落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

Sommes-nous aimons toujours?

2015年05月06日 | movie
『Mommy マミー』

注意欠如・多動性障害(ADHD)をもつスティーヴ(アントワーヌ・オリヴィエ・ピロン)が施設で問題を起こし、自宅に引き取らざるを得なくなったことを理由に職場を解雇されてしまった母親ダイアン(アンヌ・ドルヴァル)。素直で優しいが自制の利かないスティーヴは15歳、父親は3年前に他界し経済的余裕もなく、たったひとりで体力の有り余った息子に対峙しなくてはならない彼女に助け舟を出したのは、近所に住むカイラ(スザンヌ・クレマン)だった。
去年のカンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞した話題作。

記事の最後に貼った予告編を観ればわかるけど、この映画のアスペクト比(画面縦横比)は1:1。といっても全編ではない。作中何度かアスペクトが変わることがある。作中でアスペクトを変えるのは、日本では庵野秀明がやりますね。ぐりの記憶が正しければ『式日』がそうでしたね。『ラブ&ポップ』はどーだっけな。
とはいえ1:1はさすがにぐりも観たことない。劇場用長編で他にこういうアスペクトの作品つくってる人いるのかな?
なんで画面縦横比がこんなに重要かというとですね。もともと人間の視界はかなり横長で、これに従って近代映画の縦横比はおよそ2:1のスコープサイズか、1.85:1のビスタサイズが主流になっている。SF映画やアクション、スペクタクルものなど臨場感が重視されるジャンルのものはさらに横長なシネマスコープ。縦横比は2.35:1である。
つまり1:1ということは見えているはずの視界が半分ざっくり遮られていることになる。当然観ていてストレスを感じる。

そのストレスが妙なリアリティにうまく結びついているというところがおもしろい。
ダイアンは“障害をもつ子を抱えたかわいそうなシングルマザー”のステレオタイプとは真逆な破天荒かあさんだが、それでもコントロールがまったくきかないスティーヴとの生活の緊張感に常にさらされ続けている。当のスティーヴにしても障害はあっても知能に問題があるわけではないので、自分で自分の障害にプレッシャーを感じている。母親が好きで自分の手で幸せにしてあげたいのに、どうしてもできない。母子と友情を育むカイラも言語障害を患って教師の職を離れ、夫や子どもともうまく心が通わせられないでいる。
それぞれにのしかかる重荷によって、見えるはずのものもうまく見えない、見たいものがうまく見えないといった心理を、この狭苦しい画面縦横比がメタファーとして表現しているんではないかと思うのですがどうでしょう。

アスペクトだけじゃなくてデジタル編集のエフェクトが各所にふんだんに使われてて、全編通して今どきの若手監督らしい映像になっていて、障害をもつ子とその親という手垢にまみれ倒した普遍的な物語とうまい対比になっていたりもする。
おそらくは、この物語を従来のメソッド通りの映像でつくっても、ここまで話題にはならなかったんじゃないかと思う。誰もがスマホとSNSで映像を世界中に発信できるようになった現代、横幅が狭くて大半がステディカム撮影のこの作品の映像は、無意識に相当な親近感を感じさせる力を持っているのではないだろうか。
シナリオそのものもすごくよくできてるとは思いますけどね。親子とカイラの三者の緊迫しつつもあたたかな関係の有機的な心地よさなんか絶妙です。
ただ個人的には、そこまで話題になるほどの傑作かと訊かれるとそうでもないと答えてしまうだろう。役者の演技も素晴らしいし、新鮮なところはあるし力作ではあるけど、驚くほどではないです。観て損はないけど観なくても損ということもないです。はい。



Καλημερα, Καλησπερα, Καληνυχτα

2015年05月06日 | movie
『ギリシャに消えた嘘』

パルテノン神殿で出会ったチェスター(ヴィゴ・モーテンセン)と妻コレット(キルステン・ダンスト)から小銭をまきあげようと、一日限りの旅行ガイドとしてアテネ観光を楽しんだマルチリンガルのライダル(オスカー・アイザック)だが、夫妻の宿泊するホテルで事件に巻きこまれ、彼らを匿うことになる。
『太陽がいっぱい』のパトリシア・ハイスミス原作の『殺意の迷宮』の映画化。

いろいろと黒い事情のある男女が地中海でめぐりあい、のっぴきならない関係にもつれこんだまま互いに惹かれあいつつ旅をするという、大ヒット映画『太陽がいっぱい』と似たフォーマットのクラシックな心理サスペンス。うん、おもしろかった。
実はギリシャはぐりが生まれて初めて海外旅行で行った土地です。1週間たっぷり滞在してアテネの市内近郊をぐるぐる歩きまわったのはちょうど20年前。といっても観光客が行くようなところは地中海沿岸地域は日本と違ってさほど変わったりしないし(建築規制が厳しいからである)、ツーリストが主人公だから画面に映るロケ場所に見覚えがありまくり。懐かしかった。それでついこの映画、観ちゃったんだけどね。
ところであのころ既にかなりレトロというか古くさかったアテネ空港のシーンはまさかロケじゃないよね?オリンピックもあったし、さすがに改築されてるのでは。映画のアテネ空港はぐりが20年前に行った空港そっくりまんまだった。ベンチの色まで同じだった。

閑話休題。
物語の舞台は1962年。主人公チェスターは若かりしころ第二次世界大戦でヨーロッパ戦線に派遣されてたという設定になってます。長じてヨーロッパを旅しても決して現地の言葉を少しも話そうとしないのがさすがアメリカ人。アメリカ人が出てくるアメリカ以外の土地を舞台にした映画はみんなそうだけど、この映画でもそのミスコミュニケーションが題材の一部になっている。
しかしあれはなんででしょーね。ぐりの身近にもアメリカ人というか英語圏の方々が何人かおられますが、日本に住んでも日本語を話そうとする人はあんまりいない。ぐりは20年前、一応ギリシャ語覚えていったけどね。ギリシャ語アルファベットの読み方と挨拶・数字・買物・両替・道尋ねくらいできないと旅行は無理でしょ。べつにそれくらい一夜漬けで丸暗記すれば済む。なぜやらんのか英語圏の方々(の大多数)よ。
自らも臑に傷持つチェスターはライダルの立て板に水調の卒のなさを怪しむが、なにしろギリシャ語がひと言もわからないものだから反証のしようもない。逃亡中の身になってからは、いよいよ彼なしではどうしようもなくなってしまう。なのに若い妻と彼の関係が気になって、落ち着いて心許す気にもなれない。

心理サスペンスとはいっても、登場人物は限られてるし物語そのものもそれほど複雑なわけではないので、見どころはサスペンス部分ではないと思う。
冒頭でライダルが家族からの手紙を読んでいるシーンがあるが、これが意外に重要な伏線だったことがラストシーンで判明するように、三者が何によって引き寄せあい、関わりあっていくのかという、浅はかであるからこそ人間らしい業が、エンターテインメント映画としてのストーリー展開の中で少しずつ暴かれていって、最後にすとんと腑に落ちる。個人的にはそういう、人と人との関係の話なんじゃないかと思いました。
たとえばライダルは旅行中のアメリカ人金持ちから小遣いをちょろまかすつもりで夫婦に接近するが、チェスターの後妻であるコレットも彼のカネが目当てにアプローチしたことを自らあけすけに暴露する。チェスター自身、札束がぎっしりつまったスーツケースを肌身離さず持ち歩き、他の誰にも触らせようとしない。
だがライダルが割りにあわない逃避行に延々つきあう理由はどうもそこではないようで、物語のクライマックスまで彼の真意がなかなかわからない。終わってみて初めてすっきりと「ああそうだったのか」という気持ちになる。そこまでの持っていき方がうまいと思った。

ぐり大好きヴィゴ・モーテンセンがやたら年寄り扱いキャラだったり、しっかりおばさん化してしまってるキルステン・ダンストが必要以上に若妻扱いだったりするとこは気になりましたけど、全体にはふつーに楽しめる昔懐かしいサスペンス映画になってました。それ以上でも以下でもないし、とくに印象的な映画でもないです。ヴィゴさん好きは観てもいいんじゃないかと思います。