落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

蓋のない穴

2021年09月13日 | movie

『ドライブ・マイ・カー』



俳優で演出家でもある家福(西島秀俊)は、海外の映画祭の審査員に請われて旅支度をし空港に向かっていたが、悪天候で搭乗予定のフライトが欠航になってしまう。自宅に戻ると、リビングのソファの上で妻の音(霧島れいか)が俳優の高槻(岡田将生)と激しく交わっていた。
家福はそのとき見たものをなかったことにして、夫婦はその後も円満に暮らしていたが、ある日、出がけに「今晩帰ったら、少し話せる?」と頼まれた家福はこわくなってなかなか帰宅することができなかった。遅くなって戻ると音は床に倒れていて、そのまま目を覚さなかった。
村上春樹の短編集『女のいない男たち』所収の『ドライブ・マイ・カー』を原作に同書の『シェエラザード』『木野』の要素を加えて翻案化。
第74回カンヌ国際映画祭コンペティション部門で脚本賞、国際映画批評家連盟賞、エキュメニカル審査員賞、AFCAE賞を受賞。

私が村上春樹の作品に初めて触れたのは中学のころで、父が毎週購読していた週刊朝日に連載されていた「週刊村上朝日堂」というコラムだった。
3歳で字を覚えてからずっと本が好きで、買ってもらった端から寝る間も惜しんで読みまくるだけでは事足りず(なのでよく「少年少女文学全集」的なシリーズを何種類も買い与えられていた)、三紙とっていた新聞も両親が買ってくる雑誌も隅から隅まで読んでいた。意味なんかわからなくても、読めさえすれば何でもよかった。活字中毒というやつだ。
だから私の中で村上春樹は当初、“小説家”というよりは“たわいもない話をおもしろおかしく書くおじさん”と認識されていた。

『ノルウェイの森』が大ベストセラーになったのは高校生のときで、母校の図書館には上下巻それぞれ3冊ずつ置いていたが常にどちらも出払っていて、あの赤と緑の目立つ装丁の本が本棚に収まっているところは一度も見たことがなかった。というのも私が図書委員でしかも部活の顧問が司書だったせいで、用があってもなくてもしょっちゅう図書館に入り浸っていたからだ。
そんなにみんなが読んでる本ならべつに私が読まなくてもいっか、と思っていたが、レファレンスの当番で図書館の窓口に座っていたある昼休み、その日返却されてきた本を積み重ねたカウンターの上に、緑色の下巻が載っているのに気づいた。ひとっこ一人いない図書館は静かで退屈で、何を意識するともなく私はその緑色の本を手にとって表紙をめくった。
だから私は、『ノルウェイの森』を下巻から読んでいる。

そのころの村上春樹ブームについては改めて語るまでもないが、十代の多感な時期にハマった沼から抜け出すのは容易ではなく、既刊の長編はすべて、短編集やエッセイも翻訳も(大好きなポール・セローやレイモンド・カーヴァーに出会ったのも村上訳である)大抵読みつくしている。
今回観た回は上映後に濱口竜介監督のトークイベント(詳細)があって、監督自身も「(村上作品は)長編は全部読んでいる」と答えていて「やっぱり」と思った。

『ドライブ・マイ・カー』は一応は同名の短編小説の映画化という「てい」になっているが、物語の背景や設定にはかなり大がかりな変更が加えられている。
原作では家福は演出家じゃないし、妻はシナリオなんか書かない。高槻も岡田将生みたいにキラキラした若手俳優ではない。広島の演劇祭もない。映画のストーリーのほとんどを占める演劇祭がないから、演劇祭に関わる人々は原作には存在すらしない。

それなのに、映画『ドライブ・マイ・カー』は、村上春樹が描き出す世界観をまさに正しく、見事に、完璧に再現していた。人物描写や人物同士の距離感、繊細な言葉遣いや会話の温度感に至るディテールのすべてが、どっぷりと村上春樹作品そのもののように感じられた。
映画の空気感があまりにも村上春樹の小説のそれにぴったりと一致しすぎていて、「原作にも演劇祭ってあったっけな?」と自分の記憶が間違っているかのようにすら感じた。
それくらい、映画は完全に正確に村上春樹の文学を映像化していた。

原作が収録された短編集は『女のいない男たち』だが、改めてそう断るまでもなく、村上春樹の小説の主人公には大概「女」がいない。妻やガールフレンドに去られ、ひとりぼっちになった男が孤独の中で奇妙な“旅”に誘われて何か不思議な世界に彷徨い出ていく、といった書き出しの物語が多い。
そしてふたりが別れる原因の多くは女性側に設定されている。映画『ドライブ・マイ・カー』で音が不倫するのと同じように。

家福と音はとても仲の良い夫婦で、互いに深く愛しあっていた。
幼くして子どもを亡くしたという癒えない傷を共有しながら、静かに穏やかにあたたかな時間を寄り添って過ごす生活を大事にしていた。
それは家福にとっても、音にとっても、動かしようのない事実だったに違いない。
観客として、画面を観ているだけで、そう信じることができるだけの説得力がこの作品にはある。

にも関わらず音は家福を裏切っていた。
何が彼女をそうさせたのかはわからない。家福にもわからないし観客にもわからない。
この「わからなさ」のもつ一種独特の感触──空虚なようで濃密なようで、暗いようでそれでいて眩しいようで、ついじっと目を凝らさずにはいられない、ぞっとするような不気味な質感が、『ドライブ・マイ・カー』には物凄いリアリティをもって表現されていた。
そして、愛する妻がどうして自分を欺いているのか、その修羅場に向かい合ってしまったらもういっしょにはいられないから、離れ離れになるのが何より堪えられないから、死ぬほど激しい嫉妬に苦悶しながらも表面上は何もなかった風を装い、そのまま彼女を喪ってしまった男の心の痛みの惨たらしさ。
そのえも言われぬ懊悩さえ、画面を通り抜けて、まっすぐに胸に響いてきた。

その惨さを響かせるために、演劇祭があって、トラブルがあって、みさき(三浦透子)の故郷・北海道上十二滝町への旅があった。
苛酷な少女時代に母を見殺しにしたというみさきが触媒となって、家福は初めて、自分で自分を騙していたことを認め、受け入れる。
そんなことする必要なんかなかったのに、愛していたのに、もう二度と会えないのに、その残酷な現実を受けとめているように見せかけて目を逸らすことしかできなかった。
最愛の人を喪って心の中にごっそり開いた巨大な穴を塞ぐ蓋なんか、どこにもありはしないのに。

村上春樹原作の映画はこれまでにも何本か観てますが、正直、この『ドライブ・マイ・カー』ほど精妙に、原作者が描こうとした悲しみを、侘しさを、寂しさを、つらさ、苦しみを表現した作品は、私が観た限りではなかったんじゃないかと思う。
観てないのもあるから、断言はできないですが。

演技に関していえば、岡田将生の芝居にはかなり驚いた。今年4月期のドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』のひねくれ弁護士・中村慎森役も癖があって話題になっていたが、『ドライブ・マイ・カー』ではさほど出番が多くないにも関わらず、観終わってしまうと「岡田将生凄かった」という印象が強く残る。
劇中、高槻が音から聞いた話を家福に語って聞かせるシーンがある。みさきが運転する車の後部座席で高槻は家福を正面から見つめ、瞳に涙を、唇には微笑みをうっすらと浮かべて、音が家福に話した物語の続きを話す。
そのシーンの岡田将生は、私が知っていた岡田将生ではなかった。心から憧れ、愛した音が憑依したかのような妖艶さが怖いくらいで「これはこの瞬間の岡田将生にしか演じられない芝居ではないか」と確信してしまうほど強烈だった。
そういや霧島れいかは『ノルウェイの森』にも出てましたね。(以下略)

上映時間ほぼ3時間という長尺の作品だけど、是非もう一度、じっくりと観返したいと思ってます。
それまでに『ゴドーを待ちながら』と『ワーニャ伯父さん』を復習して、最初には味わえなかった細部まで、きっちりと堪能しようと思います。

関連レビュー
『The Depths』(濱口竜介監督旧作)