『母がしんどい』 田房永子著
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お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、弟、妹、おじいさん、おばあさん。
会社員、サラリーマン、OL、公務員、店員さん、店長さん、社長さん、先生、おまわりさん、市職員、運転手さん、看護師さん、お医者さん、作家さん、調査員、選手、監督、コーチ・・・(めんどうになってきた)。
世の中にはありとあらゆる“役割”があって、それぞれに理想像というものがある。おそらくは何の役割も持たない人というのは存在しないのではないだろうか。意識的にせよ無自覚にせよ、人は誰でもそれぞれの役割を背負って生きている。だが人が思い描く理想通りに役割を果たせる人はそうはいない。
いや、理想通りでなくてもいいのだ。人はひとりひとり全員が違っていて当たり前なのだし、理想通りでなくてもその人にしかない力もある。そもそも理想などというものは実体のない単なるイメージでしかないということもある。
誰が何といおうと、人は自分の幸せを追求し、まもる権利がある。そのためには理想ばかり追っていられないことも珍しくはない。
だが儒教思想やイエの概念が根強いアジア社会では、子は親に従うもの、家族は絶対的な絆である、という固定観念がいまだに大きな力で人の心を縛りつけている。
それはそれで否定はしない。だが誰にでもひたすら手前勝手に押しつけあったところで、いったい何が生まれるだろう。無理なものは無理、諦めるべきところは諦めてもらいたいと思う。血を分けた肉親であれ、世代も違えば価値観も違う。わかりあえなくても相性が合わなくても、しかたがないこともある。
少なくともぐりは完全に諦めた。
家族に自分を理解してもらいたいとか、自ら家族を理解したいとか、そういうことは毛頭思わない。
何年も何年も葛藤して、そしてついに力尽きたのだ。
残念ながら自分はそこまでの人間だ。だからなんだというのだ。
自分の限界を知って葛藤をやめることくらい、きれいさっぱりと気持ちのいいことはない。
このコミックエッセイの「母」はことあるごとに「あなたのため」「愛してるから」と娘を脅迫し、彼女自身の価値観を押しつけ、コントロールしようとしてばかりいる。まあけっこうキョーレツな人ではある。
でも読んでいてとくに変わった人だとは思わなかった。寂しい人なのかなとは思ったけど。
こういうお母さんでいたい、こういう娘がほしいという理想像が強すぎて、彼女自身が自分の追い求める理想に負けて主体性を見失っていたのではないかとも思う。
ただ、誰にでもうっかり彼女のような言動を子どもに向かってしてしまう可能性はあるだろうなとは思った。なにしろ自分の腹を痛めた子どもなんだから自分の思い通りにして当たり前、できて当たり前というファシズムには、意外に誰でも陥りやすい部分があるだろう。
この作品でキーになるのはあまり登場しない父親だが、現代日本の子育て現場での父親の不在ぶりからすれば、実はこの本を読むべきなのは母親でも子どもでもなく、父親なのではという気がしなくもない。
積極的に子育てに関わるということは何も子どもに直接手をかけるだけではない。そこで主導権を持つ母親への関わりも父親の大切な役目だし、そこで妻という他人のわからなさにひるむことなく、対等なパートナーとして男らしくしっかり向いあい、家族の中のパワーバランスの均衡を保つのは、やはり父親にこそできることなのではないだろうか。
理想やら固定概念は捨てて、これはこういうものだからと現実を受け入れることがすべての始まり。うつ病やったときに学んだ、ぐりの一番大事な人生訓でございます。
それにしても世の中には正論が好きな人がなんと多いことか。
相手が傷つこうが、自分がどれほど無理解であろうが、正論だけ主張してればいいと何も考えずに勝手に思い込んでる人くらい迷惑なものはないと、ぐりは思うのですが。
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お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、弟、妹、おじいさん、おばあさん。
会社員、サラリーマン、OL、公務員、店員さん、店長さん、社長さん、先生、おまわりさん、市職員、運転手さん、看護師さん、お医者さん、作家さん、調査員、選手、監督、コーチ・・・(めんどうになってきた)。
世の中にはありとあらゆる“役割”があって、それぞれに理想像というものがある。おそらくは何の役割も持たない人というのは存在しないのではないだろうか。意識的にせよ無自覚にせよ、人は誰でもそれぞれの役割を背負って生きている。だが人が思い描く理想通りに役割を果たせる人はそうはいない。
いや、理想通りでなくてもいいのだ。人はひとりひとり全員が違っていて当たり前なのだし、理想通りでなくてもその人にしかない力もある。そもそも理想などというものは実体のない単なるイメージでしかないということもある。
誰が何といおうと、人は自分の幸せを追求し、まもる権利がある。そのためには理想ばかり追っていられないことも珍しくはない。
だが儒教思想やイエの概念が根強いアジア社会では、子は親に従うもの、家族は絶対的な絆である、という固定観念がいまだに大きな力で人の心を縛りつけている。
それはそれで否定はしない。だが誰にでもひたすら手前勝手に押しつけあったところで、いったい何が生まれるだろう。無理なものは無理、諦めるべきところは諦めてもらいたいと思う。血を分けた肉親であれ、世代も違えば価値観も違う。わかりあえなくても相性が合わなくても、しかたがないこともある。
少なくともぐりは完全に諦めた。
家族に自分を理解してもらいたいとか、自ら家族を理解したいとか、そういうことは毛頭思わない。
何年も何年も葛藤して、そしてついに力尽きたのだ。
残念ながら自分はそこまでの人間だ。だからなんだというのだ。
自分の限界を知って葛藤をやめることくらい、きれいさっぱりと気持ちのいいことはない。
このコミックエッセイの「母」はことあるごとに「あなたのため」「愛してるから」と娘を脅迫し、彼女自身の価値観を押しつけ、コントロールしようとしてばかりいる。まあけっこうキョーレツな人ではある。
でも読んでいてとくに変わった人だとは思わなかった。寂しい人なのかなとは思ったけど。
こういうお母さんでいたい、こういう娘がほしいという理想像が強すぎて、彼女自身が自分の追い求める理想に負けて主体性を見失っていたのではないかとも思う。
ただ、誰にでもうっかり彼女のような言動を子どもに向かってしてしまう可能性はあるだろうなとは思った。なにしろ自分の腹を痛めた子どもなんだから自分の思い通りにして当たり前、できて当たり前というファシズムには、意外に誰でも陥りやすい部分があるだろう。
この作品でキーになるのはあまり登場しない父親だが、現代日本の子育て現場での父親の不在ぶりからすれば、実はこの本を読むべきなのは母親でも子どもでもなく、父親なのではという気がしなくもない。
積極的に子育てに関わるということは何も子どもに直接手をかけるだけではない。そこで主導権を持つ母親への関わりも父親の大切な役目だし、そこで妻という他人のわからなさにひるむことなく、対等なパートナーとして男らしくしっかり向いあい、家族の中のパワーバランスの均衡を保つのは、やはり父親にこそできることなのではないだろうか。
理想やら固定概念は捨てて、これはこういうものだからと現実を受け入れることがすべての始まり。うつ病やったときに学んだ、ぐりの一番大事な人生訓でございます。
それにしても世の中には正論が好きな人がなんと多いことか。
相手が傷つこうが、自分がどれほど無理解であろうが、正論だけ主張してればいいと何も考えずに勝手に思い込んでる人くらい迷惑なものはないと、ぐりは思うのですが。