1945年8月9日、満州へのソ連侵攻で家族と離れ離れになった山本幡男(二宮和也)は捕虜となり、シベリアの強制収容所に送られる。ロシア語に堪能な彼はソ連軍の通訳を務めていたが故に捕虜仲間に不審の目を向けられるようになってしまう。
冬は氷点下にもなる寒さの中、ろくな食料もなく重労働を強いられる抑留生活で何人もの仲間が次々と命を落とし、誰もが絶望感に苛まれる収容所で必死に皆を励まし、勇気づけ続けた山本だが…。
第21回大宅壮一ノンフィクション賞、第11回講談社ノンフィクション賞を受賞した辺見じゅんの原作を瀬々敬久が映画化。
このブログで毎度断ってますが、私は在日コリアンです。
そのことを如実に感じたのが小学校1年生のときで、夏休みの宿題で読書感想文ってありますよね。
当時確か1〜2年生の課題図書が「かわいそうなぞう」で、同級生はみんなこの本を買ってもらってたんだけど、うちの両親は頑なに「これはダメ」といって買ってくれず、「あんたはもっといい本が読めるでしょ」と別な本を押しつけられた。何の本だったかは全然覚えてない。たぶん上の学年の課題図書だっんじゃないかと思う。
確かに私は3歳ごろから自分で本を読み始め、小学校に入るころには中〜高学年の子ども向けの児童文学全集を読むようになっていたから、その子に今更絵本はな〜という親の感覚はいまにして思えばよくわかる。
けどそれはそれとして、小学校1年生といえば何でも「みんなといっしょ」がいい年ごろ。その気持ちを全否定されて寂しかったことは強烈に覚えている。うちはどうも他所の家とは違うらしい、ということも感じていた。
このころ、私は自分が日本人ではなく在日コリアンであることを聞かされていなかったが、後年、そのことを親から告げられたとき、反射的に「かわいそうなぞう」のことを思い出した。
両親は、日本社会に蔓延る「悪いのは戦前の政府で、庶民はあくまで戦争の被害者」というセンチメンタルな戦争エンタメを、物心ついたばかりの児童に与える学校教育に強烈な反発心を抱いていたのだろう。
もちろん、当時わずか8歳だった私にはそんなことまでは理解できなかったけど、普段読んでいた新聞や雑誌(字が書いてあれば何でも読み漁りまくっていた)を通して、戦前〜戦中の日本がアジア太平洋諸国にどんな仕打ちをしてきたかはすでに知っていた。
素直に、「だから、お父さんお母さんは『かわいそうなぞう』が嫌いなんだ」と思い当たった。
『この世界の片隅に』がめちゃくちゃ大ヒットしたときも思ったんだけど、日本の戦争映画ってホントに世界観が狭い。めっちゃ狭い。
旧政府に軍国教育を強要され、洗脳され、振り回された庶民の皆さんのご苦労は大変なものだっただろうと思うし、無差別に爆撃された町で多くの方々が無残な死を遂げたことは悲しいし、出征したご家族や原爆でお身内を亡くされた方々や、戦争の影響で長い間苦しみ続けた方々のお気持ちは想像するに余りある。
それを文学や映像作品として世に問いたい、観たいというニーズは理解できる。
でも、それだけじゃないんだけどな、と思ってしまうのだ。
日本社会が、旧日本政府が何をやらかしたのか、どうしてそうなったのかをちゃんと総括してこなかったんだからしょうがないじゃないか、という人もいるだろう。
そういうご意見もわかる。
けど、ずっとそのままでいいわけないよね、とも思う。
日本はいま、格差と貧困に喘ぐ国民から搾り取ったカネで軍備を増強しようとしている。
基本的人権と平和を保障する憲法もいつまでもつかわからない。与党の改憲案では基本的人権は丸ごと削除され、政府が国民の自由を好き勝手に制限できるようになっている。このまま放っておけば、憲法はあっさり改憲されてしまうだろう。それが既定路線だということに多くの人が気づいている。
にもかかわらず、この異常事態を本気で打破しなくてはならないという気運はどこからも盛り上がってはこない。
この映画では、一介の満鉄職員だった男が辿った過酷な運命と、それでも生きようと、帰国の日を信じてたたかった人々の凄惨なシベリア抑留生活が緻密に再現されている。
実際に大変な環境で撮影されたんだろうなとは思うし、出演者はほんとによく頑張ってると思う。そこは素晴らしいと思う。とりわけ、主演の二宮くんの潤んで透き通った瞳がどんなに苦しいシーンでも宝石のようにキラキラと輝いていて、山本幡男という人の純粋さを美しく表現しているように見えたのには流石の表現力を感じました。
でも同時に、物凄い違和感も感じる。瀬々さんってこんな監督だっけな?という疑問符が、観ている間中、頭の中でぐるぐる回っていた。
だってなんかすっごい段取り調なのよ。全体的に。
画面上では、ホラ可哀想でしょ、気の毒でしょ、寒そうでしょ、お腹すくよね、大変だよね。ね。ね。という一方的で一面的な場面がひたすら続いていく。
それで感動できる人ももちろんいるだろうと思う。すごい規模の作品だし豪華キャストだし。まあある程度のヒットは間違いないでしょう。場内の観客はみんなめっちゃ泣いてたし(劇場売店でいろんなグッズがてんこ盛りで売られてたのにはドン引きしたけど)。
けど、この一本調子な表現では、山本さんご一家の運命がなぜこんなにも苛酷なのか、いまなぜこの物語を大作映画として世に送り出さなくてはならないかという意義は、どこからも響いてこない。
山本さんは満州で暮らしていた。日本が侵略し傀儡政権としてつくられた国で、この物語は始まったのだ。
にも関わらず、映画には中国人がまったく出てこない。
ご家族が引き揚げに苦労したらしいことはチラッとセリフには出てくるけど、その道程は決して日本が犯した罪とは無関係ではなかったはずだ。
そういう背景情報が、この映画からはきれいさっぱり削除されている。
気の毒で惨めで、それでも人間の尊厳をまもろうと命をかけた人の残酷な宿命だけが、お涙頂戴メロドラマとして淡々と展開していくだけだ。
日本の侵略がなければこのドラマはなかった。
それを排除して観客を感動させようという魂胆が白々しい。
残念だけど、その一言に尽きます。
申し訳ないけど。
関連レビュー
『この世界の片隅に』
『クラウディア 最後の手紙』蜂谷弥三郎著
『近衞家の太平洋戦争』近衞忠大・NHK「真珠湾への道」取材班著
『プリンス近衞殺人事件』V.A.アルハンゲリスキー著 瀧澤一郎訳
原作(これから読みます)