落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

愚かさという名の凶器

2018年02月04日 | 復興支援レポート
小さな命の意味を考える会 座談会



2011年3月11日、地震が起きて、津波が来た時、被災地には小雪がちらついていた。
地域によって証言によって雪が降りはじめた時間には多少のズレはある。津波がくるまえにはもう降っていたというケースもあれば、命からがら津波から逃れて避難した高台から動けずに野宿した夜に降ったというケースもある。
いずれにせよ、その日は寒い日だった。
まして彼の地は北国、春はまだ遠かったあの日の夜、津波に濡れ、冷たい風に凍え、電気もガスも電波もすべてのライフラインが途絶えろくに暖をとる手段もないなか、多くの人々が凍死した。地震からも津波からも助かったのに、生きて夜を明かすことができなかった。
見知らぬ者同士、かき集めた木片で起こした焚き火の前で、救助を待ちながら息絶えた人を、なすすべもなく見守るしかなかった生存者もいる。「あんなに寒い思いをしたのは後にも先にもあの時だけ」と、彼はのちに語ってくれた。

1月28日午前10時から石巻市大川小学校跡地で遺族を中心にした地元の方々が催した語り部の会には、150人ほどの参加者が集まった。
晴れてはいたけれど前日からの雪が積もり、遮るものもなく川風にさらされた学校跡地はとにかく冷える。
そこに多くの市民と報道関係者が集まって、大川小学校被害児童の遺族や生存者の体験談にしんと耳を傾ける。
大気は冷たいのに、集まった人たち、語る人たちの胸の中に流れる感情の熱さを感じる。

特別なものなどないごくふつうの田舎の小学校の、特別ではないふつうの日に起きた惨劇。
災害無線もラジオも広報車の警告も、津波がくるから逃げてほしいと懇願する保護者も無視した教職員への怒り、せめて最後の1分間、堤防ではなく山に逃げてくれていたらという悔恨、我が子の訃報を耳にした時の絶望、自分の手で愛娘の遺体を冷たい泥の中から掘り出した時の悲しみ。

語り部の会でも、午後から開かれた座談会でも、毎回集まる参加者は違うから主催者側が話すことや質疑応答で語られることはいつも似通っている。
そこに繰り返し通い、当事者の講演会にも何度か参加し裁判も傍聴してみて、毎回痛感することがある。
74人の子どもたちと10人の教職員、子どもの帰りを待ちながら自宅で津波にのまれた高齢者たち、学校が避難しないなら大丈夫と判断してその場にとどまった地域住民たち、この大川で起きた災害の犠牲者の命を奪ったのは、「くさいものにはとにかく蓋をしてみないふり」で先送りにしてしまう無責任主義という、現代社会そのものが抱えた病なのではないだろうか。

海抜は低いし、人が住んでいなかった大昔には津波が来たかもしれないけど、最近はきてないみたいだから「これからもこない」ことにしてしまおう。
津波はくるかもしれないけど、行政がこないといっているんだから、真剣に対策なんてしなくても許される。
大地震はきたし裏山にも逃げられるけど、あとのことを考えたら面倒だから、とりあえず校庭で津波警報が解除になるのを待ってればいい。
保護者は避難しろなんていってるけど、こういう非常時だから学校は落ち着いてなくちゃ。

結果論からいえば、彼らの判断はきれいさっぱりすべてが間違っていた。
そして多くの命が失われた。
もちろん九死に一生を得た人もいる。だが彼らは彼らで、文字通り地獄のような被災体験と、その一瞬まで傍らにいた友人や隣人や親族を喪いながら生き残ったという言語に絶する思いを抱えたまま、これからの一生を生き抜いていかなくてはならない。
その事実は、これから何をどうしようと決して覆りはしない。
あったことは、決してなかったことにはできない。

しかし、あのときの判断が間違っていたとして、では他の誰が、どうやって、もっと正しい判断ができただろうか。
二度と取り返しのつかないことが起きて、しかもその責任を誰もとらないまま7年もの歳月が過ぎたいま、われわれがもっとも深刻にとらえるべきはその点であることに疑いの余地はない。
もしもう一度同じことが起きたとき、今度こそ間違いなく、子どもたちと地域の人たちをまもるためには、いったい何が必要なのだろうか。
その障害になる「病」とは、いったいどんな病なのか。
おそらくは人間なら誰もが持っている愚かさ、それが集団になったときには凶器にも変わってしまう社会性動物であるからこそ犯しやすい過ちに、たちむかうべきときが、いま来ているのだろう。
その戦いに立ちはだかる壁の厚さ、高さがどれほどのものなのか、少なくとも、私にはわからない。
でも、その壁に背を向けて逃げる道も、もうないような気がする。


関連記事:
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『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』 池上正樹/加藤順子著
『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』 池上正樹/加藤順子著

復興支援レポート


北上川の夕日。



のろろ祭りの夜に

2018年02月04日 | movie
『羊の木』

市役所の上司から、新たに受け入れることになった6名の転入者の対応を極秘に任された月末一(錦戸亮)。やがてやって来た福元(水澤紳吾)、太田(優香)、栗本(市川実日子)、大野(田中泯)、宮腰(松田龍平)、杉山(北村一輝)は各々べつの殺人罪で懲役刑をうけ仮釈放中の身だった。
宮腰は年齢が近かった月末が高校時代から組んでいたバンドに加わるようになり、メンバーの文(木村文乃)と恋仲になるのだが・・・。
『紙の月』『桐島、部活やめるってよ』『クヒオ大佐』『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』の吉田大八監督最新作。

うん、力作エンターテインメント、という形容がぴったり。
更生した犯罪者を受け入れる制度を導入しようとする町の物語というとつい社会派ドラマを連想しがちだけど、ぜんぜんそんなことないです。むつかしいことは何にもない、誰もが頭カラッポにして楽しめるふつうのサスペンスドラマです。おもしろかったです。すごく。
けどその一方で、作り手側の真剣度がこれほどがっちりと伝わってくる映画もなかなかないんじゃないかと思う。
一度罪を犯した人を人は信じることができるのか、赦すことができるのか。社会はうけいれることができるのか。人の居場所とはなんなのか。奪われ二度と戻ることのない命の重み、償えない罪の重さといった普遍的なテーマを、一見主体性もなく周囲に流されるだけの月末という主人公の静かな背中を通して、淡々と真摯に描いている。
そこにありふれた正義論は存在しない。教訓も諦念もない。
人はひとりひとり皆違う。取り返しのつかないものは永遠に取り返しがつかない。それでも、生きてさえいれば人は(いくらかなら)前に進むことはできるかもしれないという、ごく当たり前の事実しかない。
そんなごく当たり前の事実を、飾らずにストレートにシンプルに伝えるために、作り手たちがどれほど繊細に緻密に隅々までとことん考え抜いたか、その気合はものすごくよくわかる。
頑張った。お疲れ様です。

作中に登場する「のろろ様」という神の存在がまた絶妙です。
海からやってくる異形を追い返すため、昔の人々は人身御供をふたり捧げた。崖から突き落とされた生贄のうち、ひとりは海の底に姿を消すが、もうひとりは無事に生還する。もちろんいまはそんなことは行われていないが、年にいちど、のろろ様を町に迎える祭りがある。海辺には巨大なのろろ像も建っている。町の人は滅多なことではその姿を見ようとしない。見てはいけないとされている。理由はどうあれ、昔からそういわれているから。
これって「人の罪」のメタファーだよね。人間は生きていれば誰もが何らかの罪を負っている。そして日常ではその罪から目を背け、あたかもそれが実在しないかのように暮らしている。まともに向きあうのが怖いから。だがくさいものに蓋をするからには、そこに犠牲がともなうこともわかっている。わかっているからこそ、ますます人々は目を伏せる。理由はなくて、単に以前からみんなそうしているから、そうするだけ。

出演者全員が却って笑えるくらいのはまり役だったのがこの作品最大の勝利だろう。
ただただ穏やかで凡庸な市役所職員そのものの錦戸亮や、見るからに恐ろしいくらい気弱そうな水澤紳吾、往年の五月みどりばりに無駄なフェロモンを炸裂しまくる優香も凄いんだけど、やはり誰をさておいても驚異的なのは松田龍平だと思う。どこか可愛らしく優しげな風貌なのに、画面に映っただけでそこはかとなく怖い。びっくりするくらいとくに何もしていないように見えるのに、そこにいるだけで演じる人物の語るべき物語が滝のように溢れ出てくる俳優ってそうはいないと思うんだけど、この作品の松田龍平はまさにそれです。圧倒的すぎて、観てて変な汗をかいてしまった。

よけいな説明がまったくない映画なので、観る人によって全然違う受け止め方をされる作品でもあると思う。
でも個人的には、観た人それぞれに観終わった後にゆっくり余韻に浸りながら、描かれた物語の意味を落ち着いて考えるための映画でもあるのではないかと思う。
そういうエンターテインメント映画があるということが、自由で豊かな社会の証だと思うし、こういう作品がこんな人気監督と人気俳優でつくられたことにも、意味があるのではないでしょうか。