落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

永作博美万歳

2007年08月05日 | movie
『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』
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おもしろかったよー。このタイトルと内容がどうリンクしてんのかがよくわかんないけどね。いや、リンクしてないとこがミソなのか。
実をいうと試写の評判が悪くて観るかどーか迷ってたんだけど、たまたま取引先の人に「おもしろかった」と薦められ。基本的には人に薦められた映画ってあんまり気が進まないんだけど、なにしろぐりの周りは映画観る人自体すごく少ない(爆)。映像業界にいるのに、なぜかぐりの周りの人は全然映画観ないんだよね。そんななかでおもしろかったら観てよ!とかいわれたら、共通の話題になりそうだしせっかくだから観るべき?なーんて思ってしまう。
せこいな〜。

ぐりが耳にした悪評で印象的だったのは「内容がない」とゆーものだったんだけど。
えーと、あの、これ、ブラックコメディだよね?コメディに内容って。
いや、ないよ、内容。けどさ、世の中のすべての映画が涙と感動の傑作じゃなきゃいけないわけでもない。ぐりはこういう映画があってもまったくかまわないと思うし、むしろ涙と感動の傑作よりはこっちの方が好きだ。
てゆーか、この映画そのものが、昨今やたらにもてはやされてる涙と感動の傑作を謳った邦画の流行を、正面きって思いっきり皮肉ってるんだよね。家族愛?絆?純愛?アホか!みたいな。はははははは。

田舎を舞台にした歪んだ家族関係をモチーフにした喜劇という意味では『松ヶ根乱射事件』とよく似てます。
携帯もつながらないようなド田舎、血の繋がらない妹たちにはやたら気を遣うくせに嫁には横暴な兄(永瀬正敏)、異様なまでに従順で無気味なほどにひたすら善良な兄嫁(永作博美)、滑稽を通りこして痛々しいくらい思いこみの激しい勘違いな長女(佐藤江梨子)、ただただおどおどしているように見えて実際何を考えているのかつかみどころのない末娘(佐津川愛美)というメンバーは、家族なんて牧歌的な呼び方にあてはめるにはあまりにもグロテスクだ。
それなのに、どの登場人物もどっかで見たことある感じが強烈にするのがまたコワイ。コメディ映画のキャラクターだから非現実的な面ばかり目立つようにみえるけど、それでいてどの人も「こういう人、いるいる」と思わせるところがウマイ。現実に向きあえず逃げてばかりの男、なんでも自分の都合のいいようにしか解釈しない女、被害者意識ばかり強くて周りがまるで見えていない若者、外面だけで調子をあわせるのはうまいしたたかな子ども、今どきそんなのどこにでもいる。
ぐりも含めてね。

予告編やテーマ曲はキャッチーだし、シナリオそのものはすごくいいと思うんだけど、惜しむらくは編集と劇中音楽が古くさくて、ムダに冗長になってしまってたのがもったいなかった。もっとさくさくっとメリハリのある編集にしてくんないと退屈しちゃうよ。どんでん返しに次ぐどんでん返しのおもしろさが半減です。音楽はぶっちゃけダサい。チープ。入れてるだけ逆効果になってます。
出演者はみんなよかったんだけど、佐藤江梨子はやっぱこのド田舎じゃ勘違いもあり得るくらい浮きまくってて素晴しい。いや、いい意味で。もういっそ不自然なくらいプロポーションがすごすぎる。
けどぐり的にいちばん笑えたのは永作博美。も〜〜〜〜サイコーだったよ〜〜〜〜。ステキすぎ。あのミョーなオブジェはかわいかったなあ。ちょっとほしくなってしまったよ。

おさかなは好きですか

2007年08月04日 | book
『これから食えなくなる魚』 小松正之著
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ぐりの好きな魚は鯖と鰤。秋刀魚や鰯も好き。いわゆる青魚系である。
生まれ育った地元では穴子が名物だったのでいちばん好きな寿司ネタは穴子だが、握りよりも押し寿司の方が好き。
父の友人で漁業権をもっている人がいて、子どものころは毎年のように夏休みに蛸とりに連れていってもらって、とれたての蛸や鯛や蝦蛄をご馳走になっていた思い出もある。
海に囲まれた日本で暮していると、魚料理は食卓の定番、三食いつでも気軽に味わえる身近な食べ物と、ぐりだけでなく誰もが当り前に思っているのではないだろうか。
その日本独特の価値観がごくローカルな限定的な考え方だということにぐりが気づいたのは、初めて海外旅行で訪れたギリシャ・アテネでのことだ。
ギリシャも地中海に突き出た半島で周囲を海に囲まれた国だが、食材としての魚は日本とはくらべものにならないくらい贅沢なものとしてとらえられている。レストランは海産物を饗する店と、肉料理を饗する店にくっきりと分かれている。値段は魚料理レストランの方が高い。メニューもその日に用意できる食材で構成されるので「時価」となっている店が多い(つまりはっきり価格を書いていない)。入るなら肉料理店の方がずっと気楽だった。今でも味を思い出せるのはドルマデスやムサカやスブラキなどの肉料理ばかりで、海のものといえばバールでツマミに食べたカラマリ(イカ)のフリットやスーパーのデリで売られていたショッキングピンクのタラモサラダくらいしか覚えていない。
ぐりがギリシャに行ったのは10年以上前のことなので、今もこんな風なのかどうかはよくわからないけど。

この本には、世界の水産業の現状─資源の減少、法制度の変遷、環境汚染などなど─と日本との関わりが、広く浅くわかりやすく解説されている。
一年中日本中いつでもどこでも同じような値段で同じような魚が流通している市場形態の不自然さ、60年も変化せず現状にまったくあわないまま放置されている漁業政策、政治問題と化した国際的な漁業競争、輸入魚や養殖飼料のダイオキシン汚染、どの話もほとんどマスコミには取りあげられない目から鱗の新事実ばかりで驚かされる。
とくにショッキングなのは、去年発表された論文で唱えられた「2048年に世界の海から魚が消える」という説。これは極端な例かもしれないけど、昔は日常的には日本人しか食べなかった魚が世界中で食べられるようになり、また市場のグローバル化によって地球規模での資源破壊的な大規模漁業が発達していった結果、人の目にはふれない海面の下では「砂漠化」が始まっていたのだ。現在、漁業の対象となる魚類のうち75%が保護を要する状態にまで激減しているという。
それだけではない。日本の漁業従事者は現在たったの22万人、うち約半数が60歳を超えている。このままでは10年もしないうちに国内の水産業は破綻してしまう。
安くておいしい魚をいつでも食べたいという日本人のニーズにあわせて流入した輸入海産物が市場を混乱させただけでなく、それらを養殖する漁場を確保するために環境が破壊され、地球温暖化にまでつながっていたりもする。

この本を読んでいると、海にはボーダーがないということをしみじみ実感させられる。
魚を食べる、ただそれだけのことが、健康や食卓だけに限らず、環境問題や政治問題、経済や歴史などありとあらゆる巨大な課題にダイレクトに繋がっている。
おいしい魚がいくらでも食べられる生活に慣れすぎて、何十年も日本人が放置して来たそれらの課題は、まさに今「待ったナシ」の極限状態に達している。
マスコミでは今年決定したマグロ漁獲量削減の話題ばかりとりあげられているけど、削減すべき魚は他にもたくさんある。逆に、資源の状態が良好でたくさん食べても問題ない種類もある。
大体、トロってそんなにおいしいですか?ぐりはこの先トロなんか一生食べられなくてもまったく気にならない。マグロが食べられなくても生きてはいける。誰だってそうだろう。世の中にひとつくらい食べられないものがあったって構わないではないか。
世界中でもっとも大量に魚を食べているという日本、世界中でいちばんこのことにマジメに向きあうべき国は、やはり日本ではないだろうか。

オタク魂に火をつけろ

2007年08月01日 | book
『ゾディアック』 ロバート・グレイスミス著 イシイシノブ訳
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今年公開されたデヴィッド・フィンチャー監督作『ゾディアック』の原作本。
日本で全文訳出されたのは今回が初めてだが、原書が出版されたのは1986年、もう20年も前のことである。なので映画と原作の間にも大きな違いがある。
というか、映画ではこの原作の情報量の2割〜3割しか消化していない。映画だけでも凄まじい情報量だけど、原作の方はもう呆気にとられるくらいの情報の洪水状態。なので情景描写などのディテールはごく部分的にしか描かれていない。でなければ収拾がつかないのだ。

情報量や時代の差だけではなく、映画と原作には決定的な世界観のギャップがある。
原作ものの映画は大抵は著者の視点から再構成される。原作の語り手は映画化されても同一人物が語り手になるし、原作の主人公は映画化されても主人公のままである。
ところが映画『ゾディアック』では、物語の主観が著者から読者に完全に移行している。映画の主人公だった著者グレイスミス氏は、原作では後半3分の1ほどまでは本文にほとんど登場していない。まあノンフィクションだから当り前といえば当り前だ。グレイスミスだけではなく、映画の主人公のひとりだったデイブ・トースキー刑事(マーク・ラファロ)も原作では大勢いる担当捜査官のひとりでしかないし、同じく映画では主要登場人物だったジャーナリストのポール・エイブリー(ロバート・ダウニー・Jr)に至っては原作でその名が触れられるのはほんの数回に留まっている。
だから映画『ゾディアック』は確かにこの本をベースにはしているが、事件そのものではなく事件にふりまわされた人々の人生模様の方にフォーカスして物語を構成していて、そういう意味では原作とは根本的にまるっきりの別ものになっている。

この原作本を読むと、そうせざるを得なかったフィンチャーの意図もよくわかる。
とにかくまあ情報量がスゴイ。最初にも書いたけど。しかも著者はもともとはジャーナリストではなく一介のイラストレーターでしかなかった。その彼がなぜここまで執拗に事件を追いつづけるのか、読んでても尋常じゃないものを感じてこわくなるし、滑稽にもみえる。
もしかしたら、著者はあの奇妙な手紙を送り続けたゾディアックに、どこかで強い共感を感じていたのかもしれない。知性派で、孤独で、緻密な計画性と注目されることが好きなゾディアック。暴力を好むのと同じくらい、手紙と暗号を書くことが好きだったゾディアック。
オタクである。はっきりと、オタクである。
暗号や占いや資料集めが大好きで、仕事とはほとんど関係のない連続殺人事件にハマる著者にしても、傍目にはオタクといって差支えない人種だ。現に映画では露骨にオタクなキャラとして描かれている(つーても演じているのがジェイク・ギレンホールなのであくまで“キュートなオタク”としてだが)。

あと、これを読むとアメリカの広域犯罪がなぜ迷宮入りしやすいのかもものすごくよくわかる。広い国土、移民社会、数ヶ国語が入り交じった複雑な言語体系。他人を出し抜いて手柄を立てたい・手段はどうあれとにかく目立ちたいというアメリカ人特有の“有名人になりたい病”。人々の間に立ちはだかる見えない壁の数々。
軍隊経験者は武器の知識にも長けているし、人家から離れた場所での犯行/逃走方法も当然よくわかっているだろう。現在アメリカには徴兵制度はないけど、この事件当時はベトナム戦争中で復員した軍隊経験者もたくさんいた。ゾディアックは服装や挙措動作、武器の扱い方や暗号の書き方からみて、海軍関係者であることが判明している。
軍隊ではもちろん人殺しの訓練をする。殺人マニアに殺人のノウハウを教える制度があるってコワイよねえ。国が犯罪者を養成してるよーなもんじゃないですか。
っていいすぎ?