『清須会議』
1582年、本能寺の変での織田信長(篠井英介)死去後、織田家の跡目相続問題を戦いではなく家臣の合議で決定した、それまでの争乱の時代の転換点の端緒となった清須会議を、三谷幸喜自ら小説化、監督した作品。
実をいうと三谷作品を劇場で見たのはこれが初めて。テレビでは古畑任三郎シリーズが好きでよく観てたんだけどね。おもしろいとは思うんだけど、わざわざ劇場で観たいとは思ったことなくて。
正直いって観てもその感覚には変わりなかったです。わざわざ劇場で観ることなかった。たぶんもう三谷作品を観に映画館には行かないと思う。
わざわざ劇場で観るべきものにしたくて、いろいろと工夫してるのはわかる。でも、だから何?って感じなの。
確かにキャストは豪華です。けど豪華なキャストでもあれだけうじゃうじゃ出てこられたらひとりひとりの出番が少な過ぎて、それぞれの持ち味も何もなくなる。だいたい後でキャスト表見てもどこに出てたんだかまったく思い出せない人もいる。天海祐希なんか顔一回しか映ってない(爆)。そこまでして豪華キャストにこだわる意味がわからない。
それと同じ意味で特殊メイクも超いらなかった。女優陣の眉なしお歯黒メイクは別として、男性陣のつけ耳やらつけ鼻やら不自然な異相にばっかり注意が向いてしまって、気が散って芝居に集中できなかったです。はっきりと目障りだった。キャラを強調するためなのか、出演者がみんな主演級の有名人だから変な顔にして観客に笑ってほしかったのかもしれないけど、そこは全然おもしろくもなんともなかった。
それにしてもこれだけすごい人ばっかり集めといて主役が大泉洋ってバランス悪いよ。大泉洋自体はいい役者だしキャラクターにもハマってるけど。
ストーリー自体は悪くはない。ちゃんと楽しめる。
清須会議では、最終的には大泉洋演じる秀吉が光秀(浅野和之)討伐の手柄をかさに着て、信長の長子・信忠(中村勘九郎)の幼い遺児・三法師(津島美羽)を擁立して終結することは歴史が証明している。では、そもそもは一介の草履取りで後ろ盾も何もない彼になぜそんなことができたのか、というところが物語の軸になっている。
三谷幸喜はそれを、「武家の魂」なる既成の固定概念と、オーディエンスの無自覚な感情論を操るアジテーションの力との拮抗として描いた。
誰もが一目置く筆頭家老の柴田勝家(役所広司)や丹羽長秀(小日向文世)、お市の方(鈴木京香)などは「武家の魂」側の人間である。既成の固定概念であれば、彼らの発言力よりも大きな影響を持つものはいなかったはずである。
その体制を秀吉は「場の空気を動かす」ことでひっくり返した。もちろん、光秀討伐という大手柄も、彼の発言力を膨らませるのに大きく役立ったには違いない。だがそれだけで大勢は彼に同調はしなかったはずである。なぜなら、物心もつかない幼児を秀吉の意志で跡継ぎにするということはすなわち、誰の目から見ても、早晩織田家を彼に売り渡してしまうことと同義であることは明らかだからだ。
それをそうは思わせず、あたかも「武家の魂」なる既成の固定概念上の跡目相続であるかのように周囲に納得させてしまったのは、秀吉の語る物語の説得力などではない。ただなんとなく「こいつに同調しておけば損はないだろう」という感覚に大勢を陥れる力が彼にあったからだ。かつ、秀吉はそれをまず有力家臣ではなく、政治的影響力をほとんど持たない下級の家臣たち=オーディエンスに浸透させた。そして場の空気を動かした。
誰ひとり三法師が織田家を継ぐことになんか本気で賛成してはいない。ただ「秀吉に同調しておいた方が身のため」という保身からそうしただけだ。しかもその判断に根拠はない。みんな秀吉になんとなくのせられただけ。
こんなに怖い話はないし、滑稽な話もない。
思いっきり裏を読めば、これは今の日本の政治構造にそのまま受け継がれているともいえるのかもしれない。
ほんとうにどんな政府運営をしたいのか、どんな社会を築き守っていくべきなのか、そんなごく当り前の論理やビジョンよりも、誰に同調すれば自分の身のためかを考えている人間だけが権力にしがみつき、行く先のあてもないまま国政を転がしている。
民主主義なんかじゃないね。いまも日本は戦国時代のままなのかもしれない。それでこれから鎖国でもするのかなあ。
映画観ながらそんなことごちゃごちゃ考えちゃいました。
1582年、本能寺の変での織田信長(篠井英介)死去後、織田家の跡目相続問題を戦いではなく家臣の合議で決定した、それまでの争乱の時代の転換点の端緒となった清須会議を、三谷幸喜自ら小説化、監督した作品。
実をいうと三谷作品を劇場で見たのはこれが初めて。テレビでは古畑任三郎シリーズが好きでよく観てたんだけどね。おもしろいとは思うんだけど、わざわざ劇場で観たいとは思ったことなくて。
正直いって観てもその感覚には変わりなかったです。わざわざ劇場で観ることなかった。たぶんもう三谷作品を観に映画館には行かないと思う。
わざわざ劇場で観るべきものにしたくて、いろいろと工夫してるのはわかる。でも、だから何?って感じなの。
確かにキャストは豪華です。けど豪華なキャストでもあれだけうじゃうじゃ出てこられたらひとりひとりの出番が少な過ぎて、それぞれの持ち味も何もなくなる。だいたい後でキャスト表見てもどこに出てたんだかまったく思い出せない人もいる。天海祐希なんか顔一回しか映ってない(爆)。そこまでして豪華キャストにこだわる意味がわからない。
それと同じ意味で特殊メイクも超いらなかった。女優陣の眉なしお歯黒メイクは別として、男性陣のつけ耳やらつけ鼻やら不自然な異相にばっかり注意が向いてしまって、気が散って芝居に集中できなかったです。はっきりと目障りだった。キャラを強調するためなのか、出演者がみんな主演級の有名人だから変な顔にして観客に笑ってほしかったのかもしれないけど、そこは全然おもしろくもなんともなかった。
それにしてもこれだけすごい人ばっかり集めといて主役が大泉洋ってバランス悪いよ。大泉洋自体はいい役者だしキャラクターにもハマってるけど。
ストーリー自体は悪くはない。ちゃんと楽しめる。
清須会議では、最終的には大泉洋演じる秀吉が光秀(浅野和之)討伐の手柄をかさに着て、信長の長子・信忠(中村勘九郎)の幼い遺児・三法師(津島美羽)を擁立して終結することは歴史が証明している。では、そもそもは一介の草履取りで後ろ盾も何もない彼になぜそんなことができたのか、というところが物語の軸になっている。
三谷幸喜はそれを、「武家の魂」なる既成の固定概念と、オーディエンスの無自覚な感情論を操るアジテーションの力との拮抗として描いた。
誰もが一目置く筆頭家老の柴田勝家(役所広司)や丹羽長秀(小日向文世)、お市の方(鈴木京香)などは「武家の魂」側の人間である。既成の固定概念であれば、彼らの発言力よりも大きな影響を持つものはいなかったはずである。
その体制を秀吉は「場の空気を動かす」ことでひっくり返した。もちろん、光秀討伐という大手柄も、彼の発言力を膨らませるのに大きく役立ったには違いない。だがそれだけで大勢は彼に同調はしなかったはずである。なぜなら、物心もつかない幼児を秀吉の意志で跡継ぎにするということはすなわち、誰の目から見ても、早晩織田家を彼に売り渡してしまうことと同義であることは明らかだからだ。
それをそうは思わせず、あたかも「武家の魂」なる既成の固定概念上の跡目相続であるかのように周囲に納得させてしまったのは、秀吉の語る物語の説得力などではない。ただなんとなく「こいつに同調しておけば損はないだろう」という感覚に大勢を陥れる力が彼にあったからだ。かつ、秀吉はそれをまず有力家臣ではなく、政治的影響力をほとんど持たない下級の家臣たち=オーディエンスに浸透させた。そして場の空気を動かした。
誰ひとり三法師が織田家を継ぐことになんか本気で賛成してはいない。ただ「秀吉に同調しておいた方が身のため」という保身からそうしただけだ。しかもその判断に根拠はない。みんな秀吉になんとなくのせられただけ。
こんなに怖い話はないし、滑稽な話もない。
思いっきり裏を読めば、これは今の日本の政治構造にそのまま受け継がれているともいえるのかもしれない。
ほんとうにどんな政府運営をしたいのか、どんな社会を築き守っていくべきなのか、そんなごく当り前の論理やビジョンよりも、誰に同調すれば自分の身のためかを考えている人間だけが権力にしがみつき、行く先のあてもないまま国政を転がしている。
民主主義なんかじゃないね。いまも日本は戦国時代のままなのかもしれない。それでこれから鎖国でもするのかなあ。
映画観ながらそんなことごちゃごちゃ考えちゃいました。