落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

タイガーマスクは読んだことないけど

2011年01月18日 | diary
「タイガーマスク運動」は本当にただの自己満足か?
“伊達直人”的心理に潜む子ども世代への罪滅ぼし意識 1/2/3/4
手作りチャーシューはちょっと… きょうの「伊達直人」
保健所にペットフード 「高校生の伊達直人」

去年のクリスマス当日に群馬県の児童相談所に「伊達直人」名義でランドセルが届けられたのが報道されて以来、全国各地でいろんな「伊達直人」からの寄付が続いてるそーですが。まー中には残念ながらよくわかってない方々もおられたりもして。
すごくいいことだと思う。善意の寄付。でもさ、なんで匿名で寄付せにゃいかんのかがわからないね。べつに実名でよろしいやん。公表しないように寄付先に頼みさえすりゃ済む話でしょう。
ん?なんで匿名はいかんのか?べつに匿名でもええやんか、って人もいるし、匿名で寄付したい自由もあってよかろーではないか?とか?

こういう寄付を受けつけてるのは児童相談所以外にもごまんとありまして。
養護施設とか一時保護施設とか人権団体とか動物愛護センターとか、とにかく善意の寄付に頼りながら活動してる施設や団体はいっぱいある。
そういうところの収入は大半が助成金と寄付金なんだけど(公的な施設には行政から出る予算もあるが決してそれだけでは足りない)、その使い道は全部、ドナー=提供者に報告する義務があるわけね。そういうところの活動は遊びでやってんじゃなくて仕事だからさ。どこからどんなお金がどれだけ入って来て、何にどれだけ使って、結果どんな成果が上がりました、ってのを全部年に一回報告するわけ。でないと活動の質が向上してかないからね。
そういうときに寄付者が匿名で連絡先不明だと報告できないよね。あなたがこれだけしてくれた善意を、こんな風に有益に使いました、って報告ができない。
これはどういうことか?善意が一方通行で終わっちゃう、ってことです。善意を伝えて伝えっぱなし、次へつながっていかない。そんな一発花火の善意は果たして本当に善意といえるのか?

寄付を必要としている施設や団体がしている活動は決して一時的なものではない。
そこに生きている人間がいる限り、活動は日々連続している。
日々連続している限り、毎日必要なものがあり、毎日足りなくなるものがある。
それを補うために、日々多くの名もなき人が善意の寄付を続けている。何もマンガのキャラクターを名乗らなくても、クリスマスでなくてもお年玉でなくても、毎日必要なもの、毎日足りなくなるものを、黙って提供している人々がいる。
寄付をされた側はいただいたものを使って活動し、定期的にその活動をドナーに知らせる。こんなことができて、あんなことができた。それを知ったドナーは、じゃあ今度はこうしてあげよう、ああしてあげたいと次の支援を考えてくれたり、その活動の話を周りの人にしてくれたりするかもしれない。それを聞いて、私も何かしたいと考えてくれる人がいるかもしれない。
そんな風に続いていく寄付こそが、継続した社会支援を支えている。
お年玉やクリスマスプレゼントだけじゃ、毎日おなかいっぱいにはならないんだよね。現実はね。

ちなみに寄付はお金やモノがなくてもできる。
チャリティイベントやオークション、バザー、パーティーという方法もある。支援したい団体・施設に許可を取って、参加者に趣旨を説明し、収益を寄付すればよろしい。来場者は楽しめて、知識もちょっとできて、善意も提供できて、一石三鳥くらいのお得な寄付方法である。
たとえば、世の中にはゴージャスなパーティーばっかやって数千万円単位の寄付を集めている、ドネーションパーティーの専門業者みたいなRoom to Readとゆー団体もある(れっきとした人権団体です)。ここはパーティーばっかりやることでノウハウとコネクションとネームバリューを積み上げて、継続した支援と活動というサイクルを構築している。
伊達直人さんのやってることとRoom to Readのやってることは本質的には同じかもしれない。けど、どっちがあてになるか?という点をとってみれば答えは明白じゃないかと思う。

ぐりは伊達直人運動そのものはいいことだと思う。
けど、できることなら、これを機会に日本でも寄付という文化、社会貢献という文化がもっと浸透してくれればなあとも思う。

日本財団 夢の貯金箱