろうか。
だがそれがぜんぶ間違っていたとしたらどうだろう。

子どもに対する性的虐待の加害者は、多くが被害者と日常的な関わりをもっているといわれている。父親・母親・兄弟姉妹・叔父や叔母・祖父母・親戚といった親族はいうにおよばず、親族の友人や従業員などの関係者、同居人、近所の人や学校・塾やお稽古事の教師、部活動のコーチ、学校の同級生や上級生・下級生、児童福祉施設職員や医師をふくむ医療関係者、教会職員など、加害者になりうる人間は子どものまわりにいくらでもいる。正確な統計は手元にないけど、おそらく子どもの性被害全体からみれば、加害者は「知らない人」よりも「知っている人」の方が多いはずである。なぜなら、子どものそばにいて虐待をくわえる機会を多くもつのは明らかに「知らない人」より「知っている人」だからだ。
そして被害にあう場所も、家庭や学校など子どもの生活の場と重なりあうことが多い。先月一審判決が下りた酒井康資被告(フィギュアスケートコーチ。13歳の教え子を強姦)は自宅で凶行に及んでいるが、加害者が身近な人間である場合は被害が起こるのも身近な場所になる。「暗くなる前にうちに帰」っていても、子どもの性を完全に守ることはできない。

ぐりは理想主義者でも楽観主義者でもないので、子どもに対する性被害は決して現実世界からなくなったりしないだろうと思っている。
でも、少しでも数を減らすことや、起きてしまった被害から子どもの心を回復させることはできるはずだと思っている。
たとえば、被害にあった子どもは自分に何が起こったのかわからず、誰にも相談できないまま、さらなる虐待を自ら助長してしまったり、精神的に深刻なダメージを受けてしまうことがある。
だから、子どもには自分のからだを守るための知識が必要だし、起きてしまったことをすぐに相談できる相手と、安心して逃げ込める場所が必須になる。
ところが、子どもへの性的虐待そのものが認知されて間もない日本には、そうしたケアができるシステムがまだほとんど整備されていないのが現状だという。教育現場には有効な性教育もなかなか受け入れられていない。

虐待を見抜ける社会、虐待から子どもを守れる社会をつくっていくのには、気が遠くなるような長い道のりが待っている。
けど、それがほんとうに必要とされていることを誰もが認めさえすれば、そんなに難しいことではないはずだと、ぐりは思う。
少なくとも、性的虐待にあった子どもやそうした過去をもつ人たちへの偏見をなくすことや、子どもの人権を無視した児童ポルノへの毅然とした拒否は、市民ひとりひとりが堂々と主張していくことで、被害を少なくしたり未然に防ぐための有効な手段になりうる。
そんなのべつに難しくもなんともない。
誰にだって、今からだってできるはず。
違いますか。

神秘川

2010年02月08日 | book
『ミスティック・リバー』  デニス・ルヘイン著 加賀山卓朗訳

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2003年にクリント・イーストウッド監督により映画化され、その年のアカデミー賞で主演・助演男優賞を獲得したほか、ゴールデン・グローブ賞、放送映画批評家協会賞など賞レースを総ナメにした話題作の原作小説。
映画版のレビューはコチラ
“ミスティック・リバー”はアメリカ・マサチューセッツ州、ボストン市の北側を流れる短い川の名前。
この川の傍で育った遊び仲間のショーン、ジミー、デイヴは11歳のある日、いつものように3人で遊んでいて、デイヴだけが誘拐されるという事件に巻き込まれる。デイヴは4日後に無事に戻って来たが、以後3人が仲のよい幼友だちの関係にもどることはなく25年の歳月が流れ、ジミーの19歳の娘ケイティが惨殺されたことからふたたび3人の運命は交差し始める。

んー。イマイチ!
すごくよく書けてるんですけどねえ〜なんかもうちょっと・・・ひきこまれるって感じではない。
映画版のレビューもひさびさ読み返したけど、めちゃくちゃ書いてるねアタシ。さすが(?)。けどまあ原作の方が面白いことは確かです。6年前の映画をいまさら見返したりしなくても、この原作を消化した以上の映画じゃなかったくらいのことはわかりますが。
日本での公開時のコピーは「もうひとつの『スタンド・バイ・ミー』を見るために、あなたは大人になった。」だったんだけど、まあだいたいそういう話です。ただ、『スタンド・バイ・ミー』の原作が中編だったゆえに成功した映像化が、『ミスティック・リバー』の原作が長篇(なげーっす)ゆえにうまいこといかんかった、とかいわれても困りますけれど。

といっても『スタンド・バイ・ミー』と『ミスティック・リバー』には共通点はほとんどない。
『スタンド・バイ・ミー』に登場する4人の少年たちはそれぞれ家庭に問題を抱え、互いを結びつけあう必然性があった。『ミスティック・リバー』の3人にそれはない。ただたまたま近くにいて、たまたま仲良くなっただけだった。『スタンド・バイ・ミー』の4人は物語のあとそれぞれに別の進路を選び、ふたたび親しくなることなく友情はノスタルジーの中へ埋没していく。『ミスティック・リバー』の3人の友情もあっさりと壊れて消えていくが、彼らは町を離れることなくコミュニティの一員同士として一定の距離は保ったままおとなになる。

読んでてメチャメチャ気になったんだけど、この著者ってもしかして『スタンド・バイ・ミー』をかなり強く意識してたんじゃないかなあ?って。思い過ごしかな?いやー。たぶんそーだと思うんだけど。
たとえば、殺されたケイティと生前最後に過ごした友だちふたりの数年後の回想シーンなんかをわざわざ挿入してるとことか・・・すっごいイヤミなんだもん。わかるけどね。気持ちはさ。
機能不全の家庭に育つ悲劇や、愛する家族を突然奪われる悲しみは、当事者にとっては永遠に消えることのない心の痛みだけど、どんなに親しい間柄であっても非当事者にとっては時間が過ぎてしまえばただの暗い思い出になってしまうなんてよくあることだ。だからってそれをわざわざ取り上げて登場人物を卑下しなくてもいいんじゃないのかねえ?もしかしてこの作家さんて女の人嫌いなの?
つーかさ、ジミーとショーンの人物描写はやたら美しいのに、それ以外は徹底的にボロカスってやっぱ読んでて気持ちいいもんじゃないですよ・・・。

それとデイヴの内面描写がけっこー単純なのがひっかかり。
ほんとはそこ一番大事なんとちゃうの〜〜?って思うんですけど〜〜。これじゃあ性的虐待を受けた子どもがみんな性的倒錯者とか性犯罪者になっちゃうみたいでさ〜〜ヤなんですけど〜〜。
どーせこの題材をあつかうならもっと真面目にやってほしかったですよ・・・。