『三度目の殺人』
30年前に父(橋爪功)が裁判長をつとめた殺人事件の犯人・三隅(役所広司)が強盗殺人で逮捕され、弁護人となった重盛(福山雅治)。
犯行を認めてはいるものの減刑をもとめる依頼人のために、強盗殺人ではなく単純殺人で公判に臨もうとする重盛だが、接見するたびに三隅の供述は二転三転し、真実は一向に見えてこない。
『そして父になる』でコンビを組んだ是枝裕和監督・主演福山雅治による法廷サスペンス。
上映時間125分が、とても短く感じた。
大きくジャンルわけするなら法廷サスペンスにあたるこの映画だが、実際の法廷シーンは全体の1割程度なのではないかと思う。構成としては、重盛(と同僚弁護士たち)と三隅との接見シーンが都合6~7回あって、その合間に、重盛が事件関係者や同僚や自身の娘と話しあうシーンが挿入される。福山雅治でずっぱりです。
一方の三隅さんは接見シーン以外にはほとんど画面には登場しない。勾留されてるんだから当たり前なんだけど、ここでもう年間に公開される日本映画の半数には確実に出演しているのではと思われるくらいあらゆる映画にでまくっている役所広司の役所広司っぷりが炸裂します。
役所さんといえばとにかく芝居がうまくて、何をやってもその役そのものにしか見えない万能俳優だけど、口を開くたびにころころと供述を変え表情を変え、本心どころか実像さえ曖昧に見えてしまうほど不気味に空虚な三隅さんというキャラクターが、そのまま、“役の器”たる役所広司そのものにぴったりとハマっているのだ。それこそ隙間なくぴっちぴちに。
こわいですね。おそろしいですね。
三隅さんのいうことが信じられなくなるのと同時に、重盛は自分自身や周囲の人間さえうまく信じられなくなっていく。果たして人は、いつ“ほんとうの自分”を正直にさらけ出すものなのだろう。誰もが常に、己の役割をどこかで演じながら生きている。生きていく環境にあわせて人間性を変えるのは、人が社会性動物たる本能ゆえなのだが、それならばその社会を支えまもるはずの“真実”はいったいどこにあって、人はなんのためにそれを、これほどまでに切実にもとめるのだろう。
結局は夢まぼろし、ただのないものねだりなのだろうか。
イタリアの巨匠ルドヴィコ・エイナウディの音楽がとにかく素晴らしく、そしていつもの是枝作品らしく映像がとてもオシャレだった。とくに今回は一番最後の接見シーンのカメラワークが圧巻です。映像技術に鳥肌がたったのってけっこう久しぶりなんじゃないかな。それくらい衝撃的だった。
福山雅治は『そし父』の良多とまんま同じ役ですね。ほぼ同一人物です。しかし万年モテ男キャラのましゃが吉田鋼太郎と同期という設定にビックリ(実年齢は10歳違い)。ただその人物造形には意外に無理がなくて、吉田鋼太郎演じる摂津弁護士のお調子者ぶりと、百戦錬磨のやり手・重盛弁護士とのバランスが非常に自然に見えました。映画って不思議なものです。
被害者のミステリアスな娘役の広瀬すずは『海街diary』に続く不幸少女役だけど、個人的にどうもこの子にこういう役柄というのが毎度しっくりこなくて、もんのすごく嘘くさく感じる。ビジュアル的には確かにめちゃめちゃインパクトあるとは思うんだけど。
三隅は30年前と今回と殺人を犯したのは都合2度なので、タイトルの「三度目」は死刑のことを指しているのだろうと思う。元裁判長である重盛の父が死刑反対論者という設定が一瞬だけセリフで語られるが、それ以外では死刑制度の是非を直接的に訴えることなく、真実とはいったい何なのか、人が人を裁くことの意味、社会をまもる司法制度の実像を、物語の本筋を補強するべきディテールやリアリティはざっくりと排除した上で、ただただ静かに穏やかに問うてくる独特の是枝節に、思わず唸らせられる作品でした。こんな社会派映画の主演が福山雅治ってのが贅沢です。
とはいえ、これが一般的に劇場用映画としてどの程度オーディエンスに受けとめられるかは、ちょっと未知数ですけどね。
関連レビュー
『海よりもまだ深く』
『そして父になる』
『空気人形』
『歩いても 歩いても』
『花よりもなほ』
『誰も知らない』
『藁の楯』
『死刑弁護人』
『休暇』
『カポーティ』
『さよなら、サイレントネイビー 地下鉄に乗った同級生』 伊東乾著
『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う。』 森達也著
30年前に父(橋爪功)が裁判長をつとめた殺人事件の犯人・三隅(役所広司)が強盗殺人で逮捕され、弁護人となった重盛(福山雅治)。
犯行を認めてはいるものの減刑をもとめる依頼人のために、強盗殺人ではなく単純殺人で公判に臨もうとする重盛だが、接見するたびに三隅の供述は二転三転し、真実は一向に見えてこない。
『そして父になる』でコンビを組んだ是枝裕和監督・主演福山雅治による法廷サスペンス。
上映時間125分が、とても短く感じた。
大きくジャンルわけするなら法廷サスペンスにあたるこの映画だが、実際の法廷シーンは全体の1割程度なのではないかと思う。構成としては、重盛(と同僚弁護士たち)と三隅との接見シーンが都合6~7回あって、その合間に、重盛が事件関係者や同僚や自身の娘と話しあうシーンが挿入される。福山雅治でずっぱりです。
一方の三隅さんは接見シーン以外にはほとんど画面には登場しない。勾留されてるんだから当たり前なんだけど、ここでもう年間に公開される日本映画の半数には確実に出演しているのではと思われるくらいあらゆる映画にでまくっている役所広司の役所広司っぷりが炸裂します。
役所さんといえばとにかく芝居がうまくて、何をやってもその役そのものにしか見えない万能俳優だけど、口を開くたびにころころと供述を変え表情を変え、本心どころか実像さえ曖昧に見えてしまうほど不気味に空虚な三隅さんというキャラクターが、そのまま、“役の器”たる役所広司そのものにぴったりとハマっているのだ。それこそ隙間なくぴっちぴちに。
こわいですね。おそろしいですね。
三隅さんのいうことが信じられなくなるのと同時に、重盛は自分自身や周囲の人間さえうまく信じられなくなっていく。果たして人は、いつ“ほんとうの自分”を正直にさらけ出すものなのだろう。誰もが常に、己の役割をどこかで演じながら生きている。生きていく環境にあわせて人間性を変えるのは、人が社会性動物たる本能ゆえなのだが、それならばその社会を支えまもるはずの“真実”はいったいどこにあって、人はなんのためにそれを、これほどまでに切実にもとめるのだろう。
結局は夢まぼろし、ただのないものねだりなのだろうか。
イタリアの巨匠ルドヴィコ・エイナウディの音楽がとにかく素晴らしく、そしていつもの是枝作品らしく映像がとてもオシャレだった。とくに今回は一番最後の接見シーンのカメラワークが圧巻です。映像技術に鳥肌がたったのってけっこう久しぶりなんじゃないかな。それくらい衝撃的だった。
福山雅治は『そし父』の良多とまんま同じ役ですね。ほぼ同一人物です。しかし万年モテ男キャラのましゃが吉田鋼太郎と同期という設定にビックリ(実年齢は10歳違い)。ただその人物造形には意外に無理がなくて、吉田鋼太郎演じる摂津弁護士のお調子者ぶりと、百戦錬磨のやり手・重盛弁護士とのバランスが非常に自然に見えました。映画って不思議なものです。
被害者のミステリアスな娘役の広瀬すずは『海街diary』に続く不幸少女役だけど、個人的にどうもこの子にこういう役柄というのが毎度しっくりこなくて、もんのすごく嘘くさく感じる。ビジュアル的には確かにめちゃめちゃインパクトあるとは思うんだけど。
三隅は30年前と今回と殺人を犯したのは都合2度なので、タイトルの「三度目」は死刑のことを指しているのだろうと思う。元裁判長である重盛の父が死刑反対論者という設定が一瞬だけセリフで語られるが、それ以外では死刑制度の是非を直接的に訴えることなく、真実とはいったい何なのか、人が人を裁くことの意味、社会をまもる司法制度の実像を、物語の本筋を補強するべきディテールやリアリティはざっくりと排除した上で、ただただ静かに穏やかに問うてくる独特の是枝節に、思わず唸らせられる作品でした。こんな社会派映画の主演が福山雅治ってのが贅沢です。
とはいえ、これが一般的に劇場用映画としてどの程度オーディエンスに受けとめられるかは、ちょっと未知数ですけどね。
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